第3話 小さな背中
ヴィートは自分を触られるのが苦手だ。
誰かの手がある程度近づくと、慌てて後ろにさがろうとして転んでしまう。
ヴィートを発見した日、風呂に入れる前に服を脱ぐのに手こずっていたため、手伝おうとしたらヴィートはそれに驚いて転んでしまった。
そのとき、俺が手が怖いのかを聞いたら否定した。
さらにその証拠を見せようと思ったのだろう、ヴィートは俺の手を掴もうと手を伸ばした。
だが、俺の手から30センチ離れた位置からは近づけることはできず、手の震えが止まらなくなってしまった。
意外なことに、ヴィート自身が、信じられないという素振りをしていた。
今日で、ヴィートが来てから早くも3日目になる。
そして、俺はまたヴィートを転ばせてしまった……。
不注意だった。
下ろしている状態の俺の手はちょうどヴィートの顔の高さにあるので、いつも1メートル以上の間隔を空けた位置にお互いいる。
(ベッドで1メートルの間は取れないので、寝るときは例外だ)
両腕を横に伸ばした長さと身長との隔たりはそれほどないとよく耳にする。成人男性であれば片腕でも75センチを下回る人は少ないだろう。
偶然、1メートルくらいの距離にヴィートがいて、俺はヴィートの前にあった鞄の肩紐を掴もうと手を伸ばした。
そのとき、ヴィートは慌てて後ろに倒れ込んで壁に頭を打ってしまった。
幸いにも、尻もちを着いた体制から壁に当たったので軽くぶつけた程度で問題はなさそうだったが、それでよかったと放置していいものではない。
再発防止に努めないと。
でも、なんだろう。避け方に少し違和感があった。
体をかばうといった行動ではなく、近づいてきた手から逃げようとした。
ヴィートが手を怖がるのは、手で行われる暴力を恐れているからではないかと、俺は勝手に予想していた。
しかし、それよりも触られないことを最優先としているような。
そんな引っかかりを覚えた。
* * *
ヴィートが怖くないようにするにはどうしたらよいか考えて、思いつかないまま1日過ごしてしまった。
隊長からも「おいフレッド、聞いているのか!」と4回くらい注意されて居残り訓練を命じられた挙げ句、何も考えつかなかった……もどかしい。
どうしたものか……。
仕事の後、アークイラ亭を手伝いも終えて夕飯を取り風呂に入ってきた。
すると、眠気がやってくる。
「あ、フレッドあくびしてる」
ミアベラが、珍しいね、と言わんばかりに言う。
いつも部屋に戻ってから眠くなるので、確かに珍しいかもしれない。
「今日の居残り訓練は、走り込みの距離がいつもの2倍だったんだ。
分隊長に『一層弛んでいる!』って怒られて……」
「2倍も!?」
ミアベラは驚いて目を真ん丸にした。
「それはクタクタになっちゃうよ!
大変だったのに、今日もお店のお手伝いしてくれてありがとう……!
明日もあるもん、もう休んで?」
ミアベラは明るい笑顔でこちらを気遣ってくれた。
「ああ、そうする。おやすみ」
「おやすみなさい!」
ミアベラがそう言うと、オリアーナさんとサムエレさんが厨房から出てきた。
「フレッド君、おやすみなさい」
「おやすみ」
俺もオリアーナさんとサムエレさんに挨拶を返す。
アークイラ家の暖かな3人に見送られて食堂を出た。
脱いだ服しか持ってないのに階段を登る足が重い。
1階を後にして1人になると、ヴィートが安心して過ごせていないのは自分のせいなのではないかと、つい考えてしまう。
朝にこちらの様子を窺っているヴィートは、警戒半分、不安半分でいるように見えた。
衛兵のことがあまり好きではなさそうなので、もしかしたら俺のことが嫌なのではないだろうか……。
色々と問いただされそうで不安とか……。
部屋の前に着く。
ガッチャリ。
どうしても鍵を回すと大きめな音が鳴ってしまう。
なるべくそっと扉を開けて、石と木の床材の境目で外履きを脱ぎ、中に入る。
木の床は靴を脱ぐもので、石の床だと脱がなくていい。この国ではそういう慣習だ。
アークイラ亭は珍しく部屋の床がフローリングで上品な造りだ。
その上、ベッドは筋骨隆々な大男でもゆったりくつろげるくらいの広さで、マットだって俺の実家よりも寝心地がいい。
窓から入ってくる月の光で薄らと周りが見えている。
俺は洗濯物をカゴに入れたり歯を磨いたりして寝る支度を済ます。
ヴィートはベッドの上で、壁の一部になったみたいに丸くなっており、こちらに向けられた背中と掛けられた布団は呼吸に合わせて上下していた。
昨日までとは違い、頭から布団を被るのはやめたみたいだ。
なるべくそっと横になろうと一度ベッドに座る。
しかし、その振動でヴィートは起きてしまった。
「ん……フレッドさま……?」
「ごめん、起こして」
「いえ……もともとは起きているつもりだったのです」
ヴィートはじりじりと体を起こす。
「寝てていいから」
「フレッドさま……ちょうどいいのでそのままでいてください」
「え、うん」
何がちょうどいいんだろう。
ただベッドに腰掛けてる人なのだが。
「指先ひとつ……動かしてはいけませんからね」
「わ、わかった」
そう言われると、何故か無駄に緊張する。
