表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編集  作者: 岡倉桜紅
47/47

 私はスキー場のような場所を歩いていた。スキー場と言っても、銀のパウダースノーと鮮やかなウェアのスキーヤーが溢れるすがすがしい感じは無く、視界の上半分は灰色っぽい雲で、下半分は泥や埃か何かで茶色く汚れた雪の坂があった。音楽もリフトも無く、坂の上の方はどんよりと霞んで見えなかった。

 私は坂の下から一歩ずつ踏みしめるようにして坂を上がっていた。スキー場で言うならば徒歩でゲレンデを逆走している。私の荒い息の音がしていて、寒風を切る私の耳は痛いほどかじかんでいた。

 私は腕に抱いたものを強く抱き、また一歩を踏み出す。私の犬だ。それは冷たく強張っていて、ごわごわしたオーバーコートの感触だけがそのままだった。

 歩かなければならない、と私は焦燥に駆られている。最終的にどこを目指しているのかはわからないが、とにかく坂の上を目指していた。

 いつの間にか、私の横には車線が生まれていて、車の列が走っていた。黄色っぽいヘッドライトが灰色の世界に現れ、ワイパーが一定の速度で振れている。雪道を照らすヘッドライトの明かりのせいか、空は相対的に一段と暗くなったかのように見えた。そうかここはスキー場ではなく車の走る道路だったのだと、私はぼんやりと受け入れる。思えば最初から私の横には汚れた轍のようなものがあったのかもしれない。私は車の方を見るけれど、どの車の窓も、結露したかのように灰色に曇っていて、ドライバーも乗っている人の姿も見えなかった。車たちの列はどこまでも記号的で、ミッケ!の世界に迷い込んだかのような錯覚を覚える。

 私は歩き続ける。車と同じ方向に歩を進めていく。坂は気付かないうちに終わっていて、私の目の前には平坦に伸びた道が真っ暗な闇に続いていた。等間隔で立っているオレンジの街路灯が私をてっぺんから照らす。高速道路だった。

 最初スキー場にいたはずなのに、なぜ私は高速道路を徒歩で歩いているのだろう、と私は今更のように思う。ゲレンデが道路とつながっていたのだろうか。小さな混乱が私の頭の中に渦巻き始め、それが焦燥感と混ざり合って私はパニックになりそうになる。

 私は唐突に思い出す。そうだ、病院に行かなくては。早く病院に行かなくてはいけない。だって、そうしなければ、

 私は腕の中を見下ろす。私はそれを見たことがある。目を瞑り、ぴくりとも動かない、剥製のような顔。もともと白い毛がいちだんと白く見え、記憶よりも一回り小さい犬が私の腕の中にいた。犬がまとう雰囲気は、通っていた小学校の廊下に飾ってあった猪とハクビシンの剥製に似ていた。

 そこで私は目を覚ます。目が覚めるといつも泣いていて、冷たい汗をかいている。私は頭の中で現実を反芻する。犬は死んでいる。犬は安らかに逝って、火葬され、その煙を私は見た。私たち家族は骨を拾い、白い骨壺に収められて実家の居間に置かれている。

 私はひとつ頭をふり、目ヤニと涙を手で拭ってから、日常生活を始める。まるでなんでもないように。人の死と犬の死は違う。文化圏によって多少の違いはあるが、人間の場合は弔いの式を行い、それなりの墓に収められ、期日には儀式をする。犬にはそんな人間社会のようなしきたりは無いし、神や宗教を持たないので、儀式は無い。犬にとっては、家族が世界のすべてなのだ。社会的な手続きは役場に行って、登録されている記録に死亡届を出すだけだ。犬は人間社会においては所有物らしい。不法投棄とみなされるため、飼い主の持つ土地であろうとも、骨壺をそのまま埋めることはできない。

 悪夢を見ることを妹に打ち明けたら、想定よりも深刻に心配され睡眠薬などの使用を勧められた。勧められてはじめて最近の状況を振り返ると、確かに睡眠は浅くなり、そしてまた夢を見てしまい、また睡眠が浅くなるという悪循環は起きていて、私の日常生活の歯車が軋み始めていることは薄々感じていた。でも私はどこかこの悪夢を喜んでいた。夢でもいい、死体でもいいからまたあの犬に会えるということ、それは、私の脳内の記憶が犬のことを忘れていないという証明で、忘れないことこそが私にできる唯一の弔いだと信じていた。わりと生活のことはどうでもよかった。朝、泣きながら目を覚ますことは苦しさであったが、同時に幸福だったのだ。朝ベッドの上で涙を拭い、何事も無かったかのような顔をして、笑顔で他人と会い、愉快なおしゃべりをしたり遊んだりすることの後ろめたさがそれで相殺されていた。私は昼間、笑顔の仮面を着け、夜に夢で泣いた。

