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鹿の王

 目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは煤けた黒色の天井だった。ここ数日で見慣れた部屋のの天井のはずなのに、目覚めたばかりのせいかどこか現実感が薄い。

 しばらく瞬きを繰り返していると、ぬっと影が差し込み、クゥの大きな顔がすぐ間近に迫ってきた。ぱっと顔を輝かせたクゥは、嬉しさを抑えきれない声で叫ぶ。


「先生! 助手くんが目を覚ましました!」


 その声を聞きつけて、足音荒くファウストが駆け込んできた。冷静沈着なことが多い彼にしては珍しく、目を大きく見開き、肩もわずかに上下している。


「ジーク……!体調は……!自分のことが分かるかい……!?」

「大丈夫です。身体も軽いです」


 ジークリンデは身体を起こしながら答える。だるさはなく、むしろ今すぐベッドの上で飛び跳ねることができるのではないかというほどに軽快だった。

 ファウストは胸をなで下ろしながら、しかし苦い表情を浮かべて言った。


「すまなかった……。君が触ったのは、迷い込んでいたスリージーホッグの針でね。刺されると強い眠気に襲われてしまうんだよ」


 その言葉でジークリンデは思い出す。

 あの時、ジークリンデは実験室のテーブルの下で震えていたネズミのような生物を見つけた。テーブルの下から出してやろうかと手を伸ばしたところで、毛が逆立ち、鋭い棘が飛び出したのだった。


「……もしかしてあのハリネズミみたいな……」

「そう。あれがスリージーホッグ」

「助手くん、丸一日目を覚まさなかったから心配したよ」


 クゥが「目覚めてよかった」と、大きく尻尾を床に打ち付けるように振りながら言う。長い耳がぴくぴくと動き、鼻がヒクヒクと鳴った。


「ご心配おかけしました。でも楽しい夢を―――」


 ジークリンデはそこで言葉を切った。頭の中には霞がかった様なぼんやりとした風景。

 現実ではないのにどこか現実的な夢を、確かに見たという感覚はあるのに、細部を思い出すことができない。


「先生、二階の廊下の突き当たりって部屋はありませんでしたよね?」

「はっ……?」

「え……?」


 ファウストの顔が驚きに少しの怒りを混ぜたような、複雑な表情を浮かべる。まるで触れられたくない秘密に、土足で踏み込まれたかのような反応だった。

 しかしすぐに眉根を緩め、努めて平静を装う。


「ああ……すまない、急に言われたものだから。突き当たりには部屋は無いよ。それがどうかしたかい?」

「夢の中で、二階に上がったと思うんです。その廊下の突き当たりに部屋があって、そこで―――」


 逆光に照らされた、男の輪郭を思い出す。はっきりとした顔は掴めない。だが声は確かに残っていた。


「鹿の王から加護を授けてもらいなさいと言われました」


 次の瞬間、ファウストの目が大きく見開かれる。彼はジークリンデの肩を力強く、そして震える手でぐっと掴んだ。


「誰に言われた!?」


 突然の大声にジークリンデの肩が跳ねる。クゥも驚いて耳を伏せて姿勢を低くした。肩を掴む指先には焦燥が滲み、今にも爪が食い込みそうだった。

 ジークリンデは必死に記憶を手繰る。


「ええっと……夢魔のリリアンさん?」

「夢魔……?」

「でも夢魔だけど夢魔じゃないような……。……すみません、夢の中の話なので、詳しくは覚えていなくて……」

「あ……いや……私の方こそすまなかった。そうだね、夢の話だからね……」


 ファウストはゆっくりと手を離し、深く息を吐いた。その横顔はどこか寂しげであった。


「その夢魔は、ほかに何か言ってなかったかい?」

「他に……」


 ジークリンデは視線を宙に漂わせ、断片を探すように考え込む。ふと、パチッとクゥと目が合った。

 その瞬間、脳裏に妙にはっきりとした一言が浮かび上がる。顔に熱が集まり、頬が真っ赤に染まった。


「あ、あの……先生の……」

「私の……!?」


 ファウストの目が、期待と緊張を含んで射抜くように見つめてくる。


「パ……」

「パ?」


「パ、パンツがダサい……と……」


 一瞬の沈黙。

 ファウストはすんっと表情を消して、ひどくまじめな声で言った。


「私のパンツはダサくない」






「鹿の王はこの森の鹿を従えている、大昔からいる存在なんだ」


 家を出て森の奥へと進みながら、ファウストは静かな声で語り出した。

 ジークリンデは足を止めずに、周囲に目を凝らす。大木の陰や茂みの向こうに、つぶらな瞳がいくつもこちらを見つめていた。黒々とした瞳の主は鹿たちで、じっと動かずただこちらを観察しているようだった。


「だからこの森には鹿が多いのですね」

「そう。でも鹿の王は、元々は手のつけられない災厄のような生き物だった。山や町で好き勝手に暴れ、田畑を荒らし、人を襲うことさえあった」


 ファウストの口元がわずかに釣り上がる。


「その鹿の王の討伐を命じられたのが、私の師だった」

「えっ……」


 ジークリンデは思わず声を漏らした。


「三日三晩、師と鹿の王は戦った。嵐のような戦いだったらしい。最後に勝ったのは、私の師だった」


 ジークリンデはふと耳をすます。水音がした。

 歩みを進めるうち、水音が次第に大きくなっていく。やがて木々が途切れぱっと視界が開けた。

 そこには切り立った崖と、その上から幾筋も流れ音を立てて落ちる滝があった。滝壺は深く青く、まるで底なしのようだった。


「ここで決着がついた。鹿の王は本来の力のほとんどを奪われたけれど……代わりに、森を守護する役割を与えられた。今はこの森で静かに暮らしている」

「……退治は、よかったのですか?」


 ジークリンデは小さく尋ねる。


「鹿の王は逃げた、と報告したそうだよ」


 笑って答えながら、ファウストはポケットから小さな角笛を取り出した。紐で結わえられたその笛は、白くツヤツヤとした輝きを放っていた。

 ピュイーッ。高く澄んだ音が森へ響く。

 笛を下ろしたファウストは崖の上を凝視する。ジークリンデも思わず顔を上げた。


「鹿の王よ! その姿をお見せください!」


 ファウストは声を張り上げた。


 次の瞬間、崖の上に影が差す。

 そこに立っていたのは、真っ白な身体を持つ巨大な鹿だった。四本であるはずの脚は六本もあり、角は七つに枝分かれし、蔓植物のようなものが絡みついて揺れている。さらに額にはもうひとつの目。三つの瞳が一斉にこちらを見下ろした。


 神々しい。ジークリンデが最初に抱いたのは、その一言に尽きる感想だった。呼吸すら忘れるほどの畏怖と荘厳。

 鹿の王は崖を跳び降りる。落下の衝撃をものともせず、滝壺へ音もなく着地した。だが水面は波立たず、ただ静謐な凪を保っていた。


「■■■■■■■―――!」


 天地を揺らすような咆哮が放たれた。

 空気が震え、地面が唸り、木々が音を立ててざわめく。鳥たちが群れとなって一斉に飛び立った。

 次の瞬間。咆哮がぴたりと止む。

 白き王は三つの目をぎょろりと動かし、口を開いた。



「アンタねえ! アタシのところ来るなら、前もって言いなさいって言ったじゃないの! 大雨降らすわよ!」



 響き渡ったのは甲高い―――男の声だった。

 

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