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君に花束を

 ヘレナの家に行く前に花屋に寄りたい。そう言ったファウストの後ろを、ジークリンデはうつむきながら歩いていた。胸の奥にひっかかっている言葉がまだ形にできず、ただ重く沈んでいる。

 突然、前を歩いていたファウストが立ち止まった。狭まった二人の距離にジークリンデははっと顔を上げる。振り返ったファウストの瞳が、まっすぐにジークリンデを射抜いた。


「何か言いたげだねジーク」

「えっ……」

「言ってごらん」


 柔らかな促しにジークリンデは一瞬だけ迷い、しかし目を逸らさずに口を開いた。


「本当に、殺すんですか」

「ああ」


 即答だった。迷いのない答えにジークリンデは拳を握りしめる。

 ファウストは僅かに眉を下げながら続けた。


「私は高度な回復魔法は使えない。そもそも治療師がかける回復魔法が気休めにしかならないということは、レオは不治の病に侵されているということなのだろう」


 淡々と告げるその声には、感情を押し殺した冷静さがあった。


 回復魔法といえど万能ではない。一般的な回復魔法は傷を癒すことができる。高度な回復魔法を使える治療師であれば、傷だけではなく風邪なども治すことはできるが、瀕死の状態や不治の病には効果は無い。


「……きっとレオは、ヘレナを置いていくのが怖いんだろうね」


 ファウストは前を向き、再び歩き出す。


「小さい時から一緒に育ってきたきょうだいであり、家族でもあるヘレナを残していくのが心残りなんだろう。動物は賢い生き物だから」


 ジークリンデの脳裏に、店で見せたヘレナの笑顔と、曇った顔が交互に浮かぶ。


「見たくないなら帰っていいよ」


 歩きながら、ファウストは横目でジークリンデを見た。


「いえ。最期までお供します」


 ジークリンデはきっぱりと言い放った。

 ファウストは小さく頷き返した。




 その後、二人は通りにある小さな花屋へ立ち寄った。軒先には色とりどりの花が並んでいる。ファウストは店内をゆっくりと見渡し、やがて淡い黄色の大輪の花と白い小さな花をいくつか束ねたものを手に取った。


「この色がレオに似合う」


 ファウストの独り言は随分とはっきりしたものだった。ジークリンデは小さく「そうですね」と答えた。


 花束を抱え二人は再び歩き出す。

 やがて、目的の家が見えてくる。まもなく玄関にたどり着くというところで、ファウストがふいに足を止めた。

 そこには、俯いたまま立つヘレナの姿があった。

 こちらに気づいたのか、ゆっくりと顔を上げる。泣いた後なのだろう、目は真っ赤に腫れている。それでもその瞳には揺るぎない覚悟が宿っていた。


「いいんだね、ヘレナ」

「はい」


 ファウストの問いにヘレナは小さく、しかしはっきりと頷く。


「分かった。それからこれはレオに」

「ありがとうございます」


 ヘレナは花束をぎゅっと抱きしめた。


「先生に、一つお願いがあります」


 そう言って深く頭を下げた。


「私がやります。やらせてください」


 ファウストの表情がわずかに揺れる。そこには、迷いと理解が入り混じった複雑な色があった。


「……しかし……」

「お願いします」


 言い淀むファウストに、決意のこもった声を返す。

 ファウストは少しの間、目を伏せて沈黙する。やがて革袋を懐から取り出しヘレナへ差し出した。


「……これを。眠るように、安らかに逝けるだろう」

「ありがとうございます、先生」


 ヘレナの手が、革袋を包み込むように受け取る。


「あがってもいいかい?」

「もちろんです」


 ヘレナに導かれ、二人は家の中へと足を踏み入れた。

 そこにはヘレナの父と母がいた。二人とも深い悲しみを隠しきれない表情だった。その奥、窓辺に置かれたマットの上で、一匹の犬―――レオが横たわっていた。


「お久しぶりです」

「先生……この度はご迷惑を……」


 ヘレナの父と母が、静かに頭を下げる。ファウストも同じように頭を下げ、それにならってジークリンデも深く腰を折った。

 ファウストはレオに歩み寄る。


「こんにちはレオ」


 かつて小麦色に輝いていたであろう毛並みは今は艶を失い、ところどころに白い毛が混じっている。濁った瞳は焦点を結ばず、虚ろに宙を漂っていた。胸が上下するたびに、苦しげな息が漏れる。

