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短編集  作者: 岡倉桜紅
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エンドロール

 犬の、骨を拾った。

 仏教を信じる人は四十九日で次の何かに生まれ変わると言うが、犬はどうなんだろうと思いながら帰りのバスに乗った。私は無神論者だし、犬もおそらくパトラッシュとは違って、生まれてから死ぬまで、神のような存在を信じたことはなかったと思う。昨日も一昨日も空は晴れていて、真冬の陽炎はまっすぐ空に上っていった。こういう時、私の心に神サマがいたら楽なんだろうなと、人類の信仰心についてぼんやりと考えていた。

 バスは実家の町から、都会の日常へと私を運んだ。速足の人の波に乗って足を動かし、青白く冷えた自室に流れ着く。ドアを閉めるまで、すれ違う人間の誰一人も私の荒れた鼻の下の皮膚を見なかったし、赤みの引かない目尻とその下の隈を気にすることは無かった。この街のデフォルトが孤独で良かった。放っておいてほしい時に、誰にも気にされない。

 辛いことがあった時、いつも私は親友に電話で打ち明けるのだが、その選択肢は出てこなかった。話して理解されたいわけではないし、忘れたり、気を紛らわせたくもなかった。

 私はやりかけで三日間放置されていた皿を洗った。ついでにシンクの汚れも磨いて、排水溝を洗った。手を拭いた後、リュックから歯ブラシや下着を取り出し、元の場所に戻す。犬の痙攣が始まったというメールを見てすぐに引っ掴んで部屋を出たために、大して中身は入っていなかった。

 明日には日常に戻らなければならない。上京してからここ数年は、一年に数度しかあの犬に会わないのが普通だった。大丈夫、この部屋で暮らす分には、喪失感なんて感じることはない。いつまでもくよくよしていないで、淡々といつも通りに生きなければならない。いくら泣いても、もうあの白くて毛深い生き物は、この世のどこにもいないのだから。

「……っ」

 もう出尽くしたかと思っていた水分が、また鼻呼吸を塞いだ。犬が先に死ぬことくらい、ずっと前からわかっていたのに、涙を止めることができない。この世のどこかに存在しているが目の前に姿がないことと、もうどこにも存在せず、二度と会えないことの間には途方もない違いがあった。犬はここにいないし、実家の庭にもいない。山の中にも、地球の裏にも、もうどこにもいない。犬は銀のお盆の上で、想像より小さめなカルシウムの塊になって、私はそれを白い壺に詰めた。それは確かに抜け殻だった。

 天国があったらいいのに。輪廻があったらいいのに。幽霊になって私の傍にいればいいのに。

 ピンポーン、とインターフォンが鳴った。私は居留守を使う。あふれる感情を無理に止め、社会的に問題ない顔つきと態度を取り繕ってまで応対すべき理由が見つからない。

 またインターフォンが鳴る。無視する。間髪入れずにもう二回鳴る。それでも無視していると、ドアがノックされた。

 私を放っておこうとしない執念のあまりのしつこさに、私はのろのろと玄関まで歩き、ドアスコープを覗いた。黒いスーツの男が立っている。ワイシャツとネクタイ、鞄まで真っ黒だった。

「セールスなら帰ってください」

『私、生涯記録管理局、天の、家畜動物課の者でございます』

 男は低めの声で言った。営業特融のはきはきとした高い声ではなく、ぼそぼそ口の中で言うような話し方だった。

「宗教もいりません」

 天国や輪廻など、宗教が織りなす世界観に救いを求めたい気持ちも無くはなかったが、たまたまやってきた勧誘者の宗教に入教するつもりはなかった。

『みなさん誤解するのですが、私共は宗教ではないです。ええと、なんて言えばいいのかな、本物の天なんです』

「てん」

『はい。天は生きとし生けるものすべての一生涯を記録しております。この度、岡倉様のご家族のチヨコ様がお亡くなりになり、こちらのアーカイブに無事保存された旨をご報告させていただきます。ご愁傷さまでした』

 男とドアスコープ越しに目が合った気がした。男はなぜか犬の名前を知っていた。そればかりではなく、私が実家で犬を飼っていたことまで把握している。宗教勧誘にしては凝り過ぎている。

