【事象編】
イジメサマ イジメサマ
どうぞ うらみをおはらしください
すいじ せんたく かじ おかし
どうぞ うらみをおはらしください
イジメサマ イジメサマ……
僕、伊本 楷の通う中学校の裏には、曰くつきの林がある。
ぐるっと全部が高いフェンスに囲われていて、フェンスのてっぺんにはトゲトゲの針金まで張り巡らされていて誰も入れない。
フェンスにはいくつも手書きの看板が付けられていて、真っ赤なペンキで「マムシが出ます」とか「監視カメラ録画中」とか「不法侵入は即通報」なんて書いてある。
しかも、子どもを脅かすための看板じゃない。
誰かがフェンスを越えたり、壊そうとしたら、ほんとうにすぐにお巡りさんや近所の人が駆けつけてくるんだ。
僕が小学生だったころ、地元の高校生が悪戯でフェンスをよじ登ったら、近くに住んでいる農家のおじさんが集まってきて、フェンスから引きずり下ろされたあげく、全員が無言で何度も何度も殴られたという。
だから誰もあの林には近づかない。
だけど、僕らの学校の生徒はみんな知ってる。
体育館の裏のフェンスに一ヶ所だけ穴があいていて、そこから学校裏の林に入れるんだ。
でも、誰もその抜け道を使わない。
その林には社があって、頼みごとをするとき以外は入っちゃいけないんだって先輩が教えてくれた。
社に祀られているのは“イジメサマ”という神様で、虐められている子どもの怨みを代わりに晴らしてくれるんだ。
ずっと昔、この学校でひどい虐めにあっていた女子生徒が、自殺するつもりで入った林の中でイジメサマの社を見つけた。
彼女が必死にお願いすると、イジメサマは怨みを晴らしてくれるといったそうだ。
翌日から、彼女にひどいことをしていた生徒たちが学校に来なくなった。
それだけじゃない。 イジメっ子たちは部屋に引きこもって外にも出ず、昼間はベッドや布団の中で縮こまり、夜は狂ったように泣き喚いて、壁や床に頭を打ち付ける。
食べても食べてもゲーゲー吐いて、どんどん痩せ細って動くことすらできなくなった。
親たちは慌てて病院に運んだけど原因は分からない。
病院でも暴れまわるので、手足にバンドを巻かれてベッドに拘束された。
天井の小さなシミを見て異常に怯えるので、部屋を真っ暗にすると今度は暗闇を怖がって泣き叫ぶ。
手がつけられなくて、ベッドに縛り付けたり、注射で大人しくさせるしかなかったらしい。
そんなことがずっと続いたある日、イジメっ子達が全員ケロッと元通りに落ち着いて顔色も良くなった。
いや、それどころか憑き物が落ちたように爽やかな顔になって、外の空気が吸いたいといって病室を出たそうだ。
そして、散歩に付き添っていた親の目を盗んで病院を脱走し、全員があの林で首を吊って死んだ。
捜索に出た親達が発見したときには、全員が一本の木に連なるようにしてぶら下っていたらしい。
それ以来あの林はフェンスで囲んで誰も入れないようになったそうだ。
今じゃ誰も近づかないし、イジメサマの噂が語り継がれているせいか、僕のクラスでは喧嘩はあってもイジメはない。
みんな、誰かにイジメサマに告げ口されるようなまねはしたくないんだ。
もちろん僕だって、もしクラスメイトの恨みをかってイジメサマの呪いをかけられたら、なんて考えるだけでゾッとする。
もしかしたらイジメサマの話しは、誰かがイジメを無くそうと考え出した作り話なのかもしれないけど、効果があったならそれも悪くない。
テレビや学校の道徳の授業でイジメの話題を聞くたびに、むしろイジメサマの話しが本当ならいいのに、なんて思う。
それは僕が中学生になった最初の夏休みに、小学校時代の友達に誘われて集まったときのことだ。
みんなでゲームセンターで遊んだ帰りに、幼馴染の成野 めぐみが僕に泣きそうな顔で話しを聞いて欲しいといってきた。
僕らは近所の公園のベンチで、買ったジュースを飲みながら話すことにした。
「メグちゃんどうしたの?」
僕はめぐみちゃんをメグちゃんと呼ぶ。 メグちゃんは俯いたまま搾り出すように言った。
「カイちゃん、わたし、もう学校行きたくない」
「どうして、なにかあったの?」
彼女は僕たちのグループの中で、ひとりだけ別の中学校に進学していた。
いままでの友達はみんなバラバラで、メグちゃんはひとりぼっちだ。
「わたしね、クラスのみんなにひどいことされるの」
メグちゃんはそれをイジメとは言わなかった。 自分がイジメられているということを認めると、余計に辛く怖くなってしまうからだと思う。
「ひどいことって、どんな?」
そう聞くと、メグちゃんはわっと泣き出した。 僕は自分がメグちゃんに辛いことを思い出させてしまったと気付いて言葉を失った。
苦しそうに声を殺して泣くメグちゃんに、僕は何も声をかけてあげられなかった。
しばらくして気持ちが少し落ち着いたのか、メグちゃんはぽつりぽつりと、何があったかを話し出した。
はじめは、よその小学校から来た少数派としてクラスの中でハブにされていると感じたらしい。
同じ小学校から上がってきたらしい男女のグループが中心になって、だんだんメグちゃんを無視する空気が出来上がって、やがて悪口や根も葉もない小学校時代の嘘話を書いたメモが回されるようになった。
そのメモは、わざとらしくメグちゃんの机の中やカバンの中に入れられていることもあったらしい。
メモの内容が気になったけど、メグちゃんが少しだけ教えてくれた悪口の内容だけでも十分に腹の立つ内容だったし「もっと酷いことも書かれたの」と言われたら、とても訊けなかった。
メグちゃんはがんばって気にしない振りをしていた。
そうするより他に、どうしたらいいかわからなかったからだ。
でも、そ知らぬふりをすればするほど、周りはどんどん調子に乗ってメグちゃんをイジメ始めた。
ひそひそ話が、クラス中に聞こえる大きさの声に変わった。
誰かが、臭いと言い出した。 メグちゃんのロッカーや机や椅子は消臭剤でべちゃべちゃだった。
おかしな病気を持っている、という噂が流れた。 通りかかるだけで、あざけりながら露骨に避けられるようになった。
調理実習でクッキーを焼いた。 自分は型抜きで触っただけなのに、メグちゃんと同じオーブンで焼いたグループはみんな自分のぶんをゴミ箱に捨てた。
メグちゃんが美術の授業で書いた自画像に「美化しすぎ」とマジックで書き殴られ、卑猥な落書きをされた。
お母さんに打ち明けた。 お母さんは先生に相談した。 ふたりとも「負けちゃ駄目だ」と励まして、先生は頼んでも居ないのにクラス会をひらいて、みんなの前で「成野をイジメるな!」と熱血に説教をした。
みんなは「なにそれ?」「自意識過剰なんじゃない?」「うちらがそんなことした証拠でもあるの?」「だったら俺たちも言わせてもらうけど」とガヤガヤしだし、なぜかメグちゃんがクラスメートと喧嘩していることになった。
メグちゃんの訴えはぜんぶ被害妄想だってことにされて、先生は満足そうに「喧嘩両成敗」と言ってクラス会を解散した。
その日から、先生の中でメグちゃんはイジラれキャラだけどうまくやれてることになった。 お母さんはメグちゃんの話しを聴きたくなさそうだ。
勇気を出してお父さんに相談しに行った。 だけど「もっと大変な目にあってる人だっているんだぞ」と、無意味なお説教をされただけだった。
配られたメグちゃんの給食のおかずに、トイレから拾ってきた汚れたナプキンが入れられていた。
画鋲が入れられていた上履きには、犬のうんちが入れられるようになった。
休み時間は逃げるようにトイレの個室にこもるようになった。 汚れた雑巾が入った汚水が、バケツごと個室に放り込まれた。
メグちゃんが辛いとみんな嬉しそうだ。 メグちゃんが泣きそうだとみんな楽しそうだ。 メグちゃんが怒るとみんな面白そうだ。
通学カバンが焼却炉の中から出てきた。 気が付いて拾ってくれた用務員のおじさんが心配してくれたけど、もう誰にも相談できなかった。
メグちゃんはひとりぼっちだ。
「ねえカイちゃん、どうしたらいいと思う?」
メグちゃんのどうしようは、イジメをどうにかするという意味じゃなくて、どうやったら学校に行かなくて済むか、という意味だ。
僕は、僕らの中学校に転校してほしかった。 どうやったらいいかわからないけど、僕らの学校なら友達も居るし、もし別々のクラスになってしまっても小学校のクラスメートは沢山いる。
「みんなにも、相談してみようか。 もしよければ僕から話すよ」
みんなで考えれば、僕一人よりもいいアイデアが出るかもしれない。
「カイちゃん、みんなって誰?」
友達だから知られたくない相手だっているだろう。 こんなときも、僕はなんて人の気持ちがわからないやつなんだろう。
メグちゃんは、そんな“僕にだけ”話してくれたって言うのに。
「誰になら、話してもいい?」
恥ずかしいことに、僕はメグちゃんに答えさせようとした。 どうしたらいいか、僕にはわからなかったんだ。
「ユッキーと、マイちん」
ユッキーは猿田 ゆきこ、マイちんは女湯乃 舞梨。 ふたりとも小学五年、六年のクラスメートでメグちゃんの親友だ。
「イッちゃんも呼んでいい?」
メグちゃんは頷いてくれた。 イッちゃんは寺野 一、僕の男友達の中では一番頼りになる。
「じゃあ、いまから僕んちに集まれるか訊いてみよう」
僕はメグちゃんを元気付けたくて、できるだけ力強く言った。 メグちゃんを連れて僕の部屋に帰り、すぐみんなに電話する。
家の手伝いがあるマイちんはあとからくる事になったけど、ユッキーとイッちゃんはすぐに来てくれた。
ふたりはたどたどしく僕が話すメグちゃんの話しを、じっと黙ったまま真剣に聞いてくれた。
どうにか話し終えたあと、ユッキーが泣き出してしまった。
「ごめんね、メグ。 辛いのはメグなのにね」
ユッキーは話しに腹が立ちすぎて、メグちゃんが可哀そう過ぎて、自分の感情をどうやって表していいかわからず、泣いてしまったのだ。
「成野、おまえそれ、もうコドモのイジメってレベルじゃねえよ。 親に何て言われても、もう学校行くな」
イッちゃんは頭に血が上りやすい性格だ。 でも、メグちゃんが本当に酷い目にあっているのをわかってくれたから、怖がらせないように乱暴な口調にならないように努力している。
「寺野くん、怒っちゃだめだよ」
ユッキーがイッちゃんに確認するように言った。 イッちゃんは前髪をかき上げながらイライラしたように答える。
「わかってるよ。 クラスの奴らぶちのめしたって、成野が仕返しされるだけだろうしな」
こういうこともイッちゃんはわかってる。 でも、できることならメグちゃんの痛みを思い知らせてやりたい。
だけど駄目だ。 そんなことよりも、メグちゃんはいま別のことを望んでいる。
「うちの学校に転校できないのかな?」
僕が言うと、イッちゃんもユッキーもそれがいい、と同意してくれた。 方法はわからないけど。
「でも、親が話しを聞いてくれない」
メグちゃんが鼻をすすった。 そうだ、さっきの話しだとメグちゃんはもうそんな相談はしてあるんだ。
「やっぱり、学校行かないようにするしかねえな。 そんな学校サボっちまえばいいんだよ」
すぐに学校から居なくなるイッちゃんらしい発想だ。
「でも、家に居るのも親がうるさいんじゃない?」
「うん。 ズル休みするとすっごく怒られる……」
メグちゃんのお父さんは、厳しい人だとおもう。 僕も幼稚園のころにすっごく叱られたことがある。
う~んと呻る僕たち。 部屋の外から僕のお母さんの声がした。
「カイ~、舞梨ちゃん来たわよ~」
すぐに玄関に迎えに出て、マイちんを部屋に連れてくる。
「メグ!」
マイちんはすぐにメグちゃんのところへ行って、膝をつき合わせて正座した。
「あのね、マイちん、わたしね……」
言いかけたところで、マイちんがメグちゃんの両肩をがしっと掴んだ。
「やっぱり、なんかあったのね?」
何か知っているような口ぶりで訊いた。 事情が呑み込めないメグちゃんに、マイちんが心配そうに訊く。
「あんた、このあいだ昼間にうちの銭湯に来たでしょ?」
マイちんの家はお風呂屋さんだ。 サウナやコインランドリーがくっ付いたスーパー銭湯というやつだ。
おまけに名前が女湯乃だから、彼女も小学校では結構からかわれていた。
からかっていたのは主にイッちゃんで「男子みたいに平らだからおまえは男湯じゃねえのか」なんて言っていた。 イッちゃんのこういうところは、本当にサイテーだと思う。
結局マイちんが怒って、イッちゃんと殴りあいの喧嘩をして以来、誰もからかわなくなった。
「どうして知ってるの?」
「昼間店番してるばあちゃんに聞いた。 あんたがずぶ濡れでうちに来たって」
たぶん、トイレの一件だ。
「ばあちゃんが心配してた。 口止めされたけどってアタシに教えてくれた。 ごめん、うちのばあちゃんが約束破って」
マイちんが頭を下げると、メグちゃんは首を振ってその日のことを話してくれた。
濡れたままじゃ教室にも家にも帰れないから、学校を出て銭湯に行ったこと。
バスタオルを巻いてコインランドリーで洗濯していたら、おばあちゃんが気付いてお風呂に入れてくれたこと。
やさしくしてくれたのに、マイちんは親友なのに、悲しくって誰にも言わないでって約束させたこと。
メグちゃんは泣いていた。 マイちんもユッキーも泣いていた。 イッちゃんも泣きそうな顔をしていた。
「メグ、仕返ししよう!」
涙をぬぐって、マイちんが立ち上がった。
「馬鹿、そんなことしたら成野がよけいにやられるだろ」
イッちゃんが止めに入ったけど、マイちんが腰に手を当てて顔を見下ろす。
「イチ、アンタに馬鹿なんて言われたくない。 それに、ばれなきゃいいでしょ」
僕らは呆気にとられる。
「え~と、マイちん、どういうこと?」
ユッキーが訊く。 僕らもマイちんの返事を待つ。
彼女は自信ありげに胸をそらせて答える。
「こんなときこそ“イジメサマ”よ!」
僕は思わず、あっと声を上げてしまった。 イッちゃんは眉間にしわを寄せている。
「イジメサマって、あの林の?」
メグちゃんが確認するように聞き返した。 マイちんが彼女を振り向いて人差し指を立てた手を突き出した。
「そ! メグは知らないだろうけど、誰にも見つからずに林に入る方法があるのよ!」
そうだ。 よその学校に通っているメグちゃんは抜け道のことを知らない。
「あのなぁ女湯乃、そんな神頼みでどーこーなる問題じゃねえだろ」
イッちゃんが呆れたように言ったが、僕は知っている。 イッちゃんはお化けが大嫌いだ。
「今は駄目でもともと、何でもやってみるべきでしょ! ねえメグ、試してみない?」
顔を寄せるマイちん。 メグちゃんは困ったように俯いてしまった。
「やるだけやってみようよ、メグ」
ユッキーが背中を押すように言って、メグちゃんの膝の上の手を握った。
「ひとりじゃ、こわい」
ぼそっとつぶやいたメグちゃんの声はとても弱々しかった。
「僕らも一緒に行くから!」
僕が言うと、メグちゃんは顔を上げて、不安そうだったけれど頷いた。
「マジか」
イッちゃんがこぼしたのを、マイちんが聞き逃さなかった。
「イチも来るんだからね。 文句ある?」
「お、おう。 行くと決まったんなら文句はいわねぇよ、成野の一大事だからな」
やせ我慢できるイッちゃんは、やっぱり頼もしい。
「でも、イジメサマのこと、誰か詳しく知ってるの?」
ユッキーがぽつりと言った。 僕らは全員固まった。
確かに、噂と昔話は知っているけど、あの林のどこに社があって、どうやってお願いするのかなんて何も知らない。
「どうしよう」
僕がつぶやくと、イッちゃんが落ち着きなく揺すっていた胡坐の膝を叩いて声を上げた。
「あのよ、オレ、知ってるぜ。 その、イジメサマに詳しいやつ」
いっせいにみんなの視線がイッちゃんに向けられる。
「電話かしてくれ」
僕が部屋に持ち込んだ家の電話機を差し出すと、イッちゃんは素早く番号をプッシュした。
ルルル、ルルル。
受話器からもれる呼び出し音が静まり返った部屋に響く。
カチャ。
「あの、夜中にすみません、寺野です」
あのイッちゃんが丁寧な言葉遣いをしている。 相手が誰なのかすごく気になったけど、じっと会話が終わるのを待つ。
「イジメサマの噂話で、どこにあるのかなって気になったんで。 いえ、そうじゃないです。 みんなで怪談やってて。 そう、詳しく聞きたいなって。 はい、はい」
相手は僕たちがイジメサマに関わるのを心配しているらしい。 あんな話しがあるくらいだから当たり前か。
「ええと、ちょっと待ってください、メモるんで。 はい、お願いします」
イッちゃんが、僕の本棚に置かれたペン立てからボールペンを取り出して、くしゃくしゃになったレシートの裏に何かメモし始めた。
「あ、わかりました。 えーと、それってどういう……。 ええ、はい、じゃあまた」
イッちゃんが電話を切った。 途端に我慢の限界という勢いでマイちんが詰め寄った。
「アンタがかしこまって話すなんて、誰だったのよ」
興味津々と顔を近づける彼女にうるさそうにそっぽを向いて、イッちゃんが言う。
「いいだろ誰でも、それより、詳しい話し聞けたぞ」
僕らはイッちゃんの説明を聞くために体をそちらに向けた。
「まず社だけど、林の中に一本だけ枯れた木があって、その根元に穴が開いてて、その中にイジメサマが祀られてるんだと。 その木は枝が切り落とされてるし、結構でかいから見ればすぐにわかるって言ってた」
木のうろの中に祀られている、ということだろうか。
「あと、お願いするときは決まった呪文を唱えるらしい」
呪文。 それを聞くと、やはりイジメサマが恐ろしいものだということを思い出す。 僕らの中に、少しだけためらう空気が生まれた。
「どんな呪文?」
ユッキーが話しを進める。 ああ、と返事をしてイッちゃんがメモをしたレシートに目を向けた。
「ええと、こうだ。 イジメサマ イジメサマ どうぞ うらみをおはらしください すいじ せんたく かじ おかし どうぞ うらみをおはらしください これを三回繰り返すらしい」
うらみをおはらしください。
やっぱり、これはイジメっ子たちに呪いをかける呪文だ。 俯いてしまったメグちゃんの背中に手を置いて、マイちんが顔を覗き込む。
「どうする?」
みんな黙ってメグちゃんを見ていた。 どのくらい俯いていただろう。 メグちゃんは顔を上げて言った。
「やる」
「決まった。 じゃあ、今からすぐ行こう!」
マイちんが両手に拳を作って力強く言った。 ユッキーが立ち上がり、僕もそれに続いて立ち上がる。
メグちゃんがふたりに手を引かれて立ち上がると、イッちゃんもしぶしぶ腰を上げた。
「なによ、男らしくないわね」
マイちんはそんなことを言うけれど、黙っていられたはずなのに電話までしてくれたイッちゃんはやっぱり頼りになる。
「今からだと懐中電灯がいるぞ」
イッちゃんに言われて時計を見ると、もう夜の十時を過ぎていた。
「じゃあ、みんな一度家に帰って懐中電灯をもって、学校に集合よ!」
マイちんの号令で、僕たちはいったん解散した。 メグちゃんの家は近所なので、僕はメグちゃんが家に帰るのに着いていく。
「メグちゃん、こんな夜遅くて大丈夫?」
僕が心配したのは、彼女がお父さんに叱られるんじゃないかと思ったからだ。
「うん、今日はユッキーの家に泊まるって言ってあるから」
そうだったんだ。 あれ、でもユッキーは僕が電話したときにそんなことは少しも言わなかったし、もしそうなら今日遊んだメンバーの家に泊まるって言うべきなんじゃないか?
