63話・おいくらお支払いすれば、こちら側に寝返って頂けますか?
「ビスタ卿。ご苦労だった」
「失礼致します」
第3王子の前を辞してきた中年男のビスタ卿は、廊下に出てため息を漏らした。焦げ茶色の髪に、ヘーゼルナッツの皮のような瞳をした、くたびれた中年男。それが宮殿に仕えている者達の印象だろう。
二、三歩歩き出したところで声がかかった。相手は彼の進もうとした向こう側からやって来た。黒髪に焦げ茶色の理知的な輝きを放つ瞳を持つ少女だ。彼女はミラジェン子爵令嬢。
職位こそ低いがミラジェン子爵家は、各国にその名が知られている大富豪の貴族だ。彼女の曾祖父が商人であり、没落貴族だった曾祖母の元へ婿入りして、今のミラジェン子爵家を築き上げたと言われている。
莫大な資産を持つミラジェン子爵家は、それだけで国が興せるのではないかとも噂され、ビスタ卿から見れば謎の一族で、得体の知れない気持ち悪さがあった。彼女は真っ直ぐ彼の前にやって来た。
「お久しぶりです。ビスタ卿」
「ミラジェン子爵令嬢。お父上はお元気ですか?」
「はい。変わりなく。ビスタ卿、お話がありますの。少し宜しいでしょうか?」
ミラジェン子爵とは、直接仕事の係わりはないが、宮殿で会えば言葉を交わすくらいの事はしていた。その彼の娘から話をしたいと言われて一瞬、戸惑う。
断ることも出来ただろうが、ビスタはミラジェン子爵令嬢に睥睨されて頷いてしまっていた。
「ではこちらに」
彼女がそう言って連れてきたのは宮殿の一室。予め、第3王子殿下の許可は頂いていたのだろうと思った。彼女が第3王子の許婚である、エスメラルダ公爵令嬢と親しいことは宮殿勤めの者なら誰でも知っているが、王妃殿下も彼女のことは気に掛けていた。お気に入りの甥っ子との婚約を結ぶくらいに。
もともとミラジェン子爵令嬢には、陛下から第3王子殿下との婚約が打診されていたと聞く。陛下としては息子の王太子はすでに婚約者がおり、次男の第二王子殿下はロキオン国の王女の元へ婿入りが決まったところで、婚約者のいない王子は第3王子サンドリーノ殿下のみとなっていた。
陛下はその王子とミラジェン子爵令嬢との婚姻を強く望んでいたと聞く。しかし、ミラジェン子爵家から丁重なお断りが入り、その話は流れたらしかった。低位貴族の当主が、王家からの打診を拒んだだけでも驚く話なのに、落胆した陛下に代わり今度は、王妃殿下がミラジェン夫人に自分の甥を婿にと申し入れ、受け入れられていた。そこまでして王家がミラジェン子爵家と縁を結びたがるのは、子爵家が大富豪であるので、その潤沢な資産に目を付けたと思えなくもないが、その裏には何かありそうな気がしてならない。
たかが子爵令嬢でしかない少女にかけられた言葉は、さらに彼を驚かせた。
「単刀直入に申し上げます。おいくらお支払いすれば、こちら側に寝返って頂けますか?」
「……!」
「あなた方もお分かりでしょう? クラレンスの者ともあろう者が他国の者に寝返っておきながら、仲間の信頼を得られるとでも? 今後、あなたはこの国で生き残るのは難しいでしょう。どうしますか?」
少女は正論をぶつけてきた。先ほど殿下の前では一笑に付したところが、彼女の真摯な瞳を前にしてはそれも叶わなかった。彼女はあなたが裏切った事は知っていると言った。
道理でサンドリーノ殿下から、何度も呼び出されていた訳だとビスタは納得した。殿下としては牢屋にいた女の死体と、シルヴィオの失踪について何か知らないかと聞いてくるだけだったが、それは捜査が一向に進まず、焦っているのかと思っていた。違っていた。相手は全部知った上で、自分の口を割らせようとしていたのだと。殿下では無理だった為、彼女が出て来たのだろう。
お金で情報を買うと彼女は言った。仲間には裏切り者として認知されているのだ。この国にいてもあなたの未来はないと彼女は言う。
確かにクラレンスのトップを貶めたのだ。その裏では他国の王族と繋がっていたのだから、自国の情報を売ったとして処刑は免れないに違いない。彼女はそれを示唆してきた。
それまでは殿下の配下の者達の調査が進まず、クラレンスである自分が優勢のように考えていたが、実は泳がされていたと言うことだろう。ビスタは自分の負けを悟った。これ以上の足掻きは醜いものでしかない。
そして影に生きる自分に情報を売れと言う、この少女に恐れを抱いた。この少女は何者なのだろうか?
躊躇していると、それまで気にならなかった彼女の背後に付き従っていた侍女二人が前に進み出た。
彼女らは気配を悟らせなかった。クラレンスの上に立つ自分にも気取らせなかった。侍女らはミラジェン子爵家の間諜に違いなかった。それも優秀な。そんな者達を従わせている少女が只者であるはずがない。
「あなたは──?」
「それよりもお答えは?」
ビスタは腹を括った。




