鏡の中のあなたに恋をした
彼女の髪は長い。
侯爵家に産まれた少女は、周囲の人々から花のように育てられた。
雪のように白い肌は毎日丁寧にお手入れをしてもらい、体が丈夫になるよう適度な運動と栄養のある食事を与えられ、様々な稽古や勉学に励み、美しいプラチナブロンドは長く艶やかに伸ばされた。よって、誰もが羨む賢い美姫になるのは当然で、そんな彼女の両親は娘を誇らしく思った。
しかし、鏡の中の彼女は髪が短い。体型も彼女よりも随分と細めで、ブルーの目も暗く、服装もどこかみすぼらしい。
実は、その鏡というのも、屋敷の忘れられた物置にあった古ぼけた姿鏡だった。
少女が鏡を見つけたのは八つの頃だ。物静かな彼女もそれくらいの時は好奇心旺盛で、よく侍女の目を盗んでは屋敷を探検した。
侯爵家の屋敷はそれはそれは立派なものだから、行ったことのない部屋はたくさんあった。しかし、あの物寂しげな扉を見つけた時、他にはない特別な魅力を感じてしまったのだ。
彼女はゆっくりと扉を開け、埃だらけの物置部屋を見渡した。
すべての荷物の上に布が被せられていて、何が置いてあるかはわからない。埃とは殆ど接してこなかった少女は、勿論すぐに部屋を後にしようとした。
こんなところがあるなんて知らなかった。今夜お母様に尋ねてみよう、と。だが踵を返す前、少女はある一点に目がいった。
それだけには、布は掛けられていなかった。掛けようとするにも一苦労するであろう、大きな姿鏡。少女はゆっくりと足をそちらに向け、灰色なった茶色い筈の床を、赤い靴でこつこつと鳴らした。
どれだけの長い間忘れ去られていたのだろうか。それは鏡に何も映れないくらい、埃に覆われている。少女は特に何も考えずに、自分の白い手袋をつけた手で埃を拭う。
鏡に映るのは自分と背後の景色の筈だ。だが、それに映るのは、自分にそっくりな顔と色の、みすぼらしい身なりの人。
鏡の中の彼女は目が合うと、驚きひとりでに目を見開く。
「きみはぼくなの?」
「あなたはわたくしなの?」
よく似た声が重なった。
鏡越しの不思議な出会いは、こうして始まった。
少女は、あの日から一日も欠かさずに鏡の自分に会いに行った。
出会った翌日は姿鏡に何も映らなかったが、またその翌日に、鏡の向こうにも時間と都合があることを知る。それからは同じ時間に会うことを約束し、互いの都合が合わないときは時間をずらして会いに行った。
鏡の中の自分は色んなことを知っていた。
例えば、村の人の暮らしだ。普通は文字も読めないのだと聞かされたとき、大きな衝撃を受けた。
「ぼくはね。いつか騎士になりたいんだ」いつか彼女はそう語った。「文字をきみから教わるのも、興味があるのもあるけど、一番は騎士になるためなんだよ」
「どうして騎士になりたいの? 彼らのどこがいいのかしら。わたくしにはよくわからないわ」
「うん。きみはお姫様だもんね。近くに騎士がいるからそう思うんだ。意外ときみの外の世界は騎士に憧れているんだよ。まあ、ぼくはそれだけじゃないけれどさ。ぼくね、本当なら生きてる人間ではないの。ある騎士がいなければね。彼は幼いぼくを助けてくれた。そのせいで、彼は騎士を辞めざるを得なくなったけど、それでも彼はずっとかっこいいんだよ。あんな騎士になりたい。彼がやり残したものも、ぼくがやり切りたいと思うんだ」
気付けば、あんなに暗かった目は輝き始めていた。
鏡の中のその人はめきめきと成長していった。おかげで、あの人が実は男性だったことに気付けた。
女騎士だなんて珍しいとずっと思っていたが、そういうことかと納得がいく。声もどんどん低くなって、清廉な顔立ちは、昔の面影は残すものの、そこまで自分とは似なくなっていた。
