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King & Queen 3  作者: 悠鬼由宇
6/8

Noël

【旅行代理店】 幻の湯大発見の『鳥の羽』に巣食う〇〇専務取締役の悪行非道の数々〜

  今や飛ぶ鳥を落とす勢いの東京の旅行代理店『鳥の羽』。小規模ながらも今やネット上で

  大人気のこの旅行代理店を食い物にしている極悪役員が居るという。その所業とは

 ・大手都市銀行からセクハラで追い出され役員待遇で押し付けられる!

 ・女子社員を性奴隷にし妊娠堕胎を繰り返させる!

 ・自分の愛人に次々と若いイケメン社員を当てがう!

 ・気に入らない社員にパワハラし放題、休職退職者続出!

  これがもし事実であるならこの会社の飛ぶ先は真っ暗闇の中。このラスボスを倒す勇者が

  この会社に現れるのを祈るばかりである…


「キンさん… 大丈夫すか?」

「ね、ちょっとこっちで休も… キン様…」

「こ、こんなの誰も見ないし誰も信じないって。な、専務…」

「これ、どうやって削除できんだ?」

「でも… もう⑶までスレ立ってるぞ…」

「金光さん、具合悪そうだし… 早退されては… 社内もこんなんですし…」

 山本くんが心配そうに言ってくれる。不意に涙が溢れる。部屋が静まり返る。皆の息を呑む声が聞こえてくる。

 俺は頷きながら会社を後にした。


     *     *     *     *     *     *


 何処をどう通って行ったか全く覚えていないのだが、一時間後俺は毎週足のリハビリに通っている新豊洲メディカルセンターに居た。大学を卒業し大手都市銀行に就職して以来、会社を早退、半休するなんて初めてだ。

 受付を済ませリハビリ棟へ行きベッドに横たわり、俺は抜け殻状態でかかりつけの橋上先生を待つ。白い天井がやけに眩しく見える。やがてそれが涙に滲んで霞んでいく。パタパタと彼女のサンダルの音が近付いてくる、慌てて溢れた涙を拭う。


「センムー。昨日サボったでしょ、フツーに… ん? どうした?」

 大きな眼で俺の表情を見たあと、俺の後頭部を優しく抱き、顔を胸にそっと押し当てる。

「奥さんと何かあったんだよね。話してみ」

 そうなのだ! 俺は三ツ矢の攻撃に参ったのではない!

 光子との諍いが辛くて辛くて堪らな……

「せんs… お、おr……」

 言葉が詰まって出てこない。

 気が付くと先生の薄い胸に縋り、号泣していた。


 涙が止めどもなく流れる。その涙が先生の胸元を濡らす。みっともない嗚咽が先生の胸を揺らす。これが俺なのか? 下町深川のキングと呼ばれ、大手都市銀行の支店長を務め、今話題の旅行代理店の専務取締役である俺の本当の姿なのか?

 嗚咽が治まり、俺はボソボソと光子との事を吐き出していく。あの夜『居酒屋 しまだ』で元彼と出会した事、光子が未だにその彼と時々会っている事、信じてはいるのだが元彼と身体の関係が未だあるのではと疑っている事、そして。その夜以来、光子と距離をとってしまっている事、即ち関係が崩壊しつつある事……


 先生は後頭部を優しく撫でながら俺の話をじっと聞いてくれる。途中から何を話したのか覚えていない。きっと同じことをイカれた鸚鵡の如く何度も何度も繰り返していたのだろう、それでも先生は口を挟むことなく聞いてくれた。

 まるで聖女に抱擁されている気分となり、俺の瞼は徐々に重たくなってくる。何かを話しているが、それもだんだん遠くに聞こえ始め、意識が先生の胸に吸い込まれていく感覚となり…

 信じられない事だが、気付くと俺はベッドの上で夢も見ずに熟睡していた。時計を見ると…… 夕方の四時だ。ちょっと待て、一体俺は何時間ここで…


「よく寝てたわーフツーに。鼾すごかったよーセンムー」

 他の患者のマッサージをしながら、先生が吹き出しながら言うと

「うわ… 先生が笑った… こえー」

 若い学生らしき患者が大声で叫ぶとその頭をパシッと叩きながら、

「アタシフツーに笑うし。何か文句あんの?」

「いえ… あっ 痛いっ 先生… 申し訳ありませ… ぎゃぁーーーーー」

 若き精春の咆哮が病室に響き渡った。

 

 俺は唖然としながら起き上がり、

「せ、先生、俺…」

「昨日も一昨日もよく寝れなかったんでしょ。でも、ま、気持ちはわかるよ、フツーに」

「何か… すいません。迷惑かけちゃって…」

「アタシさ、もちょっとで上がりなんだ。ちょっと一杯飲んでかね?」

「はあ。何処で?」

 学生さんが目を見張り、

「うわ… 橋上先生がオッサンを持ち帰ろうt― うぎゃぁーーーーーーーーーーー」

 マジで学生さんは気を失ってしまう。俺は腹を抱えて笑っていた。


 先生は行きつけらしい店の名前を言い、俺はそこに一足先に行くことにする。スマホのマップで調べると病院からは俺の足でゆっくり歩いて二十分程らしい。

 会計を済ませ病院を出る。寒さに身体がブルっと震える、山梨の山奥の寒さが思い出され、ああ知らないうちに東京にも冬が来ていたのだと気づく。

 道路脇の銀杏の木はすっかりと葉が無くなっている、黄色い落ち葉がそこらじゅうに舞い落ちている。冷たい風がそれを舞上げ、車がそれを吹き飛ばしていく。


 こんな四季の移ろいすら、この数日全く目に入っていなかった、俺はどれだけテンパっていたんだろう。

 街ゆく人々は皆コートかダウンを着込んでいる、俺はジャケットしか着合わせていない、これでは寒い筈である。明日からはコートが必要だな、あとユニクロの股引きも必需だ、お袋に言っておかねば。