 ファウストはゆっくりと杖を取り出し、その先端をレオの傍らにかざした。


「《光よ》」


 次の瞬間、やわらかな光がレオの全身を包み込んだ。その光は部屋全体に広がる。


「《多重魔法展開》」


 低く抑えた声が部屋の空気を震わせた。

 レオの周囲に幾重もの魔法陣が浮かび上がる。


「《再設計 構築開始》」


 詠唱とともに魔法陣同士が重なり合い、ひとつの大きな魔法陣を形作っていく。幾何学模様がゆっくりと回転し、やがてその輪は徐々に縮まりながらレオの体を包み込む。

 光は部屋の隅々にまで輝きを放った。しばしの静寂の後、その光はゆるやかに薄れていく。


 レオの瞳にはっきりとした輝きが戻った。

 やせ細っていた脚に力が宿り、しぼんでいた筋肉がふくらみを取り戻していく。レオは動作を思い出すかのようにゆっくりと立ち上がった。


「レオ……!」


 ヘレナが声を上げ、父と母も堪えきれずに駆け寄る。三人の腕が温かくレオを抱きしめ、レオは嬉しそうに大きく尾を振った。


「レオ」


 ファウストの呼びかけにレオは顔を向ける。


「君が元気でいられるのは、これから一時間だけだ。それを過ぎれば、君にかけた魔法は解ける」


 その言葉を受け、レオの黒い瞳がじっとファウストを見つめる。その眼差しはことパを理解しているようでもあった。


「大丈夫。ヘレナはもうこんなに大きくなった。小さかった頃の彼女はもういない。だから君が心配することは何もないよ」


 レオはゆっくりと視線をヘレナに移す。そこには今にも泣き出しそうでも、満面の笑顔を向けるヘレナの顔があった。


「レオ。回復祝いに、大好きなステーキを食べよう? 今日は私が作るから」


 ヘレナの震える声に、レオは短くそして力強く「ワンッ」と応えた。


「それじゃあ、私たちはここでお邪魔するよ」


 ファウストが穏やかに言うと、ヘレナが深く頭を下げた。


「先生……本当に、ありがとうございました」


 ファウストは大きく頷く。レオが駆け寄り、二人の足元に体をすり寄せた。

 ジークリンデはしゃがみ込み、その柔らかな頭を撫でる。


「……さようなら、レオくん」


 二人はそっと家を後にした。

 玄関先に立ち、しばらく中の様子をうかがっていたが、やがて家の奥から三人の声が聞こえてくる。泣きながら、それでも必死にレオを呼び続ける声。

 ファウストは目を閉じ、一瞬だけ空を仰いだ。そしてゆっくりと歩き出す。その背中はいつもより少しだけ重く見えた。




「……先生」


 街の外れまで来ると、ジークリンデはファウストに呼びかける。ファウストは数歩進んでから足を止め、ぽつりと呟いた。


「レオは周りの人間の顔を見て、何かを悟っていた。それでもステーキを食べたのはレオの判断だ」


 振り返ったファウストの瞳が、わずかに揺れていた。

 その揺らぎは迷いのようにも、あるいは何かを押し殺した光のようにも見える。


「私は何も間違ったことはしていない。間違ったことをしているとも思っていない」


 その言葉はどこか、自分自身に言い聞かせているようでもあった。

 ファウストはゆっくりと視線を落とし、足元の石畳を見つめる。長い沈黙が二人の間を流れた。


「……私とともに来るということは、共に罪悪を背負うこともあるだろう。君にはその覚悟があるか?」


 喉が乾く。だがジークリンデは唇をきゅっと結んだ。


「勿論です。私は先生の助手ですから」



「私が悪魔と契約したとしても?」



 たった一瞬、その答えに迷った。

 その一瞬の沈黙をファウストは決して見逃さなかった。


「ジークリンデ・ワーグナー」


 その声は冷え切っており、空気一瞬にして凍りついたかのようだった。

 ジークリンデははっとしたようにファウストの瞳を見つめ返す。向けられた双眸には光も温度も無かった。



「君は―――異端審問塔から派遣された人間だね」



 全身の産毛が逆立つ。背筋を冷たい水が滑り落ちるような感覚が走る。

 胸の動悸が高まり、轟くような音を立てる。


「私は異端審問塔……ヨハンの意図を理解している。今回の学術調査も本来存在しない禁書であることも。理解していたうえで君が護衛となることを許可した」


 ジークリンデの全身から汗が噴き出す。じっとりと湿った震える手を強く握り込んだ。


「―――まあでも、異端審問塔から与えられている君の任務については、私は何も口出ししない。私をどのように評価し、どのようにヨハンに報告するかも君の好きにするといい」

「え……」


 ファウストはふっと表情を緩める。

 雨雲の隙間から陽光が差し込んだかのような変化に、ジークリンデは目を見張った。


「大方、私……というか“ファウスト”が黒魔術に関与しているかどうかの調査しろっていう、ヨハンの私情五百%の任務だろうし。そんなもの無いから好きなだけ調べたらいいよ」


 やれやれと言いたげに肩をすくめたファウストは、ジークリンデを見据える。


「でもきっと君は最後にこう評価するだろう」


 口角をゆるやかに持ち上げ、静かに笑う。



「―――ファウストは偉大なる魔法使いであった、とね」






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