「なぜあなたが私のペットについて知っているんですか?」

 男は頭を掻いた。

『ええと、なぜと言われましても。私共が天であるからとしかお伝えできません。すみません。でも天は怪しい組織ではなく、正直な仕事をしています』

 常識に照らせばこの男の言っていることは気が狂っているとしか思えないはずだが、私はなぜだかこの男の言うことを信じたいと思い始めていた。

 男は鞄から一枚のDVDディスクを取り出した。

『とりあえず、こちらを見ていただければわかると思うので、中に入れてくれませんか?』

「それは?」

『遺族サービスです。天のアーカイブを遺族の方にお見せすることは全員一律に禁止されているのでできないのですが、エンドロールのデータだけはお見せすることができる決まりなのです。家畜動物課では、すべてのご遺族の方にご覧になることをお勧めしています』

 正気じゃない。でも、私の手は震えながら鍵を回している。細くドアを開けると、男がどこか困ったような顔でそこにいた。幻覚や幻聴の類ではなさそうだった。

「あ、再生が済んだら帰りますので」

 私がお茶を入れている間、男は私の部屋にプロジェクターをセットした。ワンルームの狭い部屋なので、ベッドの上に自立型のスクリーンが勝手に設置されている。

「あの、コンセント借りてもいいですか?」

 男は一昔前のアニメでしか見ないような分厚いノートパソコンにDVDディスクを入れた。少し操作すると、ぶぉんとディスクが回り始める音がする。

「ずいぶん古い機械ですね。DVDとか今時滅多に見ません」

「上が映像さえ流せればいいっていう考えなんですよ。下っ端の使う機材のアップデートはまだまだ先かもしれません。あ、お茶ありがとうございます」

 男は私の差し出すお茶を一口すすった。普通なら知らない男性が家に上がり込んでいたらそれなりに警戒し、緊張感があるものだが、なぜかこの男は部屋と馴染んでおり、口をすぼめて茶を飲む存在を当たり前のように許容しそうになっている自分に気が付く。この男はたぶん、この世の住人じゃなくて、おそらく人ならざる存在なんだろうなと私は思う。

「じゃあ始めますね」

 男は私と並んで床に座ると、ノートパソコンのキーボードを押した。スクリーンの下から上に向かって文字がゆっくりとスクロールを始めた。音楽は無い。

――――――

主演:チヨコ

――――――

「よかった。ペット本人が自分の名前を勘違いしたまま一生を終えることもありますから」

 男は言った。エンドロール上映中は喋ってもいいらしかった。

「ああ、「カワイイ」とか「オイデ」が名前だと思っちゃう子もいるんですかね」

 私は相槌を打つ。

「そうです。岡倉さんはたくさん名前を呼んであげていたんですね」

――――――

準主演:

 実家のニンゲン

 実家のニンゲンの家族たち

 兄弟のイヌたち

――――――

「ははは、やっぱりブリーダーさんの方が上か。まあしょうがないよね」

 火葬する前、ブリーダーさんが育てた全ての犬に持たせているのと同じ花束を犬に抱かせた。天国で兄弟と会えるようにする目印だと言っていた。天国があったらいいのにと思う。

 ブリーダーさんには、チヨコをうちの子にしてくれてありがとうございましたと言うべきだったのに、口をひとつも開けなかった。

――――――

 散歩するニンゲン

 ごはんくれるニンゲン

 時々撫でてくるニンゲン1

 時々撫でてくるニンゲン2

 時々撫でてくるニンゲン3

――――――

「こちら、ご家族ですね」

「認識の仕方があの子らしいよ」

 犬は犬の一生を生きた。私たちはその脇役であれたことに少し安心する。

――――――

 獣医のニンゲン

 配達のニンゲン

 近所のニンゲンたち

 近所の小さいニンゲンたち


 近所のネコ1

 近所のネコ2


 黒いイヌ

 白いイヌ

 よく吠えるイヌ

 茶色のイヌ

 ビーグルのイヌ

 だっこが好きなイヌ

 豆みたいなイヌ

 鼻の低いイヌ

 足が短いイヌ

 頭がいいイヌ

 外国人みたいなイヌ

 白くてでかいイヌ

 ブチのあるイヌ

 たてがみのあるイヌ

 下の家のイヌ

 向かいの家のイヌ1

 向かいの家のイヌ2


 タヌキたち

 キツネたち

 ネズミたち

 モグラたち

――――――

「外飼いだったから、近所の野良猫によくちょっかいを出されてたな。夜はタヌキやキツネが来て、それに吠えてた。配達業者の人には番犬らしく吠えていたけど、何年か後にはすっかり仲良くなって吠えなくなった。近所にはたくさん犬がいたから散歩の時によく会ったし、マーキングの匂いを通していつもつながってたのかな」