「約束してあったんだ」
聞いてみると、メグちゃんは首を横に振った。
「うぅん。 もしユッキーが駄目だったら、カイちゃんちに泊めてもらおうと思ってた」
びっくりしてメグちゃんのほうを見たけど、ちょうど街灯と街灯の間の闇に隠れて、彼女の表情は見えなかった。
「そ、そうなんだ」
「駄目だった?」
お互いに顔を合わせないまま、僕らは言葉のやり取りをする。
「駄目じゃないよ、たぶん、お母さんもいいって言うだろうし。 幼稚園のころはよく泊まってたしね」
僕はなんだかドキドキしていた。 夏の陽射しに焼かれたアスファルトの独特な匂いが、まだ冷め切らない熱気に乗って鼻に届く。
メグちゃんが大変なときに、僕は何て薄情なんだろうと思いながら、夜道をメグちゃんと歩いていることが照れくさくて嬉しい。
「カイちゃん、ありがとうね」
お礼を言われるようなことは何も無い、でも、メグちゃんの声が少しだけ明るく聞こえたから、僕はもっと嬉しくなった。
「イジメサマ、助けてくれるといいね」
無責任だけれど、僕はこのとき本当にそう思った。 だってメグちゃんは何も悪くない。だから、誰でもいいから助けてあげて欲しい。
「……うん」
メグちゃんがすこしだけ困ったように返事をしたとき、ちょうど彼女の家の前に来た。
三角屋根の二階建て、門扉から玄関まで延びるポーチと車が二台並ぶ大きなガレージ、スプリンクラーがある庭なんてなんだか外国の家みたいだ。
門柱と玄関先の電灯を除いて、家中真っ暗でひとつの明かりも灯っていない。
「お父さんもお母さんも、まだ仕事から帰ってないから。 ちょっとまっててね」
僕が思ったことを察したのか、メグちゃんはそう言って足早に玄関に向かった。
少しして室内の電灯がつき、またすぐに消えたと思ったらメグちゃんが懐中電灯を掲げながら戻ってきた。
「早かったね」
「うん、これこの間、お父さんが非常用にって買ってあったラジオつきの懐中電灯」
見ると、メグちゃんがもってきた懐中電灯はごつくてボディが赤かった。 2リットルのペットボトルみたいに大きくて、僕が使っている細い懐中電灯と違って重そうだ。
「取換えっこする? それ、重そうだし」
僕が訊くと、メグちゃんは嬉しそうに懐中電灯を僕に差し出した。
ちょっと照れくさかった。
「じゃあ行こう」
僕らは手にしたそれぞれの懐中電灯をつけたり消したりしながら、僕の学校への通学路を歩いた。
「おーい」
後ろから声がして振り返ると、自転車のライトがひとつこっちに向かってくる。
明るいところにくると、それがイッちゃんの自転車だとわかった。
「寺野くん早いね」
メグちゃんが言うとイッちゃんは自転車から降りて、押して歩きながら僕らの横に並ぶ。
「まあ、オレんちは女湯乃や猿田より近いし」
僕らは暗い通学路を話しながら歩く。 いつも通いなれた道も、ひと気の無い夜だというだけでなんだか違う場所みたいに見える。
イッちゃんが押す自転車の車輪が、カラカラと決まったリズムで回転する音と、僕らの靴音だけが暗がりに吸い込まれていく。
やがて、僕らの学校が見えてきた。
道路の明かりに照らされて浮かび上がる四角い校舎。 真っ黒な穴が開いているみたいな窓。 常夜灯の灯りがやけに物悲しく見える体育館。
「夜の学校って、やっぱり怖いね」
閉じられた校門の前で僕がつぶやくと、ふたりは揃って頷いた。
「とりあえず、自転車かくしてくるわ」
そう言って、イッちゃんが校舎裏に向かう。
学校と隣の社宅の間にある路地は、自転車通学を認められていない生徒達が乗り付けた自転車をこっそり隠す場所になっているのだ。
しばらく待っていると、イッちゃんがマイちんとユッキーを連れて戻ってきた。
「ふたりとも来てたんだ」
僕が言うと、イッちゃんが親指で後ろを指しながら言う。
「隠し場所でちょうど一緒になった」
マイちんとユッキーは丸っこくて小さい懐中電灯を持っていた。 イッちゃんは映画に出てくるビームの刃が出てくる剣の柄みたいなかっこいい懐中電灯を取り出す。
イッちゃんが校門の門柱にひらりと登って、僕たちを引き上げてくれた。
門を乗り越えると、まるで外の世界から切り離されてしまったかのような不安が、もわっと胸の奥から立ち昇ってくる。
「行くぞ」
イッちゃんが先頭になって、僕たちが続いた。 校庭を横切って、まっすぐに体育館に向かう。
「フェンスの穴って、体育館裏のどの辺にあるの?」
マイちんが訊くと、イッちゃんは振り向かずに答える。
「体育用具倉庫の脇。 オレ、一回だけ覗きにいったことあるから」
クラスの男子に度胸試しだと言われて引き下がれなかったことを、僕は知っている。
怖いはずなのに、ずんずんと進んでいくイッちゃんは、やっぱりいいやつだと思う。
常夜灯の灯りがぼんやりと体育館の壁を照らし出している。 僕らは水飲み場の横を通り過ぎ、道路の明かりも届かない真っ暗な体育館裏へ回った。
並んで建っている体育用具倉庫まで来ると、イッちゃんが一列になるように指示した。
倉庫とフェンスの間は、ひとりがようやく通れるほどの狭いスペースだった。
「ここだ。 カイ、来てみろよ」
言われた僕は恐る恐る近づいてみる。 イッちゃんが懐中電灯で照らすその場所は、確かにフェンスがベロッとめくれて、こじ開ければ通れそうだ。
でも、僕は同時におかしなものも見つけた。 穴のそばにビニール紐がグルグルと巻かれ、木の板が括りつけられている。
その木の板には、真っ赤なスプレーで「ヤメロ」と書かれていた。
「これ、なに?」
僕の声が震えているのに気付いて、イッちゃんがその板をくるっと裏返しにした。
「前に来たときに、この紐でフェンスが縛られててさ、邪魔だから切ったんだよ」
じゃあ、その看板と紐は穴をふさぐために誰かが付けたものだということだ。
ヤメロのひとことがかえって不気味で、僕は思わず後ろについてきているはずのメグちゃんを振り返った。
でも彼女には今のが見えていなかったようだ。
「行くぞ」
意を決したようにそう言って、イッちゃんがぐいっとめくれたフェンスを持ち上げて中に入った。
僕も続いて、フェンスの隙間から体を滑り込ませる。 メグちゃんたちもあとに続き、マイちんがフェンスを支えている間に中に入る。
「あ、みんなちょっと待って」
ユッキーがそういって、腰のポシェットから小さなスプレー缶を取り出した。
「虫除け。 かけるから集まって」
これから林に入るんだ。 蚊だって、刺されると痛い虫だっているだろう。
こういうところに気がついて用意できるのがユッキーらしい。
みんな腕や首の周りに虫除けを吹きかけてもらい、準備万端と横に並んで改めて林を見る。
立ち並ぶ木々が夜の闇をいっそう濃くし、懐中電灯の明かりはその闇に吸い込まれて奥まで届かない。高いところでザァザァと枝が風に揺れている。
揺れる明かりに浮かぶ木々の肌が、まるでこっちをじっと見ている人の顔のように見えた。
「行くわよイチ」
みんなが切り出せないのを察したのか、マイちんがイッちゃんの肩を押した。
「お、おう」
再びイッちゃんを先頭にして歩き出す。 僕のすぐ後ろを、真ん中になったマイちんにしがみつくように寄り添ったメグちゃんとユッキーがついてくる。
がさり、がさりと膝まで生えた草が音を立て、懐中電灯の明かりの向こうで、蛾がちらちらと羽ばたいている。
「枯れた木を探すんだよね」
ユッキーが確認するように言った。 怖い気持ちをごまかしたいんだ。
木々の間に分け入ると、背中にべったりと暗闇が張り付いているような気持ちになってくる。
さっきまで聞こえていた風に揺れる音も、いつの間にか消えていた。
「よく見てないとね」
メグちゃんが返事をしたけど、彼女の持っている懐中電灯の明かりは細かく震えていた。
昔イジメっ子たちが集団自殺したという林の中に居るんだ。 そう思うともやもやした不安がこみ上げてくる。
「カイ君の持ってるやつ、ラジオ聞けるんじゃない?」
マイちんが言った。 そうだ、メグちゃんと取換えっこしたこれはラジオ付きだ。
「誰かに聞かれたらどうすんだよ」
イッちゃんの心配はもっともだったけど、みんな今の空気はいたたまれない。
「誰が聞いてるっていうのよ、小さい音だったら平気だってば、ほらほらカイ君」
強引にマイちんに言われて、僕はラジオのスイッチを入れてみた。
最初はザザッと大きな砂嵐が響いたけど、すぐにボリュームのダイヤルを操作して音を絞る。
ツマミを回して周波数を合わせると、よく知った曲が流れ出す。 確かアイスクリームのCMで流れていた曲だ。
真っ暗な林の中をひとかたまりになって進む僕らと、キスと初恋がどうのと明るく元気に歌うラジオ。
あんまり好きな歌手じゃなかったけど、今はこの能天気な感じが縮んだ気持ちをやわらげてくれる。
「あ」
声を上げて、イッちゃんが立ち止まる。
「見つけた?」
マイちんがすばやく反応したのは、彼女も早くここを出たい焦りがあるからだろう。
「いや、あれ」
イッちゃんが懐中電灯を上に向けた。 一本の大きな木が闇から切り取られたように浮かび上がる。
「うわ」
僕は思わず声を上げた。
明かりの先に木の枝に結わえ付けられた数本のロープが垂れていた。 ロープはどれも途中で切れていたけど、僕らは揃って嫌な想像をする。
「これって、まさか」
ユッキーがそこまでで言葉を切った。 それ以上は誰も聞きたくなかった。
「余計なことしないでよイチ!」
マイちんが怒ったように言った。 このときばかりは僕もイッちゃんに黙ってて欲しかった。
ユッキーが息を呑み、メグちゃんが不安そうに僕を見つめてくる。
「あれ?」
僕はふと気がついた。 メグちゃんの後ろに変わった形の木が生えている。
すぐに懐中電灯を向けると、みんなも一斉にそっちを見た。
まるでロープがぶら下った木と向かい合うようにして、その木は立っていた。
木の皮が剥けた表面がつるっとしていてまるで白骨みたいで、幹がぐねっと曲がった奇妙な形をしている。 太い枝がばっさりと切り落とされて、美術の教科書に載っていたミロのヴィーナスみたいだ。
「あれかな」
「お、おお、たぶんな」
イッちゃんの言葉に背中を押されたみたいに、今度は僕が先頭になってその木に近づく。
懐中電灯で下のほうを照らしてみるけど、話しに聞いていたうろは見つからない。
僕らはゆっくりとその木の周りを回ってみた。
一ヶ所だけ、やけに下草が長くなった所がある。 まるで何かを隠すみたいだ。
「ここ、か?」
イッちゃんが言った。僕も頷いて、恐る恐る手を伸ばす。 みんながつばを飲むのが聞こえた。
がさり、と下草を掻き分けたとき、みんな驚いて声を上げた。
悲鳴にならなかったのは、驚きすぎて喉が詰まっていたからだ。
いた。
ちいさなコドモが座ってるのかと思った。
それは、両手をついてお辞儀をするように座る、赤い着物を着た女の子の人形だった。
福助人形の女の子版だと思えば、似ていると思う。
でも、あんなふうに愛嬌はなくて、おかっぱの髪はざんばらに乱れて所どころ逆立っているし、両目はくすんで片方がそっぽを向いている。
ふっくらとしているはずの頬は、雨だれの汚れが付いていて、まるでしわくちゃの老婆のようだ。
赤い着物も汚れていて、むしろ鮮やかな色をした部分が返り血でも浴びているようで不気味だった。
僕は背中にどっと汗が噴き出すの感じた。
心臓がうるさく鼓動を打って、ぞっとしているのに体温が上がっていくようだ。
額を伝って、妙に油っぽい汗が首筋を流れていく。
誰も何も言えないまま、僕らはしばらくその人形と向かい合っていた。人形も、片方の目でじっと僕らを見ていた。
「ねえ」
沈黙を破ったのはメグちゃんだった。
「これがイジメサマなのかな」
わからなかったけど、そうだとしか思えない。
木の根元にぽっかりと空いたうろに、ちょこんと座っている少女人形。イッちゃんが聞いてくれた話しとおんなじだ。
「あ、あとは呪文を唱えてお願いすれば終わりだ」
イッちゃんがそういって一歩下がった。 マイちんとユッキーも少しだけメグちゃんから離れる。
「あの、わたし……」
ひとりじゃ、こわいと言っていた。 僕はメグちゃんの隣に立った。
「みんなでやろう」
僕が言うと、メグちゃんはホッとしたほうに、ちょっとだけ笑ってくれた。
みんなも僕らを囲むように戻ってきて、イッちゃんが片手を差し出した。それをみたマイちんが、勝気な笑顔を作ってその手の上に自分の手を重ねる。
ユッキーもメグちゃんも僕も、全員の手のひらが重なって、僕たちは気持ちがひとつに成るのを感じた。
台風のニュースをしゃべり始めていたラジオを消して、僕らはイジメサマに向き直る。
メグちゃんがひとつ深呼吸をした。 イッちゃんがメモを書いたレシートを黙って手渡すと、みんなそれを覗き込むようにしてメグちゃんと肩を寄せた。
メグちゃんの手は震えていて、懐中電灯の明かりがあっちこっちに行ってしまうので、僕が変わりに懐中電灯を持った。
みんな深呼吸した。
最初に口を開いたのはメグちゃんだった。 みんなあとに習うようにして続ける。
イジメサマ イジメサマ
どうぞ うらみをおはらしください
すいじ せんたく かじ おかし
どうぞ うらみをおはらしください
イジメサマ イジメサマ……
続けて三回、その呪文を唱えた。
あんなに汗をかいていたのに、いまは妙に肌寒い。
メグちゃんがイジメサマに頭を下げた。
「イジメサマ、助けてください」
それだけだった。 相手は神様なんだから、きっとメグちゃんが言いたいことはわかるはずだ。
「メグのこと、お願いします」
「お願いします」
マイちんとユッキーも頭を下げた。 僕とイッちゃんは少し出遅れてしまって、無言で頭だけ下げた。
イジメサマはもちろんなにも言わない。 ただ暗がりの中でじっと座ったままだ。 さっきまで聞こえなかった虫の声が聞こえてきた。
とにかく終わった。 何はともあれ、呪文も唱えたしみんなでお願いもした。
あとは何が起こるか待つだけだ。 もし何にも起こらなくても、そのときはまたみんなで考えればいい。
「メグちゃん」
僕が呼びかけると、振り返ったメグちゃんは少しだけ晴れた表情をしていた。 終わってほっとしたというのがほとんどだろうけど、イジメサマに願ったことで少しだけ気分が晴れたのかもしれない。
そのとき、僕の持っていた懐中電灯の灯りがふっと消えた。
「あれ?」
ラジオが突然、ものすごい音で雑音を響かせる。
「カイ! 電源切れよ!」
イッちゃんに言われてあわててダイヤルをぐりぐりするけど、まったく変化がない。
「カイ君!」
「伊本君!!」
「カイちゃん!!!」