背中の、腰よりも少し高い位置に、ほんの僅かに体重がかけられた。
眠たそうなヴィートの声が、遠回りに壁を反射して聞こえる。
「……これが今は限界なのです」
お互い寄りかかってはいないが、背中合わせの状態なのか。多分。
「え……と、なんて言おうと……。あ、思い出しました」
すごく眠いみたいだな……。
「その……朝はすみませんでした」
ヴィートが言っているのは、俺が転ばせてしまった件だろう。
「謝るのは俺の方だ。ヴィーが謝ることじゃない」
小さな背中がふる……ふる……とゆっくり揺れた。
おそらくは、首を横に振った。
「誰が悪いのかは……置いておきましょう。
頭がぼやけているので……言いたいことを見失ってしまいます」
「……そうだな」
「わたしは……触れられることがおそろしくて……、
ですけど、フレッドさまのことを嫌がっているわけでは……ありません。
違うことが……多くて……しなくていいことが、わからないのです……」
それを聞いた途端、俺の中で今まで無駄に入っていた力が抜けていくのを感じた。
俺が知らない人だからとか衛兵だからという理由で警戒しているわけではない、と。
元いた場所ではそうしていないといけなかったから今も続けてしまう、ということだ。
「そうなのか……」
「ですから……悲しい顔は……しないで……くださ……い」
言葉が途切れ途切れになった。
後ろでコクリと船を漕ぐように動いた気がする。
「ヴィー、横になってくれ。その姿勢で寝るのは体に良くないから」
返事はないが、真後ろにあったマットの張りがゆっくりと遠ざかった。
静かな室内。寝息だけが聞こえる。
衛兵間では、よく聞く言葉というか、教えがある。
『信用と信頼が揃わなければ、背中を預けることはできない』
戦いではなくても、ある程度は他のことにも当てはまる。
だからこそ、ほんの少しでも信用と信頼があると思っていいのだと、俺はホッとした。
いや、させられてしまった?
さすがにヴィートがそこまで知っててやっていたとは思わないけど。
もし全てヴィートの目論見通りだったら、末恐ろしい人心掌握術だ……。
だけど、間違った方向に発揮されなければきっと大丈夫だ。
俺はまたあくびをした。
人の眠り際の声は、何故か聞いているだけで眠くなってくる。
俺は肩の力が抜けたこともあり、朝までぐっすりと深い眠りについたのだった。
次の日の朝。
ヴィートは、今日はベッドから降りて洗面所を覗き込んでいる。
何をしているのかというと、俺が顔を洗ったり歯磨きしているのを見ている。
しかし、もう警戒や不安の色はあまりなく、観察に近い感じがする。
せっかくヴィートがそこにいるので俺は、『信用と信頼が揃わなければ、背中を預けることはできない』という教えがある話をした。
話の途中で、ヴィートは洗面所を覗き込むのをやめて入ってきた。
「信用と信頼……そのような教えがあるのですか」
少しだけ興味深そうにヴィートは言う。
「別にマニュアルに書いてあるわけじゃないけど、ベテランの人ほど新人によく言ってる印象だな」
「実績と人柄はどちらが欠けても命取りですから、大切だと思います。
ですけど、あの、どうしてわたしにその話をしたのですか?
わたしは衛兵さまにはなりませんよ?」
ヴィートは首をかしげた。
「ただ、昨日の寝る前のやり取りが嬉しかったから。伝えておこうかと思って」
俺がそう言ったら、ヴィートは虚を衝かれたのか目を見開いた。
その後、指の先で口元を隠してクスッと笑った。
「それほど嬉しかったのですか?
それならもっとしっかり背中を預けられたら高得点でしたね。
惜しかったです」
そう言って、ヴィートは2、3歩こちらを向いたまま後ろに下がり、なぜか脱兎の如く駆けて扉に向かっていった。
「ヴィー、外に出るならちゃんと靴を履いてからだぞ」
ヴィートは立ったまま靴の踵に指をいれて、内側へ折り曲がった部分を押し出した。
それから、ドアに挿したままの鍵をクルクルと回して綱引きのように全体重をかけてノブを引っ張る。
「ふんーーっ」
ようやく扉が開く。
ヴィートはするりと細い隙間から体を通した。
「フレッドさまこそ、外に出るなら衛兵さまの服を着てからですよ」
片方の深い青色の瞳だけ覗かせながら指摘し返して、バタンと扉を閉じた。
ヴィートが部屋を自分から出るところ、初めて見た。
朝はいつも俺が扉を押さえていて、その脇から出ていくから。
俺はご指摘通り危うく寝間着のまま1階に行くところだったので、白い兵服に袖を通し、赤いたすきを肩から斜めに掛けた。
最近隊長に怒られたばかりだ。気をつけないと。
長い革靴を履いてドアを開ける。
ヴィートは出てすぐのところにいたので、俺は何と言うか迷ってから声を掛ける。
「お待たせ?」
「今日こそ休まずに1階まで歩いて見せますからね」
「無理はするなよ?」
昨日に引き続き俺に宣言して、ヴィートは目も合わせずにくるりと階段へと歩き出す。
黒い髪に埋もれて、熱されたように赤いままの耳が垣間見えた。
ちなみにこの後、ヴィートは階段を下る途中で息が上がってしまい、休憩を挟むことになった。




