死という病
「やあ、白髪が増えたな」
俺はガラス越しの男に片手を挙げた。男はゆっくりとした動作で俺に手を振り返す。その手は前回来たときよりも明らかに細く、あまり健康的ではない色の血管が目立ち、関節が節くれ立っていて、俺はどきりとする。男は車椅子に乗っていた。
「来てくれてありがとう、弟よ。お前は相変わらずだな」
男のしわがれた声は、スピーカーを通じて俺のもとに届く。男は俺の双子の兄だった。
ガラスの向こう側は俺のいる場所よりもいくらか照明が暗いためか、ガラスに俺の姿が微かに反射している。俺の髪は黒々と柔らかく、白髪の一本も無い。肌は日光をあまり浴びないために多少青白くはあったが、健康的なハリツヤを持っていた。
俺は白い部屋に現れた椅子に腰かけて、兄と目線を合わせる。俺たちの姿はガラス越しに重なり合い、一卵性だから以前は全く無かった差異が、特に際立って見えた。
「身体のほうは大丈夫なのかよ」
「まあ、見ての通りだ。もうすぐ死ぬんだろうとは思うが、今のところ手と頭は動くし、まだ研究はできる」
「『死』、ね。それは、やっぱりどうにもならないもんなのか?」
兄は物心ついたころにはもう病気だった。あまりに虚弱すぎて、すべてが管理された清潔なガラスの部屋の中にいることを運命づけられた。その病名は『死』というらしかった。科学技術が高度に発展した現代社会でも、どうしても治すことのできない病らしかった。
「どうにもできないよ。医者もそう言った」
兄の不自然に曲がった腰や、顔のしわが思わず目を逸らしたくなるほど痛々しい。
「そのさ、兄貴の言う『死』ってやつが、何度説明してもらっても俺にはぴんとこないんだ。死んだら兄貴はどうなるのかもう一度話してくれよ」
「身体のすべての機能が停止して、見ることも考えることも、動くことも喋ることもできなくなる。ここから遺伝子ごと永遠にいなくなる」
「もう会えない?」
「そうだ」
俺は永遠に会えないという状況を想像しようとしたが、難しかった。果てしない暗闇が目の前に広がっているようで、そこから一歩も思考を先に進めることができない。兄の背後にかけてある時計の、秒針の音がやけに大きく聞こえた。
「兄貴のことは、一挙一投足をこのガラスルームが記録してくれてる。兄貴の記憶も思い出も考え方や話し方だって、ちゃんと残る。電子空間にデータをアップロードして、電子空間で使える身体をモデリングすればもう会えないなんてことないよ。ゾンビみたいだと嫌がる人もいるけれど、生物学的肉体が欲しければ、タンパク質を合成すればいい。最近読んだ生物学の論文によると、その肉体で子を成すこと、つまり遺伝子を残すことだってできるそうだぜ」
「俺には生憎その相手がいない」
「残念なことに俺もだよ。とにかく、不安に思わなくていいことまでわざわざ不安にさせるなんて、患者への精神ケアへの意識が低い。兄貴の医者はヤブなんじゃないか? 本当は兄貴の病気も大したことのなくて、少し視点を変えれば簡単に治せるようなものなのに、医療過誤で引き延ばしてるんじゃないだろうな」
俺は兄貴を診ている医者がマトモなのかどうか、時々不審に思う。俺は医学については門外漢だが、記録についての一般常識くらいは持ち合わせている。
「まあ落ち着けよ」
兄は俺たちの間にあるガラスの一部を指先で叩いて、ホログラムビジョンを呼び出す。それは、双方向から何かを書き込むことのできるホワイトボードのような機能だった。
「俺の病気のことはもういいよ。さあ、今日もお互いの研究について喋ろうじゃないか」
兄は穏やかに言った。俺は生物学、兄は工学の研究者で、面会のたびに研究の進捗を話すのが恒例になっていた。兄は病気のことをすっかり受け入れているのかもしれない。俺よりも長いこと『死』について考えて来たのだろうし、せっかく兄弟が集まっている貴重な時間なのだから、もっと兄の心が踊ることをしたほうがいいだろう。
「……そうだな。じゃあまず兄貴の進捗から聞かせてくれ」
同じ造りの脳を搭載しているだけあって、分野は違くとも、兄弟で話していると自然と議論が深まった。行き詰っているところの解決策を思いつくことができたり、誤解やミスを発見することもできた。同じ分野の専門家と話すと、その分野における共通認識の省略や、専門用語などの分野内特殊言語を使うことで、議論のスピードを上げて、よりテーマの深くまで達し、細やかな議論ができる。しかし、兄弟で話すときは、専門用語を使うことはできないが、相手が何を考えているのか、どこまでを理解しているかが、理屈を抜きにして手に取るようにわかるため、阿吽の呼吸のように議論スピードが心地よく上昇していく。
「なあ兄貴、兄貴がいなきゃ俺、やっていけないよ」
俺はぽつりとこぼした。『死』が俺たちを分かつとしたら、この心地よい議論の時間は永遠に再現できないということになる。そう考えると、俺の心にぽっかりと穴が空いたみたいだった。
