第7話 歩み出し
改めて紹介する。
ここは、エスト領フェルララにある、鷲が羽を広げた姿の旗が目印の宿屋、アークイラ亭。
俺はこの宿屋の宿泊客であり、この町の衛兵、フレッドだ。
15の時に衛兵になって、2年と少し。でもこの宿屋には衛兵になる前からお世話になっている。
貧民街の見回り中、3歳の子どもを見つけて保護して、早くも1か月となる。
名前も家もなく、身寄りもいないと言う。(後になって親は存在するかもしれないと判明)
色々あってその子は、アークイラ亭の家族の一員となり、名前はヴィートと名付けられた。
頭がよく口も回り、見た目も息をのむほど可愛らしいのだが、少し心配になる点が多い。
肩口で切りそろえられた黒い髪、夜を感じるような深い青の瞳をしている。
あと男だ。
「お散歩しようね、ヴィーちゃん」
ヴィートに呼びかけたのは、ミアベラだ。
宿屋であるアークイラ亭の1人娘かつ看板娘で、あと半年くらいで15歳。成人になる。
薄紫色の髪が耳の高さで2つに結ばれていて、三角巾の下から出ている。
見ていてこちらが元気になるような笑顔が特徴だ。
かわいいものとおしゃべりが好きらしい。ヴィートにかわいいとよく言っている。
「はい!」
ヴィートは席を立って、ミアベラの後ろについて食事処を出て行った。
散歩とは言っても外出するのではなく、家の中を歩くものだ。
今日は雨だが、それを気にすることなく実行できる。
アークイラ亭は広いので、それだけでも運動の一環になる。
ヴィートの運動不足を心配したオリアーナさんの提案だ。
オリアーナさんというのは、アークイラ亭の主であるサムエレさんの妻である。
オリアーナさんに、俺は質問する。
「オリアーナさん、ヴィーは確かによく寝てるけど、そんなに動かないのか?」
ヴィートは俺が泊まっている部屋で着替えたり眠ったりしている。
本人から直接理由を聞いたことはないが、元いた環境の影響でいくつか苦手な物事があるようで、最初はこれもその1つだったのではないかと、俺は思っている。
他にも、人から手で触れられるのを苦手としていたり、鏡をがあると目をそらしたりする。
「フレッド君は、ヴィート君の昼間の様子、お休みのときしか見られないものね。
ヴィート君は休日、ごはんを食べて少しお話をしたらすぐ寝てしまうでしょ?」
「うん」
俺が見ている限りではそうだ。
「あれはね、平日も変わらないの。
体力を極力使わない癖がついてるみたいで、
ヴィート君の生活スタイルは、一日20時間くらいが睡眠なのよ」
オリアーナさんは頬に手を当てる。
「それってやっぱり3歳児にとっても多いのか?」
申し訳ないが、俺は詳しくない。
妹弟の他に近所の子どもの面倒も見ていたが、そのとき俺も9歳とかだったからな……。
誰がどんな性格かは覚えていても、どれくらいの年齢の子がどんな感じだったかは覚えていない。
「そうね……生まれたての赤ちゃんくらいかしら」
オリアーナさんは俺の疑問に答えてくれた。
「赤ちゃんか……」
「もちろんヴィート君は起きている時間も寝ている時間も、
ある程度はまとまっているから、全く同じというわけではないのよ」
ヴィートは基礎的な運動量が足りないようだ。
言われてみれば子どもって、遊んで、走って、跳び回ってるものだよな。
ヴィートがここに来たときは、階段の上り下りで苦労していた。
今、ちゃんと歩いてくれているだろうか。いや、バテている可能性も……。
ミアベラがついているなら大丈夫だとは思うが……。
俺がそう考えていると、オリアーナさんは微笑んだ。
「フレッド君、気になるなら様子を見ていらっしゃい」
「ああ、そうしてくる」
ヴィートが座る子ども用の椅子を片付けて、食堂を出る。
1階の右側はアークイラ家の住む場所なので鍵がにかかったドアが2個あるだけだ。