かわって、彼女は女性らしく体つきが丸くなり、初潮も迎えた。
彼女の周辺には女性ばかりで、男性と言えば父親か年増の騎士かだ。同世代の異性と言えば、目の前の鏡の人しかいない。が、理由はそれじゃあない。
そう、少女は鏡の中の彼に恋をしているのだ。
体格差を感じるずっと前から、自身の恋心には気付いていた。女性同士なんていけないわ、と悩んでいたほどに。
そして彼も少女と同じ気持ちだった。お互いの気持ちも解りあっていた。
たとえ実際に触れ合えなくとも、鏡越しに手を重ね、唇を重ね、愛し合った。だが少女ももう16歳。結婚適齢期である。
両親は、彼女のために素敵な殿方を婚約者に据えようとしていた。
この日も鏡越しにキスをしていた。至近距離で視線を交わせて微笑み合い、また唇を重ねる。固くて冷たいキスだけど、幸福な気持ちは他の恋人達と変わらないだろう。
「会いたいよ」
「私も会いたいわ」
ここまでの一連の動作がいつもの挨拶だ。額を合わせたら胸の苦しみが相手にも伝わるのか、二人して同じような表情をしている。
どこにいるかなんて聞けるわけがない。もし自分の生きる世界にいなかったら、あまりにも不毛だから。
特に少女の国では、貴族も平民もお見合い結婚や親同士の決めた結婚というものが常識なのだ。恋愛結婚だなんて、昔書かれた本の中の夢に過ぎない。
お見合い結婚だと男尊女卑が強く、女性には選ぶ権利もなかった。
「今日は何の話をしてくれるの?」
二人は隣同士となるように座って、鏡に体をあずけていた。
「そうだね。ニュースでもどうかな。いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
「良いニュースからお願い」
「実はね、今日、主から正式な騎士として叙任されたんだ」
彼女は驚き、体を起こして彼の目を見つめた。「おめでとう! 夢が叶ったわね!」
「小姓になったのは九のときだったから、ここまで来るのにきっともっとかかるだろうと思ってたけど……。この報せをきみに伝えたいという気持ちと、ひたすらに『彼』の背中を追っていったら、通常よりも早く一人前として認められた。普通はまず有り得ないことなんだって。きみのおかげだよ、ありがとう」
「いいえそれはひとえにあなたの努力の成果よ! ああ、今日はとっても素敵な日ね。もう一度キスしましょう」
くすくすと笑いあって、座った体勢のままキスを交わした。
「それと、悪いニュース」彼は浮かない顔で目を伏せる。「きみは、マリア……マリア・フォン・ランブルクだね。まさか侯爵家の令嬢だったなんて」
少女は目を見張る。「どうしてそれを?」
「巷ではきみはすっかり有名人だよ。社交界の噂が庶民に流れることはそうそう無いけれど、きみの噂がここまで来た。きっと屋敷の侍女たちが、貴族の会話を聞いて色んな人に話してしまったのかな」
彼の憂いの帯びた瞳は、長い睫毛で影が出来ていた。自分の噂が彼の耳に入っているということは、同じ世界に住んでいる。彼女はどうしても、それが悪いニュースに聞こえなかった。
「長い髪にブルーの瞳の美しい人なんてきっとこの世にはたくさんいるから、噂を聞いた時もまさかきみのことだとは思わなかった。けれど今日、式のあとで孤児院に行ったとき、野次馬に紛れてきみを見た。ぼくを野次馬に連れた友が、きみが噂の侯爵令嬢だと教えてくれたんだ」