みんなに急かされて、僕は半ばパニックだ。
「あれ、あれ」
どうしよう、どうしよう。
何を触っても、どこを押しても止まらない。 僕はこのままだとみんなが僕を置いて逃げ出すんじゃないかと気が気じゃない。
唐突に、雑音が消えた。
ほっとする僕たちの耳に、ラジオから小さく囁くような声が聞こえた。
『クヤメ』
僕らはわけのわからない声を上げて走り出した。僕はそれが自分のものでないことも忘れて、懐中電灯を放り投げてしまっていた。
死に物狂いで走って、どうにか僕たちはフェンスのところまで戻ってきた。
いつの間にか僕はメグちゃんの手をぎゅっと握っていて、イッちゃんもマイちんとユッキーの手を握って走っていたみたいだ。
体育館の常夜灯のところまでやってくると、やっと少し気持ちが落ち着いてきた。 校門の向こうには、道路の明かりも見えている。
「いまの……」
言いかけて、僕はやめた。 もう誰もこんなことは聞きたくない。
「とにかく、今日は帰ろう」
イッちゃんの言葉にみんな賛成だった。
「あ、僕、懐中電灯」
片手が空になっていることに、僕はようやく気がついた。
「いいよ、カイちゃん。 もう帰ろう」
メグちゃんがそういってくれたことで、僕はすごくホッとした。 もう、あんな場所には行きたくない。
僕らはそれからは無言で解散した。 メグちゃんはユッキーの家に泊めてもらえることになって、僕らは家の前で別れた。
このことがあってから、僕らはなんとなく顔を合わせにくくて、夏休みの間中お互いに連絡もしなかった。
夏休みが終わって、二学期の始業式で僕は生活指導の先生が暗い顔をして壇上に上がるのを見た。
「え~、みなさん知っている人も居るでしょうが、夏休みの間にこの近くで悲しい事故が起きました」
僕は知らなかったけど、回りの生徒の中にはざわざわしている子もいた。
「あちらの中学校に通う生徒さんが、相次いで車に撥ねられて亡くなりました。 みなさんも日ごろから交通ルールをよく守り……」
頭の中が真っ白になった。
それから校長先生がなにか話していたけど、もう僕の耳には届いていなかった。
偶然だろうか? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
死んだのはメグちゃんの学校の生徒だ。 僕はあったこともない子で、僕は全然悲しくない。
こんなことを思うのは酷いヤツなのかも知れないけれど、僕はその子達が死んでかわいそうというよりも、これがイジメサマの力なのかどうかが気になっていた。
それに、そう思ったのは僕だけじゃなかったみたいだ。
学校の帰りに、下駄箱でイッちゃんが僕のところに駆け寄ってきた。
「カイ」
呼ばれて振り返る。 イッちゃんと同じクラスのマイちんも一緒だった。
「あの話し、あれってメグのクラスの子かな」
マイちんもイッちゃんも同じことを考えているみたいだ。
「確かめてみるか」
イッちゃんが言った。 でも、僕はメグちゃんにそのことを聞くのは気が引けた。
メグちゃんのクラスの子が死んだのなら、メグちゃんがお願いしたせいだと思ってしまうからだ。
「でも、どうやって?」
僕が訊くと、ふたりもやっぱりメグちゃんに直接聞くって言う選択肢はないみたいだった。
「ユッキーに頼もうか。 確か塾にメグの中学校の子も居るらしいから」
マイちんが言う。 僕らはそれに賛成した。又聞きになるけど、メグちゃんには聞けない。
「女湯乃、頼めるか?」
「オッケー。 連絡付いたらまた連絡するね」
そう言って、マイちんは手を振って駆けていった。 下駄箱を確認していたから、きっとユッキーが校内いるのを確認したんだろう。
残された僕らは途中まで一緒に帰ることにした。 あの夜みたいに、イッちゃんは隠していた自転車をカラカラと押して歩く。
「カイ、おまえあれから成野に会ったか?」
僕は首を横に振った。 会いたくなかったわけじゃない。でも、あの夜のことを思うと、メグちゃんにも思い出させたくなかったから。
「そうか、でもまだ事故ったのが、成野をイジメてたやつかわからないよな」
だよね、と僕は言ったけど、僕らはお互いにそうだと確信していた。 だけど怖かったから、そう言いだせなかっただけなんだ。
「イッちゃんが電話してたひと、誰だったの?」
僕は気になっていたことを訊いてみた。 あの夜、イジメサマのことを詳しく教えてくれたのは誰なんだろう。
「ああ、あれか。 絶対に秘密にできるか?」
「う、うん」
あまりに真剣なイッちゃんの顔に、すこし気圧されてしまったけど、僕は頷いた。
「実験の加山」
先生だ。理科室でやる実験クラスを担当している加山先生。 数年前に赴任してきたばかりの若い先生で、普段は理科準備室にこもってビーカーで沸かしたお茶飲んだり、欠けたシャーレを灰皿にしてタバコ吸ったりしてる変な先生。
背が高いのに猫背で、鼻が高くて顎が尖ってて色素が薄くてハーフみたいだ。 顔はカッコいいのに、ブランド物のメガネに無精ひげと薄汚れた白衣、ぼさぼさした髪がガッカリだってクラスの女の子たちが話してた。
「でも、なんでイッちゃんが先生の電話番号なんて知ってるの?」
追求すると、イッちゃんが少し迷ったように僕と地面を交互に見てから、ちょっと怖い顔になった。
「秘密だぞ、絶対だぞ!」
「うん、絶対秘密」
「……姉ちゃんと、付き合ってんだよ、加山」
え? 僕は思わず口を開けたまま固まってしまった。
イッちゃんのお姉ちゃんは大学生で、イッちゃんでも敵わないようなちょっと乱暴な人だ。 スタイルが良くて真っ直ぐで綺麗な黒髪が似合う美人なのに、前に遊びに行ったとき部屋にあったドライヤーを勝手に使ったと怒って、イッちゃんにコブラツイストをかけていた。
そういえばイッちゃんが、お姉ちゃんを「残念女」って呼んでたけど、僕もあのお姉ちゃんのコブラツイストは正直見たくなかった。
「加山先生が、お姉ちゃんと」
口に出し、僕はふたりが並んでいる姿を想像した。 なぜか手をつないでいる姿が想像できなくて、加山先生がヘッドロックをかけられている姿が思い浮かんだ。
「大学の先輩で、入学してすぐに付き合い始めたんだってよ」
でも、絶対に秘密だからな、と僕は釘を刺された。 そう考えて見れば、イッちゃんが丁寧な言葉遣いだったのも何となく頷ける。
「だけどさ、どうして加山先生がイジメサマに詳しいの?」
「ああ、はじめにイジメサマにお願いした女子生徒の話し知ってるか?」
イジメっ子が全員首を吊ったあの話しだ。 僕はあの夜見たロープの結ばれた木を思い出した。
「うん。 みんなあの林で自殺したんでしょ?」
「加山な、イジメられてた女子生徒のこと知ってるらしいんだ」
僕はどきりとした。 心のどこかで、あれは作り話で、誰かが流したただの噂だと思い込んでいたからだ。 あるいはイジメサマの人形を見つけた人が適当に尾ひれ背びれをつけて話しを大きくしたとか、そんな風に思いたかった。
「でな、ほんの一時期だけど、学校でイジメサマが流行ったことがあったんだってよ」
「流行った?」
「ああ、悪ふざけとか肝試しでイジメサマにお参りに行くやつとか居たらしい。 そのとき誰かが作ったのがあのフェンスの穴なんだってよ」
もしメグちゃんのことが本当で、それを誰かが知ったら、疑心暗鬼で試したいと思うひとがいても不思議じゃないな、と僕は思った。
「それで、どうなったの?」
「教えてくれなかった。 でも、すぐにみんなあの林には近づかなくなって、今流れているような噂話だけが残ったんだと」
僕は悪ふざけをしたひと達がどうなったのかすごく気になったけど、加山先生に聞きに行こうとは思わなかった。
「でさ、あのとき電話しただろ」
どこか言い辛そうにイッちゃんが切り出す。
「そんとき加山に言われたんだ」
「なんて?」
「“イジメサマは願いなんか叶えてくれない”って。 あと“絶対にやるなよ”って」
僕らはそれきり黙って歩き続けた。
家に帰ってすぐに電話が鳴った。 かけてきたのはマイちんで、ユッキーから話しが聞けたと言っていた。
夏期講習の間、もう塾ではその噂で持ちきりだったらしくて、ユッキーは夏休みのうちにその話しを知っていたらしい。
「それでね、事故にあって死んじゃった三人なんだけど、メグが言ってた最初にイジメはじめたグループの子らしいのよ。 三人とも夕飯を食べてるときに、突然大声で笑い出して、そのまま外に飛び出したんだって。 それで、追いかけてった両親の目の前でいきなり……」
道路に飛び出したんだと思う。 僕は目の前で子どもが撥ねられるのを見た両親のことを考えて胸が痛んだ。
「でさ、やっぱりうちらの学校のイジメサマの話し、何となくだけどあっちの学校にも伝わってるのよね。 メグがやったんじゃないかって噂になってるみたい」
「ユッキーはどうして早く教えてくれなかったんだろう」
今日の話しだと、僕らが林に入ったすぐあとで事故は起きている。 ユッキーが夏期講習で話しを聞いたなら、夏休みの間に話してくれてもよかったのに。
「ユッキーもね、怖かったんだって。 だって、自分もメグのことでイジメサマにお願いしたもんね、アタシもだけど……」
そうだった。 イジメサマにただ頭を下げた僕らと違って、マイちんとユッキーはきちんと“お願い”したんだ。
それがこんなことになって、怖がるなって言うほうが無理だろう。
「メグちゃん、大丈夫かな?」
気になるのはメグちゃんを取り巻く噂のほうだ。 もっと酷いことになったりしたら、そう考えるとぞっとする。
「カイ君、メグに会ってこれない?」
すぐに返事できなかったのは、イッちゃんの話しを聞いてから、ずっと怖がっていたからだ。
「たぶん、カイ君じゃないと会ってくれないと思う」
僕の背中を押すようにマイちんが言った。 僕も、怖がってばかりじゃ駄目だと思った。
「わかった。 でも、まずは電話してみる」
任せたわよ、そういってマイちんは電話を切った。 僕はおぼろげな記憶を何とか思い出してメグちゃんちに電話をかける。
しばらく呼び出し音がして、おばさんが出た。
「はい成野です」
「こんにちは、伊本楷です」
「あらぁ、伊本君? 久しぶりじゃない」
おばさんは優しい声で言ってくれたけど、距離はすごく遠く感じた。
「あの、メグミちゃんいらっしゃいますか?」
「あ、メグね。 すぐに代わるわ」
そういって、受話器からはアマリリスが流れ始める。 少しして、ガチャリと保留が切れた。
「もしもしカイちゃん?」
予想していたよりも、メグちゃんの声は穏やかだった。
「メグちゃん、あのさ今日学校の始業式で……」
「事故のこと、聞いた?」
「うん」
「わたしもね、夏休みの間にお別れ会の連絡が回ってきたから知ってたよ」
お別れ会、お通夜のことだ。 そうか、メグちゃんのクラスの子が死んだんなら、メグちゃんは僕らより先に知っていて当たり前だ。
「わたし、みんなに話そうかどうしようか迷ったの。 でも怖かったから、ずっと言いそびれてて、でもね、今日学校に行ってわかったの」
メグちゃんの話しに、僕は相槌を打つことしかできない。
「イジメサマ、わたしのお願い聞いてくれたって」
クラスメートが死んでしまって、それが自分のお願いが原因かもしれなくって、それで夏休みの間じゅう悩んでいただんだろう。
だけど、メグちゃんはイジメサマがお願いを聞いてくれたんだと考えることでたぶん悩むのをやめた。
そうなのだ。 僕らはただちょっと“お願い”しただけなんだ。
本当にそれが原因だったとしても、何をどうするかなんてイジメサマが決めることじゃないか。
「噂になってるんじゃない?」
僕の心配に、彼女は少しだけ笑ったようだった。
「なってる。 でもね、みんなおかしいの、あんなにわたしに酷いことしてきたのに、今じゃ怖がって避けてるんだよ。 急に親切にしてくる女の子とかもいてね、なんか馬鹿みたい」
偶然か必然かなんてわからないけど、メグちゃんに対するイジメはストップしたようだ。
それでメグちゃんが楽しく学校に通えるわけじゃないけど、ひとまずは効果があった。
「でもカイちゃん、まだ終わりじゃないよね」
電話の向こうで、メグちゃんの声のトーンが少し下がった。
「どういうこと?」
「だってそうでしょ、酷いこといっぱいされたもの、まだまだイジメサマが仕返ししてくれるはずよね」
僕は、昔の話しでイジメっ子達が全員首を吊って死んだ、というのを思い出した。
じゃあ、メグちゃんのクラスは全員がそれに加担してたわけで、みんな何か報いを受けるってことなんだろうか。
「ねえメグちゃん、イジメられなくなったなら、もう仕返しはやめにしない? イジメサマに御礼に行って、ありがとうございましたって。 それでお終いに……」
「駄目だよカイちゃん。もう、お願いしちゃったじゃない。 それに、わたしたちが何かするんじゃないのよ、あとはイジメサマに任せましょう」
何が起こるか楽しみにしているような、そんなメグちゃんの口ぶりに僕はとても違和感があった。
確かに、僕だって仕返ししてやりたいと思った。 今だって死んだ子たちに同情する気持ちがあるかって聞かれれば、答えられない。
僕はひどいヤツなのかもしれないけど、たぶんそれは会ったこともないから無関心なんだ。
でもメグちゃんは違う。 会った事どころか、自分に酷いことをしてきた張本人だ。そんな子が死んで、メグちゃんはどんな気持ちだろう。
僕は想像するのが怖かった。 でも、ひとつだけわかってるのは、メグちゃんはまだ“続き”を待っているってことだ
「今日はお父さんと一緒にご飯食べることになってるの、ごめんねカイちゃん、もう切るね」
黙ったままの僕との会話を、そういってメグちゃんはお終いにした。 僕は会いたいと伝えることができなかった。
無言になった受話器を手にしたまま、僕は加山先生が言っていたという、イジメサマは願いなんか叶えてくれないという言葉を思い出していた。
どういう意味なんだろう。 僕は今のメグちゃんとの会話で感じた違和感の正体を確かめたくて、すぐに他のみんなに連絡をした。
すぐに来てくれたのはイッちゃんだった。
僕がメグちゃんと話した内容を正直に伝えると、イッちゃんは考えるように腕組みをして口をへの字にした。
「別にいいんじゃねぇの? 成野にひでえことしてきたヤツらがイジメサマに仕返しされるんだろ? ざまーみろって感じじゃねえか」
確かにそうなのかもしれない。 でも、なんて言ったらいいんだろう。
「やりすぎじゃないかな」
「じゃあカイ、あいつらが成野にしてきたことはやりすぎじゃないってのか? ガキの屁理屈ってよく父ちゃんに言われるけどよ、インガオーホーってヤツだろ」