 どれだけ橋上さんの隣で熟睡したのだろう、こんなに頭がスッキリとしているのは数週間ぶりかも知れない。頭が軽いと言うか、脳が軽い。なので情報処理が実にスムースなのだ。季節の移ろいを感じながらスマホで進路を確認しながら明日からの身のこなしを一気に並行処理出来てしまう。やはり人間の心と脳に最も必要なのは睡眠なのだ。明日から、なんなら今夜から薬を飲んででもしっかりと睡眠を摂ろう、そう決意した頃、スマホが間も無く目的地に到着しますと教えてくれた。

 ビルの一階部分を占めた小粋な居酒屋に到着すると、まだ五時前だというのにほぼ満席でカウンターが数席空いているだけだ。


 店の親父に先生の名前を出すとさあそこにどうぞと言って熱々のお絞りを置いてくれる。スマホを出しお袋と葵との家族グルに夕飯は要らないと書き込む。ふと思い出し、〇〇ちゃんねるを検索し俺のスレ(?)を見つけ出した頃、橋上先生が到着する。

「ちーちゃん、珍しいねえ。旦那さん以外の男性とー」

 親父が驚いた表情でお絞りを先生に渡すと、

「まーねー。彼氏なんだフツーに。よろしく」

「お、おい。ちょっと待て、先生…」

 しれっと突然手榴弾を放り投げる先生に抗議しかけると、

「おっ先生と患者のイケナイ関係って奴か。旦那さんに内緒にしとくから、今日は倍の料金をいただくぜってか、ギャハハ」

 …… まあ、ここも東京の下町ではある。健太みたいな人種はフツーにどこにでも居るんだな、そう思う事にする。ところでクレジットカードは使えんのかな……


     *     *     *     *     *     *


 店の雰囲気が『居酒屋 しまだ』に似ている。気の置けない店主。常連の客達。絶え間のない笑い混じりの喧騒。旨そうな酒と料理の匂い。わずか二日足が遠のいただけなのだが、『しまだ』が恋しくなる。光子が、恋しくなる……

 俺は焼酎のお湯割、先生はこの寒い中ビールで乾杯する。すると先生は本当にジョッキを乾かしてしまう、即ち一気飲みでジョッキを空けてしまった……

 なんと言う男らしさ、とは言えずに親父にお代わりを頼むと、

「はーー生き返ったー センムーはそれ一杯だけだよねフツーに。でないと奥さんに殺されるんだっけ? ウケるー」

 先生の私服姿をそう言えば初めて拝んだ。細い身体に良く似合うフワッとしたブルーのセーターにジーンズ素材の短パン、黒タイツ… 鋲の打ち込まれた黒いブーツ… これでプリント長袖Tシャツでも合わせればパンク少女じゃねえか… あれ、まさかの元ヤン?

「ロンドンに六年間住んでたから、自然とこんな格好になっちゃったフツーに」

 ああ… そう言えば帰国子女…


「センムーはずっと深川?」

「いや、大学出た後は転々と。深川に戻ったのは三年前、妻が亡くなって母の所に娘と戻ったんだよ」

 先生は興味津々の表情で、

「ふーん、奥さんとは地元の昔からの知り合いだったんでしょフツーに?」

「中学時代の同級生だったんだけどその頃は殆ど接点なかったんだ。今年の春に友人に連れて行かれた居酒屋で光子と数十年ぶりに会ったけど、こっちは全く覚えてなくてさ」

「ふむふむ、そんでそんで?」

 相変わらず聞き上手なものだから、あの最悪の出会いから一昨日に至るまでの話をたっぷりと話すことになり……


「なるほどなるほど。それはそれは。それよかさぁ、会社でもなんかあったんでしょフツーに?」

 三杯目のビールを飲み干す頃、不意に先生が呟いた。俺はドキリとしながら、

「先生、心療内科もやってる? よく分かったね」

 と言いつつスマホを開き、さっき見つけ出した俺のスレを差し出す。一目見て、

「ハンっ これってヤツのやりそーな事じゃん!」

 橋上先生はPT(Physical Therapist)になる前、大手商社に勤務していた。その時の先輩社員が偶然にもウチの三ツ矢だったそうだ。

「あんの野郎、まだこんな事やってんだ! よりによってアタシの大事な彼氏に!」

 俺が二重にびっくり仰天していると、店の親父に芋焼酎をロックで注文する。なんか変なスイッチが入っちゃったとビビっていると、

「もう許さね。センムー、フツーにぶっ潰しちゃいな!」

 あああ… やはりこの人ロンドンの元ヤンだったに違いない……


「ハハハ。どーしよーかねぇ…」

「アイツのアキレス腱、教えてあげるよ。証拠付きで〜」

 彼女の能力に嫉妬した三ツ矢の陰謀で会社に居づらくなって退職した過去を持つ彼女は、未だに三ツ矢を恨み呪っている様子だ。俺が銀行時代に蹴落とした上司、同期、部下達も彼女のような思いを未だ俺に対し持っていると思うと、一旦死亡して人生をリセットしたくなってくる。