「ええ、今日は視察に出ていたの。私の亡き祖母が残した孤児院に。私の祖母は貴族らしくない振る舞いばっかりだったと聞かされるけれど、祖母はとっても素敵な人なのよ。大切なことをたくさん教えてくれた。子供が大好きな、お優しいお人。あの方が修道会に建てさせた孤児院にはひと月に一度必ず見に行くの。野次馬というのは、馬車を降りるときのことかしら……。でもまさか、そんなところで」
彼はそこの孤児院出身だった。孤児院なんてこの州にしかない。孤児となってしまった子供たちは運が良ければそこに行けて、悪ければ野垂れ死にか教会にあずけられる。
国内の子供の死亡率は国問題となるほどだ。国も見かねたのだろうか。孤児院の設立により彼らの死亡率は年々減少していた。
「ぼくの主人は、きみの領の隣に位置する領地の主だ」
マリアは目を見張る。「まさか、ゲルン公爵?」
「そうさ」彼は微笑むが、どうも上手くなくて、悲痛なものになった。「何をどうしても、きみと一緒にはなれないんだ。もう少しで、この鏡とも、お別れしなければいけないから」
「嫌よ……。そんなの、嫌! だって私、毎日あなたに会えなきゃ、どうしようもないの! もう、あなた無しの生活なんて考えられないわ」
「それでもだよ、マリア。ぼくは孤児上がりの騎士さ。身分が違い過ぎる」
少女はいやいやと首を横に振った。「私はあなたを愛しているの!」
「ぼくも愛してる」彼は、やっと自然に笑った。「ねえ気付いた? ぼくら、初めて言葉にしたよ。皮肉な話だよね」
少女には信じられなかった。どうして彼は笑っていられるの。どうしてこんなことになってしまったの。
頬に涙がつたっていることも気付かないほど、彼女の心はぐちゃぐちゃに荒れていた。
「……ぼくは、きみの涙も拭えない男だよ。愛しい人が泣いているというのに、抱きしめてもやれない、最低な男だ。忘れてしまえばいい」
「ええ……そうね」
覚悟していた。ここまで早くこの返事が来るとは思っていなかったが、それでも必ず説き伏せる気でいた。しかし、実際彼女から聞いてしまうと、胸が張り裂けそうになる。
「最後の餞別に、お願い。あなたの名前を教えて?」
二人は、互いの寂しそうな瞳を見合わせた。
「パウル」
彼女の髪は長い。
侍女には毎朝苦労をかけていることだろう。早朝に出掛けなければならないこの日なんて、特に皆忙しい。
『ゲルン公爵の嫡子、エーベル卿へ嫁ぎなさい』
そう言った父親の、穏やかな表情が憎い。
『愛してる』
そう言った彼の、優しい笑顔が憎い。
誰もかれも、皆自分勝手だ。それは彼女自身も変わらない。
これから公爵家に嫁入りするというのに、彼が愛おしくて涙が止まらない。いつも以上に美しく飾られた自分の姿を、化粧台の鏡で見てしまってから、ずっと泣いている。
折角侍女が施してくれた化粧を、愛が全て流してしまった。
嫌がってはいけない。両親が取り付けてくれた、素晴らしい縁なのだ。しかし、誰も見ていないところで、独り自分を抱きしめることくらいは良いだろう。
どうして、よりによってエーベル卿なの。
あなた以外はいらないのに。
整えてくれた髪だけは綺麗なまま、化粧は崩れていった。
二つの季節が過ぎた。
豪華絢爛な屋敷についてる広大で静かな庭で、彼女は夫の隣を歩いている。
「マリア、見てごらん。白い蝶だ。ああまて、足元に気を付けて。全く、我が妻は目が離せないな」
幸せそうな笑顔で、夫は彼女の手を取る。マリアは彼の手を振りほどくことなく、夫の見つけた白い蝶を眺め続けていた。
女性のようにしなやかな手の持ち主とは、毎晩のように夜を交わした。愛されている。そう、確かにマリアは、この夫に愛されている。
しかしマリアは、婚約した日からずっとぼんやりしている。いつも心ここにあらずの状態で、元気がない。