僕は何にも言えなくなってしまった。 でも、言いたいのはそういうことじゃなくって。
「ちょっと、メグちゃんが怖かったんだ」
そうだ。僕は電話の向こうでどこか嬉しそうに喋るメグちゃんが、ちょっと怖かった。
イジメられなくなって、一番嬉しいのはメグちゃんだ。 イジメサマが助けてくれて、一番喜んでいるのはメグちゃんだ。
辛かったのも、苦しかったのもメグちゃんなんだから、僕がこんなことを言うのはおかしいかもしれない。 だけど。
「カイ、気にしすぎだって。 これ以上なんにも起きないかもしれないだろ、成野のやつがもうイジメられないなら、それで終わりだって」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
結局、僕は何の答えも得られないまま、これ以上なにも起きないことを願うしかなかった。
翌日の放課後、マイちんが僕の教室に来た。 ユッキーが学校を休んだらしくて、イッちゃんとふたりで僕のところに来たのだ。
「カイ君、なにか聞いてない?」
僕は何も知らなかった。 たまたまかもしれないし、なにかあったとは考えたくない。
「とりあえず帰りに猿田んちに寄ってみようぜ」
イッちゃんに言われて、僕らは頷いた。 このままだといけない気がした。
僕らは下駄箱で上履きを履き替えて、三人並んで校門に向かう。 イッちゃんが自転車を取りに行くのに付いていくと、見慣れない制服の学生がこちらに近づいてきた。
茶髪でつり目の男子で僕たちと同じくらいの歳に見える。
「おまえら、ここの学校?」
なんだか落ち着かない様子で、そわそわと辺りを窺うように視線を動かしている。
「だったらなんだよ」
イッちゃんが乱暴に言って、傍らの自転車にキーを差し込む。
よく見ると、彼の制服の白いワイシャツはあちこち赤茶色の染みがついていて、顔は脂ぎった汗をかき、目の下にべっとりと隈ができている。
近づかれると妙な匂いがした。
「成野めぐみって、知ってる?」
彼は誰に聞かれるわけでもないのに、ひそひそと声を低くして聞いてきた。視線も、相変わらずせわしなく辺りを窺っている。
僕は一瞬ドキッとしたけど、マイちんが動じずに彼の前に進み出た。
「うちのクラスにはいない」
嘘じゃなかった。 知ってるとも知らないとも答えていない。
「その子がどうしたの?」
マイちんが訊くと、男子生徒が一歩前に出た。
「あいつが何したのか知りたくてさ、知り合い探してたんだ。 あいつの小学校のやつら、ほとんどこの学校って聞いたから」
大体、彼が何者なのかがわかってきた。 きっとイジメサマの噂を聞いたんだ。
彼はひどく焦ったような表情で、いきなりマイちんの両肩をがしっと掴んだ。
「なあ、何か知ってたら教えてくれよ、この学校、何かあるんだろ!?」
「放してっ」
「頼むよ、なあ、じゃないと俺、もう一週間も家に入れねえし、追いかけまわされるし、全然眠れねえしよ」
必死な声でわけのわからないことを言って、首を激しく左右に振る。
「放せよ!」
横からイッちゃんが彼を突き飛ばした。 突然のことでしりもちをついた彼は僕らの方を見て震え始める。
「だから、俺がなにしたってんだよ! もういい加減にしてくれよ、どんどん集まってきやがって、何なんだよ!!」
叫ばれても、何なんだはこっちの台詞なんだけど、彼の表情は見る見る泣きそうに歪んでいった。
「おい、大丈夫か」
突き飛ばした張本人のイッちゃんが、すこし心配そうに近づいた。 彼はもうべそをかき、うーうーと呻って涎をたらしている。
そのとき、僕は彼が僕らを見ているわけじゃないと気付いた。
彼の視線は僕らを通り越して、背後の路地の隙間に向けられていたのだ。
座り込んだ姿勢のまま、彼は平泳ぎするみたいに両足を動かして後ずさる。
「どうした?」
イッちゃんが思わず手を伸ばすと、彼は弾かれたように立ち上がって、大声で叫びながら駆け出した。
奇声を上げながら走っていく彼をすれ違う人がぎょっとした顔で避けている。
ぶわっと巻き起こった風が路地の隙間から僕たちの間を通って、走り去った男子生徒のあとを追うように吹き抜けていった。
僕たちはそのとき、風音に混じってキャッキャッとはしゃぐ子どもたちの笑い声を聞いた。
幾人も、幾人も、それこそ波のようにさざめく子どもの声が、尾を引いて流れていく。
「なんだよ、いまの」
イッちゃんが頬を強張らせながら言った。マイちんはよろよろとしりもちをつく。
僕も苦しくなるほど溜め込んだ息をようやく吐き出して、しゃがみこんだ。
「ちょっと、やばいんじゃないの?」
マイちんの声が震えていた。
「とにかく、ユッキーのところに行こう」
僕も震えていた。
ユッキーの家には着いたけど、中に入れてもらえたのはマイちんだけだった。
僕らが男子だっていうのはもちろんあるけど、聞かれたくない話しがあったんだと思う。
インターホン越しに何かあったら何でも相談に乗るからと告げて、僕らはマイちんを残して家に帰った。
そのユッキーがうちに来たのは、夜になってからのことだった。
マイちんに付き添われるみたいにして、悲しそうな顔でやってきた。
「伊本君は、メグと話せた?」
そう聞かれて、僕は電話だけ、と答えた。 マイちんがユッキーの顔色を見ながら、僕の近くで小声になる。
「また、事故があったの知ってる?」
知らない。 でも、話しを聞くと交通事故じゃないらしい。
交通事故で死んだ三人のグループの他のメンバーは、始業式の日に学校を休んだ。 いや、正確にはずっと入院していて学校にこれなかったんだ。
ここまで聞いて僕は嫌な予感がした。
「それでね、その子たち、昨日の夜いきなりなんでもない様子になって、外に出たいって言い出したんだって」
心臓をぎゅっと掴まれている気分だ。 だって、あんまりにも同じだから。
「さすがに夜は外出できないよって言ったらしいんだけど、そうしたら窓だけ開けさせてって。 そして……」
事故が起きた。 少し目を放した隙に、全員が窓から転落した。
でも不思議なのは、病室は二階ですぐ下には一階の庇が出ているから落ちたってそこで止まるはずなのに、全員が全員、どういうわけか庇のはるか向こう側に倒れていたことだ。
全員が大の字になって、地面の小石が頭の中にめり込むほどの力で地面に叩きつけられていた。
目も鼻もぐっしゃりと潰れて、前歯が折れて、砕けて外れた顎が大口を開けて笑っているみたいだったらしい。
「ねえ、これってイジメサマのせいだよね、どうしよう、わたしもお願いしちゃった」
泣きそうな声でユッキーが言う。
「カイ君、やめにできないかな、どうにかできないかな」
マイちんもいつになく必死だ。 ユッキーには言えないけど、昼間の男子生徒のことを思い出して僕も不安でたまらない。
「僕も、昨日メグちゃんに言ったんだよ。 でも……」
「そっか、カイ君でも駄目だったんだ」
マイちんは弱々しくうつむいてしまう。
「アタシたちもね、さっきメグに電話したんだ。 でも全然聞いてくれなくて、何がいけないの?って」
昨日僕が感じたのと同じ違和感を、ふたりも感じたんだと思う。
メグちゃんが変だ。 メグちゃんが怖い。
どうにかできそうな方法を考える。 僕らだけで、何とかお願いを終わりにできないだろうか。
勝手なことをしないでとメグちゃんは怒るかもしれないけれど、もう目的は果たしたのだからこれ以上は僕らは望まない。
どうにかできそうな人を、僕は思い浮かべた。 その表情を読み取ったのか、ユッキーが僕のほうにすがり付いてきた。
「伊本君、何か知らないの? どうにかできる方法ないの?」
「でも、イッちゃんに頼んでみないと……」
泣きそうなユッキーから目を逸らしたけど、もうこれはどうにも無視できない。
僕はすぐにイッちゃんに連絡をした。
イッちゃんは嫌そうだったけど、頼んでみてやる、とだけ言ってくれた。
僕らは翌日の放課後に、理科室の前に集まる約束をして、その日は別れた。
翌日、約束どおりに理科室の前にくると、もうイッちゃんが待っていた。
「ごめんねイッちゃん」
「いいよ、しょうがねえもん」
快くではないけど、イッちゃんは許してくれた。 お姉ちゃんのことは黙っておいたから、それだけでも良かったかもしれない。
「寺野君、伊本君」
ユッキーとマイちんが一緒に廊下の向こうを駆けてくる。
「イチ、ほんと、ありがとね」
マイちんがそういってイッちゃんの手をぎゅっと握った。 イッちゃんは照れてその手を振りほどいてしまったけれど。
「オレじゃなくてセンセーに言えよ。 でもセンセーに話しても無理かもしれねえからな」
確かにそうなんだけど、マイちんはとにかく力になってくれたことが嬉しかったんだろう。
「行こうぜ、もう待たせてるから」
加山先生はいつだって理科準備室に居るけれど、今日は話しを聞いてくれる約束になっているからあまり待たせてはいけない。
僕らは理科室の後ろのほうにある準備室への扉に向かい、ドアをノックした。
「入れ」
そういわれて、先頭になったマイちんがノブを回す。
「失礼します」
全員が続いて頭を下げてから部屋に入った。
理科準備室の中は、実験に使うビーカーやフラスコ、アルコールランプ、人体標本やホルマリン漬けの魚が棚に陳列されていて、消毒液の匂いがした。
「こんにちはセンセー」
どこかよそよそしく挨拶するイッちゃんを見て、加山先生は片手を挙げた。
「よう弟クン」
みんながイッちゃんを見る。 僕はできるだけ知らないふりをしたけど、イッちゃんはごまかせないほどに動揺した。
「弟クンじゃねえっす!」
「ああ、そうだったな。 で、寺野、今日は話しがあるって言ってたが、こんな大人数で何の相談だ?」
まじめな顔になって、先生は丸椅子を転がして僕らに身体ごと向いた。
「あの、イジメサマのことで」
言い出したのは、ユッキーだった。 先生は傍らに畳んであるパイプ椅子を僕らに差し出しながら、すこし声を低くした。
「寺野、先生はやるなと言ったはずだぞ」
イッちゃんが叱られて、ばつが悪そうに俯いた。
僕らは椅子に腰掛けたけど、イッちゃんだけは立ったままだ。
「それで、なにをしたんだ。 聞いてやるから、全部話してみろ」
そう言われて、イッちゃんはぽつりぽつりと話し出した。 できるだけ詳しく、ところどころ上手くしゃべれなかったけど、精一杯メグちゃんのことを話して聞かせた。
先生はじっと黙ってそれを聴いていた。 イッちゃんが話し終わると、いいから座れ、とイッちゃんを椅子に座らせてから、タバコを取り出してくわえる。
傍らのマッチを手に取ってから、気付いたように立ち上がってすぐそこの窓際まで歩く。
窓を少し開けてから、僕らに煙が向かないように火をつけた。
開かれた窓の外から部活の練習をする生徒達の掛け声が遠く聞こえてくる。
「なるほどな、そのイジメられている成野って子の為に、イジメサマを使ったのか」
ふぅっと煙を窓の外に吐き出して、先生は考え込むように目を閉じた。
「おまえたち、昔イジメサマに願い事をした女子生徒の話しは知ってるな?」
みんな無言で頷いた。
「なら、その女子生徒がそのあとどうなったか、知ってるか?」
知らなかった。 いや、イジメっ子がみんな死んでしまって、彼女は無事に学校生活を送れるようになったものだと勝手に思っていた。
「どうなったの?」
マイちんが恐る恐る聞いた。 先生は話すかどうか少し思案したようだが、タバコを携帯灰皿で押しつぶして椅子に戻ってくる。
ふわりと、タバコのにおいが漂ってきた。
「イジメっ子が死んで、彼女はみんなから怖がられた。 いや、それだけじゃない。イジメサマの力があれば何でもできると言って、あえて怖がらせてたんだ。 クラスメートはそれを信じて、彼女に取り入った」
急に親切にする子がいた、メグちゃんもそんなことを言っていた。
「イジメられてた大人しい女の子が、まるで女王様のように皆を支配するようになった。 言いつけを良く守ったやつにだけ、彼女はイジメサマの秘密を教えた」
一時期、イジメサマが流行ったというのは、そういう意味だったのか。
「秘密を知った生徒は、興味本位でイジメサマにお願いに行った。 別にイジメられてたわけじゃない、テストの結果とか恋愛成就とかくだらないことを色々とな」
神頼みのつもりで、身勝手なお願いをして回ったんだろう。
「叶ったんですか?」
僕が聞くと、先生は首を横に振った。
「イジメサマはもともと願いを叶えたりはしない。 だが、代償だけは要求する」
代償。その言葉に僕らは背筋が凍るのを感じた。
「その、代償って何なんですか?」
ユッキーが呟く。 もう恐ろしい想像しかできない。
「さあな、願いごとによってバラバラだったみたいだ。 すぐにイジメサマは何でも叶えてくれるわけじゃないと知れ渡って、誰も近づかなくなった。 最初に願いをかけた女子生徒も、女王様から引き摺り下ろされた。まあもっとも事情が事情だから、もう彼女をイジメようなんて命知らずも居なかったらしいがな」
今のメグちゃんと同じような状況になったということだろうか。
「だが、結局彼女は卒業する前に亡くなった」
「どうして!」
声をあげたのは僕だった。 メグちゃんのことを考えていたから、たまらずに口を飛び出していた。
先生はもう一本タバコをくわえて、火をつけずに黙って考えている。
「おまえ達の通学路に、橋があるだろう。 あの橋から川に転落して溺れたんだ。下流で浮かんでいるのを発見された」
先生は転落といったけど、それはいろんな意味を含んでいる言い方だった。
「自殺、ですか?」
ユッキーが訊く。
「理由がない。 高校受験で失敗するような学力じゃなかったし、事故だとしてもあの橋の欄干はおまえ達の胸まであるだろう?」
じゃあ、最悪の考えが僕の頭を横切った。 イジメサマの一件で彼女が逆に恨みを買っていたとしたら。
「結局はわからずじまいで、噂だけが残ったんだ」
先生が再び窓辺に立つ。
「先生は、どうしてそんなに詳しいんですか?」
マイちんが訊いた。
「もしかして、アタシたちを怖がらせようとかしてません?」
こんなことを訊くのは、彼女が怖がってる証拠だ。
「あのな女湯乃、いくらなんでもシツレーだろ」
口を挟んだイッちゃんを遮って、先生はすこし恐い顔をしてマイちんの目線までかがんだ。
「先生の従姉だったんだよ、その女子生徒」
みんな黙り込んだ。 小さいころに先生は亡くなったその従姉の両親から色々聞いていたそうだ。
両親は彼女の遺品となった日記帳でイジメサマのことを知った。
「とにかく、アレはおまえたちの思っているような神様じゃない。 もう関わるな、できるならその成野って子にも関わらないほうがいい」
