告白
「それじゃあ、話します。全て、正直に、最初から」
昼過ぎのアメリカンダイナーは閑散としていた。私と二つのミルクシェイクを挟んで、そのサクランボの先に元恋人がいる他には、カウンターの奥に中年の店員と、テーブル席でたばこをふかし、新聞から顔を上げないおじさんがいるばかりだった。窓ガラス越しに天気の良い大通りが見えていたが、通りの往来は少なく、街の人々はみな、花見に行くか、春のまどろみのせいで昼寝をしているかのように思えた。
「あなたとの関係に言及する前に、もっと遡って、私の価値観が作られたころから話そうと思います」
どこか古臭いアレンジのメロディーと、女声の英語が聞こえていた。これまでは彼とはタメ口で話していたが、最後の最後は、背筋を伸ばして語りたいような気がしていた。向かい合って同じ飲み物を飲んでいるが、もう決定的に他人というような気がしていて、この話し方が適切なように思えた。
「前提として、私には、何が良いことで何が悪いことなのか、判断する基準が、私自身で作ったものさししかないことをわかって欲しいです。それはまあ、あなたも同じなんだけど」
「世界には絶対的な善も悪も存在しなくて、ただ僕たちが物事を自分なりに評価しているだけ、ということでいいかな。僕は僕の価値観で君の話を否定しないと約束するよ」
私は彼の言葉に頷く。彼は私よりよっぽど頭が良かった。それにいつも助けられていたし、彼のその点をとても気に入っていた。そう思う一方、彼を前にすると、自分の拙い言葉が少し恥ずかしくなる時もあった。着ているパーカーの袖に手を引っ込めるように入れ、シェイクのグラスを持って、ストローから一口吸う。結露で袖が湿った。こんなの言い訳だ。一方的に別れを切り出したことへの謝罪は十二分に済ませてあった。これから話すことは私の恋愛観のすべてであり、できるかぎり彼には誠意をもって話したいと思っているが、明日から他人になる相手に、自分の恋愛観すべてを否定されるような言葉を言われてしまったら立ち直れないと思ったし、そうされない予防線を張っておかなければ、話すことができなかった。
「私は、高校生になって初めて告白というものを受けました。告白してきた彼は一生懸命なことがわかったので、付き合うことを約束しました。彼はその時、確かに恋をしていたと思いますが、私は恋を知りませんでした。好きじゃないけど付き合う、この状態について当時はよく考えておらず、純粋に初めて自分に向けられた好意的な感情にいい気分になっていただけでした。付き合うという行為をしていればそのうち、私も彼と同じように、恋という感情を知るのだろうとぼんやり考えていました」
「付き合うときにお互いが同じくらい好きである状態もあるだろうし、片方が全く意識していなかったという関係の始まり方もあるだろうね。どちらも一般的な始まりだと思うよ」
「でも、現実はそう甘くはありませんでした。人を愛するという脳の働きは、ある程度訓練しないと身に着かないものであったのだと気づいたのは、ごく最近の話です。私は彼に対して、私にあなたのことを好きにさせてみなよ、と、我ながら不遜な態度で腕を組んでいただけだったのです。どうやって気を引いてくるのかな?どんなかっこいいところを私に披露してくれるんだろう?と、全くの受動的な態度で彼を観察しているだけだったのです。当然、私が自分から何もしようとしないせいで、人のことを好きになるなんて高尚な脳の働きは、私の脳にはできませんでした。だって今までやったことない脳みそを使うんだから、外部刺激だけでは足りないのでしょう」
私は自分の指が濡れた袖を無意識になぞっていたことに気づいた。手を止める。
「私はだんだん、自分の態度が悪いことに気が付いてきました。好きじゃないけど付き合う、この状態の異常性にやっと気が付いたのです。これは大変な不誠実です。私は半ばパニックになって彼に別れを切り出しました。長い間付き合ってみたけれど、あなたに対して恋愛的に好きになることはできませんでした。あなたが私に思う好きの気持ちと、私があなたに対して思う好きの気持ちが釣り合わない。これ以上は不誠実だし、その不誠実を自分がしてしまっている事実に耐えられない。だから別れてくれないか。そう言ったのです。彼はショックを受けたような顔をして、でも、君が付き合ってくれているだけで僕はうれしいから、不誠実だなんて感じる必要はない。だから別れるのはよしてくれないか、と続けたのです。その時は私は、パニックから少し落ち着いていましたから、彼に上手く言いくるめられてしまい、別れるのはやめました」