とはいえ幼い頃から彼女を知る侍女は気付いても、その婚約した日に初めて会った夫が知るはずもない。妻はおっとりした人なのだと思い込んでいる。たまにはにかむ姿が心を惹くらしく、夫はそんな彼女を愛した。では自分から甲斐甲斐しく世話をするほどだ。
彼女は足を止めて、白い蝶の行く先を見守った。ひらひらと舞い飛ぶ蝶はどこまでも自由で、やがて柵の向こうへと飛んでいってしまった。
一つ、ため息をついて視線をずらした。
だが、目があるものを見て止まる。
「エーベル様」
夫は目を見開き、そして心底嬉しそうに微笑んだ。「なんだい、マリア」
「彼は……彼らは、何をしているのですか?」
マリアが見ているのは巡回中の騎士達だった。少しのずれもなく動きを合わせ、行進している。
「ああ、見廻りだよ。屋敷に忍び込む不届き者がいないか、ああやって見ているのさ。彼らがああしているだけで、大半の招かれざる者たちは逃げていくものなんだ」
「そうですか……」彼女はじっと騎士を見つめている。
「どうしたんだい、マリア」
ようやく彼女は夫を見上げた。「いいえ、この静かな庭には似つかわしくないものだと思いましたの。……少し、肌寒くなってきましたわね」
「ああ、そうだね」彼はマリアの腰に手を添えた。「中へ戻ろうか」
二人は騎士達に背を向け、屋敷へと足を進めて行った。
鈴虫がりんりんと鳴く夜更け。肌触りの良い毛布を直に感じながら、間近にある夫の寝顔を見つめていた。鼻先を二度つついてみたが、起きる気配はない。
マリアは体を起こして、ベッドの上に放ったらかしにされていたネグリジェを身につける。そして、外の空気に当たりにバルコニーへ出た。
庭を眺め黄昏ていると、噴水前に人影を見つける。
マリアはすぐにバルコニーを離れ、ガウンを羽織り扉を開けた。すると、すぐそこにいた警備の騎士が驚いた目で彼女を見た。
「どうかなさいましたか、奥様」
「い、いいえ……。少し、庭を散策しようかと思ったの」マリアが咄嗟に思いついた嘘は酷いものだった。
「もうこんな時間ですよ」
「そうよね……ごめんなさい。大人しく寝ることにするわ」
「それが賢明でしょう。おやすみなさい」
「おやすみ」
マリアは扉を閉めるとそれに背をあずけ、ため息をついた。夫の様子を眺めるが、起きる気配はない。
騎士の言う通り寝てしまおうかと考えた時、開けっ放しにしておいたバルコニーが目に入った。否、正確には、バルコニーのすぐそこにある木にだ。
彼女は意を決し、再び夜の月の下に体を晒した。木登りだなんてはしたない真似、生まれてこの方一度もしたことがない。
それでも彼に会いに行きたい。
慎重に木へ移り、手探りで下へと降りていく。地面に足がついてようやく、自分が裸足のことに気付いた。
後でどこかで拭けばいいと楽観視し、そんなことより早く、と駆け足で庭を突き抜ける。気持ちの焦りと共に、速度も上昇していく。
音の異変に気付いた彼が振り向いた瞬間、彼の胸へと飛び込んだ。
「パウル!!」
「マリア! どうしてここに!?」
狼狽する彼だが、しっかりとマリアを抱きしめていた。
「ああ、会いたかったわ……。ずっと、ずっと会いたかった」マリアは彼に体を預けた。
「ぼくも会いたかったよ……。いいや、本当は会っていた。一方的だけどね、きみをずっと見ていたんだよ。最近、きみはまた一段と美しく、色っぽくなった。……旦那様のおかげかな」最後の台詞のときだけ、パウルは寂しそうに顔を歪めた。
すると突然、マリアは彼の顔を両手で押えて強く唇を押し付けた。すぐに唇は離すが、背伸びしたまま、顔を近づけたままだった。