「できないよ、メグを見捨てるなんて!」
マイちんが思わず立ち上がると、先生はタバコの灰を落としながら言う。
「……巻き添えを食うぞ」
ぞくりとした。 先生の言葉は、僕らを脅かすために言っているわけじゃないと確信できた。
「先生、なんとかならないか、イジメサマのお願い取り消せないか」
イッちゃんが頑張ってくれたけど、先生は黙ったままだった。
「先生!」
僕も思わず大きな声を出した。 先生は煙を吐き出してから頭をかいた。
「寺野にイジメサマのことを教えたのは先生だからな、先生にも責任がある。 だが上手くいくかわからんぞ」
重い口を開いて、先生はため息をついた。
「仮に上手くいっても、もう他の連中に迷惑がかからないだけで、おまえたちが支払う代償が取り消しになるとは限らない。それでもいいのか?」
全員が、躊躇いがちにだけど頷いた。
先生はまだ迷っていたみたいだけど、タバコを消して窓を閉め、重たいカーテンまで引いて部屋にカギをかけた。
何が起こるんだろうと僕らは緊張する。
「よし、そこまで言うなら話してやる。 だが、やめたくなったら絶対にやるなよ、いいな」
みんな頷いた。
「まず訊くが、成野を含めて初潮は来てるか?」
「先生、最低」
マイちんがじとっとした眼差しを向けた。 僕だって保健体育で習ったけど、女の子にすれば恥ずかしい話題なんだろう。
「茶化すな、大切なことだ」
先生の表情を見ると、やましい気持ちがあるとは思えない。
「……来てる。 ユッキーは?」
ユッキーは恥ずかしそうに頷く。
「成野は?」
「メグは……」
ちらりとマイちんが僕らのほうを見る。
「オレら、外出たほうがいいか?」
イッちゃんが出て行こうとするけど、先生がそれを制した。
「ここにいろ、どうなんだ」
「まえに、パンツが汚れちゃったって泣いてたから、保健室連れてった」
マイちんが言いづらそうに答えた。 まえというのは、きっと小学校のころの話だ。
「そうか、ならおまえたち全員が資格をもってるってことだな」
「資格ってなんの?」
イッちゃんが口を挟む。
「おまえたち、イジメサマって何だと思う?」
唐突に訊かれて、僕らは答えられなかった。 神様じゃない、と先生は言った。 願いを叶えてくれないとも先生は言った。
僕たちが黙っていると、先生は立ち上がって骨格標本の後ろから画板くらいの大きさのホワイトボードを引きずり出して、机の上に立てかけた。
「おまえたちはイジメサマを“虐めさま”だと思ってるだろう」
細いマジックで、先生がさらさらとホワイトボードに書き込んでいく。
「だが、正確には“異児女さま”と書く。 つまり異形の姿のせいで特別な星の元に生まれたと信じられた女児のことだ」
僕らの頭にあのとき見たイジメサマの姿が思い浮かぶ。
「福助や便乱坊を知ってるか?」
書き込まれた漢字を見ても、福助人形のふくよかな姿しか思い浮かばない。
「どちらも異児だ。 福をもたらすとされた福助は、いまでもありがたがられているが、便乱坊のほうは相手をさげすむ言葉の語源になっている。べらぼーと言えばわかるだろう。 都合が良ければ神様、一歩間違えばべらぼーめだ。差別ってのはいつの時代も変わらず恐ろしい」
多くが軽んじられ蔑まれるなかで、何かのきっかけで神様扱いされてしまうこともある。イジメサマもおそらくそうした誰かがモデルになっているのだろう、と先生は言った。
「だが、その“誰か”っていうのが正体じゃない。 あくまでそうして祀られる対象が媒体になって、怨念のようなものが集まって別のものになっているんだろう。 寺野たちが昨日聞いたって言う子どもの声は複数だったんじゃないか?」
確かにあの時、駆け抜けていった声はあまりに大勢だった。
「物狂いといってな、そうした霊媒は神がかった力を宿すことがある。 そして神様ってのはありがたいものばかりじゃない。貧乏神や疫病神は聞いたことがあるだろう。 神様扱いされているものの中には祟りを鎮めるために祀られているものも多いし、そうすることで怨念を封印しているわけだ」
異児女、霊媒、怨念。
改めて文字で書き表されると、僕たちはいったい“何に”むかってお願いしたのかという気にすらなってくる。
「間違いなくイジメサマも災いをもたらす方だ。 あの呪文の言葉を思い出してみろ」
イジメサマ、イジメサマ、どうぞうらみをおはらしください。
「いったい誰の怨みを晴らすんだ? 私の、か? それとも、あなたの、か?」
そうか。 僕たちは恐ろしい呪いを実行したのだと気がついた。 先生の言っていることが当たっているなら、この場合怨みを晴らすのは。
「……イジメサマの」
僕が呟くと、先生はペンで僕の方を指して頷いた。
「そう、おまえたちは気付かないうちに、イジメサマに“どうぞ”と許可を与えてしまっていたんだ。 そしてイジメサマの中にある怨念が解放されることになった」
でもどうして、そんな回りくどいことをする必要があったのか。 そんなすごい力を持った神様なら、いくらでも人に怨みを晴らせるだろう。
「本物の神様ならそうかもしれないが、神様扱いされてるだけの悪い霊なら話しは別だ」
「わ、悪い霊ってなんだよ」
イッちゃんがだんだん顔色を悪くし始めた。
「悪魔、悪霊、いろんな呼び方はあるけどな、人間の魂じゃないものって理解すればいい。 物の本ではそうした存在は人間の魂を狙っているが、自分からそれを奪うことは許されていない」
先生が言いながら、机の下にあったカバンを取り出した。
カバンの中から、次々に古くてボロボロの本が積み上げられる。 日本のものもあれば、外国の本もあるみたいだ。
「悪魔に魂を売るって言葉があるだろう? あれは逆に言えば人間が望んで取引をしなければ、悪魔は魂を奪えないって意味だ。 それにおまえたちもアダムとイブの話しくらいは知っているだろう」
たしか、蛇の姿をした悪魔にそそのかされて、イブが禁断の木から実をとって食べる話しだ。
「人間に自由にとり憑いたり操れる力があるなら、別に言葉で誘惑しなくても無理やり実を食べさせれば済んだはずだ。 だが、悪魔は人間が自由意志で食べることを選ぶように仕向けた。つまり堕落と背徳は人間が悪の誘惑に負けて魂を明け渡す許可を与えたところから始まる、ということを表しているわけだ」
先生が言っていることは全部は理解できなかったけど、何かの契約や儀式を行ったことがきっかけで、その霊が力を使う許可を与えられるということだろうか。
「鬼は外、福は内。 幸運を招く招き猫。 善いものも悪いものも、人間にそれが入る許可を与えられて初めてその力が具現化する。 逆に昔はそうした福を逃がさないように座敷童を閉じ込める結界を張った家もあったそうだからな」
神棚なんかもそうした力を招こうとするものなんだろうか。
「イジメサマは少なくとも祀るという考え方に則って封じられたものだ。 そうじゃなきゃもっと立派なところに安置されているだろう」
じめじめした木のうろに座る不気味な人形。
そもそも、あれを神様だといって信じるのはよっぽどのことだろう。冷静になってみれば、どうしてあんな恐ろしげなものに縋ろうなんて考えたのか。
「先生が調べた限り、子どもが作れるようになってからじゃないとイジメサマの呪文は効果がない。 女子なら初潮を迎えたかどうかだな」
あれ、じゃあ男子は?
「センセー、オレたちセーリ無いんだけど」
「おまえらの歳なら精通してるだろう」
言われてイッちゃんが赤くなる。 女の子たちが初潮のことを言われた気持ちがわかった気がした。
「どちらも新しい血の道が通うという点で同じことだ。 イジメサマが異形に生まれて苦しんだ子どもの怨念を封じるものなら、親になる資格をもった人間なら契約できるんだろう」
つまりその契約とは“うらみをおはらしください”なわけだから、ある年齢に達したら自動的にイジメサマの怨みの対象になるってことじゃないか。
「でもそれならどうしてメグちゃんをイジメてた生徒が真っ先に死んだんだろう」
僕は思った疑問を素直に口にした。 僕たちが呪文を唱えたとき、その場で僕たちにイジメサマの呪いが降りかかってもおかしくなかったはずなのに。
「欺きだな」
先生がホワイトボードの隅っこに漢字で書き記してくれた。
「おまえたちは、どうしてイジメサマが願いを叶えてくれると思ったんだ?」
「だって、そういう噂だったし」
イッちゃんが言うと、先生は頷いた。
「それで、実際あっちの中学の生徒が死んだと聞いて、どうおもった?」
「本当だったんだって思った」
「そこだ。儀式を行った人間、つまりいきなり許可を与えてくれた人間を殺してしまったらもう自由に振舞えない。 そんなことをするよりも、願いを叶えたと思わせて、より多くの人間の魂を奪えるように仕向けたほうがいい」
なんてことだ。僕らは逆にイジメサマに利用されているんじゃないか。
「それにイジメサマは虐げられた子どもの怨念が媒体になっている。 原理として人を虐めるような連中から優先的に取り殺しても不思議じゃないだろう。 とにかく、このままじゃ被害者が増える一方だ」
どのくらいになるんだろう。 そして、いつ僕たちは代償を払わされるんだろう。
メグちゃんをイジメていた生徒たちが全員怨みを晴らされてからだとしたら、きっとものすごい人数が悲惨な目に合うはずだ。
「センセー、話しはわかったけど、どうすればいいんだ?」
イッちゃんが核心を急ぐ。 僕らは全員同じ気持ちだった。
「イジメサマを処分するしかないだろうな」
処分、とは具体的にどうするのだろう。
「霊媒になる人形がなくなれば、怨霊が具体的な存在を維持できなくなるかもしれん。 名前と形というのは実はおまえたちが思っている以上にこの世界では重要な意味があるんだが、まあその話しは今はやめておこう」
それから先生は、僕らにイジメサマの人形を取に行くように言った。
先生の身体ではあのフェンスの穴は潜れないし、背も高いから目立ちすぎるということだ。
僕らが人形を持ってくるあいだに、先生は人形を処分するための準備をしておくと言っていた。
体育館裏の抜け道まできたところで、僕たちはお互いの顔を見合わせた。
イッちゃんはいつもどおりに青ざめていて、ユッキーはもう目に涙をためている。
まだ夕方だというのに林の中は真っ暗で、ざわざわと揺れる木の枝が、おいでおいでをしているようだった。
「どうする、女湯乃と猿田は残るか? カイも、無理しなくていいんだぞ、オレが変なこと電話で聞いたのがいけないんだし」
イッちゃんが強がりを言う。正直僕だって残りたいけど、そんなわけには行かない。
だってイッちゃんはあのとき、メグちゃんの為を思って加山先生に電話してくれたんだ。
呪文だって、みんなで唱えた。 お願いだって、みんなでした。 イッちゃんのせいだなんて誰も思ってない。
「みんなで行こう」
僕が言う。
「イチ、無理しなくていいって」
イッちゃんの背中をマイちんがバシンと叩く。
マイちんにぴったりとくっついていたユッキーが、いつの間にか僕の服の袖をぎゅっと掴んでいた。
「よし、じゃあ入るぞ」
この前のように、イッちゃんが先頭になって入っていく。
あの時は真っ暗の中を懐中電灯を頼りに進んでいた。 いまは夕日が差し込んで所どころ薄暗い中を、僕らは記憶を頼りに進んでいった。
たしか、この倒れた木を跨いで、あっちのほうに、なんてみんなで確認しあうようにして進むと、なんとなく見覚えのある場所に出た。
「あっ」
声をあげたのはユッキーだった。
林の木々の間から、誰かがこっちに歩いてくる。 僕らは驚いてその場に身を隠すようにしゃがんだ。
背の高い下草の向こうに、さくさくと草を踏む足音が近づいてくる。
変に温かい汗がたらりと首元を垂れていく。
すこし明るいところまで人影が進んで、姿がハッキリと見えてきた。
「メグっ!」
大声で言って、マイちんが立ち上がった。 僕らも釣られて立ち上がる。
メグちゃんだった。
「どうしてこんなところに居るの!?」
走りよって、マイちんがメグちゃんの顔を見る。 メグちゃんはぼんやりと笑顔を浮かべていた。
「べつに、このまえ来たときにカイちゃんが懐中電灯落として行っちゃったから、取に来ただけ」
そういうメグちゃんの手には、土に汚れた懐中電灯が握られていた。
「でも、こんなところに一人で来ちゃ危ないよ!」
ユッキーも心配そうだけど、メグちゃんは何となく僕らの心配を笑うような表情を作った。
「平気よ。 イジメサマはわたしの味方だし、今だって何にもなかったよ? みんなこそどうしたの、あんなに怖がってたのに」
怖がってたのはメグちゃんだって同じはずだった。なのに今は、怖がる僕らをなんだか楽しそうに見ている。
「メグ、あんたまさか、またイジメサマに何かお願いしに来たんじゃないでしょうね」
何かを感じ取ってマイちんがメグちゃんの肩を掴む。その手をじっと見つめながらメグちゃんは薄笑いを浮かべた。
「ううん、違う違う。 わたしがお願いしたんじゃないよ。 でも、みんなはどうして来たの?」
「オレらは、もうお願いしたことやめてくださいって、言いに来た」
イッちゃんが言ったのは嘘だったけど、やめさせるために来たのは本当だ。
「寺野君、怖がりなのによくきたね。みんなも。 もう無理だと思うけど、行ってみたら?」
「メグ、どういうことよ?」
マイちんが問い詰めようとしたけど、その横をするりとすり抜けて、メグちゃんはさっさと出口へむかう。
「メグちゃん!」
僕が呼びかけても振り向きもせずに、メグちゃんの背中は小さくなっていった。
「急ごう、暗くなるからよ」
沈み始めた夕日を心配して、イッちゃんが僕の肩を叩いた。 そうだ、今はとにかく急がないと。
僕らはメグちゃんが歩いてきたほうへ足を速めた。見覚えのある景色が開けて、あの枯れた木が姿を現す。
すぐに木の後ろに回って、草を掻き分けてみた。
イジメサマは居なかった。
うろがぽっかりと闇を作り出しているだけで、イジメサマの人形は跡形も無く消えていた。
「ウソ、どうして」
ユッキーが呆けたように呟いた。 僕も気持ちばかりが焦って考えがまとまらない。
「おい、探そうぜ」
イッちゃんの声で、みんな一斉にあたりの草を掻き分けて探し始めた。
見つからない。
みんな必死だった。 石をどけたり、落ちた木の枝をさばくってみたり。
陽はどんどん沈んで、あたりはどんどん暗くなる。
「どうだ?」
「全然、なにか手がかりないかな」
僕らは途方にくれた。これだけ生い茂る草木の中の、どこをどう探せばいいのかもわからない。