「お互いの気持ちが完璧に釣り合うなんてことはないと思うよ。誰にも気持ちの大きさを可視化して、絶対的な量で測ることはできないんだから」
「測れないからこそ、感じるものが全てになるんです。私は気持ちが不釣り合いなことをひどく気にしていたし、自分が不誠実を冒していると信じていました。自分が耐えられなかっただけなんです。彼の不誠実の基準や、恋や、思いは全く考慮されていなくて、私が辛いから別れたかったんです。独りよがりの自己中だと思います」
曲が終わって、次の曲が流れるまでの短い間が訪れる。新聞紙の音がした。店員は無気力な表情で皿を磨いていた。恥の多い過去を、身を切るように語って、針の筵に座っているような気分なのはこの世界で私だけで、他人にはラジオのCMくらいどうでもいいことだった。
「彼とは結局、同じ理由で一年後に別れました。やっと私から解放してあげることができたと思うと、少しほっとしました。いい人でしたから、時間がもったいなかったと思います。私はその彼との初めての付き合いから、私は恋愛感情というものを学ばなくてはならない、と強く思うようになりました。愛しているが知りたかったのです。好きという感情がわからなかったせいで、彼に共感することも、彼に同じ熱量の愛を返すこともできなかったことが悔やまれたのです。私は映画を観るようになりました。なぜ映画?と笑うかもしれませんが、私は真剣でした。他人や、全く別の人格、人生を垣間見ることができるのはこれしかないと思ったのです。恋愛の映画を観ました。人はいつどんなふうに恋に落ちるのか知りたかったのです。映画にしたのは、対人で学びたいとは思えなかったからです。自分の不誠実で失敗したことを繰り返して、今度はもっと人を傷つけること、それによって自分が傷つくのが怖かったのです。ドラマを通じて、愛という感情のすばらしさや、恋という感情の輝かしさをそこで学びました。こんな恋に落ちれたら楽しそうだな、と思うことはできましたが、それが自分ごととは思えず、所詮フィクションはフィクションのままでした。画面の中で誇張された綺麗なものを見て、現実とは違いそうだな、という予想を深めました」
彼は黙っている。私といっしょに映画を観た時のことなどを思い出しているのだろうか。もちろん、その瞬間も私は勉強の意味で登場人物を眺めていた。
「大学生になり、私はいろいろな人間と出会うことになりました。もう映画を観る習慣が染み付いてずいぶん長くなっていました。時間をかけてゆっくりと、恋愛感情を得ることについて諦めのようなものが、私の頭をぼんやりと満たしていきました。そして、私は他の多くの人とはきっと脳みその構造がどこか違うのだ、最初から無性愛者で、人を愛することなんて無理な話だったのかもしれない、と極端な思考に取りつかれていきました。これから訪れる結婚や離婚というイベントを思うと、どんよりと憂鬱になる毎日でした。周りの恋愛トークにもついていけず、恋愛に興味が無い、誰の事も好きになったことが無い、という人間の存在を信じようとしない人がいかに多いことかを思い知り、飲み会で恋愛の話が出るたびにそそくさと逃げ出して席を移るというありさまでした。いっそのこと、誰かのことを好きな演技をして、その恋愛トークの中でみんなにウケる話題を力技で生成してやろうかと頭をよぎったこともありましたが、演技力に自信がなかったので止めました。好きでもない他人、それも友達よりも会って日が浅く、内面の理解度が薄い誰かと、身体的接触をすると思うと、かなり気持ち悪さがありました。それに、困ったことに私はそこそこに孤独に対して耐性があり、一人の時間をむしろ大切にしたい性分でした。わざわざ話題提供の一点のみの理由で、私生活に他人が入ってきてめちゃくちゃになるのを想像すると、かなり耐え難く感じました」