「あーこれこれ。センムーに送るからさ、電話番号、メアド、ラインIDを教えてちょ」

 三点セットを全て自分のスマホに記録すると満足そうに彼女は

「よし。これでアイツをこの世から消し去れるフツーに」

 なんて物騒なことを言いつつ、数点の画像を俺に送付してくれる。それは彼女が退職した後に元同僚から譲り受けた数点の画像で、見た瞬間吐き気と興奮が一気に俺に襲いかかるブツであった……

「何、これ… アイツ変態?」

「でしょー、これさ、アイツがさ、―――」

 三ツ矢を社会人として瞬殺出来るネタを伝授される。何とも呆れ果てた奴である。商社を辞職したのではなく、論旨解雇であったという。俺の中に沸々と三ツ矢攻略のアイデアが湧き上がってくるのを抑えられなくなっていた。


「で。奥さんの件。これからどーすんの?」

 三杯目(!)の焼酎を飲み干した後、先生が徐に呟いた。

「それな… 俺、自信ないんだよ…」

 一杯目の冷め切ったお湯割を啜りながら、俺は声を絞り出す。

「何で?」

「だって、相手は誰もが知ってる有名人だし。光子の次男の父親だし…」

 先生は全く酔った様子を見せずに、

「それさっき聞いた。で、センムーはこれからどうしたいの?」

「それは… 今までみたいに… これからも…」

「でもそこには彼がいた訳だし、これからも居るんだよ。それでもいいの?」

「無理。これまでは仕方ないにしろ、これからは二度と会って欲しくない」

 親父に注文していた麦焼酎のソーダ割りを半分程一気飲みし、

「ん。じゃあまず奥さんにそれハッキリ言いなさい。いい?」

「は、はい…」

 先生は俺の目をしっかりと見つめながら真剣に言ってくれる。俺は戸惑いつつもしっかりとそれに答える。


「で。もし奥さんがソレは無理〜って言ったら、これからも彼と会うって言ったら、どーする?」

「うーーん……」

 残り半分のソーダ割りを飲み干し、お代わりを注文してから、

「別れる?」

「絶対無理」

「じゃ、受け入れる?」

「ちょっと無理」

 出されたソーダ割りをまたまた半分程飲み干してから、俺の肩に手をがっしりと乗せながら、

「受け入れろ!」

「へ?」

「あのねえ。ホントは自分でもわかってんでしょ、受け入れなければならないって事、フツーに」

「……」


 分かっていなかった! そんな風に考えるべきだという事を全く思ってもみなかった。

「奥さんだって、その元カレに会いたくて会ってる訳じゃないでしょう。息子さんのことがあるから、仕方なく会ってるんでしょ?」

「まあ… 多分」

「だったら受け入れる事! ソレぐらいの器、持ちなさい。フツーに!」

 未だかつてこんなアドバイスは初めてである。誰が間違っている訳でない、何が間違っている訳でもない、この問題の要は俺自身の心の在り方であるのだ、彼女はそう言っている。俺は愕然となって己の心の寛容度、即ち器について自問する。


「器、かあ…」

「そ。人ってさ、元々の器はみんな同じ大きさなんだよ」

 一体何杯目なの? ソーダ割りを飲み干し、すかさずお代わりを注文している…

「え…」

「ソレをさ、大きくも小さくも出来るんだよ。その人次第で」

「はあ…」

 先生は拳をドンとカウンターに打ち下ろし、

「元々大きな器なんてないっ 自分の努力で大きくするっ」

 俺はなんだか嬉しくなり、背をピンと伸ばしながら大きな声で、

「はいっ」

「リハビリは頑張んなくっていい。でも、器は頑張って大きくしろっ」

「は、ハイっ」

「よし、いい返事。大将〜 ソーダ割りまだぁー?」


     *     *     *     *     *     *


 帰宅後、いつになくぐっすり眠ることができた。スッキリした頭で翌日出社すると企画部の皆が寄ってくる。

「キンさん、体調どうですか?」

「お陰様で。昨日ぐっすり寝れたよ。すっかり元気になった。迷惑かけたね」

「良かった〜 キン様、目の下の隈取れてる〜」

 部下達の心配が胸に沁み入る。銀行員時代には有り得ない事だ。身体も心もポカポカになってきて、着込んでいたコートを脱ぎながら、

「そんな酷かったか昨日?」

「皆んなすごく心配しておりました。社長も」

「ホント、悪かったよ。さあ今年もあと二週間か。色々とやっとかなきゃいけない事もあるし。頼むぞお前ら!」

 沸々と湧き上がる闘争心を感じながら、部下達にハッパをかける。

「それって?」

「キンさん…」

「そうこなくっちゃ!」

「あの野郎。見てろよ!」

 先程までの心配そうな表情は掻き消え、燃え盛る炎が各々の瞳に灯されていく。俺は高鳴っていく鼓動を抑えながら、

「まあまあ。慌てるな。これからジックリと仕込むんだ。その時が来たら頼む。でも、今は通常業務をしっかりと、な!」

「ハイ」「ヘイ」「合点」「御意」「ラジャ」


 それでもその週は『居酒屋 しまだ』に行く勇気が俺には無かった。

 夕食をお袋と済ませた後、葵が帰宅する。すっかり受験戦士の引き締まった顔付きだ。

「葵ちゃん、お腹は〜?」

「大丈夫―。食べてきたー」

 スマホを弄っているのを覗き込むと英単語のアプリである… 自然と顔が綻んでしまう。

「勉強は進んでいるか?」

「ボチボチかな。あ、翔くんさあ、学年順位3位だって! 凄くない? あの進学校でー」

「それは… 凄いな」

「でしょー。でもね、これじゃキングには勝てないってちょっと凹んでるんだよー 意味不―」

「そんな… こっちは下町の公立中だったんだし」

 俺は確かに中学生時代、一年から卒業までずっと学年トップの成績であった。おい。その娘はどうなんだよ?