僕のつま先に何かがぶつかって、ころころと転がった。なんだろうと見てみると、それは単一の乾電池だった。
表面が錆びていないから、そんなに古いものじゃない。
拾い上げてみて、僕はふと思い当たった。
「これ、メグちゃんの懐中電灯に入ってたやつだ」
そうだ、メグちゃんは懐中電灯を取に来たといっていた。 そのとき、もしかしたら。
「まさかメグがイジメサマを隠したの!?」
マイちんも僕と同じことを思ったようだ。
「あいつ、なんでそんなことを」
みんなイッちゃんと同じ気持ちだったけど、とにかくここに居ても仕方が無い。僕らはこのことを加山先生に知らせるために急いで戻った。
学校に戻ると先生は体育館の脇でどこから持ってきたのかドラム缶に角材を放り込んでいた。
どうやら、先生はこれで人形を焼くつもりだったらしい。
「どうしたおまえたち」
息も絶え絶えに戻ってきた僕らの顔を見て、先生が心配そうに言った。
僕らは途切れ途切れに、でも必死にいまあったことを説明した。 先生は神妙な顔をしてそれを聞いていた。
「成野が来たのか。 先生とは入れ違いになったんだな」
そう言って、先生は用のなくなったドラム缶を体育用具倉庫の脇に転がしていくと、代わりに工具箱を持って来た。
「とにかく、あの抜け道はもう塞ぐしかない。 おまえたちも、もう二度と林には近づくなよ」
先生は大きな身体を無理やり狭い通路に押し込めて、めくれたフェンスを頑丈な針金でぐるぐると巻き始めた。
イッちゃんは先生を手伝って、言われた工具を手渡したりしている。
僕らはその作業の間、ずっと黙って校庭を眺めていた。
「これでひとまず終わりだ」
先生が汗を拭きながら通路から這い出してきた。
見ると、真新しい針金でぎっちり補修されたフェンスが手術の縫い痕みたいだった。
「次の職員会議で、このフェンスの修繕を依頼する。 もういい加減、新しくしなきゃ駄目だ」
言いながら工具箱を片付けて、先生が戻ってきた。
「全員、車で送ってやるから、カバンを持って職員駐車場まで来なさい」
僕らは喜んだけど、イッちゃんだけは嫌そうだ。
「いや、オレはイイッす」
「寺野、自転車は置いていけ。 今回は大目に見てやる」
見抜かれていたイッちゃんは、大人しく先生の言うことに従った。
僕たちは教室に戻ってカバンや荷物を取ってくると、すぐに職員駐車場に向かった。
どんな車に乗っているかは知らなかったけど、黒いワンボックスの前で立っている加山先生はすぐに見つけることができた。
先生も職員室に寄ったのだろう、いつもの白衣姿じゃなくてジャケットを羽織っていた。
「よし、女湯乃の家が最後だから助手席だ。あとは後ろに乗ってくれ」
言われたとおりに、僕らは車に乗り込んだ。
先生の車は何にも置かれていなくて、とても広く感じた。あと、タバコ臭かった。
走り出してしばらくしたとき、ユッキーが誰とも無く言った。
「もう方法、ないのかな」
先生がハンドルを切って、僕らのほうをバックミラー越しに見る。
「人形を探すにしても、せめてあの下草が枯れてからじゃないとな。 それに、あの林はちゃんと決まった所有者が居るよそ様の土地だ。 本当なら無断で入るだけで犯罪なんだぞ」
しゅんと俯いてしまったユッキーに、先生はだけどな、と付け足すように言う。
「林に入れなければ成野もイジメサマにお参りはできない。 その間に治まる可能性だってある」
先生が言うには、霊媒には地場も密接に関係しているらしい。 つまりイジメサマの人形自体もそうだけど、あの奇妙な枯れ木にも意味があって、その場所を離れることでイジメサマの力が弱まる可能性も考えられるということだ。
「イジメサマを別の場所に隠したことが、結果的に良いほうに転がるかもしれない」
これが慰めだったとしても、僕たちはその可能性に託すしかなかった。
それからしばらく、僕らは放課後になると先生のところに集まるようになった。
ユッキーが塾の生徒から集めてきた情報や、イッちゃんが聞いてきた話しを持ち寄って、メグちゃんの学校に異変が無いかを監視しながら、イジメサマをどうやって見つけるかを話し合った。
先生は、いろいろ相談に乗りながら、僕らの話を真剣に聞いてくれていた。
そして遅くなった日は、全員を車で送ってくれた。
その日はみんなの中で僕が一番最初に車を降りた。 また明日、とお互いに言い合って僕らは別れた。
お母さんが晩御飯を用意してくれていたけど、ほとんど喉を通らなかった。
食べ終わったあと軽くシャワーを浴びて汗だけ流すと、僕はベッドの上にごろりと横になった。
電気の消えた部屋には、カーテンの開いた窓から差し込む街の灯りが、額縁のように白い壁を切り取っている。
ぼんやりと明るい部屋の中で、僕はじっと蛍光灯の傘を見つめていた。
家の前の道路を車が通り抜けるたびに、天井をワイパーが舐めるみたいに光が走っていく。
だんだん瞼が重くなってきた。 何だか体がぐったりと重い。
眠気に任せて目を閉じると、廊下のほうから小さな音が聞こえてっきた。
シッ、シッ。 シッ、シッ。
なんだろう。 まるで箒の先で床を撫でるような音だ。
少しずつ、少しずつ音が近づいてくる。
シッ、シッ、シッ。
その音は廊下を這うように、少しずつ僕の部屋に近づいてくる。
嫌な予感がした。 僕は音を立てないようにゆっくりと体を起こして、ベッドから足を下ろす。
音が、やがて僕の部屋の前まできて、ぴたりと止んだ。
僕はドアをじっと睨んだまま、息を殺している。
カリカリカリカリ……。
小さな小さな、爪で引っかくような音がし始めた。
「お母さん?」
もちろんお母さんじゃないのはわかっている。 声を上げても、リビングでテレビを見ていたお母さんには聞こえないだろう。
カリカリカリカリ……。
その引っかくような音が、だんだん床のほうからドアの上のほうに移動していく。
何かが、ドアを登ってくる。
僕はえいやとばかりにベッドを離れてドアノブをぐっと掴むと、急いで内側からカギをかけた。
その直後、ドアノブが乱暴に左右に回転する。
何度も、何度も、何度も。
僕はノブが壊れてしまわないことを祈りながら、恐る恐る後ずさりする。
ドンっと、大きな音がして一瞬ドアの板が反り返ったように見えた。 びっくりして、僕の鼓動は耳鳴りがするほど激しくなる。
無意識に握りしめていた手のなかで、じっとりと汗が滲み出ているのを感じた。
息が上がって、吸っても吸っても体に酸素が回っていないように感じる。
耳のすぐ後ろで、僕の心臓の音がどくどくと鳴り響いていた。
僕は痛いほど力んだ体で身構えていたけれど、それきり静かだった。
何事もなかったように、窓の外を車が通り抜けていく音がする。
窓から差し込んだ光がさっと流れていくのにつられて視線を動かすと、壁に四角く映った窓のシルエットが見えた。
大きく壁に落ちる僕の影の脇に、もうひとつ鉢植えのようなシルエットがある。
あれ、と思ったも束の間。 僕はその場に縛られたように動けなくなった。
僕の部屋の窓には鉢植えなんかない。
それより、今見えている茂った鉢植えのようなシルエットには見覚えがあった。
あの夜見た、イジメサマのざんばらの髪。 ぼさぼさに逆立ったその姿とそっくりな影が、僕の部屋の壁に映っている。
居るんだろうか。 あの焦点の合わない目で、いま窓ガラスに張り付いて僕を見ているんだろうか。
振り向いて確かめたいという衝動を、絶対に振り向いちゃいけないという気持ちが何とか引き止める。
僕は影からじっと目を逸らさないようにして、ゆっくり慎重にドアに近づいた。
鍵を開けて、静かにドアノブを回す。
ノブを回しきったところで、思い切りドアを開け放ち、僕は廊下に飛び出した。
足がもつれて、飛び出したその場で勢いよく転んでしまう。
倒れるとき自分の脇に視線が行って、一瞬、ほんの一瞬だけ窓が視界に入った。
ぼさぼさに髪の毛を振り乱した頭部が見えた。 鼻から上だけが窓の縁に乗っていて、片方がそっぽを向いた血走った目が、ぎょろりと僕を睨んでいた。
すぐに倒れた体をよじって振り返ったけど、窓の外にはもうなにも無かった。
「カイ~、なにバタバタやってるの!」
リビングのほうから、お母さんの声がする。
僕は返事をすることもできずに、ただ廊下に座り込んでた。
翌日、僕はいつもよりずっと早く起き出した。
あれからリビングでテレビを見たまま眠ってしまったということにして、一晩中電気とテレビをつけたまま、何かあれば両親の寝室に駆け込める場所で過ごした。
うとうとしてはハッと目を覚ますのを繰り返していたせいで、ほとんど眠った気がしないまま朝になってしまった。
お母さんが、顔色が悪いわよと心配してくれたけど、僕は苦笑いで返すのがやっとだった。
カバンを取りに部屋に行くのも怖かったけど、開けっ放しにしてあったドアを見て更にぞっとした。
赤ん坊のくらいの小さな手のあとが、ドア一面にまるで這い回ったように付いていた。
僕はすぐに雑巾でそれをふき取って、朝食もそこそこに家を出た。
とにかく今は、早く学校へ行こう。 学校へ行って加山先生に昨夜のことを話そう。
僕は自然と早足になって、まるで駆けるようにして校門をくぐった。
グラウンドには朝錬をしている生徒が見える。 僕は人が居ることに少し安心感を覚えながら、真っ直ぐ廊下を進んで職員室を目指した。
中を覗くと、加山先生の椅子にはジャケットがかけてあった。 それならもう先生は理科準備室に居るはずだ。
まだ生徒の姿もまばらな校舎のなかを歩いて、僕は理科室へ向かう。
僕が目的の場所に着いたとき、ちょうど先生が理科室のカギを開けているところだった。
「先生!」
今回のことを唯一相談できる先生に会えた安堵からか、思わず声が高くなった。
「伊本、こんな朝早くにどうした?」
先生は僕の顔を見るなり、少し表情を曇らせた。 きっと、何かあったと察してたんだ。
「あの、実は夕べ……」
「ああ、いい。 すぐに開けるから中で聞こう」
そういって、先生は僕を理科準備室に入れてくれた。
僕はできるだけ落ち着こうと自分に言い聞かせながら、それでもついつい早口に昨夜のことを話して聞かせた。
「妙だな」
話しを聞き終えるなり、先生が言ったのがそれだった。
「イジメサマの人形はあくまで媒体で、それ自体が何かをするわけじゃない。 まあ、おまえたちに恐怖を感じさせたいなら人形の姿を借りるのが一番手っ取り早いが、なら目的は……」
喋りながら先生は考えをまとめているようだった。
「警告かもな」
思い至ったように先生が僕を見る。
「これ以上、手出しをするな、という警告かもしれない」
確かにそれならわかる気がする。 でも、それを聞いた僕は少し引っかかるものを感じた。
「でも先生、もう抜け道も塞いだし、イジメサマもどこかへ行っちゃったし、僕らはもともと手出しできないですよ」
僕が言うと先生もそうなんだよと頷く。 どうやら同じことを考えていたようだ。
「伊本、もしイジメサマがあの林にないとしたらどうだ」
言われてみて、僕は一番考えたくないことだと思った。
「あの日、おまえたちは成野に会ったんだろう? 彼女が何か気になることをしたり、言ったりしなかったか?」
僕はあの日のメグちゃんを思い出してみる。 会ったときに、懐中電灯を持っていて、僕たちは何かお願いしに来たのかと聞いて。
『わたしがお願いしたんじゃないよ』
そうだ。確かにあのときメグちゃんはそう言っていた。 お願いしに来たんじゃないよ、じゃなくて、お願いしたんじゃないよって。
「伊本、それは成野って子が“誰か”に“何か”をお願いされたって意味に聞こえないか?」
先生が僕の不安を決定的なものにする。それと同時に、僕は自分の中に次々に恐ろしい想像が湧き出してくるのを止められなかった。
「イジメサマに、メグちゃんが何かをお願いされたのかも。 あと、乾電池が落ちてたんです」
「乾電池?」
「懐中電灯、あの、すっごく大きくて、ラジオが付いてるやつで、お茶の大きなペットボトルくらいあるやつで。 僕があのとき落としちゃったから、メグちゃんはそれを取に来たって」
僕は不安でたまらなかったから、言っていることもだんだんしどろもどろになっていく。
「まて、成野が自分で懐中電灯から乾電池を取り出したって言いたいのか?」
頷いて見せると、先生の顔が少し翳った。
「どうして成野は、懐中電灯を空にしなくちゃならなかったんだろうな」
もう答えを知っているような口ぶりだった。僕も先生に言いたいことが。
「メグちゃんがイジメサマを、あの中に入れて持って帰った……」
でも、本当にそんなことができるだろうか。 懐中電灯は大きくて、入れる電池も大きかったけど、乾電池を取り出しても全部が空洞になるわけじゃない。 あのイジメサマの頭はとても入らないだろう。
「やっぱりあの人形を丸ごと入れるなんて、無理だと思います」
「丸ごと入れる必要はないだろう」
先生はホワイトボードを出してきて、簡単な人形の図を描いて見せた。
「詳しい作りはわからないが、人形は頭部と胴体が取り外せる構造になっているものが多い。 胴体といっても、着物を着せているから中身がぎっしり詰まっている必要はないし、着物の下は案外張りぼてで出来ていたんじゃないか?」
もしそうなら、着物は小さく畳めるだろうし、腕だって裾から除く手の部分以外は簡単な作りなのかもしれない。
だけど、それなら頭部はどうなってしまったのだろう。
「頭部は、別のものを挿げ替えて組み立て直す気なのかもしれないな。 不気味な顔に気をとられているが、それがイジメサマの本来の姿だったかなんてわからないんだ。 もしかすると、おまえたちが見たのも何度か頭だけは取り替えられた姿だったのかもしれないだろう」
先生が言っているのはあくまで仮説というやつだろうけど、もしもイジメサマの本体が胴体のほうで、それをメグちゃんが持っているとしたら。
僕はメグちゃんのことが心配で、それと同じくらい怖くてたまらなくなった。
僕の頭に首のないイジメサマの血を浴びたような赤い着物と、首だけのイジメサマの姿が思い浮かんで気分が悪くなる。
あれ、でもそれって何かおかしい。 じゃあ、あれはなんだったんだろう。
「先生、昨日イジメサマが僕の部屋を覗いてたんです。 でも今の話しだと、頭はまだ林の中にあるんじゃないですか?」
だけどこの指摘を、先生はすでに予想していたようだった。
「よく思い出せ伊本、おまえが見たのは、どんな顔だった?」
そうか、もう新しい頭が付けられている可能性があるんだ。 でも、あのざんばら髪と、くすんで片方がそっぽを向いた血走った目は、間違いなくあのとき見たイジメサマの。
え。血走った目?