冷房のせいか喉が渇いたので、ストローからではなく、グラスに口をつけるようにしてシェイクを飲む。彼の首から上はサクランボに重なった。
「でも、そんなとき、私に転機が訪れました。私はとうとう恋を知ったのです。それは、ずいぶん突発的で、爆発的で、刹那的でした。映画をたくさん見て、恋愛の流れのサンプルをたくさん頭の中に蓄積していたために、自分の中に芽生えた新たな小さな感情に気づき、適切に恋という名前をラベリングできた、というわけではありません。ぶん殴られるみたいに、これが恋なのだと直感ですぐわかったのです。一瞬で映画で勉強なんて無駄だったとわかりました。気づけば、私の生活はその人の事ばかりでした。誇張抜きで、寝ていても覚めていてもその人のことを考えていました。私は初めての感情にパニックになって、一番信頼できる友達に電話をかけました。私は友達に、その人のことばかりを考えてしまう、こんなこと初めてだ、私はおかしくなってしまった、と訴えました。頭の奥で、この感情が恋ではない可能性があるかもしれないと、今までの無為な積み重ねや失敗が、素直に直感を信じるのを邪魔したのです。私は恋なんかできない無性愛者なのだから、これは一過性の勘違いで、しばらくすれば正気に戻るかもしれない。ただ、今がおかしいだけで、これが恋だと決めつけて行動してしまったら、大きな過ちを犯してしまうかもしれない。とにかく客観的な意見が欲しかったのです。友達は私の話を丁寧に聞き、その上で、この感情に恋と診断を下してくれました。素直に恋をしたことを認めていいんだ、と教えてくれたので、私は初めて恋愛をすることになりました」
「どういう人を好きになったの?本気で恋をしたことがあるのならば、今後の恋愛対象を見つけやすくなったかもしれない」
私はサクランボの茎を指先で摘まみ上げて、自分の目の前にぶら下げるように持った。彼の顔が隠れる。彼は賢く優しいので、他人の感情、特に恋という感情を想像することができるし、恋愛の経験や、その経験によって培ってきた彼なりの哲学やテクニックなどが確立され、上手に恋愛するスキルは心得ているのだろうけれど、まだ本当の恋に落ちたことはないのかもしれない。
「その人はその人です。他の誰でもなく、その人だから好きになったんです」
しいて言えば、全部。どの要素も愛おしくて、欠点も知りたいと思った。他の誰にも思わなかった特別な感情で、他の全員はほぼ同じ。
「今までの私の行動からわかるように、私は私が一番大事で、常に私の心を守るにはどうしたらいいかという行動原理でものごとにあたります。私は、恋という感情が辛いことを知りました。四六時中その人のことばかりで何も手に着かず、その人と似た人とすれ違うだけで胸をときめかせ、後ろ姿だけでその人についてあれこれ想像を巡らせていました。重症です。生活に支障が出ており、体調までも不調をきたしました。初めての感情が暴走して頭がおかしくなったのです。私はこの辛さから逃げ出したくなりました。こんなに辛いなら知りたくなかった、と過去の私をブチ切れさせるような圧倒的無責任なことまで思いました。過去なんて知るか、今苦しいのを助かりたい、その一心でした。追い詰められた私はついにその人に告白することを決意しました。友達と電話して、告白する環境のセッティングを行い、伝えたいことをメモに書き出し、練習しました。原稿を考えるとき、緊張や恐怖で発狂せんばかりでした。友達に聞いてみないと真実はわかりませんが、十分に発狂していた可能性はあります。告白が成功する可能性については考えていませんでした。その人に恋人がいることはすでに知っていました。その人には迷惑なことは重々承知でしたが、自分の心を守るためには、けじめとして、告白をして振られてすっぱりとすがすがしく諦めるという一連の流れがどうしても必要だったのです。告白をしてみると、その人は伝えてくれてありがとう、というようなことを言いました。私はそこで自分の気持ちに無理やり整理をつけたのです。計画通りに事は進み、言いたい事は全て伝え切り、別に涙とかは出ず、一つの人生経験を得たような気持ちになりました」
