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夢魔のリリアン

 薄暗く、果てしなく長い廊下だった。

 ジークリンデには見覚えがあった。ここはファウストの家の二階だ。ファウストの部屋が二階にあるため、何度か上がったことはある。

 だがこんなにも長かった記憶はない。


「今は……実験室にいたはずなのに……」


 ジークリンデは振り返る。背後は闇に覆われて見えない。

 仕方なく進むことにした。

 両脇には窓も扉も一切なく、ただ無機質な壁が続くばかり。歩くたびに響くはずの足音は床に吸い込まれていく。


 やがて突き当たりに一枚のドアが現れた。二階にはなかったはずのそれ。

 その扉にはわずかな隙間があり、そこから細い光が漏れている。

 ジークリンデは息を潜め、そっと覗き込んだ。


 部屋の奥に開かれた大きな窓がある。雲ひとつない青空が、絵画のように切り取られて見えた。

 風が入り込んでくるが、そこには温度がない。肌を撫でても、冷たくも暖かくもない。

 窓の前に誰かが座っていた。長い黒髪が背中に流れ、風に遊ばれるようにしてふわりと揺れている。

 体格から見るに男のようだ。


 その時、ひらひらと光をまとった蝶がジークリンデの頬の横を舞い抜けた。

 光の粉を纏った蝶は部屋の中へと吸い込まれていく。


「そこは暗いから、入っておいで」


 優しい男の声が響いた。

 口調や喋りはファウストに似ているが、その声はファウストのものではなかった。


「……おじゃまします」


 一歩足を踏み入れると、空気が変わった。

 部屋の中には不思議なものばかりだった。

 蝶は光を帯びて飛び回り、水でできた魚が空中を悠々と泳ぎ、フラスコたちは自ら動き勝手に何かの実験をしている。

 ジークリンデの足元に置かれたいくつかの鉢植えには、小声で何かをささやき合う花が植えられていた。

 この部屋には、色彩が溢れている。

 一枚の紙がふわふわと浮かび、男の元へ舞い落ちた。


「おやおや……ふふっ、なるほど。だから君がここに来たのか」


 男は肩を揺らして笑った。


「君の先生は、先生失格だね。助手に肝心な注意点を、まったく伝えていないんだから」


 ゆっくりと男が振り返る。逆光の中に座るその姿は影になり、顔立ちは見えない。


「でも彼、真面目ゆえに時々おかしなことをするけど……悪い子ではないから、見守ってあげてくれるかい」


 その声音は、まるでファウストを小さな子ども扱いしているようだった。

 ジークリンデは喉から声を絞り出すようにして問いかけた。


「あなたは……」

「僕? そうだねぇ……」


 顎に指を当て視線を宙に彷徨わせ考えるような素振りをする。すると壁の本棚から何冊もの本が飛び出してきた。

 それらは蝶の群れのようにふわりと羽ばたき、ページをめくりながら男の周囲をゆったりと旋回する。


「サキュバス……はちょっとイメージと違うね。これ? うーん、彼自身は夢魔じゃないし……。おや、待ってそれは? 西の夢魔リリス……」


 男はブツブツと何かを呟いていたが、やがて何かに納得したように口元を緩め、ゆっくりと頷いた。


「リリアン。夢魔のリリアン。そう呼んでほしい」

「リリアン……さん」


 ジークリンデが名前を呼ぶと、リリアンが満足そうに頷く。


「少し君の先生を困らせようかな」


 悪戯が思いついた子供のように笑うリリアンの声に、待っていましたとばかりに椅子が自らの足でトコトコと歩いてくる。


「どうぞ座って。紅茶でも淹れようか」


 その言葉に、ふと頭の奥でファウストの声が浮かんだ。

 ―――紅茶は私の師が好きだったんだ。


「……あの、もしかして先生のお師匠さんですか?」


 問いかけた瞬間、窓の外で羽音が広がる。白い鳩たちが一斉に飛び立ち、舞い散る羽が光を遮った。

 その陰の中で男の顔がゆっくりと浮かび上がる。少し目尻が下がった目は優しげな微笑みを浮かべている。左目の下に小さく黒いほくろがひとつ。


「さあどうかな。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」


 あえて曖昧に告げる声。窓が音もなく閉じ、どこからともなく現れたレースがふわりと窓を覆う。

 立ち上がったリリアンは、いつの間にか現れていた小さなテーブルの上で紅茶を淹れ始めた。


「……リリアンさんは、ミルクティーは好きですか」

「ミルクティーも、好きだね」


 ジークリンデの意図が分かっているとでも言うように、意地悪な笑みを浮かべる。

 リリアンは手を動かしながら問いかけた。


「君は、何か悩んでいるのかな」

「え?」

「ここは君の夢の中。聞いているのは僕だけだから、好きなだけ吐き出せばいい」


 ジークリンデは俯く。言いたいことはあるのだが、うまく言葉にできない。


「では質問を変えようか。君は先生のことをどう思っているかな」

「……分かりません」


 膝の上に乗せた手を強く握る。


「先生の推察通り、私はヨハン執行官から先生の監視を命じられています。悪魔と契約している証拠を抑えたならば、即刻捕らえろ、と」


 リリアンは、続きを促すように視線を向ける。


「ファウストは悪人である、と言われ続けていましました。でも……数日ではありますが、先生と過ごすうちに本当にヨハン執行官の言うことは本当なのだろうかという気持ちが芽生えてきました」