「へへ。今回頑張ったぞ。13位!」

「それは… 凄いじゃないか! 前回の40位から良く頑張ったじゃないか! これならあの都立狙えるんじゃないか?」

 大昔は超一流だったが俺の時代に凋落し、でも最近復活の兆しを見せ始めている名門都立高校、日々矢高校の話である。翔が色々とリサーチしてくれ、今一番勢いがある都立高校として勧めてくれているのだ。

「内申は何とかねー。あとは本番ですわー。あ、初詣さ、やっぱ湯島天神でヨロ!」

 我が家は代々初詣は地元深川不動と決まっているのだが、

「よしよし。学問の神に祈りに行くとするか」

 葵は満面の笑みで、

「翔くんも、ね」

「…… だよな…」

「あ。そういえば、翔くんのとこ、正月にHayato来るって! 超―楽しみなんですけどー」

 器よ器、大きくなあれ。大きくなあれ。


「そう言えば『ヴォルデモード』って最近人気ないのか?」

「うーーん。そう言えば最近全然新曲出してないよねー 私が小6の頃が最新? もう三年くらい全然かもー」

 あの夜、相模が光子に会いに来た理由― 隼人のこの数年の不振。

「そうなんだ。紅白とか出てないよな最近」

「だよねー、TVでも全然見ないしー」

「スランプなのかな? 活動中止してるのか?」

「してない、と思うー 今度翔くんに聞いてみるー」

「ああ。頼むわ」

 

 正直俺にはどうでもいい話なのだが、俺の器を大きくするキッカケがある様な気がして素直に葵に頭を下げてしまう。

「って。パパ、あの婆さんと喧嘩でもした?」

「…え?」

 流石お袋の孫。鋭さはピカイチである。

「まあ正直、下品だしババアだし。別れちゃえば?」

「… いや…」

「でも若くて巨乳は勘弁してよ。キモいから」

「だから… そうじゃなくって…」

 コイツ、ワザと煽っているのか? それとも本気で……

「あ! そうだ。ウチの国語の先生さあ、四十歳でバツイチ、優しくて綺麗なんだよー、パパ行っちゃう? 応援するよー」

 お袋がウトウト眠りから完全覚醒し、

「あら。国語の教師? いいじゃない。俳句できるかしら?」

「あれ? お婆ちゃん『光子推し』じゃなかったー?」

 

 森のリンゴ売りの老婆の表情で、

「ウフフ。やっぱり恋はライバルがいないとねえ。イヒヒ」

「えーー ウチは翔くんオンリーだしー」

「それじゃ翔くんは落ちないよお〜 もっとアンタ…」

「ゴクリ。何々〜? 教えて教えて〜」

 これ以上オンナの裏側を見たくないので、リハビリがてら外に出る。


 家から五分も歩くと富岡八幡宮に出る。この辺りは絶好のリハビリウォーキングコースだ。一礼してから赤い鳥居をくぐり境内に入る。冷え切った夜の空気が旨い。

 正月に相模と光子の息子の隼人が来るという。これまで甲府に住む長女の真琴、西伊豆に住む長男の龍二とは面識を持っている。どちらも天才肌の頭脳を持ち、性格は光子とは似ても似つかない。正直、『変人』の部類に入る。

 次男である隼人はJ-Popの有名人だ。上の二人とは毛色が全く違うのだろう。会ってみたい気はするのだがどうしても父親の相模が頭から離れない。

『器は自分で大きくするもの』

 と橋上先生は言った。全くもってその通りであろう。これまで通りに光子がこれからも相模と会う事。恐らく其処には俺が恐れている男女の関係は無いのだろう。それでも過去にその事実があった事が俺を苦しめる。

 一体どうすれば『器を大きく』する事が出来るのだろう。星が疎らに見える冬空を見上げてみる。白い吐く息が真っ黒な空に消えていく。スマホが鳴動するのを感じる。中学時代の悪友であり俺と光子の出会いを導いた高橋健太からだ。近くのスナックにいるらしい。


     *     *     *     *     *     *


「で。クイーンと喧嘩してるって、ホントか?」

 門前仲町に無数にある小ぢんまりとしたスナックのカウンターでお湯割を傾けながら健太がつまらなそうに呟く。

「で。原因は?」

 いつもより真剣だ。下町人特有の超お人好し振りでは無い。こんな健太を見るのは中学生の頃のツッパリ時代以来かもしれない。かつてこの町で暴れ狂っていた伝説の不良、クイーンこと島田光子にやはり中学の番長格だった健太が想いを持っていた事は八月の日光への集団旅行の際に知った。

 コイツには全てを話さねばなるまい。そう思い、ポツリポツリ口を開く。あの夜の事、光子の元彼の相模千明が来訪し光子が舞い上がっていた事。相模と光子が未だにちょくちょく会っていた事実。それを俺は全く知らず、光子も一切俺に黙っていた事。俺はそれをどうしても許せない事。