「愛してる、パウル……。あなたしかいらないの。あなたのそばにいたいの……!」
「そんな、マリア。誰が見てるかわからないのに、んっ」
彼女は再びキスをした。今度は長く、深く。パウルもまんざらではなく、キスを快く迎え入れ彼女の腰に腕を回した。
ゆっくりと唇を放すと、名残惜しげに額をこすり合わせた。
「私をさらって……、パウル」
「出来るのならもうしてるさ」彼は肩をすくめた。
「騎士のくせに度胸がないのね」
「誰もきみほどはないよ。ああでも……」パウルの瞳には涙が浮かんでいた。「こんなに触れたかったんだ。眺めているだけで充分だと自分に言い聞かせて、嫉妬に狂いそうな心を押し殺して……。きみに触れることが、こんなに幸せなことだったなんて。知らなきゃ良かったよ」
「どうして?」彼女は静かに尋ねた。
「……知らない方がきっとまだ幸せだったさ。これからはもう、きみのぬくもりを忘れられないまま、きみが他の男に抱かれるのを指咥えて見守らなきゃならないんだ」
「あなたが私を奪ってさえくれれば、すべて丸くおさまるのよ」
「事態はそんな簡単ではないんだ、レディ」
マリアも目に涙を溜めた。「ではこのままなの? あなたがすぐそこにいるというのに、私達、結ばれないの運命なの?」
「そうみたいだ……。さあ、体が冷えてしまう。寝室に戻りなさい」
「また会いましょう……? 明日のこの時間に、ここだとあなたの懸念する通り誰が見てるかわからないから、あの離れで」
「いいやだめだ。もうぼくらは会うべきじゃあない。ぼくのことは忘れて、幸せになって」
「私の幸せはあなたの隣にあるのよ。そんなこともわからないの? あなたが会いに来てくれなきゃ、私は一生笑うことはないわ」
「困ったお姫様だ……」
二人は似たような表情で微笑み合い、体を離した。二人の間に入り込む風が、妙に冷たかった。
それからというもの、二人は毎晩逢瀬を重ねた。時には離れで、時には草影で。その時だけは、マリアの心は満たされた。
逢瀬と言っても、肌を交えることはなかった。それはパウルが頑として拒んだ。時折キスをしながら、会話をするだけの逢瀬。
マリアはそれでも構わなかった。
彼と手を繋げる。彼の体温を肌で感じられる。その奇跡を、涙をこらえるほど幸福だと思ったのだ。
この日は、冷えてきたから少し着込んで行こうとした。風邪をひいたら彼に会いに行けないから。
浮かれて歌も口ずさみながら、次々と服を着ていく。彼女は気付かない。その背後で、ゆっくりと体を起こす影があるのを。
「そんなに上機嫌になって、どこへ行くつもりだい」
咄嗟に身を翻すものの、もう遅かった。
「旦那……様……、起きていらっしゃったの? いいえ、わたくしはただ、服を着ているだけですわ。少し寒くて、目が覚めてしまったんです」
「きみが毎晩どこかへ行ってることはもう知っている」昏く、冷たい瞳がマリアを射抜いた。「おっとりと可愛らしい妻だと思えば、とんだ淫乱女だな。どんな男と会っているんだい」
「……淫乱女が嫌ならば離縁すれば良いでしょう。わたくしは構いませんわ。お父様とお母様にはきっと失望されるでしょうが、わたくし、本当は家なんか大嫌いですもの」
「質問を聞き間違えるな、マリア。どこの誰と会っているのかと聞いている」
「月の住人とでも言いましょうか、エーベル卿。それとも、鏡の国の住人?」
「ふざけるな!」
寝室に、乾いた破裂音が響いた。じんじんと、マリアの頬が赤く痺れる。
マリアの目からは生理的な涙が流れるが、エーベル卿の怒りは収まらない。
