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短編集  作者: 岡倉桜紅
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造花

「失礼いたします。ご注文の花をお届けに参りました」

 私は目の前の巨大で重厚な扉を叩いた。扉は飴色の木製で、表面に華美すぎない程度に彫られた溝は金色の塗料で埋められている。

「入って」

 中から声がして扉を開ける。広い部屋の正面には大きな窓があり、廊下の暗さとは対照的だった。部屋に満ちる冬の終わりのぼんやりとした白い日差しは、寒々しいというよりは清潔で清らかな感じがした。その白い光の中に、白いベッドがあり、男が寝ている。その横の椅子に上品なドレスを着た女性が座っていた。白い部屋の中で、彼女の唇だけが浮き上がるように紅かった。

 私は枕元の花瓶に花を生けた。白の部屋に色が追加されていく。男は冬の日差しと同じくらい真っ白な顔をして、苦しそうでも安らかそうでもない顔をして、きっちりまっすぐにベッドに横たわっていた。気を付けの姿勢のまま、瞼だけ軽く下ろしたかのような状態で、これが陶器でできた人形だと言われても信じてしまうくらい静かだった。生きている動物が等しく持っている、生のやかましさのようなものがすっかりそぎ落とされているようだった。私は茎の長さを花瓶に合うように微調整しながら花を生けていった。物言わぬ白い人形と、色鮮やかな生花はアンバランスで、そういう現代アートの一種のようだった。その間女性は私の手つきをじっと眺めており、視線が私の表面を引っ掻いているような気分で、落ち着かなかった。

「奥様、花はこちらでよろしいでしょうか」

 私はやっと作業を終えて女性の方を振り返る。目が合った。彼女のことを私は覚えている。

「久しぶりね」

 唇が動いて、彼女はそう言った。鼓膜が震えて、すぐさま電流が脳の奥底へ記憶を探しに走り出す。最後にこの声を聞いたのはもう二十年も前だった。


「まさかまたあなたに会えるなんて」

 彼女は手のひらで私に紅茶を勧めた。

「ありがとうございます」

 私は一口だけ紅茶に口をつける。普段味わうことのない奥深い味が口から鼻に満ちる。目の前には見るからに高級そうな上品な菓子が並んでいたが、住む世界の違う私には当然手を伸ばす勇気はない。

「遠慮しないでいいのよ。あの学園に通っていたころ、マドレーヌが好きだったでしょう。それに敬語もいいのに……」

「いえ、またお会いできて光栄ですが、私はただの花屋ですので」

「そう。もう私たちも子供じゃないものね」

 彼女はマドレーヌを一つ取ってかじった。バターの匂いが鼻をかすめた。恥も常識もなかった学生時代、私は、彼女とお茶会をするたびに彼女の持ってくるマドレーヌをそれこそお腹いっぱい食べていた。今考えると血の気が引く思いだが、当時は私たちはただの友人で、お茶菓子はただの食べ物に過ぎなかった。

「旦那様のお加減はいかがでしょうか?」

 私は白い部屋のことを思い浮かべる。

「ああ、彼は事故に遭って頭を打ったの。脳波を測る機械をつければ意思疎通はできるし、目を覚まさない割には元気よ」

「それはよかったです」

「ああでも、」彼女は表情を曇らせる。彼女の視線の先に夫婦が寄り添いあった写真が飾られていた。

「脳へのダメージは刻一刻と進行しているわ。最近は会話している時にノイズが走ることが増えた。遠くないうちに脳機能が停止してしまうでしょうとお医者様はおっしゃっていたわ」

「そう、ですか」

 私は彼があの状態になる前に会った事は無いので、元気だったころの彼の様子はわからない。写真の中の彼はベッドに横たわる姿からは想像もできないほどに、まるで内側から生命力の光を放っているかのような、健康で聡明な印象を受ける笑顔をしていた。良い夫だったのかどうかは、その横で微笑む彼女の表情から十分推し量ることができた。

「それで、来月手術することになったから、その前に彼はマインドアップロードをすることにしたの」

 マインドアップロード。それは昨今の脳科学の発展によって可能になった新技術だった。脳の働きは、細胞とその間を流れる電流の組み合わせであるため、電気的に観測し、思考や記憶をコンピュータ上にコピーすることができる。現段階ではマインドアップロードをするには法外な金がかかるため、一部の富裕層しか利用することはできない状態だが、着実にそのブームは社会全体に広がってきている。