 珍しく健太はチャチャを入れる事無く最後まで黙って俺の話を聞く。


「そっかー。なるほどなぁ。わかる。いやよく分からんけど、わかる」

「なんだよそれ」

 健太はお湯割りを啜りながら、

「要はお前がケツの穴ちっちぇって話だろう?」

 んぐっ 身も蓋もないが、全くもってその通りなのだ。時折見せるこの健太の状況認識力の高さには時々尊敬してしまう。

「まあ、そうかな」

「テメエは里子ちゃん生きてた時に散々浮気してオンナ食い散らかしておいてよぉ」

「んぐっ」

「よく人の事言えたもんだな、キングさんよー」

「だからその名前…」

 中学時代、学業、運動に精を出し、生徒会長なぞ勤めていた頃、仲間内からそんな渾名で呼ばれていた。この歳で流石にキツイのだが、時折コイツは狙って使ってくる。

「もっとよう、そう王様らしくデンって構えらんねーかねえ。昔のお前はズッシリと腰の据わった大した漢だったんだけどなあ」

「知るか。そんな昔の事なんて…」

 健太はスマホを弄りながら、

「じゃあ、聞いてみっか? ボチボチなんだけど、おっせーな… ああ、丁度来たよー」

 入り口のドアから入ってきたのは八月の旅行も共にしたかつての恩師、金子八朗先生だった。


「そうか。光子とそんな事がなあ。そっかそっか。辛かったな軍司。よく頑張ったな」

 荒れ狂っていた俺たちの中学に赴任してから不良も優等生も分け隔たりなくそれは暑く熱く指導してくださった。健太や光子達の不良グループには力には馬鹿力で対応し、大人の本気の強さを俺たちに教えてくださった。

 真面目連中には常に夢を持たせ、背中を押し続けてくださった。卒業式の時に下さったお言葉、『お前のその凄い能力は世の人のために使え』。これまでの人生、このお言葉に沿った生き方をしてこれなかった。それでも先生は俺に『よくやった』と褒めてくださる。

 そしてまた今日も、先生は俺を優しく包んでくれる…


「いいか軍司。器なんて大きくしようと思ったって大きくなるもんじゃない。真剣に悩み、頭がおかしくなる位泣き叫んで、しばらくしたら大きくなっていた。そんなもんなんだよ」

 俺を真っ直ぐに見据えて滔々と語ってくれる。その言葉一語一語が俺の乾いてざらついた心に染み渡っていく……

「だからな。今は悩め。泣き叫べ。苦しめ。お前は強い。俺がみてきた中でもダントツの強さを持っている。だから必ず起き上がれる。そしてその時お前の器は誰もが羨むほど大きくなっている。間違いない」

 それでいいのか… 今の俺の姿そのままじゃないか… 夜も眠れず、軽い中傷に深く傷付き、か細き女性の胸で号泣し、会社の部下達に心配され…

 そんな俺でいいのですか? 悩み苦しみ泣き叫んでいいのですか?


 先生は梅酒のお湯割りを啜りながら、視線をちょっと外す。

「ただな。光子にはその苦しみをぶつけるなよ。アイツは恐ろしく強くて、悲しいほど弱い。わかるよな?」

 は? え? 光子が悲しい程弱いですと? 俺はポカンと口を開けてしまう。健太も眉をへの字に曲げて呆然としている。あの光子が弱い、そんな馬鹿な……

「え… 其処はイマイチ分かりかねます先生……」

「クイーンが弱い? 何言ってんの金ぱっつあん…」

 俺たちは思わず口に出してしまう。先生はニヤリと笑いながら又一口梅酒を啜る。


 金子八朗先生。通称『金八』先生。あの時代のTVドラマとよくぞここまで被るとは… 容姿は似ても似つかないけれど。

「いいか。あの子は… 光子は、他人の為なら途轍もなく強い。仲間、後輩、家族を守る為なら、人も殺す程に… 呆れる程、強い」

「そうですね…」

「そりゃそーだろ…」

 俺たちは頷き合いながら呟く。先生は俺たちを交互に眺め、

「だが。逆に、仲間、後輩、家族、そして愛する人間に対して、泣けてくる程、弱い」

「え?」

「は?」

 俺や健太、忍そして翔や子供達に対して、弱いとは一体どういう事なのか?


「他人を守る為にアイツはどれほど自分を傷付け苦しんできたか分かるか? なあ健太、お前は後輩の名誉を守る為にスーパーに放火するか?」

「あっ」

「会った事もねえよく知らねえ後輩の為に、パトカーぶっ壊して警官ぶっ飛ばすか?」

「うっ」

 確かに。自分の大切な後輩の為に、何度彼女は警察に補導された事だろう。そう言えば去年か一昨年、店の常連の女子を守る為に酔客を病院送りにしたらしい。大学時代の親友で今は警察官の青木の情報なのだが。ああ、青木も似た様な事を言っていた気がするー

『島田光子は生まれながらに人の為に生きている』

 と。その時はああそうだよなーとか思っていたが、こうして紐解いていくと、人の為に生きることがどれ程自分を傷付け痛め付けているだろうか。先生はそこを『泣けてくる程弱い』と表現されたのだ……

 

 先生は俺に向き直り、

「軍司には耳の痛い話だけどよ、惚れた男の家庭の為にサッと身を引いてよ、誰の力も借りずに三人育てれるか? 二十歳ソコソコの小娘が。必死で免許とってよ、トラック転がしてミルク代稼いでよ。あんな別嬪なのに水商売に走らねえで真っ当な仕事でオムツ代稼いでよ。アイツにバブルで浮かれてお前らが楽しんだ青春なんて、ちっとも無かったんだぜ」


