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短編集  作者: 岡倉桜紅
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勇者

「さて、この問題わかるやついるか?あれ?誰もいないのか?もうちょっと時間取った方がいいかな」

 先生は少し困った顔で生徒たちを見渡した。数年前教師になったばかりの、いわゆる新米教師である彼は、まだ若く、生徒に人気があった。

 僕はシャーペンをくるりと回して弄んだ。窓からうららかな春の光が差し込む気持ちのいい午後は、生徒たちの頭をぼんやりと鈍らせ、睡魔が春風とともに優しく頭をなでる。もうすでに半数以上の生徒がこっくりこっくりと船を漕ぎ、ノートに突っ伏して幸せそうな顔で撃沈している者も多い。

 新米教師は困った顔をして頭をかいた。

 僕は前の方の座席に視線をやった。教卓のすぐ前の席に座った生徒が、非常に姿勢悪くほぼ教科書とキスせんばかりの距離感で猛然とページをめくっていた。ハスダというその眼鏡男は、がり勉という形容が最もよく似合うやつで、どの強化の授業においても予習復習を怠らず、積極的に発言をし、授業後は質問に行く生徒の鏡である。

 いつもならクラスの誰もわからないような問題も、だいたい彼が手を挙げて答えてしまう。うちのクラスだけこいつのおかげでやけにスムーズに授業が進むせいで、他のクラスと進行が違うということまで起きるほどである。しかし、今日はどうも彼は調子が良くないようで、先生が求めている答えを出せずにいるらしかった。彼もこの春の陽気に少なからず頭をやられてしまっているのかもしれない。開けた窓から入って来る遠くの電車の音と、ハスダのページを繰る音がよく聞こえていた。

 僕は口を押えてあくびを一つした。僕は困っていた。新米教師は僕らと歳が近いこともあり、僕の中で他の先生に比べて妙な親近感があった。彼が生徒たちと会話しているのを見れば自然と混ざりたくなるし、彼が先輩教師に怒られているところを見ると、そんな風に言わなくたっていいじゃんと間に入り、怒っているおじさんおばさんに言いたくなる。まあ、実際そんなことをしたことは無いのだが、とにかく、僕には今教卓で気まずそうにしている先生の気持ちに共感することができていた。

 実のところ、僕は黒板の問題の答えがわかっていた。机の下でスマートフォンをいじって調べたのである。答えを聞けば拍子抜けするほど簡単な問題だ。ハスダが必死に教科書をめくっているのにわからないのは、基礎の基礎すぎて載っていないだけだった。そもそも先生はハスダをそこまで悩ませようと思ってこの問題を提示したわけではないだろう。眠気に襲われ、無力にも屈しそうになっている哀れな生徒たちの様子を見かねて、おそらく彼のそこまで古くない学生時代の記憶によって僕らに同情し、軽いリフレッシュのつもりで出したのだ。それがかえって長い沈黙の時間を作り出し、僕らに考えることを放棄させ、心地よい眠りにつく環境を整えることとなった。

 そろそろ答えを言ったほうがいいだろうか、と僕は二分ほど前から迷っていた。時計の長針が動いたので三分待ったことになる。これ以上ハスダにこれしきの問題に悩み、答えが載っていない教科書をめくる不毛なことをさせておくのもかわいそうな気がする。

 でもしかし、と僕の中で別の僕が言う。僕がここで答えを言う必要はどこにもないじゃないか。僕は別に、選ばれた勇者というわけじゃなく、僕だけに決断を下す責任と力があるわけではない。この教室の生徒全員が答えを言う責任と力が平等にある。この教室の全員がハスダと先生をこの状況から救ってやる力を持っているのだ。

 僕は窓の外へ薄い目をやった。春風は吹くか吹かないかの微妙な空気の揺らぎとなって教室から出たり入ったりしていた。僕は、授業が進むということは、こののんびりとした暖かで静かな時間が消えるということを意味しているとわかっていた。少し名残惜しいのである。

 僕が手を挙げて発言したと考えてみよう。まず静けさは壊れる。そして、隣でよだれを垂らしているあいつは目を覚まし、あわただしく遅れた分のノートを取るだろう。もしくは、夢でなんらかの落下を突然に経験し、机をガタッと言わせるかもしれない。その音で、穏やかに寝ていた他数人も目を覚ますだろう。そして、黒板を見る。その後、おそらく僕を見る。僕はあまり普段発言をするほうじゃないから、珍しいものを見たと思うかもしれない。あるいは、僕に関する認識を書き換えたり、真面目なところもあるんだな、と評価したりするだろう。