「いいかい……、マリア。きみは私の妻だ。私はきみを愛している。毎日、日を重ねるにつれて、この愛は膨れている。さあマリア、素直に言ってごらん。何が不服だ?」彼の口調はあくまで紳士的だが、目つきは野獣そのものだった。
「……私を満たせるのはあなたではないわ、エーベル卿。残念だけど、あなたには何の落ち度もないわ。これは私の問題なのよ」彼女は一度、自分を落ち着かせるために深呼吸をした。「追い出したければ追い出してくれて構いません。しかし、同時に彼を連れて行くでしょう。わたくしは彼がいなくては生きてはいけませんの」
「きみを誑かしたのは誰だ」
「誑かされてなんかありませんわ……。彼とは、あなたと会う、ずっと、ずっと前から愛し合っていましたもの」
再び、寝室に乾いた音が響く。
「私の質問に答えなさい」
「何をされても答えません。何度わたくしをぶとうと、蹴ろうとも、あなたに彼の名を明かす日は来ません」
強引に手を引かれ、ベッドに押し倒された。無理矢理服を引きちぎられて肌が晒されるが、依然として彼女は口を閉ざしている。
「私を怒らせるべきではなかったな、マリア」
「体ならいくらでも好きにして構いません。どんなに嫌でも、あなたはまだわたくしの夫ですもの。しかし、心だけはあなたのものにはならない」強い意志で、エーベル卿を見上げた。
彼の瞳が揺れる。口の端から乾いた笑いが漏れ、苦しそうに眉が下がる。
「そんなにきみは…………ああ、もうどうでもいい……」
首に噛み付かれた。いつもの甘噛みとは訳が違う。血肉をえぐらんばかりの強さで噛まれ、細い悲鳴が上がった。彼の手が不埒に身体を這う。
知らず知らずのうちに涙を流しながら、彼女は満月を眺めた。
───あなたに会いたいわ、パウル……
もう、夜明けに近かった。疲れて死ぬように寝た夫と同様に、マリアも疲れていた。しかし、彼女は体の汚れを拭い、ぼろぼろの服を着た。
彼がまだ待っている保証なんてどこにもない。それでも、行かないわけにはいかなかった。
痛む体に鞭を打って、慣れた様子で地面へと降り立つ。今日の待ち合わせ場所は、敷地内にあるあの教会。
乱れる息もそのままに、必死な思いで扉を開けた。
昇る朝日が、荘厳なステンドグラスを通して、その人を照らしていた。祈るように席に座っていたその人は、音がしてすぐに立ち上がる。
「マリア、その格好……」
引き寄せられるように互いが近付き合い、マリアは彼にもたれるようにして床に座り込む。
「ずっと、待っててくれたのね……。ありがとう……ありがとう……」
「マリアまさか、旦那様に……!」
「私が迂闊だったわ。最近、彼が起きていないか確認し忘れていたの」
「なんて酷いことを……怪我を見せてごらん」
マリアは全て彼に任せた。体中に散らばる青い痣や、強く噛まれ滲む血、何度も叩かれたような赤い跡。全てを彼に見せた。
「夫は壊れてしまったみたい。もしかしたらもう、部屋に監禁されてしまうかもしれない……、そうなる前に、あなたに会いたかった……」
「なんて危ない真似を! ああマリア、そんな……」パウルは、彼女の怪我が痛まないよう優しく抱き寄せた。「辛かっただろう……なんで……こんな酷いことが出来るんだ……」
「あなたの名前を聞き出したかったみたいよ。でも、言ってやらなかった。これからも教えてやる気はないわ」
「待ってくれ、それじゃあまるで、きみはぼくを守るためにそんな怪我を……」
「勲章みたいなものよ。私はあなたを守りきったわ。彼は今、疲れきって、ぐっすり寝てる」
「なんて馬鹿なことをしたんだ!」珍しく、彼が声を荒らげる。「ぼくの名前なんてさっさと言ってしまえばよかった! こんなことになるなんて……」