 俺は頭を抱える。

 大粒の涙がカウンターに水溜りを作る。嗚咽が止まらない。

「その相模ナンちゃらって指揮者も光子にしてみたら守るべき存在だったんじゃねえか? 芸術家って偉大な奴ほど悩み苦しむモンなんだろ? それをよ、アイツが時には宥め時にはケツ引っ叩いて成功させたんじゃねえかな。先生はそうにしか見えねえや」

「ネットで読んだ記事に… そんなような事が書いてありました…」

「ま、当初は若かったからついそんなんなっちまって… ガキ出来て… でも今は違うと思うぞ。お前が思い悩むようなそんな関係じゃないと思うぞ」

「ハイ」

「だからな、信じろ。光子を信じろ。辛く当たるな。アイツはどうしょうもなく弱いんだ、お前に。お前がキツく当たったら、アイツは壊れるぞ。消えちまうぞ。包み込んでやれ。優しく包め。そんで、アイツの居ないところで血を吐くまで泣け! 泣き叫べ!」

「ハイっ っく……」

 先生の暖かい手が俺の頭頂部を優しくさすってくれる。健太のゴツゴツした優しい手が俺の肩を暖めてくれる。流れた涙の分だけ心が満たされていく。今夜は涙枯れるまで二人に甘えよう。

     *     *     *     *     *     *


 師走も終わりに近づくと土日も休日出勤となる。働き方改革だか何だか知らんが少なくともウチの規模の会社がこの時期休日出勤しなければ、多くのお客様に多大な迷惑をかけてしまう。それでもいいのか総務省? などと官公庁に喧嘩を売るようなことはせずになるべく均等に出社日を回して行く。

 因みに役員幹部クラスは全日出勤だ。まあ当然だ。去年も何となく毎日会社に来てボーっとしていた。今年は違う。普通に本業が忙しい上に三ツ矢問題への対応もあり毎日帰宅は終電近くとなってしまう。

 ネットへの悪評は然程燃え広がることもなく、翌週には苦情や問い合わせの連絡はほぼなくなってきている。これも余計に焦ったりせず、黙々と本業に皆が取り組んできた成果である。

 三ツ矢の攻撃(庄司曰く三本目の矢)は今は様子見、のようだ。これも庄司曰く、彼にはあと一本しか矢は残っていない(筈)なのでこちらは今のうちに土塁を盛って守備力をあげましょう、と。


「それより、クリスマス、年末年始の掻き入れどきだ、不備のない御旅行をお客様に、な」

「了解です。キン様〜 姐御と過ごされるの? クリスマス〜」

「それは… どうかな。忙しいしなー」

「またまた〜 ホントはザギンのイタ飯、予約しちゃってんでしょ〜?」

「してないし。ああそうだ、アイツ山本と過ごすって言ってたわ〜 なんちゃっt」

 突如山本くんは驚愕の表情となり、

「ひーーーーーーすんませんすんませんすっかり忘れてました〜 えーと。はい、送っておきました!」

「へ? 何を?」

「で、で、ですから… クイリスマスの夜のミシュラン三つ星の席二つ分。専務のメールに」

「え? 何で?」

「や、や、山梨で… 姉御に… 脅されました… クリスマスの夜、マゼラン5つ星のレストラン予約しておけ、と…」


 山本くんを引きずって自販機の前に行く。コーヒーを二つ買い、一本を彼に渡す

「それ、俺らはいいから、庄司と行って来い」

「へ? 何で?」

「だってお前ら… アレだろ? 最初のクリスマスくらい贅沢して来い」

「あーー、そんな金無いっす、僕ら。それに…ムフ」

 見た事のない照れた顔にちょっと吹きながら、

「な、何だよ…」

「クリスマスの晩は、彼女の手料理… ぎゃぼっ」

 あ。コイツ壊れた。

「いやいや、どうせ登山部仕込みの『山料理』だろう、いいから贅沢して来いっ」

「それは致しかねます!」

 いつの間にか背後に庄司が立っている。

「不相応という言葉があります。私達はまだ未熟者。マゼラン5つ星のレストランなぞ場違いもいいところです」

「マゼラン…… お、おう…」

「それに。私の手料理は断じて『山料理』ではありません。由緒ある近月学園一般コースで磨かれた私の一皿、今度お食べよ! ですわ」

「そーゆーことなんです。ミシュラン三つ星なんかより〜 イッヒッヒ〜 一口食べたら〜」

 成る程。悟り世代のクリスマスの過ごし方、やはり俺ら世代との隔絶感が半端ない。そういう事なら遠慮なく五十代のメリクリをエンジョイさせて貰おう。キミらは食劇でも食戟でも何でもやって板前。


     *     *     *     *     *     *


 終電前の電車に乗るのは先週以来か。月曜日の忘年会帰りの混雑に揺られながら光子に会うのは何日振りか数えてみる。四月の出会い以来、こんなにも、十日間も顔を合わせなかった事はなかった。

 先週金子先生や健太に力を貰い、今夜光子に会いに行く。駅を降りリハビリがてら階段を登り地上に出る。一つ深呼吸をする。師走の冷たい夜の空気が胸いっぱいに広がる。

『居酒屋 しまだ』までの徒歩五分がこんなにも長く感じた事はない。徐々に歩みがゆっくりとなる。店が見えてくると足が前に出なくなる。

 一組の客達が店から出てくる。見たことのない連中だ。遂に足は完全にその動きを停止してしまう。また一組、店を出る。光子の昔の仲間の連中だ。相当酔っ払っているのだろう、こちらを見ることなく去っていく。