一つの物語が終わるような感じだった。終わってみれば、恋という狂気や感情の乱高下も、腐るほど見た映画のストーリーの一つと全く変わらない、単なる一つのありふれた、観た人が明日には忘れるような、平凡なストーリーに過ぎなかった。
「そこから心の平穏を取り戻した私は、一人で生きていくということを真剣に考えました。一人の時間は穏やかで、独身は最高だと主張する人の群れに交じり、エコーチェンバーに浸っていました。あの狂気は人生に何度も訪れるようなものじゃないと本能的にわかっていましたし、もうしたくありませんでした。失恋の痛みも薄くなり、狂気の温度も忘れた頃、私は今までの恋愛について振り返ることが増えました。今まで私は、他人と比べてどこか情緒の一部がおかしいのだと思って生きてきました。自分は人を好きになることができない異常者だと信じ、それがいつの間にか自分の中でアイデンティティになっていたのです。これで友達に必死で電話を掛けた理由が説明できました。私が恋なんかしたら、私のアイデンティティが失われてしまう。だから、あんなに自分が恋しているということを認めたくなかったのです。私は人の気持ちがわからない化け物でも、サイコパスでも、誰とも違い、誰にも理解されない異常者でもなく、人並みに恋をする、所詮平凡な、何一つも尖ったところのない一般人だったのです。全て、どうでもよくなってきました。そうだ、人の感情を観察しよう、と私はふいに思いつきました。私が今まで映画を観るという馬鹿みたいな方法でやってきた勉強を、対人で今こそ勉強するときが来たのだと思いました。私は恋という感情は体験しましたが、その先で、愛がある状態で付き合ったらどんな感情が生まれるのかは知りませんでした。映画を観る限り、幸せを感じたり、争いをしたりしていることは知っていましたが、それをよりリアルに観察したいと思うようになったのです」
私はストローでシェイクを一口飲む。溶けてさらさらしたバニラ味が喉を甘くした。
「その割に、僕の顔を見ようとしないんだね」
呆れたように指摘され、私はしばらくぶりに顔を上げる。彼の前のグラスにはもうシェイクは三割程度しか残っていなかった。口元は軽やかに、見方によっては微笑さえ浮かべているように、彼の顔の筋肉が配置していたが、目は冷たかった。
「そっか、僕はもう君の観察対象からは外れたのか。いいよ、話を続けて」
気まずいが、この修羅場は最初からわかっていたことだった。パーカーの袖を指先がいじっていた。
「私は付き合いというものに大胆になりました。幸いこちらが何もしていないのに好意を向けてくれる、ちょうどいい異性は何人かいましたから、取っ換え引っ換えして様子を観察しました。当然そんな関係が上手く持続するはずがないので、ごく短い付き合いしかできませんでしたが、無知の状態から知識を入れたい私の状況にとっては、まずは経験の数を積むことが重要なように思えていたので、気にしませんでした。別れの言葉はいつも、君は俺のことが好きじゃないでしょう。私は場数を踏む中で、邪悪な演技力を磨いていきました。観察対象がころころ変わらないように、できるだけ長くそばで観察できるように、嘘の関係を築き上げるスキルが磨かれていきました。汚いし最低な行為だと思いますが、相手は私と付き合うことで喜びを見出しているみたいだし、ウィンウィンの関係なのではないかと思いました。愛や恋の感情の大きさは釣り合いませんし、付き合うことで私の効用は増えませんし、でも逆に減りもせず一ミリも変化しませんが、付き合うことで相手の効用は増えるので、喜びの全体量が増えます。相手は私から疑似ではありますが恋愛体験と肉欲の発散機会を得、私は相手から人間の感情の観察機会を得ることができます。こう考えるようになってから、最初の彼との間に感じていた不釣り合いや不誠実は感じなくて済むようになりました」
サクランボをいつ食べるか考える。このままだとシェイクの底に沈んでいく。