イジメサマの人形の目が、血走ってるわけがない。 じゃあどんな人形の頭だったんだろう。
いや、あれはそもそも人形だったんだろうか。
一瞬だけ見えたあの恐ろしい顔をどうにか思い出す。 鼻から上だけだったけど、違和感はあった。
特に大きさだ。 部屋の外から窓の外を一瞬見ただけで、目がどんなだったとか、顔がどうだったかがわかるなんて、小さな人形の頭じゃありえない。
僕は恐ろしいことに気がついてしまった。
あれは、メグちゃんだ。
まるで別人のような形相になっていたけれど、今思えば、あれはメグちゃんだった。
「そんな。そんな……」
僕は血の気が引く、という言葉を始めて身に染みて感じていた。
「イジメサマにお願いするということは、イジメサマを受け入れることだ。 惹かれれば惹かれるほど、より深くイジメサマに魅入られることになる。 心を許す、といえばどんな状態かわかるか?」
先生の言葉が、ひどく残酷に僕の耳に刺さる。
僕は気分がふわふわしていて、でも胸の奥には重たいものがあって、心臓がゴムに包まれてしまったような感覚だった。
そんな僕を見て、先生はそれ以上なにも言わなかった。
そろそろ朝のチャイムが鳴ろうという時間になって、廊下を走ってくる足音が聞こえた。
足音はそのまま理科室を突っ切って、理科準備室のドアを乱暴に開ける。
「先生!」
飛び込んできたのはイッちゃんだった。続いてマイちんとユッキーが入ってくる。
僕らは何事かとそっちを向いた。
「カイもいたか、成野が、成野が大変なんだ!!」
イッちゃんは汗をかいていた。 マイちんは唇まで真っ青で、ユッキーは泣いていた。
「落ち着け寺野、何があった?」
混乱している僕の変わりに、先生が冷静に話しを聞きだす。
動揺した三人がバラバラに喋り出すけど、何とかわかったのはメグちゃんが病院に運ばれたということだった。
どうしてこんなことになってしまったのか。
「おまえたち、今から家に電話できるか?」
先生が僕たち全員に訊く。みんな頷いて応えた。
「その様子じゃ学校に居ても授業なんて手に付かないだろう。 担任の先生方には俺から話してやるから、病院に行こう」
早退してメグちゃんのお見舞いに行くということだろうか。 でも、きっと先生には別の考えがあるに違いない。
「職員室の電話を使わせてもらおう、行くぞ」
「オレんちはいいや。 学校フケるのなんてしょっちゅうだから、母ちゃんも心配しないし」
「寺野……」
イッちゃんの言葉に、先生が少し険しい顔になった。
しまった、という表情になって、イッちゃんはそっぽを向く。
僕たちは先生と一緒に職員室に行った。 加山先生が他の先生に話しをしている間に、僕らは事務用の電話で自分の家に連絡した。
イッちゃんの家は、留守にしていたようで、しばらく鳴らしたあとで諦めて受話器を置く。
最後に僕の番になって、電話をかけるとすぐにお母さんが出た。
「あら、カイ。 どうしたの、いま学校でしょ?」
「うん、そうなんだけど、さっきメグちゃんが病院に運ばれたって聞いて」
「まあ! めぐみちゃんが? それで、無事なの?」
「たぶん。 それで先生が、心配だろうから今日は早退してお見舞いに行ってこいって。 イッちゃんたちとこれから病院に行ってくる」
「そう、それじゃあそうさせてもらいなさい。 お母さん、今から用事があるから迎えに行ってあげられないけど、大丈夫?」
「うん。 病院まで先生が送ってくれる」
「なら大丈夫ね。 病院に行ったら成野さんのご家族も居るでしょうから、お母さんの分もよろしく伝えて頂戴ね」
僕の喋ったことは嘘じゃなかったけど、本当の理由を話していないようで後ろめたさがあった。
受話器を置くと、ちょうど加山先生が戻ってくる。
「担任の先生方にも話しを通したから、すぐに出るぞ」
先生の車は昨日と同じ場所に停まっていた。 イッちゃんたちが後ろに乗り込んで、僕は助手席のドアを開ける。
「伊本」
先生に呼び止められて振り返ると、先生が小さな声で僕に言った。
「さっきの話しは、まだみんなにはしないほうがいい」
僕は静かに頷いた。 もちろん、僕だってみんなに話すつもりはなかったけど、ひとりで抱えているのは苦しかった。
流れる景色を眺めている間に、車は駅から程近い総合病院の駐車場に入っていく。
先生が受付で話しをして、僕らはエレベーターでメグちゃんが居る病室に向かった。
部屋の前で、メグちゃんのお母さんが男の人と話しているのが見えた。
ふたりは歩いてきた僕らに気付いて、軽く会釈をする。 加山先生が頭を下げて進み出た。
「こんにちは。 私、この子達の中学で理科の実験を担当しています、加山と申します」
丁寧な口調で挨拶をする加山先生に、メグちゃんのお母さんがもう一度頭を下げた。
もうひとりの男の人は、白のポロシャツを着たプロレスラーみたいな大きな体を小さくしながら応える。
「は、どうも。 私はこちらの娘さんのクラス担任で、三枝と申します」
メグちゃんが言っていた熱血担任はこの三枝先生のようだ。
「あの、それで今日は?」
僕らのほうをちらちらと見ながら、三枝先生が訊く。
「ああ、成野めぐみさんがこちらに入院されたと聞きまして、この子達は小学校のころから仲良くしていたらしいので、どうしてもお見舞いにと」
「まあ、それでわざわざ先生が送ってきてくださったのですか? みんなも、メグのために良く来てくれたわね」
申し訳なさそうな顔で、メグちゃんのお母さんがお礼を言う。
僕たちは揃ってお辞儀をして、廊下の壁際に並んだ。
「それで、めぐみさんのご容態は」
おずおずと差し出すように慎重に、加山先生がお母さんに訊く。
「ええ、先ほどまで眠っていたんですけれど、いまは意識もハッキリしています」
良かった。 お母さんの口ぶりでは、メグちゃんは大丈夫みたいだ。
ひとまず息をついたけど、それ以上に心配なことがあった。
「あの、おばさん、メグちゃんに会ってもいいですか?」
小声になりながら僕が言うと、メグちゃんのお母さんはちょっと待っててね、と言って病室に入っていく。
静まり返った病室の中から、メグちゃんのお母さんの声だけが聞こえてくる。
「メグ、伊本君たちがお見舞いにきてくれたわよ。 会いたいって言ってるけど、入ってもらっていい?」
僕たちは緊張しながら返事を待った。 先生たちも、今はじっと病室の扉を見つめている。
少しして、扉が開いた。
メグちゃんのお母さんが手招きして、僕たちに入ってくるように促す。
「ごめんね、目が覚めたばかりだから、少しの間だけね」
そう言われた僕たちは口をそろえて、はい、と返事をして、窓際のカーテンに仕切られた一画を見た。 たぶんあそこのベッドに、メグちゃんがいるんだ。
どうやらお母さんは付き添わないらしい。 扉が閉められる間際に、加山先生の声が聞こえた。
「実は、少しお聞きしたいことがありまして……」
扉が閉まって、病室には僕たちだけになった。
僕たちは足音を忍ばせながら、ゆっくりとカーテンのほうに近づいていく。
「メグちゃん、開けるよ」
カーテンの外から僕が声をかけた。
「あけないで」
向こう側から、か細い声が聞こえた。 メグちゃんの声だ。
「あの、突然ごめんね。 でも、急に病院に運ばれたって聞いて、だから」
何を話せばいいのか、メグちゃんがいまどんな表情をしているかわからないから、余計に何を言っていいのかわからなくなる。
「メグ、大丈夫なの?」
マイちんがカーテンにくっ付きそうなほど顔を近づけて聞いた。
「うん、心配しないで。 わたしはもう大丈夫だから」
無機質な声だった。 僕らの知っているメグちゃんとは、どこか違っていた。
「あの、メグ、あの……」
口ごもりながら、ユッキーが胸の前でぎゅっと自分の手を握り締めている。
「ユッキー? イジメサマのことでしょ?」
何を言いたいのか察したように、メグちゃんが言った。 ユッキーが息を呑み、イッちゃんがつばを呑み込むのが聞こえた。
「もう終わりにしたいって言ってたよね、だからみんなのことはお願いしたよ。 そしたら、そしたらね」
メグちゃんの言葉に、少しだけ感情のゆれがあった。 でも、深呼吸したのが聞こえたあと、また静かな口調で話し出す。
「代わりに代わりにって色々お願いされたの。 だけど、わたし一人じゃ全部は無理だから、無理なものもあるから、みんなにもお願いってしたの」
僕たちは呆然とした。 メグちゃんは何をどうお願いして、引き換えに何を約束したんだろう。
加山先生の言っていた代償という言葉が、僕らの頭をいっぱいにしていた。
「成野、おまえ、何をお願いしたんだ?」
「寺野くん、心配しなくても、みんなはもうお終いにしたいって伝えただけだよ。 でも、それだけじゃ終わりになんてならないの」
やっぱり、何かが引き換えになるんだ。 それが何なのか、僕にはわからない。だけど、それをイジメサマに伝えた途端、メグちゃんは病院に運ばれた。
「メグちゃん! まさか、メグちゃんが何か危険な目にあうの? それなら、それなら僕は……」
言いかけたところで、空気が震えるのが聞こえた。 これは、笑い声だ。
カーテンの向こうで声を殺してメグちゃんが笑っている。
「カイちゃん慌てん坊。 わたしはもう大丈夫って言ったじゃない。 でも、みんなはこれからかもね、だってみんなお願いしたもんね」
みんなお願いした。 メグちゃんはもう大丈夫。
「わたしだけが、代わりにって言われるの、不公平だよ。 みんなわたしの為にってお願い一緒にしてくれたんだもの」
代わりに、何を。 イジメサマは何を。
「メグ、もしかして。 アンタもしかして」
それ以上言えなくて、マイちんがカーテンから離れる。恐ろしいものから遠ざかろうとするように。
何を言おうとしたのか、僕にもみんなにもわかっていた。
マイちんは泣きそうだった。 ユッキーは口を手で覆って、まるで吐き気でも堪えているように蹲ってしまった。
イッちゃんが真っ青だ。 僕も、僕もきっと酷い顔をしているに違いない。
「みんな、もう帰って」
静かに告げられた言葉で、僕らは逃げ出すように病室を出た。 廊下には加山先生が居て、メグちゃんのお母さんが居た。
「みんな、もういいの?」
僕らは無言で頷いた。 僕らの顔色を見て、加山先生は何かを感じ取ったようだ。
「さあ、今日はもう帰ろう。 めぐみさんが元気になったら、また会いにくればいいさ」
出来るだけ暗い気持ちを表に出さないように、僕らは先生の言葉に従った。
お母さんは、また来て頂戴ね、と親切な顔で僕らを見送ってくれた。
僕らは駐車場まで歩いて先生の車に乗り込んでも、ずっと黙ったままだった。
車が走り出してしばらくすると、ユッキーが鼻をすする音がした。 マイちんがそれを心配して彼女の肩に手を置く。
「大丈夫?」
ぐずぐずと鼻をすすりながら、ユッキーはしきりに目元を手の甲で拭っている。
「なんで、なんでメグが……」
僕らは、心の中に何か重たいものがずっしりと圧し掛かってくるような気持ちになった。
「なにがあった」
車を路肩に止めて、先生が僕たちに訊いた。
僕は、病室に入ってからメグちゃんに言われたことを話した。
「よくないな」
先生が呟いた。 その一言が、はっきり悪いと言われるよりも恐ろしく思えた。
「アタシはメグの本心じゃないと思う。 今回のことだって、もともとイジメから助けて欲しくてしたことなんだし」
「そうだよ、成野だってこんなことがしたかったわけじゃねえよ」
イッちゃんは拳を握って憤っている。 ミラー越しにその様子を見て、先生が重い口調で言った。
「それでも、おまえたちがやったことに変わりはないんだぞ」
ずきりとした。 でも、僕だってメグちゃんだってみんなだって、こんなことになるって知ってたら、絶対にやらなかった。
それに。
「イジメられてたメグを助けたかったのが、いけないって言うんですか?」
「そうだぜ、イジメてたやつらが全部悪いんじゃねえか!」
マイちんが悔しそうに唇を震わせた。 イッちゃんが大声を上げる。
「その子達は許されないことをした。 だが、それでおまえたちのしたことが正当化できるわけじゃない。 どちらも許されないことに変わりはない」
そうなのかもしれない。 でも、どうしても今の状況は理不尽に思えた。
「知らなかったんだ、こんなことになるなんて」
僕が吐き出すように言うと、先生は静かに首を振った。
「少し違うな。 おまえたちは自分で選んで、信じて実行した。 だから、イジメサマの呪文が効力を持ったんだ」
「なら、どうしたらよかったんですか。 メグのこと、見捨てればよかったんですか?」
マイちんが先生を責めるような口調で言った。 先生はしばらく黙ったあとで、静かに口を開く。
「それは俺にもわからない。 頼りにならない教師ですまないな」
謝ったその言葉に嘘はなかった。 先生が何も悪くないのは、僕たちだってわかっていた。
「ただ、おまえたちは間違った方法を選んだ、それだけは確かだろう。 望んで悪を行う人間がいるように、善も選び取って初めて得ることができるんだ」
先生が何を言おうとしているのか、何となくしかわからなかったけど、僕たちが自分で選んで実行したのは確かなんだ。
必死だったから、イジメサマに願った。 イジメっ子が憎かったから、イジメサマに願った。
“死ねばいいのに”
メグちゃんから相談されたとき、僕は会った事も見たこともないイジメっ子に対してそんな気持ちがあったのは事実だ。
「わたしたち、どうなっちゃうんだろう」
不安で今にも消えてしまいそうな声で、ユッキーが言った。
「先生、イジメサマを処分できたら、元に戻るんでしょうか?」
僕が訊いても、先生は黙っていた。
「カイ、イジメサマは成野が隠しちまっただろ」
イッちゃんはそういったけど、僕には見当が付いている。
「違うんだイッちゃん、たぶん、イジメサマはメグちゃんが持ってる」
僕は先生に朝話したのと同じ話しをした。 先生は、今度は僕を止めようとしなかった。
三人は目を丸くしていた。 驚くのも無理はないけど、その表情には信じられない、というよりは信じたくないという気持ちが感じ取れた。
「伊本、おまえが何を考えているかわかるが、やめておいたほうがいい」
先生が僕を止めた。 でも、このままになんてしてはおけない。
「もう僕たちには他に方法がないんです。 お願いします」
僕は頭を下げた。 みんなも、お願いしますと頭を下げる。
「わかった。俺は知らないことにする。 おまえたちは伊本の家でおろすから、あとは自分達で考えなさい」
それだけ言って、先生は車を発車させた。
僕の家に着くまで、みんな一言も喋らなかった。
先生が僕らを全員車からおろして去っていった。僕はみんなのほうに向き直って、意を決して言う。
「僕、これからメグちゃんちに行く」
誰も止めなかったし、僕が歩き出すとみんなあとから付いてきた。
正直嬉しかった。 僕は怖くて仕方なかったから。 でも、本当はいけないことだし、みんなを巻き込みたくもなかった。
しばらく歩くと見知ったメグちゃんの家が向こうに見える。
お母さんは病院だし、お父さんも病院か、もしかしたらまだ会社かもしれない。 まだ昼前だし、通りがかる人も見当たらなかった。
僕は門を押して敷地の中に入った。 ポーチを進んで、玄関の前に立つ。
しんと静まりかえっていて、やっぱり誰の気配もない。
前に遊びに来たときから変わっていなければ、玄関脇の犬の置物の下に合鍵が置いてあるはずだ。
僕が小さな柴犬の置物を退かすと、銀色の鍵がそこにあった。