「手術が万が一失敗しても、記憶は残るようにということですか」

「ええ。記憶を残せないことは一人の妻を持つ夫として耐え難いことだと言っていたわ」

「耐え難い」

「そうよ。マインドアップロードとは脳をまるごとスキャンしてのこらず数値化すること。プライバシーは一応守られてはいるものの、自分が考えていること全てが他人にも閲覧可能な状態になって、自分の脳がコントロールできないところに分離する。そんなことを進んでやると自信をもって言い切れるということは、自分の脳にやましい情報など一つもないのだと宣言することに他ならない。結婚相手に見せるなら、それは大きな愛の証明になるでしょう」

 マインドアップロードはまだ新技術であり、アップロードした情報がどのように保管、利用されるのか不透明なところも大きく、賛否両論がある。この現状でマインドアップロードをすることは一部では誇り高い宣言と同一視される。

「愛の伝え方は時代によって変わるものですね」

「その時々の流行があるだけよ」

 私たちが学生のころに流行った疫病は、全世界の人の顔面をたちまちマスクで覆い隠した。そんな社会の中、恋人に言う「あなたのマスクを外してもいいですか」の言葉は、「あなたにキスしてもいいですか」と同義になった。同様に今は「私の脳をアップロードします」が「私がどんなにあなたを愛しているか証明してみせます」と同義になった。今はそういう時代なのだ。

「私も、一度くらいはそんなふうに言われてみたかったです」

 口の端から言葉が滑って紅茶に落ちていった。

「……結婚しないのね」

 私の空いた薬指を見て彼女は言った。

「はい。もちろん、結婚をすればまだ味わったことのない幸せを感じられるのではないかという想像を巡らせたことはありますが、私は今の仕事が気に入っているし、問題ありません」

「あなたの生けてくれた花、綺麗だったわ」

「ありがとうございます。またお望みであれば枯れる前に取り換えに参ります」

 彼女は少し微笑んだ。その微笑みの奥の憂いのようなものが、私の心に流れ雲のように影を作る。

「マインドアップロードは脳の精巧なコピー。アップロードされた彼の思念体と会話することは、彼と会話することと限りなく同じ。彼がもし手術で帰らぬ人となっても、私は彼と生きていける。でも、それでいいのかと不安になるの」

 伏し目がちなまつ毛は、二十年前と何も変わっていない。少し震えた声はどこか艶めかしく私の記憶を刺激した。

「マインドアップロードはいわば、オリジナルの彼という生花に対して、模造品の造花を作ること。造花はとても造りが良くて、生花と同じくらい美しいけれど、絶対に枯れない。私はその枯れないというところが少し怖い。一番美しい瞬間を切り取って焼き付けて不変な一つに固定する写真のように、変わりゆく脳の一瞬をコピーする。永遠に変わらない愛というのが、本当にこれでいいのかと時々考えてしまうのよ」

 目の前に心細そうに震える彼女がいるのに、私の心は二十年前に飛んでいた。初めて書いたラブレターは結局渡さずに破って捨てた。恋というのは脳のバグのようなものなのかもしれない。きっとコンピュータにコピーされた脳はそれ以上成長も退化もしない。人間の脳とコンピュータにコピーされた脳に違いがあるとしたら、そのバグの発生なのかもしれない。

「私はただの花屋ですので」

「でも、造花も作るでしょう」


 その一か月後、季節が少し暖かくなったころ、私はまた彼女と会うことになった。

 私が納品した造花の花束を、彼女は墓石の前に置いた。

「なんだか葬式って変な感じね。家に帰ってパソコンを開けば彼はそこにいるのに」

 彼女は墓石の上に落ちて来た桜の花びらを指先でいじりながら、淡々と言った。彼はあの陶器の人形のような顔を崩さぬまま棺に入ったのだろうかと私は想像した。現代の技術は、脳を細胞単位で解析してコピーモデルを作成することはできるのに、実際生身の脳に対して死にゆく細胞に代替物を補ったり、切れたシナプスをつなぎなおしたりすることはできないようだった。妙なアンバランスだ、と私は思った。

 彼女がふらりと歩き出したので、私もなんとなく続いた。墓地から出るまでの道は一本しかなかったし、私の社用車と彼女の運転手付きのリムジンは並んで停めてあるので、自然な成り行きではあった。

 ふわり、と丘の上をさらうように春の風が吹いた。桜のピンク色が視界に舞った。

「あ、綺麗」

 彼女が踊るように軽やかに振り返る。彼女の華やいだ声に、春の日差しがほんの少し色づいたかのように見える。彼女の唇に口紅の色が入る前からずっとそうだった。

「あの、今日のことをずっと覚えていてもいいですか?」

 彼女は少し微笑んで踵を返した。その表情に少ししわが増えているのがずいぶん愛おしいことのように思えて、私はしばらく散る花の嵐に吹かれたまま突っ立っていた。

声は一番最初に忘れるものらしい。でも私は声から恋に落ちたような気がする。

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