「友達と違って、お互いが同意すればもう関わらなくて済む、という点も便利だと思っていました。私が嘘をついていること、人間観察に興味があるだけで相手自信には興味がないこと、それを見破られる前に別れるようにしていました。相手を必要以上に傷つけたくはなかったのです。嘘で始まったのなら、最後まで嘘をつきとおすことがせめてもの責任だと思っていました。相手から愛されていなかった、という事実は人を深く傷つけることを私は最初の彼で痛いほど学んでいましたから。しかし実際は、そんな配慮をする間もなく、相手に愛想をつかされることの方が多かったので、あまり心配する必要はありませんでした。相手のことを好きじゃないということは、案外簡単にわかるものなのだそうです。たいていは、飽きられたと感じて相手が冷めてしまい、別れました。そういう恋愛を繰り返したせいで、私は自己中心的思考を太らせ、習慣化していきました。どうせすぐに飽きられるし、別れたら次にいけばいい。疲れたら一人で暮らせばいいし、また観察する元気が出たらちょうどいい人を見つければいい、という思考です。言葉にすると、呆れるくらい最低ですね。真剣にものを学ぶ人の態度とは思えません。教えてくれる相手を大切にできないのですから。そのころには、一昔前は憂鬱でしかなかった結婚とかいうイベントに対する心構えも変化していました。このまま演技力を磨いて、カードバトルのステータスを見比べるみたいに、条件がそこそこの人を選んでいっしょになり、疑似恋愛を死ぬまで続ければいいんだ、本当に好きな相手が見つかりそうもないことに絶望しなくてもいいんだ、と思うようになりました。私は私の心も大切ですが、それ以上に私を大切に思ってくれている数少ない家族や友達のことのほうがよっぽど大事だったのです。いわゆる世間体です。結婚という行為さえしておけばみんなが安心してくれるなら、それほどいいことはありません。私だって、大多数の人間と同じように振る舞い、流れに身を任せる方が楽だと思っているので、演技というハードルさえ超えられるのなら、特に不安がなくなったのです。ここまでくると、初心だったころの私の純情が愛おしくなってきます。本気で好きな人とじゃなくちゃ付き合ってはいけない、という健気な心は、それはそれで美しかったのですが、世間にはそんなフィクションじみた、それこそ映画みたいな恋ばかりではないことに私は勇気づけられたのです」
サクランボを目の前に摘まんで彼の顔を隠す。彼は記号になってしまった。いや、私が記号にしたのだ。
「私は他人の感情を知りたかったんじゃないのかもしれません。他人という自分にはないフィルターで、新たな角度から自分の感情、つまり内面、感じ方、考え方を知りたかったのかもしれません。私は一貫して、私のことが大切であり、一番理解したいのは相手ではなくて自分なんですよ。すべての最低な行動の本質は、私の自己中でした。純情な葛藤から一転、不勉強な人間観測者の私は、目の前の誰かをまるでモノみたいに扱う、冷徹な異常者になってしまったんだと思います」
しばらくお互いになにも言わなかった。私は茎を指の中でねじりまわしていた。一人の学生らしき女が店の中を覗き込むようにガラスの外で足を止めたが、入店せずに歩いて行った。シェイクはすっかり常温になっていた。
「話してくれてありがとう」
サクランボ頭の彼が言った。
「僕は最初から最後まで君の全てを理解したかった。今日、やっと理解できた気がするよ」
「ありがとうございます。私もあなたを理解したかったのならよかったのかもしれないです」
謝ったら目の前の彼の気持ちが少しは晴れるだろうかと想像してみるが、意味はないだろうという結論に達する。
「それじゃあ」
彼は財布から千円札を取り出すと、ソファー席から立ちあがった。これからどうしたらいいとか、私のやり方は良いことなのか悪いことなのかとか、ひとつも意見せずに彼は歩き出す。私という他人を理解するだけして置いていく。
「お元気で」
私は言った。
彼が店のドアに手をかける。
「まだ、私のこと好き?」
口をついて出た。半開きのドアから春めく匂いが店内をかきまぜた。最低な質問だと思う。でも、最低に最低をもう少し上塗りしたってそんなに変わらないように思った。今、どうしても聞いておきたいような気がしたのだ。
「僕の価値観では、今も好きです」
彼は店を出て行って、街ゆく人々の中の一人に融けていった。