 行動に対して、その結果からその人物の認識や人柄を更新するのはごく自然なことであるし、理解のブラッシュアップという作業は、集団の中で生活するなら必要なことだとは思う。しかし僕は、眠たい授業でもちゃんと起きていて、出された問題に解答する真面目なやつ、というレッテルを貼られるのがどうも耐え難いような気がした。僕がたまたま起こした行動一つで、僕の人格が強烈に印象付けられてしまうということが気に食わないのである。

 僕は静かに座って退屈そうに窓を眺める、成績で目立ったところもないやつ、という自分のイメージを守りたいのである。だから、そのイメージに傷がつく可能性が少しでもある行為はなるだけ避けて通りたかった。発言という役目は、僕以外の人の役目、このクラスにおいてはたいていがハスダの役目で、それ以外ではないのだった。

 ジッパーを開くような音がしたので教卓の方に目を戻す。ハスダはカバンから別の教科書を取り出してめくり始めた。ああ、そこには載ってないのに。放って置いたら、小学校の教科書までさかのぼって調べようとするのだろうか、と心配になるような手つきだった。小学校の教科書の参考程度のコーナーにはもしかしたら答えが載っているかもしれないが、当然、高校の授業でそんなことをする必要性も、そんなことに割く時間もなかった。やはり、彼を助けてあげなくてはならない。そうだ、今この教室で正気を保っている生徒がどれだけいるだろう。平等に全員にハスダを救う力があると思っていたがそれは勘違いだ。当然ながら、意識を教室の外のどこかに飛ばして眠りこけている者にはハスダを助けることは不可能なのである。今僕はハスダの勇者であり、ただ一人、この状況を打破する可能性を託されている。

「「先生、」」

 僕の思慮に思慮をかさね、あらん限りの正義感をふりしぼり、やっとのことで発した声は、誰かのものと重なった。

 うららかな春の時間は消し飛び、僕は後ろを振り返る。僕の真後ろの席には全く眠たそうでない、ぱっちりとした目をした女子、サトミがいた。彼女も、普段あまり発言をしない生徒で、僕の中にあまり印象がないということは、僕と同じように教室でふるまってきたのだろう。

 先生は、地獄の沈黙から解放され、気持ち顔をほころばせて「なんだ?」と聞いた。

 僕とサトミはお互いの目を見ていた。サトミの目には動揺と緊張が見えた。おそらく僕の目にも同じものが浮かんでいたのだろう。

「私が答えを言うけど、いいよね」

 サトミは小さく言った。そして、何も言わない僕との視線を断ち切り、さっと立ち上がると先生に拍子抜けするほど簡単な答えを言った。

「そう。正解だ」

 先生は満足気に言った。ハスダはキツネにつままれたような顔をして、先生とサトミを交互に見て、それから小さく「あぁ~」と納得の声を上げた。ハスダは救われた。目を覚ました僕の隣のやつは僕と同じようにサトミを見て少し目を見開いた。

 僕は自分の身体を前に戻した。サトミは何事もなかったかのように席に着いた。授業はまた再開した。生徒たちは眠たい目をこすりながら姿勢を正す。良く寝たせいで多少は頭がしゃっきりしてリフレッシュしているかもしれない。

 最初から僕が望んだことが起きた。僕の判断が数秒遅ければサトミが沈黙を破っていただろうから、僕らこのクラスの生徒はうららかな春の時間を目いっぱい可能な限り享受できたということになる。もし運命論的に未来が決まっているのなら、これ以上の授業の小休止はありえなかった。僕の決意のタイミングはこれ以上ないほど完璧だったということが示された。

 発言をしなかったというのに、僕の両手は小さく震えていた。僕は発言をしなかった。僕はリスクへ飛び込むことなく僕のイメージを守り抜き、ハスダと先生を救うという目的も無事に果たされた。全部うまくいった。万事解決ばんばんざいだ。僕以外の手によって。

 まるで、勇者の座を横取りされたみたいだ。僕以外にも、あの教室に勇者はいた。「私が答えを言うけど、いいよね」というサトミの声が頭の中で聞こえる。サトミは僕に確認したのだ。勇者の役は私が代わるけど、いいよね。あの時、サトミはそう言っていたのだ。

 勇者になればよかった、と僕は思った。

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