左側にもいないようだ。最奥の風呂場まで床の上には誰も立っておらず、ツヤのある濃い灰色の石のタイルが隙間なく張られているだけだ。
正面玄関側の階段を上り、2階の床が見えてきたとき、靴音と話し声が聞こえた。
ここから見える範囲の廊下にはミアベラとヴィートはいないが、死角になる方向にいるのだろう。
「おねえさま、なんだかうかない顔です」
「え、そんな顔してたかな!?」
ヴィートの言葉に、ミアベラの驚いたような声がした。
「悲しいことがあったのですか?」
「ううん! なんにもなかったよ、なんにも!」
そう否定したミアベラは、時間差で思い当たる節が見つかったのか、ふと声をもらした。
「あ……」
それは、縮まって消えるような音だった。
それまで響いていた片方の靴音が止まり、それに合わせて小さな靴音も止まった。
俺の足も階段の途中で、すっかり止まってしまった。
ずっと窓を打つ雨の音だけが聞こえた。
長く感じたが、実際には10秒ほどだったかもしれない。
「ねえ、ヴィーちゃん」
「はい」
「毎日、静かなのと、廊下を通るだけでも笑い声がいっぱいなの、
ヴィーちゃんはどっちが好き?」
どこか切なげな、初めて聞く声音だった。
しかしミアベラの、影を落とした顔が、伏せた瞳が、想起される。
一度だけ、俺がアークイラ亭に泊まってすぐの頃に目にしたことがあるのだ。
今よりも背が小さかったミアベラの、その表情を。
あの時、一人でしゅんとしていたミアベラに、俺は何も言ってあげられなかった。
その顔の理由も、今の声音の理由も、わかっている。
アークイラ亭には、俺以外の宿泊者がいないからだ。
ヴィートは俺とは違い、極めて明るく言葉を返した。
「静けさを素敵に感じる場面であれば静かな時間も好きですけど、
笑い声で溢れている方が好きです。
活気というのは、前に進もうとする人がいなければ生まれませんから」
ヴィートは聖人のように深いことを口にした。
しかし、それにはまだ続きがあった。
「それに、笑いが溢れるほどある場所は、何よりお金回りがいいですから!
皆さまのお財布の紐が緩みます! 素晴らしいですね!」
やはりヴィートはヴィートだった。こういう子どもなのだ。
きっと清々しいほどの笑顔をしているに違いない。
ヴィートの返答にミアベラは吹き出す。
「もう、ヴィーちゃんったら、途中まですっごくいいこと言ってたのに、
最後でドーンって落とすなんて……!」
「ただ思ったことを言っただけですので、
むしろ言葉の中にいいことが混ざっていたことに驚きです」
ヴィートは、「驚きです」と言っておきながら普段通りの声だ。
ミアベラはいつも通り、いや、それ以上に朗らかな声になる。
「ヴィーちゃん! ありがと、元気出てきた!」
「なんだかよくわかりませんけど、光栄です」
靴の音がまた一定のリズムで刻まれ始めた。
遠ざかっていく。
俺はなるべく音を立てないように来た道を戻った。
「あらフレッド君。もう戻ってきたの?
折角だからヴィート君のお散歩に参加したらよかったのに」
1階に下りると、オリアーナさんは食事処から受付台の場所へと移動していた。
「なんか、出るに出られなくなったっていうか……」
俺がもごもごと話すと、オリアーナさんは尋ねてくる。
「乙女の話でもしていたの?」
「いや、そういうのじゃないんだけどな……。
そうだ、オリアーナさん、何か手伝えることないか?」
オリアーナさんは目をつぶって首を横に振る。
そしてまた穏やかに笑う。
「休日の昼間くらいゆっくりしなさい。働きすぎで倒れてしまうわよ?」
「俺には、このくらいしか……アークイラ亭にできることが思いつかないから」
「『このくらいしか』なんて言わないの。
いつも手伝ってくれているでしょ?