 最後の客が出ていくと忍が暖簾を中に入れるために表に出てくる。一目で俺を見つけ、小走りで駆け寄る


「ちょっと、この寒い中… 何で中に… ふふ」

「な、何だよ…」

「姐さんさ。ここんとこずっと、暖簾は自分で中に入れてたんだよ。それも三十分は外に出たまんまで…」

 俺は思わず駆け出していた。不思議とリハビリ中の左足が痛くもなければ引きずることもなく、あっという間に店内に入っていた。


 変わらない、美しい金色のポニーテール

 変わらない、化粧っ気ゼロの美しい顔立ち

 変わらない、エプロン越しのスタイル良い体つき

 変わらない。俺を見つめる、美しく強い眼差し


「おかえり。外、寒かったろ?」


 激しく抱きしめる。激しく抱きしめ返される

 そっと忍が入ってきて荷物を持ってそっと出ていく

 時計が十二時を告げる。体を離し、見つめ合う

 すぐにお互いに吹き出す。おでこをぶつけ合う

 久しぶりのキスはタバコと酒の味がする

 凍り付いて止まったままの時計がやっと動き出す


「エライっ あの舎弟。やっぱやれば出来る子だな ギャハ!」

「お前… しかしいつの間に…」

「ま、アレだ、サプライヤーってヤツ? てへ」

 俺たちは会えなかった時間を取り戻すかの如く、凄い勢いで語り合っている。だがそれがまるで、つい昨日もそうだったかの様に思えるのが不思議でたまらなかった。

「…それよか、いいのかクリスマス。ここ、掻き入れどきだろう? 忍ちゃんも旅行行くんだろう?」

「二十五日は店閉めるし、毎年。経験なクリスチアーノだからな、ウチは」

 ホントかよ? 前、店閉めるのは正月だけって言ってなかったか?

「…そうか、ならいいんだが。あと、その、着てく服、な… お前、ちゃんとした服持ってるか?アレなら明日にでも買いに行くか?」

「馬鹿にすんない! フォーミュラーの一つや二つ、ちゃんと持ってんだよ」

「……ならいいが。俺は仕事終わってから直で行こうと思ってんだけど、ちゃんと来れるか?」

「そんなん、その辺で聞きゃあわかんだろ。何せマゼラン5つ星だからなっ」


 それは無い。断じて無い。俺は心底心配になって、

「…… 明日、地図を翔に送っておくから、コピーしておけ…」

「へへへ〜 夢だったんだよ… こういうの…」

 不意に光子のモードが山ノ手モードになる。思わず顔が綻んでしまう。

「バブルの頃とか流行ってたじゃない、クリスマスは恋人と高級レストランとかホテルとか…」

「…ああ」

「私には関係ない、そんなガラでもない、そんな身分じゃないって、諦めていたの…」

「…そっか」

「へへへ〜 今年、また夢が叶っちゃうんだ… 嘘みたい」

「明後日、いや明日か。雪でも降るといいな」

「それって〜 スノークリスマスって言うんだっけ?」

「ホワイトクリスマス」

 結局その晩は朝まで二人で語り明かしてしまった。


     *     *     *     *     *     *


『アンタが、アンタがあんなこと言うから! バッキャローー』

『…すまん。って、俺のせいかよっ』

『アンタさあ、生まれた日とか大雪だったんじゃね? アンタといると、雪が付いて回るじゃん』

『ああ、そうかも知れんね。それよりどうだ電車は?』

『ダメダメ。何故か地下鉄まで止まってるわ。バスも長蛇の列だし。タクシーも全然〜 しゃーねーから歩いてくわ〜』

『ハア? 銀座まで… どんだけかかると思って…』

『仕方ねーだろ、テメーのせいで豪雪なんだから。なーにがホワイトクリスマスだよっ ま、永代通りから鍛冶橋通り抜けりゃ、小一時間だろ。じゃあな、後でな〜』

『おい、ちょっと待…』

 一方的に電話が切られた。俺は深い溜め息を吐き、窓の外の降雪を恨む。


 天気に精通している我が社の山岳部隊によると、この雪は深夜まで降り続けると言う。とても家まで帰れそうにない。山本くんにある事を耳打ちすると凄い目で睨まれる。再度耳打ちするとそれは恐怖の色に変わり、慌ててノートパソコンを叩き出す。五分ほどで俺を恨めしく見上げる。感謝の言葉を耳打ちすると、少しはにかんでいる。

 時計を見ると五時。店は銀座の伊東屋の近く、予約は六時。こちらは有楽町から歩いて十五分程か。まあアイツの事だからうまくタクシー拾い上げるだろう。

 メールの整理をし終わり時計を見ると五時半。窓を見ると朝から変わらず降り続ける雪。ちょっと早いが会社を出ることにする。予定の無い独身の男女社員の厳しい視線を無視し、エレベーターで一階に降りる。

 普段会社にはジャケットにチノパンなどで来るのだが、今日は超一流店なので久しぶりにスーツで来ている。が、朝から大雪であったので、スノーブーツを履いている。革靴はカバンの中だ。店の入り口で履き替える姿を想像し、改めてあの夜の妄言を反省する。


 こんな気象状況にも関わらず、店内は満席である。よくぞ山本は席を確保してくれたものだ。なんとかスノーブーツを革靴に履き替え、席に案内して貰う。時計を見ると六時ちょっと前。アイツまさか本当に歩いてくるんじゃないだろうな…

 クリスマス故に二時間半の時間制限がある。なので三十分以上遅れるとコース料理に支障を来すのだが、光子は無事にこの店に来れるのだろうか…

 非常に几帳面な性格なのだが新しいもの、特に電子機器には疎く、未だに彼女はガラケーを使っているのでマップ機能とかラインとか利用出来ない。翔に描いてもらった(コピーでは分からねえ、とマジで紙に描かせたらしい)地図を片手に、この大雪の中を彷徨っている姿を想像し、思わず席を立ちフロント近くで電話をかける。

 この日、この時間、この天候。電話が混み合っていて全く通じない。外に出て迎えに行こうと思ったその瞬間。


 まるでその出で立ちは八甲田山の死の雪山行軍を彷彿とさせるものだ… 頭から… 所謂ポンチョを被り、勿論迷彩柄の、顔には大きなゴーグル。そして両手には登山用の杖、所謂トレッキングポールを持っている!