 なんとなく心を染める憂いを晴らしに、適当な本屋を冷やかし、読みかけの本をたくさん抱えているのに、新しい本を買いあさった。水煙草の煙で、何も考えなくていい空間を創り出して溶け込んだ。映画に没頭する、旧友と旅行に行く、当てのない散歩で気を紛らわす、どれも今までにしていたことで、その方法は何も変わっていないはずなのに、すべて別の意味を持っているかのようにどこかが変わってしまった。すべて憂さ晴らしだった。娯楽の本質はとうの昔から憂さ晴らしとされているのかもしれないが、私はその文字通りに行為から意味を消し、時間をただ潰した。なんとなく心が晴れずに娯楽にふけるが、一方で心が晴れないことに満足していた。逆に、没頭しすぎて時間を忘れたり、ため息が出るほど好みの作品に出会ったりしてしまうと、自分に対して許しがたい嫌悪感が芽生えていることに気づいた。

 そんな生活は、歯車がどうしようもなく軋みに耐えられなくなった頃にぷつりと崩壊した。私は熱を出した。無防備に出かけて人込みの空気を吸い、真冬に薄着で歩き、栄養バランスの欠片も無い食生活が、当然の結果をもたらしたのだった。40度の熱は風邪にしてはやや派手な発熱で、私はベッドから起き上がれなくなった。母が一人暮らしの私の部屋まで来て看病してくれた。インフルエンザでも流行っているのかしらね、と母は言った。

 熱にうなされながら何か夢を見たような気がしたが、覚えていない。犬は出てこず、脈絡のない、めちゃくちゃな夢だった。5日ほど寝込んで、私は回復した。

 それ以来、あの夢を見なくなった。

 ぞっとするほど自然に、私は以前の生活を取り戻した。本は知識を得るために、たまのシーシャは人づきあいとリラックスのために、映画は楽しみのためにという意味が戻って来た。私の免疫は、私の中から犬の死という傷まで取り除いてしまったのだろうか。治ってしまえば風邪による体温の4度くらいなんだ、と思っていたが、あの熱が私の脳から弔いを焼き払ってしまったのだろうか。私の傷はどうやら、風邪とともに癒えてしまったようだった。

 何かを忘れてしまったら、それを忘れたことも忘れてしまうから、人間が記憶の喪失感に嘆くことは無い。脳は人間を生かすために、賢い仕組みが搭載されている。夢を見なければ私は涙を流さない。犬の写真を見ても、懐かしさや犬の可愛さだけが思い浮かぶ。幸せなときのことだけ思い出せる。おそらく幸せなときというのもまた、元あった出来事の中のほんの一部だろう。もう私は悲しくなかった。生活を覆っていた気だるさが消え、私は毎晩深く眠り、すっきりと気分よく起きて、美味しいご飯を食べ、趣味を謳歌し、他人と楽しく話した。

 大丈夫なんかになりたくない。私は犬のすべてを覚えていたかったのだった。

 しかし、悲しくもないのにいつまでも悲しい振りをすることなどできなかった。私は前を向き、普通に生きた。同じく前を向いた家族とたまに犬の話をして、誰もいないドッグハウスが目に入るたびにに不在の痛みを感じながら、それに懐かしさというラベルを付けた。

 ある朝、私はまた泣いて目を覚ました。夢の中には犬がいて、やや弱っていたものの、ちゃんと生きていた。床に伏せた犬の頭を撫で、顎の下にバスタオルを敷いてやった。その鼻先は濡れていた。私はダブルコートのごわごわとした背中を撫で、その手に伝わる感触をはっきりと感じながら夢が終わる。早朝の浅いまどろみの中で見る短い夢だった。周りの情景や、出来事の文脈はほとんど覚えていないが、たぶん私たちは実家にいて、春らしい日差しが私たちを包んでいた。とにかく、犬が夢に出て来たということだけははっきりとした事実だった。犬は何の違和感も無く、そこに当たり前のようにいて、私を見て、息をしていた。犬は、また私の夢に現れてくれた。

 私はふとカレンダーを見た。犬の命日から約49日が経っていた。犬を火葬するとき、いろんな宗教について調べたから、仏教の忌明けの日を覚えていたのだった。運命なんて言葉はあまり好きではないが、この時ばかりはそれを信じたくなって、私はすぐに妹に連絡をした。LINEで今日は四十九日かどうか聞くと、数分後に妹から返信があった。

『ばーか、それは昨日だよ』

 じゃあ、ただの夢か。少し可笑しくなって、私はスマホをベッドに放り投げた。夢は頭の中にある記憶を引っ張り出して組み合わせてできる仮想現実。その記憶の引っ張り出し方の法則は解明されていないが、確実なことは、私の頭の中には犬との思い出が、私が思うよりももっとたくさん仕舞ってあるということだった。記憶の抽斗に大切に仕舞われていて、私の力では自由に取り出すことができないけれど、きっとそこにある。

 今朝の夢は、なんの運命性も、特別性もないただの夢。懐かしく、平和で、幸福なただの夢。

 私は手で目の下を拭い、ベッドから立ち上がって、ひとつ伸びをした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