「ねえそんなことよりパウル、まだ聞けてないわ。あなたって、たまに大事なことを忘れるのね」
マリアと同じ髪色の彼は、ぐっと眉を寄せ、あくまでも彼女を強く抱きしめすぎないようにして、掠れた声で言った。「愛してる……マリア……」
彼女は、心から幸せそうに微笑んだ。「私もよ、パウル。愛してるわ」
少しの間互いの鼓動を感じ合うと、彼はゆっくりと彼女を放し真剣な面持ちで顔を見た。「逃げよう……どこか遠くへ」
「事態はそんな簡単ではないんじゃなかったの?」マリアはいたずらっぽく笑う。
「ああそうだ……。けど、ここにいる限り、きみはずっと傷つかなくてはいけないことになる。……そんなの、ぼくは耐えられない」
「けれど、どこへ行くのかしら。私達、何も持ってないわ」
「ぼくは強い。何とでもなる。さあ、愛馬のもとへ案内しようか」
彼はマリアの手を引いて立ち上がった。しかし、彼女はそこから動こうとしない。
「あなたらしくないわ、パウル。私が無茶を言って、あなたがそれを嗜める。それが私達じゃなかったの?」
パウルは彼女と向き合い、悲しげに顔を歪ませた。「きみを幸せにしたいんだよ……!」
「私はもう幸せよ? こんなにあなたに愛されてる……。私、それだけでいいの」
怪我のことも忘れて、衝動的に彼女を抱きしめた。「なら、共に生きよう。きみは、外の世界にずっと憧れていたね。どこかの街で食堂を経営するのもいい。経営が軌道に乗るまで、ぼくが傭兵にでもなってお金を稼ぐから」
「素敵な話ね……。でも、賛成しかねるわ。だってそれじゃあ、あなたが騎士をやめなきゃいけなくなる」
「愛する人すら守れなくて何が騎士だ!」
「あなたがどれだけ騎士に憧れていたか……私がよく知っている。それにね、パウル。きっと何をしても上手く行かないわ。エーベル卿は次期公爵よ。国一番の大貴族なのよ。……永遠に逃げ続ける生活をして、いつか捕まって、処刑される運命が目に見えてる」
彼の目からついに涙が零れた。「諦めないでくれ……、マリア」
「でも、逃げる案はとてもいいと思ったわ。……ええ、素敵。私達の最後の逢瀬の舞台が、なんたって教会ですもの」
「マ、リア?」
彼は、目の前の恋人の考えがわからなかった。マリアがあんまり無邪気に笑うものだから、彼女が手から離れて祭壇の前に近付いても、ぼーっと立ち尽くすだけだった。
「パウルに鏡越しに会えた……、それが、私の人生最高の幸運でした」
服の中に忍ばせておいた、鋭い短剣。護身用のために、と母から譲り受けたものだ。
祭壇の前で膝立ちになると、ゆっくりとそれを自分の喉元に向ける。
「待て、待ってくれマリア!!」
パウルの手が伸びる。
祭壇に、鮮血が散った。
主の髪は長い。
彼女の髪を今日はどのように纏めるか考えるのが、いつの間にか自分の趣味となっていた。
公爵家嫡男の妻の侍女を、彼女が幼い頃から務め続けてもう二十年になる。彼女は侯爵家の生まれで、花よ蝶よと育てられてきた。
しかしある日、教会に血を残して、主は、しがない騎士と共に常世の闇に消え去った。血は移動する時に止血したため、祭壇付近で止まっている。
彼女の夫は、それは怒った。国中を捜し、彼女と、彼女を連れ去った男を見つけ出せと血眼になっている。柔和な男も、愛に狂うことがあるのだ。
専門家の話だと、祭壇付近に残った血の量からして、出血者の生存はまずありえないらしい。
鉢植えすら持ち上げられない彼女が、負傷した騎士を連れ出すことはまず出来ない。ということは、傷を負ったのは彼女。