 一匹の犬の目から見た登場人物の羅列。私の口から零れる思い出を、男は黙って頷きながら聞いていた。

――――――

エキストラ:

 カエル

 干からびたカエル

 バッタ

 干からびたバッタ

 ミミズ

 干からびたミミズ

 カマキリ

 ハエ

 蚊

 足長バチ

 ミツバチ

 クマバチ

 蜘蛛

 沢ガニ

 蛇

 トカゲ

 ダニ

 寄生虫

――――――

「散歩中に車に引かれたカエルやミミズを食べようとしてた。そのせいで一回寄生虫に寄生されて病院に行ったっけ。耳の中をダニに噛まれたときも病院に行った。でも、思い返せば病気も怪我もせず、それくらいでしか病院にかからなかったから、健康な犬生だったのかな……」

 最後の1か月は急にご飯を食べてくれなくなった。どんな種類を試しても、食欲が湧かないのか水しか飲まず、痩せていった。痩せた姿を見て私がめそめそしていたら、困ったような顔をして私が持っているティッシュを食べた。食べてほしいのはそれじゃないのに。

 最後の痙攣は苦しかっただろう。私が新幹線で大急ぎで実家に戻るまで9時間以上頑張っていた。

 犬の幸せってなんだろう。幸せな一生だったんだろうか。

 犬は飼い主を選べない。幸せになる努力義務は無い。でも、主は犬を幸せにする義務がある。犬は喋れない。「幸せでした」と聞けたらどんなにいいだろう。

――――――

スタッフ:

 たんぽぽ

 おおいぬのふぐり

 しだれ桜

 しだれない桜

 梅

 ムスカリ

 ナズナ

 カタバミ

 ヒメオドリコソウ

 ホトケノザ

 ドクダミ

 蛇いちご

 よもぎ

 ヒメジョオン

 シロツメクサ

 ツクシ

 アザミ

 スイセン

――――――

 一生のうち、本当に長い時間を、うちのあの庭で過ごしてきた。あの町から出ることなく、12年、飽きることなく近所を散歩していた。たくさん匂いを嗅いで、草を噛んだ。散歩に行くときはいつも、最後の一週間までずっと、楽しそうにワクワクしていた。行きたくないと尻込みする日なんか無かったんじゃないか。

 あの子の目に世界はどんなふうに見えていただろうか。美しく見えていたんだろうか。

――――――

 エノコログサ

 カラスエンドウ

 ヤハズエンドウ

 オヒシバ

 メヒシバ

 ツユクサ

 ヒマワリ

 朝顔

 キュウリ

 稲

――――――

 私は田舎が嫌いだった。車で三十分走らないと最寄りの駅までも出ることができない。娯楽も進学校も文化に触れる機会も無い。春秋は花粉に悩まされ、夏は大して涼しくもなく、冬はクソ寒く、鹿や猿のせいで電車が止まる。大人になったら車なんて必要ないくらいの大都会に住んで、二度と田舎なんかで暮らすものかと思っていた。

 でも、犬の散歩をして、割れたコンクリートの田舎道を歩いて、目の前に緑の稲の草原と青い空しかない景色が、ほんの少し愛せた気がする。私は別に、青い草の匂いも、雨上がりの蛙の死体の匂いも、野焼きの焦げ臭さも、雪の匂いも、嫌いではなかったんだ。私は地元の小学校へは田舎道を歩いて登校していたが、中高は車で駅まで送ってもらい、電車で遠くの町の学校に通った。私は中学生以降、実家のある町を歩く理由が無かった。散歩にいかなければ、この町の匂いを覚えていられなかったかもしれない。

――――――

 ブルーベリー

 ジューンベリー

 オオデマリ

 ススキ

 ブラックベリー

 桑

 どんぐり

 バラ

 楓

 かぼちゃ

 苔

 その他雑草

――――――

 実家の庭にはベリーの木が生えていて、時々摘んで犬にあげていた。薔薇が咲けば犬といっしょに写真を撮り、楓が色づけばまた写真を撮った。どんぐりの木は大きくなりすぎて、落ちたどんぐりを犬が呑み込んで喉に詰まらせないように注意しなければならなかった。

――――――

協力:

