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短編集  作者: 岡倉桜紅
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肥大ヒーロー

「一応聞いておきたいんだけど、これは当然お前が奢ってくれるんだよな?」

 Tシャツの上にくたびれたジャージを羽織った男が、箸の先で目の前のおでんをつつきながら聞いた。

「いや、お前が払え」

 ジャージ男の隣に座る、スーツの男が言った。

「ちぇっ、まァいいや。お前のそういうところは昔から変わらねえ。ただ一つ文句を言わせてもらうなら、俺はただコンビニにマンガを買いに行こうとしてただけっつうこと。仕事あがりのお前を労おうと思ってここにいるわけじゃないことを忘れんなよ」

 スーツ男はビールをぐいと飲む。

「夜の寂しい道で偶然にも友人に会ったら、酒の一杯につきあおうという気にもなるだろう」

「わかったって。で、話ってなんだよ。また会社の愚痴か?」

「いや、妻のことだ」

 ジャージ男は顔をしかめる。

「痴話喧嘩の相談なら断るぜ。よそ様のすったもんだに首を突っ込んで怪我したくないんでね」

「友人と卓を囲んで酒を飲みかわしているときにそんな冷たい言い方はないだろ」

「わかった、わかったよ。愚痴でもなんでも聞かせてくれ」

 ジャージ男は早くマンガを買いに行きたかったので、先を促した。

「愚痴ではないんだが、実は昨日、妻を殴ってしまったんだ」

 スーツ男は淡々と告白した。

「殴ったぁ?そりゃ駄目だぜ。いくらむかつく女でも手を出すのは駄目だ」

「ささいな諍いだった。でも俺にはとても重要なことだったんだ」

「殴ったやつはみんなそう言うよ。やっちまったことはしょうがないが、どういう経緯で殴ったんだ?」

「結婚生活もそこまで短くないが、こんなに価値観の違いを感じたのは初めてだった。何事にも始まりと終わり、首尾、始終という順序があるだろ。それが全く一致しないような、終わりから始まりに向かうような考え方をするんだ」

「そりゃ、逆転の発想だね」

 ジャージ男はいいかげんに返す。

「まさに逆転している。足を地について歩いている人間が、逆立ちをして歩いている人間とうまく話せないのと同じように、私は今、今後への強烈な不安感でいっぱいだ」

「奥さんの何がそんなに逆だったんだよ」

 スーツ男はジャージ男に真剣な顔をぐっと近づけた。そして、少しの間の後、言った。

「たいやきを頭と尻尾、どっちから食べるか、だ」

「俺もうマンガ買いに行っていい?」

「ことの重大さがわからないのか?始まりと終わりの認識がずれていたら今後やっていけなくなるかもしれないんだぞ」

「殴ったことについては反省してるんだろ?」

「反省?いや、反省すべきなのはあっちだ。私はただ、事実を突きつけただけだ。今後やっていけない可能性と、世界平和の危機についての」

「世界平和」

 突然登場した単語をジャージ男はオウムのように繰り返す。

「そうだ。私たち夫婦は社会の縮図。どの家庭だって多かれ少なかれ社会の縮図だ。縮図が乱れたらどうなる。社会全体の歪みはさらに大きくなるんだぞ」

 スーツ男は真剣な表情を崩さない。

「何を言っているのか俺にはさっぱり。なんで夫婦喧嘩の現場に世界平和を持ち込もうとするのか。たいやきと世界平和は全然関係ないじゃないか。正義感がおかしくなっている。でかいことに対するでかい主張をすれば、人を殴ってもいいっていうのかよ」

「時と場合によるだろう。今わからせておかないと後々大変なことになる。後の社会の平安を保つためには私があのときやらなくてはならなかった」

 ジャージ男は唖然とする。

「イカれてるぜ。そんな正当化の主張を聞かされるために俺はここでおでんを食ってるのか」

「意見を主張することは当然の権利だ」

「俺はもう行くぜ。今日発売のマンガを読みてえんだよ」

 ジャージ男は千円札を三枚テーブルにたたきつけるように置くと、席を立った。

「正義っていいものだぞ」

 スーツ男の声が背中にぶつかる。

「さっさと帰って謝れ」

 ジャージ男は至極まっとうな言葉を吐いて居酒屋を出た。コンビニはすぐそこだった。ガラスの自動ドアの手前でジャージ男は先ほどのスーツ男の言動を思い返す。

「あいつの正義を許したら最強だな」

 ジャージ男は一人つぶやいた。

 ジャージ男は店に入る。今日発売のマンガの新刊が置いてあるので、まっすぐそれを取り、ガラスの自動ドアのほうへ向かう。

「あ、すいません、お客様。それ、まだレジ通ってないすよね」

 バイトの青年が声をかけてくる。ジャージ男は振り返ると、大きく息を吸い込んだ。

「世界平和!戦争はんたァァい!!」

 ジャージ男はでかい主張を叫びながらマンガを一冊持って店の外へ走り出した。夜の住宅街には奇声が響き渡った。

「化石燃料反対!男女差別反対!最低賃金下落はんたァァい!!」

 青年はスマホをポケットから取り出すと、警察に通報した。

「はい、はい。そうです。万引きされました。あ、奇声は上げてますけど、被害とかは別にマンガ一冊程度でして、はい」

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