奥方はもう死んだものと考えた方がいい、と様々な人から言われる旦那様だが、それでも彼は諦めない。誰よりも愛してる。例え遺体であろうとも、彼女は絶対に我が腕に戻す。そう、語っている。
しかし、それが叶うことはないだろう。
主が行方不明になりお役目御免となった今、侍女は馬車で実家へと戻っていた。
侍女は辺境伯の生まれだった。辺境伯とは言え七女である彼女は、優しい両親に「婿を探してこい」と侯爵家に送られたのだ。ちなみに、婿は勿論子供も既にいる。今は侍女の実家で、両親や姉夫婦たちと楽しく過ごしているはずだ。
それでも侍女が主から離れなかったのは、単純に主を愛していたからだ。花よ蝶よと育てた者達の一人に、侍女も入っている。
さて今日の髪型はどうしようか、と考え始めたとき、馬車が止まった。
外へ出ると、懐かしの我が家。出迎えてくれたのは、夫と、四人の子供たち。
それぞれとキスを交わし、最後に夫と抱き合った。
「あの方は今どちらに?」
「お医者様に首元の怪我を診てもらっているよ」
彼は小声で、且つ茶目っ気溢れる表情で答える。これでもう四十代……四捨五入したら五十歳だというのだ。世は恐ろしい。
荷物は執事に任せて、一行は屋敷に入って行った。元侍女が向かう先は、主だった人のいる部屋。
ノックをすれば、扉を開けたのは、主にどこか似ている男。
「ああ、シェリーだったか」
「お久しぶりです。主はどうしていますか?」
「元気そうだよ。中にお入り」
誘われるままに入るが、シェリーより先に彼女の子供たちが中へと走っていった。
「こらおまえたち! お嬢様にご迷惑でしょう!」
「いいのよ、シェリー」
髪の長い、美しい主。彼女はシェリーの子供たちを自分のベッドに乗せてやった。
彼女の首には、包帯が痛々しく巻かれている。
「ああ、お嬢様……。もっと早く私に相談してくだされば良かったのに……。いいえ、気づけなかった私が悪かったですね……」
「シェリー、自分を責めないで。私、あなたのおかげで今とても幸せなの。あのときは私もどうかしていたわ。ちょっと痛いのよ」
「ああどうかしていたね」男は腕を組んだ。「ぼくの腕があと少し短くて、ぼくの動きがあと少し遅かったら、きみは今頃墓石の下さ」
「でもいい案だと思わない? 三人の血を合わせて残して、死んだと思わせるなんて」
男の腕にも──そしてスカートで見えないがシェリーの脚にも──、痛々しい包帯があった。「きみの案じゃなくて、シェリーの案だ。きみが熱心な信仰者で本当に助かったよ」
「いえ、まだ気は抜かないでくださいませ。これから父と親交の深い、隣国の貴族家のもとへ向かいます。その間にエーベル卿の手先がやって来ないとは限りませんもの」
「王でもないのに国境は見張れないわ。あの公爵領を出ただけでもう安心よ」
「マリア(お嬢様)!」男とシェリーの声が重なった。
このタイミングでシェリーの夫が入ってきて、子供の一人を抱き上げる。「準備は整ったよ。どうする、いつ行くかい」
「エーベル卿は躍起になっています。マリアお嬢様とゆかりのある全ての家を捜索し始めるのも時間の問題でしょう。本当は今すぐにでも出て欲しいのですが……、その前に、その髪を整えなければなりませんね」
「シェリー、ばっさり切ってくれる? もう邪魔で仕方ないの。これからの事を考えたら、私を象徴するこの髪は少し短くなるべきだと思うのよ」
「そんな、もったいない……」男が呟いた。「ならシェリー、その髪は束ねて全てぼくにくれよ?」
シェリーはくつくつと笑った。さて、どう髪を整えてやろうか。このときが一番、シェリーの好きな時間だと思う。
彼女の髪は長い。