 春の風

 夏の日差し

 秋の雨

 冬の雪

――――――

 どんな日も、私が家に帰れば犬は庭にいて、金網の囲いの入り口にやってくる。犬は私の手にお散歩のリードも、ご飯の入った容器も持っていないのを見てテンションが下がるが、入り口を開けると、やや面倒くさそうに背中を向けて座る。その背中を私は飽きるまで撫でて、満足したら家に戻る。換毛期はたくさんの毛が抜けて、毟るのが大変だった。土の上で寝転ぶので、風呂に入れてもすぐに白い毛が茶色くなった。

 家の窓からは犬がよく見えて、大抵、草の上に四肢を投げ出して寝ている。そう、そこにいるのが当たり前だった。

――――――

 芝生

 土

 テニスボール

 手押し車

 ドッグハウス

 カリカリの犬飯

 ソファ

 毛布

――――――

 最後の方はもうできなかったけど、若いころの犬はボール遊びが好きだった。買ってきたテニスボールや、田んぼに落ちていた野球ボールで何度も遊んだ。犬は拾ったボールをなかなかこちらに渡してくれなかった。ほとんど引っ張り合いっこのように口からボールをもぎ取って遊びを続けた。

 手押し車はパピー期が終わりを迎えて、家の中で飼っていたのを外飼いに切り替える時期に登場した。小学生だった私たちは、手押し車に怯える犬を載せて、外を見せて回った。

 ドッグハウスは家族みんなで作った。木材を組み立て、屋根材を貼った。入口は気に入らなかったのか、単に歯がかゆかったのかはわからないが、犬が噛んで拡張してしまった。ドッグハウスの周りには金網の囲いを設置したけど、犬は穴を掘って金網の下から脱走を試みては失敗し、情けなくも隙間に挟まっていた。私たちは呆れて、でも笑ってそれを救出し、穴は容赦なく塞いだ。

「ああ、思い出だらけだ」

 私の袖はとっくにぐしょぐしょになっている。隣に座る男が、私の部屋に置いてあったボックスティッシュを取って差し出してくる。

――――――

監督・脚本:犬は本来的に自由のため、なし

撮影・録音:生涯記録管理局 「天」 家畜動物課

ロケ地:田舎のどっかの家の庭

提供:母犬

――――――

 エンドロールが終わる。一匹の犬の生涯という長く短い物語が終わる。

 スクリーンが暗くなった。少しの間の後、男はノートパソコンを閉じた。ディスクの回転する音が止まる。静かになった部屋で、私の鼻をかむ音がいやに大きく響いた。男はスクリーンを畳んだ。DVDは遺族にくれるわけではなく、一度見せたらそれで終わりらしい。

「これで上映は以上になります」

 男は今も困ったような顔をしていた。泣いている人に対してどんな顔をしたらいいのかわかりかねているような表情だった。

「メイキング映像は? DVD版の映画の最後にはだいたい、特典映像がついてるでしょ」

「メイキングは、そのぅ、母犬の交尾シーンが見たければ、なんですが」

 男はおずおずと言った。

「ごめん、それは大丈夫かな」

「そうですか。それでは私はこれで」

 男はそそくさと靴を履いてドアノブに手をかけた。私は思わず男に手を伸ばしていた。腕を掴もうとして私の手は空を切った。男の姿はここに見えるのに、実体が無く、触れない。

「待って。最後に聞かせて。犬は、チヨコは幸せだったのかな? もし生まれ変わるなら、また私に会いに来てくれるかな?」

 どうしても聞かなくては気が済まなかった。男はまた困ったような顔をする。

「すみません。それはお教えできないんです。ですが、」

 男は私の耳元に口を寄せる。

「その答えを見つける手がかりとなる特典映像のありかならお教えできます」

「さっき特典映像は無いって……」

「そうは言っておりません。私が言及したのはメイキング映像だけです。それは――」

 男は少し微笑んでそのありかを告げると、ドアを開けて出ていった。部屋には私だけが残された。

 私は目を瞑る。私の頭の中には、チヨコと過ごした12年分の思い出が溢れていた。ああ、神サマを求めるのはズレていたんだな、と私は思った。天国も輪廻も、悲しみを紛らわすための都合のいい物語だ。別れの悲しみを支えるのは神じゃなくて、悲しみを塗りつぶして余りある思い出でしかないのだ。

 私はカーテンを開ける。太陽が差す。私は、チヨコとの記憶という物語を抱いて生きていく。

「チヨコ、笑って。笑っていてね。どこかで、ものすごく美味いご飯を食べていたらいいな」

やっぱ辛ぇわ。

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