数式を一心にホワイトボードに書きつけていた兄が手を止めた。
「どういうことだ」
初めて聞く、険しい声だった。俺たちの声帯は同じはずなのに、俺には出せないと思えるほど、知らない声音だった。
「兄貴は俺の心の中の大きな部分を占めているんだ。兄貴ともう会えないなら、俺だって兄貴と同じように『死』にたいよ」
突然、大きな音がした。兄がタッチペンをガラスに投げつけた音だった。ガラスは厚く、ヒビどころかキズもつかなかったが、俺の身はすくんだ。
「死ぬなんて言うな! お前は生きるんだ。お前が俺の後を追って死ぬなら、そんなの、そんなの……!」
「ご、ごめん兄貴。兄貴の病気がどんなに辛いかも知らないで軽薄なことを言った」
兄は震える両手で顔を覆った。
「いや、違うんだ。俺こそすまない。急にキレて悪かった。ただ、お前に生きてほしい。これは俺の願いなんだ。個人的な、俺の願いなんだよ」
『生きる』という概念がおそらく『死』の対義語ということは察しがついた。
「今日はもう休む」
兄は車椅子のまま俺に背を向けた。ガラスが曇る。面会は終わった。
次に会った時、ガラス越しで兄は寝ていた。身体中がチューブにつながれ、一定間隔で鳴る電子音がスピーカーを通して聞こえた。兄の喉から苦し気な音が漏れている。
ああこれが『死』か、と俺は半ば強制的に理解する。
「兄貴、俺はちゃんと『生きる』よ。そして、ちゃんと兄貴の記憶はアップロードしておくから安心してくれ」
俺は兄に呼びかける。兄は薄く目を開いた。口元が動く。
「アップロードは……いらない。データを、破棄、してくれ」
「は? なんでだよ。兄貴は優秀な工学博士だ。兄貴の記憶は俺だけじゃなくて、世界の役に立つんだよ。簡単に破棄するなんて言うなよ」
アップロードしないなんて信じられない。俺は『死』が恐ろしい。俺自身に起きることじゃないのに、ものすごく怖くて仕方がない。自分が無になって、家族や仲間に二度と会えないなんて耐えられない。俺という存在が連続性を失ってしまうなんて想像もしたくない。俺と同じ脳みそを持つ兄なのに、なぜそのような思考に至るのか理解できなかった。
「『死』が嫌じゃないのかよ! 俺には『生きてほしい』って言ったじゃないか! 電子空間でこれからを『生きる』ことを兄貴が諦めんなよ!」
「……お前に、打ち明けないと、いけないことが、あるんだ」
兄は少しずつ言葉を続ける。
「俺は、もうとっくに、アップロードしてる」
「え?」
「お前が、俺のアップロードなんだ」
兄の瞳は薄く濁って、宙を見ている。目尻は濡れていた。
「俺は死が恐ろしい。ものすごく怖くて仕方がない。死の恐怖に耐えられなくて、永遠に生きていたくて、自分の全盛期の脳を、そっくりそのまま、コピーした」
俺はガラスに手を触れる。ガラスの内側と外側がぐるりとひっくり返る。兄は、人が『死』なないのが当たり前の高度に科学発展した社会で、唯一虚弱だったわけではなかった。俺が、当たり前に人が『死』ぬ世界で、唯一永遠に『生きて』いた。
「お前と、話すのは、楽しかった。だって、俺たちの脳は、元が同じだから。でも、いつの日か、お前と俺の、思考回路は、変わっていった」
「腑に落ちた。俺たちが双子じゃないことも、俺が兄貴のコピーなことも全然問題ない。でも、一つ訂正する。兄貴と俺は変わらないよ。兄貴と俺は同じだ。だって、あんなに議論がスムーズで、」
「俺は工学、お前は生物学。興味を持つものが、違った。それに、そもそも全く同じ、思考回路なら、まともな議論は、できない。同じなら、相手のミスや、相手が思いつかない、解決法のアイデアを、どうして言える? 脳のシナプスは、日々繋ぎ変わる。俺の脳とお前の脳が、完全なコピーなら、同じものを見て、触って、感じ続けなくては、ならない。そうじゃない俺とお前は、もはや別人だ」
唯一無二の阿吽の呼吸が通じる相棒。その感覚を打ち砕かれ、突き放されたようだった。白い部屋が急に寒々しく、そして広く感じる。
「兄貴……」
「俺の記録、このガラスルームの中で、起きたこと全てを、消してくれ。お前は、俺のコピーや、俺の人生の、続きからじゃなくて、お前の人生を、生きてほしいんだ。この願いが、一番なんだ。俺の死への恐怖を、吹き飛ばすほどに」
「わからないよ」
わかるわけがない。兄と俺は別人なのだから。しかも、兄と俺では文字通り住む世界が違う。流れる涙と鼻水が俺の顔をぐしょぐしょにしている。これも電子空間のシュミレーションだ。人間は単なる遺伝子の乗り物だと言う人がいた。俺はどう『生き』ればいいのだろうか。
「俺は生涯を、研究に費やし、独身だった。だからこれは、ただの想像だけど、親になるって、たぶんこういうことなのかも、しれないな」
兄は穏やかに笑った。そして、『死』んだ。
俺はガラスルームの記録を全て見て、それから消した。
秒針の音は聞こえない。俺という存在がぽつりと、白い電子空間に浮かんでいた。