「それは喜ばしいことだね」

「喜ばしい?」

「君のその悩み考えることこそ成長の証だからね。考えることや悩むのを放棄する人間は、成長すらしなくなる」


 ジークリンデの横の床から、音もなく小さなサイドテーブルが伸びるようにせり上がる。

 リリアンは紅茶とミルクポットを置くとジークリンデの向かいに座った。


「君たちはもうすぐ旅に出るそうだね」

「はい」

「ならば君はその旅で、たくさんのものと出会うことになるだろう」


 リリアンが指さす壁へとジークリンデは顔を向ける。

 大きなキャンバスが壁にかけられ、真白な布地にしみ込むように色彩が広がっていく。


 水平線に沈む太陽が、水面を赤と橙に染める海。

 糸の一本一本に小さな光が宿り、色とりどりの糸で編まれる布。

 羽ばたくたびに星屑がこぼれ、闇に小さな天の川を描いていく夜空を纏う鳥。

 小さな灯火が窓辺に並び、暖かな光で満たされた雪に閉ざされた村。


「美しいものも、楽しいことも。……時には恐ろしいものや、醜いものもあるだろう」


 キャンバスに広がる色が一転して暗くなる。

 全てを燃やし尽くす炎を吐き荒れ狂うドラゴン。

 稲光が空を裂き、大雨で荒れる海で転覆する船。

 高笑いを響かせる女と、その足元に絶望に顔を歪めすがりつく男。

 沈みゆく白い月の中に数多の骸が転がる焦土。


「それらとの出会いを通して、君は何かを感じ、考え、そして悩む。そしたらきっと、やがて君なりの答えを見つけられるはずだ」


 リリアンの言葉と共にキャンバスの景色はゆっくりと白が滲み、やがて何もなかったかのように白へと戻っていった。


「ごめんね。つい偉そうなことを言ってしまうのは、僕の悪いところだね」


 リリアンがゆっくりとティーカップを傾ける。ジークリンデもカップを唇に寄せた。


「……美味しい」


 渋みもなく柔らかな甘みと、果実のようなほのかな酸味が口の中に広がる。それを見てリリアンは満足げに頷く。


「そうだろう。乾燥させたフルーツの皮を入れているから香りもいい」

「……夢なのに味や匂いがするのは変な感じです」

「夢なのだから楽しめばいいのに。君は先生と似たようなことを言うんだねぇ」


 瞬きをし、ジークリンデは問い返す。


「先生はリリアンさんからみて、真面目以外にどんな人でしたか」

「んー……」


 リリアンは考え込む素振りを見せ、そしてぱんっと軽快な音を立てて手を打った。


「パンツがダサいね」

「ぱ……」


 ジークリンデの頬が一瞬で熱を帯びる。唇をわななかせ、その先を言えないでいる。

 リリアンはそんな彼女の反応に気がついていないようで、腕を組みながら一人で語り出した。


「いやー、服とかはさすがに面倒で縫えないけど、縫製魔法でパンツくらいはその辺の布で縫ってたんだよ。でも彼はやれデカいドラゴンが刺繍してあるのがいいだの、やれオオカミの顔が大きいのがいいだのとうるさくてね」


 想像してしまったのかジークリンデはさらに赤くなり、慌ててカップを持ち上げた。


「……やっぱりリリアンさんは、先生のお師匠さんだと思います」


 リリアンはニコニコと笑みを浮かべたまま、肯定も否定もしなかった。


「僕の言うことは聞かないにしても、これまで誰も指摘しなかったのかなぁ。女性はそういうの指摘しないの?―――ベッドの上とかで」


 その言葉に固まるジークリンデ。リリアンはお構いなしに続ける。


「でも彼、女性に興味なさそうだし。だからといって男性が好きって感じでもないし。もしかして誰とも寝たことないのかな」


 ジークリンデは顔を覆いたくなる衝動をこらえながら、紅茶を一気に飲み干した。カップが小さく音を立ててソーサーに戻る。


「ご、ごちそうさまでした! 帰ります!」

「おや、そうかい。ではそろそろ目覚めようか」


 男の輪郭が、景色が、陽炎のように歪みはじめた。少しずつ色を失っていくそれらを見ていると、ジークリンデの頭の中まで靄がかかってきた。


「君の先生に伝えておくれ」


 もう姿は見えないはずなのに、リリアンの声ははっきりと聞こえた。



「―――鹿の王から加護を授けてもらいなさい、と」



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