よかった。 昔のままだ。
僕はその鍵を手にとって、玄関の鍵穴に差し込んだ。
かしゃん、と乾いた金属音がして鍵が開いた。
僕は静かに玄関の取っ手に手をかけて、開いてみる。
うちの中は薄暗くて、玄関は靴のゴムのにおいがした。
「入ろうぜ」
イッちゃんが背中を押すように言う。
僕が一歩踏み込むと、あとからみんなが体を滑り込ませた。
玄関のドアを閉めて念のため鍵をかける。
家の中は静かで、高鳴りはじめた僕たち互いの鼓動が聞こえてきそうだ。
正面にはリビングと食堂に続く廊下、右手にはメグちゃんのお父さんの書斎の扉、その脇に二階に上がる階段が見える。
メグちゃんの部屋は二階の角だ。
僕たちは靴を脱いで、ひたひたと廊下を歩き、階段に足をかけた。
少しだけ落ち着いてきた耳に、どこからかコチコチと時計の音が聞こえてくる。
ゆっくり、慎重に階段を登った。 手すりの陰に何かが潜んでいないかと確かめて、僕らは二階の床に足をかける。
正面にドアがあった。 コルクで作ったアヒルのお腹に「めぐみ」の文字が入ったものが貼り付けてある。
メグちゃんの部屋。 あのアヒルは小学校の図工の授業のときに、僕たちと一緒に作ったものだ。
僕はなんだか泣きたい気持ちになった。
背中を、誰かがさすってくれた。 ユッキーだった。
自分も不安でいっぱいの顔をしているのに、僕の背中をさすりながら、無理やり笑顔を作ってみせる。
僕は全力で涙と怖さを押し殺して、メグちゃんの部屋のドアを開けた。
メグちゃんの部屋。 ふわふわの布団が敷かれたベッドがあって、奥にクローゼットがあって、白とピンクのかわいい箪笥や色とりどりのシールを貼った本棚は昔のままで。
青空と雲の壁紙を張った壁に棚をつけて、そこにいっぱいヌイグルミやお人形が飾られていたメグちゃんの部屋。
そのヌイグルミとお人形は、ぜんぶ首が無かった。
「なにこれ」
マイちんの声は震えていた。
勉強机のうえに大きな鋏が放り出されているのを見て、メグちゃんが自分で切り落としたんだと思った。
「い、いまはそれどころじゃねえだろ。 はやく終わらせようぜ」
たぶん一番逃げ出したいイッちゃんが、踏ん張って僕らにはっぱをかける。
僕はとても恐ろしかったけど、なんとか部屋に入ってまずはクローゼットを開けてみた。 かけてある服はどれもメグちゃんに似合う明るい色で、すこしいい匂いがした。
マイちんは箪笥を、イッちゃんは本棚を、ユッキーはベッドの布団をめくってみている。
みんな棚の人形には近づきたくなかった。
クローゼットの中は、服とかバトミントンのラケットとか、特に変わったものは入っていなくて、上の棚にもアルバムとかが置かれているだけだ。
マイちんを見ると、箪笥も異常がないみたいで、隣にいるイッちゃんがジロジロ見ているのに気付かれて蹴られてた。 たぶんあれは下着が入った段だ。
そんなイッちゃんも本棚の本を掻き分けているけど、何かが挟まったりしているわけでもなく、収穫はなさそうだった。
残るは、ユッキーが探っているベッドだけだ。
「あれ」
何かを見つけたのか、ユッキーが声を上げる。
「どうしたの?」
僕らが近づくと、ユッキーはちょうどベッドと壁の間を覗き込んでいた。
「なにかあるの。 ベッドのした、奥のほう」
急いで僕は床に這いつくばってベッドの下を覗き込む。 たしかに奥のほうに段ボール箱が押し込まれている。
「なんか、エロ本の隠し場所みてぇだな」
イッちゃんがマイちんにまた蹴られた。 でも、これが強がりの冗談なのはみんなわかっている。
僕は手を伸ばして、その箱を手繰り寄せた。
有名な通信販売のロゴマークが入った30センチくらいのダンボールだった。 これはたぶんメグちゃんがヌイグルミを買ってもらったときの箱だ。
そして大きさは、ちょうどあの人形が入るくらいのサイズだった。
「開けるよ?」
確認するように聞くと、みんながごくりと喉を鳴らして頷いた。
僕は震える指先で箱の蓋になっている部分を持ち上げていく。
絶句した。
中身は、ぎっしり詰まった人形の首だった。
ぜんぶこの部屋の首のないヌイグルミやお人形のものだ。
目のところを刃物で抉られていたり、頭を縦に裂いて綿がはみ出した状態のものもある。
これはなんだと言いたいけど声にならないのか、イッちゃんは口をパクパクさせた。
マイちんとユッキーは互いにしがみつくように体を寄せ合っている。
息を止めて、僕はその首の群れをかき回した。 もしかしたら、この中に目的のものが隠されているかもしれない。
指の先に、ざわっとした感触があった。
僕は思わず手を引き抜きそうになるのを堪えて、ゆっくりと上に乗った首たちをどける。
クマや青い目の少女の首の隙間から、くすんだ黒目が僕を見ていた。
指先に絡んだ髪の毛をつまんで、僕はそれをゆっくりと取り出す。
ずるりずるりと、それは僕たちの前に姿を現した。
片方がそっぽを向いた黒い目、雨だれの汚れのせいで、まるでしわくちゃの老婆のような頬。
林の中に隠されたままだと思っていたイジメサマの頭部が、なぜかメグちゃんの部屋のダンボールに入れられている。
「いや……」
短く囁かれた事切れそうな声は、きっとユッキーの悲鳴だった。
「どうしてそれがここにあるのよ」
マイちんがユッキーを庇うようにして壁際までさがった。
「何でもいい。 やっぱり頭が本体だったんだよ。 とにかくそれもってセンセーのところに行こうぜ」
イッちゃんがそういって、お尻のポケットからくしゃくしゃになったコンビニのビニール袋を取り出した。
中に入っていた小袋に入ったお手拭を出して、僕がつまんでいるイジメサマの顔にかける。 見えないように隠したつもりらしいけど、まるで布を被せられた遺体のようでこれはこれで不気味だ。
僕はそのままイッちゃんが広げてくれたビニール袋にそれを放り込んで、袋の口をぎゅっと縛った。
「いこう」
僕はダンボールを元通りにベッドの下に押し込めて部屋を出た。 頭を入れたビニールを持つ手をうんと伸ばして、まるで爆弾でも持っているようにそろそろと歩く。
階段を降り始めたとき、静かな屋内に突如電話のベルが鳴り響いた。
体がびくっと反応して、僕は階段を踏み外しそうになった。 慌てて手すりを握って何とか持ち直す。
その音はどうやら一階のリビングのほうから聞こえてくるようだ。
ピリリリ、ピリリリ、ピリリリ。
ただ電話がかかってきているだけなのに、僕らは階段の中程に集まったまま固まってしまった。
何度かベルが鳴り響いたあとで、留守番電話のメッセージが流れ始めた。
ようやく息を吐いて、僕たちは再び足を進める。
『発信音のあとに、メッセージをお入れください……ピー』
「…………カイちゃん」
玄関の靴脱ぎ場まで来ていた僕らは、そこに縫い付けられたように動けなくなってしまった。
メグちゃんの声だ。
「いるんでしょ? 見たんでしょ?」
メグちゃんは全部知っているみたいだ。 これ以上聞いていたくない。でも、どうしてもその場を逃げ出せない。
「全部気に入らないんだって、全部駄目なんだって」
何が駄目なんだろう、何を気に入らないんだろう。
メグちゃんの声に混じって、人の声と何かのアナウンスが聞こえる。
たぶん病院の公衆電話からかけてきてるんだ。
「もう、無理なんだよ。わたし、無理だったんだよ。 じゃあね、ばいばい」
メグちゃんは泣き笑いみたいな口調で、僕にばいばいを言った。
その言葉の直後、電話が切られる直前に、しゃがれた囁き声が聞こえた気がした。
『クヤメ』
僕は弾かれたように靴を突っかけ、玄関を飛び出した。 みんなも大慌てで外に出てくる。
持っていた鍵で玄関を施錠し、それを犬の置物の下に戻した。
門を出て、道路のところまで走って、僕やようやく何とかしなくちゃと思いとどまることができた。
「メグちゃんが、危ない!」
僕が言うと、追ってきたみんなも同じ気持ちだったようだ。
「ああ、病院にいかないと」
「でもイジメサマの首……」
ユッキーに言われて、僕はビニール袋をイッちゃんに差し出す。
「おう、任せろ」
イッちゃんはそれだけ言って、力強く僕の手からビニール袋を受け取ってくれた。
僕は大急ぎで家に戻ると、自転車を走らせて病院を目指す。
心臓は張り裂けそうだったし、体中から汗なのかどうかもわからない、色々な熱気が噴き出してきたけど、僕は必死でペダルをこいだ。
駐輪場の脇に自転車を乗り捨てて、僕はふらつく足を無理やり進めてメグちゃんの病室を目指す。
階段を駆け上がり、朝来たその病室にたどり着いたとき、そこにはメグちゃんのお父さんがいた。
「あ」
僕が息も絶え絶えに声を上げると、おじさんもこっちに気付いたようだ。
「伊本君、だね」
「あの、メグちゃんは?」
汗まみれで、ぜえぜえと息をしている僕を近くにあったベンチに座らせながら、おじさんはハンカチで僕の汗を拭ってくれた。
「さっきまで起きていたんだけどね、今はまた眠ってしまったようなんだ。 すまないが、今はそっとしておいてやってくれないか」
「大丈夫なんですか」
僕が何とか声を搾り出すと、おじさんは頷いてくれた。
「今は、母親が付き添っているから、心配要らないよ」
そうか。メグちゃんは無事なんだ。 よかった。とにかくよかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
ほっとしたら、急におじさんに申し訳なくなった。 いや、メグちゃんにもメグちゃんのお母さんにも、申し訳なくてたまらなくなった。
「いいんだよ。いいんだ」
きっと何を謝っているのか知らないだろうけど、おじさんはそう言って僕を慰めてくれた。
僕は結局、メグちゃんには会えずに病院をあとにした。
立ち去り際に、おじさんが開いた病室の扉の隙間から、ちらっとメグちゃんのお母さんの背中が見えたから、メグちゃんがベッドにいるのは間違いなさそうだった。
僕はふらふらと自転車をこいで、そのまま学校に向かった。
もう陽が傾いて、あたりが夕闇に包まれ始めていた。
下校する生徒たちとすれ違いながら、僕はみんなと逆方向に進む。 学校の駐輪場に自転車を止めて校舎のほうに歩き始めた僕の目にあるものが留まった。
体育館のそばで、煙を上げるドラム缶と、その周りを囲む加山先生とイッちゃんたちの姿。
僕はだるく重たい足を引きずるようにして、みんなのところへ歩く。
「カイ!」
イッちゃんが気付いて、僕に手を振った。
しゃがみこんでいたユッキーも、立ち上がって少しくたびれた笑顔を見せる。
「メグ、どうだった!?」
心配そうに訊いてくるマイちんに、無事だったと伝えて、僕は先生の隣に立った。
「先生、これは」
「寺野が持って来たものを、焼いている。 中身はまあ、俺は聞かないことにするよ」
先生はたぶん、黙って力を貸してくれたんだろう。 あのビニール袋を、そのままドラム缶に入れて燃やしているんだ。
ぱちぱちと火の粉を飛ばすドラム缶の中で、イジメサマの首が灰になっていく。
ぷんっと、髪の毛の燃える臭いがした。
もしかしたら、間に合ったのかもしれない。 僕が病院に着くより先に、イッちゃんたちがあの首を燃やしてくれたのかもしれないと僕は思った。
「病院でな、あの三枝という教師から話しを聞いた」
加山先生が、ゆらめく炎を眺めながら口を開いた。
「両親も昨夜は娘が部屋にいると思っていたらしいが、知らないうちに家を抜け出していたそうだ。 そして今朝、ひとりでふらふらと歩いていたところを保護されたらしい」
足元に合った角材を掴んで、先生がドラム缶に放り込む。
ばっと勢いよく火の粉が立って、煙と一緒に舞い上がっていく。
「着ていたパジャマが破れてあちこち怪我をしていたから、すぐに病院に運ばれたそうだ。 まあ、擦り傷や打ち身程度で、特に大きな怪我はなかったようだから、その点では心配ないだろう。今のところ、事件性もなさそうだと言っていたよ」
何があったのかはわからない。メグちゃんが昨夜何をしようとしたのか、それもわからないままだ。
でも、きっとこれで終わる。 イジメサマの首は灰になる。 着物やほかのパーツは見つからないけど、たぶんこの首さえなくなれば大丈夫だ。
炎の近くは熱かったけど、僕はゆらめく炎を見て少し安心した気持ちになった。
見ると、イッちゃんやマイちんもあくびをしている。
「さあ、後始末はしておくから、もうおまえたちは帰れ。 今日はゆっくり休んだほうがいい、そして、できるだけ早く忘れるんだ」
そういって、先生は僕らを優しく見送ってくれた。
僕たちは何だかこれまでのことがぜんぶ夢だったような不思議な気持ちで歩いていた。
途中の道で別れたとき、イッちゃんは笑顔だった。 マイちんもユッキーも、疲れていたけど笑っていた。
僕も、やっと笑って手を振ることができた。
家に帰る道で、メグちゃんの家のそばを通りかかる。
明かりはついていなくて、いまは誰もいないけど、すぐにメグちゃんも帰ってくるだろう。
元通りに、もうすぐぜんぶ元通りになるんだ。
そう、僕は思っていた。
メグちゃんの学校の用務員のおじさんが捕まった。 正確には、警察に出頭した。
学校に忍び込んでいたメグちゃんに、いたずらしようとして怪我をさせてしまったと言っていたそうだ。
このおじさんは近所でも学校でも評判のいい人柄で、周りはまるで信じられないといっていた。 本人も、なんでそんなことをしたのかわからないと言っていたそうだ。
メグちゃんが黙っていたのだから、本人が自首しなければ事件になんて成らなかっただろう。 だからという訳じゃないけど、このおじさんの言っていたことは本当なんじゃないかと思う。
それと、誓って言うけどメグちゃんは何もされていない。
たぶん逃げようとして怪我はさせられたけど、それ以上ひどいことは何もされていない。 それはお医者さんも証明してくれたことだ。
だけど、近所でひどい噂が流されて、僕たちの学校でも一時期その事件の話題で持ちきりだった。
『仲いいんだろ? ほんとのところはどうなんだよ』
汚らわしい顔をして僕らにそんなことを聞いてくる奴もいた。 あいつらは本当のことなんてどうでもいい、自分が聞きたい答えを待ってるだけだ。
そんなやつらと喧嘩をして、イッちゃんはしばらく学校を休まされた。
マイちんやユッキーも、一緒になって“何かやっている”なんて噂された時期もあった。
噂話を聞いているとき、あいつらは楽しそうだ。 噂話を人に聞かせているとき、あいつらは気持ちよさそうだ。
自分の勝手な憶測をさも事実のように信じて僕らの反論を嘲笑うとき、あいつらは嬉しそうだ。
こんなに酷い目に、いや、もっと辛い思いをメグちゃんはしてきたんだ。 それなのに、今度は周りの大人たちまで馬鹿げた噂に振り回されている。
メグちゃんのうちは、まるで夜逃げでもするみたいに引っ越していった。
僕は、メグちゃんにさよならも言えなかった。
まるで興味を失ったように、メグちゃんがいなくなって噂話は消えていった。
まるで味の無くなったガムを吐き捨てるみたいに、他人を傷つけた記憶が簡単に消えていった。
僕らも同じだったのかもしれない。 簡単にイジメサマにお願いした。 メグちゃんみたいに必死じゃなく、簡単に。
噂が消えるまでに向けられた白い目や誹謗中傷は、そんな僕らに訪れた報いだったのかもしれない。
でも、それでも、メグちゃんが支払った代償に比べれば、僕らはずっと幸運だったと思う。
メグちゃんは、僕らを許してくれるだろうか。
イジメサマ【事象編】終わり
【真相編】に続きます。 真相編にはホラー描写はほぼありません。