それにフレッド君のおかげで、一応、経営破綻はしていないのだから」
確かに仲のいい同期に、ごはんがおいしいと勧めはしたけど、それだけだ。
「それはそれとして、フレッド君が心配してくれているように、これ以上に持ち直す方法が考えつかないのは問題なのよね。
私は、実家で乳製品を売っていたけれど、買う人自体がいなくなるということはなかったのよ。
お客さんになる人がそもそもいなくなったときには、どうしたらいいのかしら……」
オリアーナさんは困ったように微笑んだ。
しばらくすると、奥の階段から下りてきたのか、何やら賑やかになった二人の声がしてきた。
「おねえさま、どこまでが範囲に入るのですか? お客さまだけですか?」
「ううん。ヴィーちゃんも入るよ!」
何の話をしているのだろうか。楽しそうだ。
「おにいさまは入っていますか?」
「フレッドも入ってるよ?」
ヴィートが『おにいさま』と呼んでいるのは、俺のことだ。
アークイラ家と俺との間に血縁関係はないのだが、ヴィートは俺のことをそう呼ぶようになった。
家族に含まれないことはきちんと理解しているが、俺への対応に差を作っていない。
「おかあさまとおとうさまもですか?」
「うん、そうだよ!
あ、そっかあ、ここに来た人っていうより、いる人みんなかな?
みんなと話すと元気がもらえるんだ~!」
ミアベラの声はよく通る。
「わたしが知っている中で、とてもいい口の活用方法です」
「どういうこと?」
「いいえ、何でもありません」
晴れやかな笑顔のミアベラに続いて、ヴィートも角から姿を現す。
「あ、ヴィーちゃん、1周したよ」
「おかあさま、おにいさま!」
ヴィートが駆け寄ってきた。
オリアーナさんは俺の横を過ぎ、ヴィートの前まで言って少し身を屈める。
「ヴィート君、いい子ね。頑張って歩いてとても偉いわ」
ヴィートはすぐさま笑みを顔に貼り付けたが、耳には朱が差している。
「ヴィート君、まだ手は怖い?」
オリアーナさんは優しく尋ねた。
「掴まれたり、捕まえられるのは、まだ……。
ですけど、見ないようにすれば手を伸ばされても、もう平気です」
「触れても大丈夫?」
「少しだけなら……」
ヴィートは小さく頷いた。
「そうなのね、よかった。
ヴィート君たら、どうってことなさそうにしているけれど、すごいことなのよ?
私はとても嬉しいもの」
「どうしてですか?」
オリアーナさんの言葉を聞いて、ヴィートは不思議そうに首を傾げた。
「それはね……そうだわ、ヴィート君、目を瞑ってくれる?」
ヴィートはオリアーナさんに言われた通りに目を閉じた。
「私が嬉しいのはね、ヴィート君にこうしてあげられるからよ」
オリアーナさんはヴィートの頭を、軽く、でも思いやりのある手つきでひと撫でする。
ヴィートはびっくりしたように目と口を開いたが、すかさず手で口元を隠し下を向いてしまった。
そんなヴィートにオリアーナさんは優しく笑いかける。
「ヴィート君、おやつに果物を用意してあるの。食べる?」
「食べます!」
ヴィートはパッと顔を上げ、まだ赤らんでいた頬が露わになった。
しかし本人の思考は全ておやつに乗っ取られたようで、短い時間にころりと表情は元通りになった。
「ミアとフレッド君の分もあるのよ。座って待っていて」
「お母さんありがと!」
「オリアーナさん、ありがとう」
ヴィートはミアベラと俺を見て、慌てて「ありがとうございます」と続けた。
おやつにオレンジを食べた後、部屋に戻ったヴィートはベッドに乗った途端に力尽きた。
俺は、安心しきった顔で眠るヴィートにそっと布団を掛けた。
ヴィートが警戒せずに眠れるようになってよかった。