 世界の一流人に通用するサービスが自慢のフロントのスタッフ達は凍りつき、彼女に声をかけることすら出来ない。

 ここまで突き抜けると笑いしか出てこない。ミシュラン三つ星に舞い降りた謎の宇宙人。どう見ても侵略者にしか見えない。

 俺は笑いを隠そうともせず腹を抱えながら彼女に近づく。

「お疲れさん。ホントに歩いて来たのか、その格好で?」

「ハーー、死ぬかと思ったー 何笑ってんだテメー。ちょ、これ脱ぐの手伝ってくれい」

 頭と肩に積もった雪を払い、迷彩柄のポンチョをゆっくりと脱がせてや……


 言葉を失った。


 迷彩柄から現れたのは、金色の女神だった。


 フロントスタッフ達が再度凍りつく。それはすぐに溜息と共に解除され、彼女に近付いてくる。彼女が差し出すトレッキングポールをさながら黄金の杖の如く恭しく受け取る。バッグからハイヒールを取り出すと一人がサッと受け取り、彼女の足元に揃える。

 彼女が片足を上げると一人がスノーブーツを丁寧に脱がせ、ヒールを履かせる。もう片足をさっと上げると他の一人がブーツを恭しく脱がせ、ヒールを捧げる。

 その姿、その立ち振る舞いは間違いなく女王だ。

 ヒールを履き、俺に向き直る。

 いつもはポニーテールに結ばれている髪は光り輝き胸元から肩にかけて垂れ下がっている。真っ白のワンピースが外の雪よりも白く輝いている。胸元のパールのネックレスは彼女の傲慢なまでの美しさをそっと抑える役割を果たしている。

 

 そして… 美しく化粧されたその顔… こんな美しい女は未だ嘗て見たことがない。潤んだ形のいい目は薄く縁取られ見たものを魅了せずにはいられない。柔らかな唇に施されたリップは白の服によく合った高貴な色だ。

 そっと左腕を差し出すとはにかみながら腕を取る。フロントのスタッフは大袈裟でなく全員腰まで頭を下げている…

 支配人に導かれテーブルに向かう。どのテーブルからも『ああ…』『おお…』という溜息が聞こえてくる。スマホを向けてくる客までいる。

 この瞬間。この店は女王に平伏した。


「しかし… あの杖、どうしたんだよ。まさか途中で誰かからカツアゲしたんじゃ…」

「そんな訳ないでしょ! 昔から忍とちょいちょいハイキングとか行ってたのよ。」

 完全に山ノ手モードの話し方だ。普段とのギャップにクラクラしている…

「このスープ! すっごく美味しいー ウチでも作ってみようかな」

「是非頼みたい。出来るものならば」

「あー。馬鹿にしてっ あ、ねえ貴方、このスープの裏ごしはーー」

 どうやら本気らしい。やれば出来る娘、なのかどうか…

「このお肉! 口の中で溶けちゃうよ、信じられない」

 …… この笑顔… 本当に胸がドキドキしている。さっきから食事の味が全くわからない…

「ねえ、どうしたの? お腹空いてないの?」

「違うんだ」

「ん?」

「お前に… キミに恋してる様なんだ。キミを見ていると胸が苦しくって、さっきから味がしないんだ…」

 まるで古い恋愛映画のセリフの様な戯言しか口に出来ない。だが女王様はお気に召した様で、

「ふふふ。私も貴方に恋してるわ。昔からずっと…」

「本当かい?」

「そして、これからもずっと…」

 夢の時間はまだ終わらない。いや、終わらせない。


     *     *     *     *     *     *


「ホント美味しかったね。山本くんに感謝、感謝!」

「それは良かった。ところで… この雪さあ、深夜まで止まないって」

 レストランを出ると、一面の銀世界。雪も一向に降り止む気配すらない。

「そっか。どうしよう。電車もバスもタクシーも…」

 学生時代以来の緊張感だ。女をホテルに誘うのがこんなにもドキドキするものだったのか。

「その有能な山本がさ、取ってくれたんだけど」

「え? 何を?」

 口の中がからっからに乾いている。思わず声が上擦ってしまいながら、

「すぐそこの。マンドリアホテルを」

「うそ… 嘘でしょ?」

 心拍数はかつてないほど上昇している。耳まで真っ赤になっている筈だ。

「どうかな、朝まで、一緒に…」

「…… うれしい。」

 嬉しそうに体を密着させてくる。左手を彼女の肩に回す。金色の頭が俺にもたれかかってくる。


 シャワーを浴び終えた彼女がベッドに入ってくる。左腕を伸ばすと頭を乗せ深く息を吐き出す。言い忘れた事を思い出す

「頼むからー」

「なに?」

「ヒザ蹴り。今夜は勘弁な」

「ひどーい」

 熱い口づけを交わす。もう何も考えられない…


 何度目かの後、窓の外に雪の止む音を聞いた気がした。


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