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ビンの中の蛙

作者: ハチワレ

暇である。そもそも繁忙期いつなのかと問われると困るが、しいて言うならば桜の季節だろうか?春は始まりの季節である。出会いと別れがある。実際に存在しているものの、需要は全くと言っていいほど見当たらない代物である私が、なぜこの停滞した埃っぽい空気の充満する部屋で立たされているのか、という話くらいしかすることは無い。つまりは、暇だった。

「本当に私は、必要なのだろうか…」

ネガティブな意味ではなく、心の底からの素朴な疑問である。小学生になったばかりの、注意力が散漫であったり、緊張していたり、心細そうな眼差しをしていたり、既に友達を作っていたりする子供たちは、みんなで私を散々気味が悪いだのなんだと言って弄んで行く、その相手は、入学後すぐの行事である校内探索の間、約1週間ほど続く。けれど、すぐにまたこの部屋の扉は閉ざされて、扉越しや窓の外から声が聞こえるくらいで、暇な時間となる。時たま理科の教師や、指示を受けた係の生徒が何かしらの計器類や薬品を取りに来るくらいで、私の需要は皆無と言ってよかった。

「あんたはまだいいさ。見てみろよ」

薬品庫の隣、灰色の戸棚のガラス戸の中、並んでいる密閉容器の中からくぐもった声がする。

「俺なんかもう30年もホルマリン漬けに遭ってるんだ」

解剖標本のカエルは、ビンの中で透明なガラス板に固定されたまま、今日も鮮やかな色彩の内臓を晒していた。

「幾つ雨の季節を数えたか、もう覚えてもいない」

「ついさっき30年とか言ってなかったっけ?」

私が言うと、顎がカタカタと明るい音を立てた。

「新入生恒例の通過儀礼、あんたを見て悲鳴を上げる子供が来た回数は数えていたからな」

カエルは失礼な事を言ってけらけら笑った。カエルは戸棚の奥で陽に当たらないように仕舞われているので、子供たちは野晒しの私にしか気づかない。というよりも、ビンの中のカエルより、骨格標本の骸骨の方が不気味で目立つのは仕方のない話だ。

「あんたは作り物だろ?俺は曲がりなりにも本物なんだぜ?少なくともあんたよりは脳みそが詰まってるよ」

カエルは私がここへやってきた時から、常に私に対して上から目線を欠かさず、今日も馬鹿にしたような口調でけらけらと笑った。しかし、カエルに比べて些か自由の身である私でも、頭の天辺を糸で吊られているので自由に動くことは出来ない。

「私にも意思はある。それに、キミは脳みそ以前に心臓が止まっているじゃないか?」

「頭の中空っぽのやつに言われたくねえや」

そんな取り留めのないお喋りをして長い長い時間を潰していると、不意に理科準備室の鍵が開く音がした。引き戸が開かれ、外から誰かが入ってくる。仰々しい白衣を着ている為、いつもの理科の担当教師かと思ったが、現れたのはアインシュタインのようなお爺さんではなく、若い青年だった。清潔感のある短い髪に淵なしのメガネを掛けた、些か色素の薄い青年に、私の顎が微かにカクッと音を立てた。

「えっと、標本の棚はここですか?」

奥から信楽焼きのタヌキのような教頭先生が現れた。白衣の青年が戸棚を指さして訪ね、教頭先生は額の汗をハンカチで拭いながら頷いた。

「ええ、生体標本は戸棚の中のそれだけです」

「なるほど。では、処分しましょう」

私はその言葉に束の間呆然としていた空の頭に打撃が加わったような感覚を覚えた。

「えっと、それはまたどうして?」

教頭先生の疑問に、青年は淡々とした声で答える。

「ホルマリンは劇薬指定を受けている薬品です。ホルムアルデヒドには発がん性があり、また揮発性ですから、子供たちが触れるのは危険です。それに、長年放置されている標本よりも、安全な樹脂標本などがありますから、新たにそちらを購入する方がいいでしょう」

もっとも、生き物の解剖は非道徳的だとして、もう何年も授業では行われていませんが。青年は淵の無いメガネの鼻の留め具を中指で少し押し上げた。

「劇物ですので、ただゴミとして出すわけにもいきません。取り敢えず業者が引き取りに来るまではここで安置することになります。標本は新しく買い直す。それでいいでしょうか?」

教頭先生が頷くのと、私の顎が動くのは殆ど同時だった。教頭先生がビクッと弾かれたように私を見た。私は慌てていつもの様に体から力を抜いて標本の演技に戻る。青年は相変わらず冷ややかな仏頂面のまま、質問の答えを待っていた。

「えっと、分かりました。富田先生がそういうのでしたら、新しい標本の購入を検討しましょう」

「では、次は理科実験室の設備について…」

そういいながら、富田という青年教師と教頭先生は出て行った。静けさを取り戻した教室に、カエルの声が響く。

「聞いたか?これでようやく俺も自由になれるってわけだ。しかもあんたみたいに宙ぶらりんの野晒しじゃない。もうこのガラス瓶ともお別れだ!」

カエルはけらけらと笑っていたが、私はどこか納得がいかなかった。

「処分というのは、捨てられるという事だよ?キミはこのままではビンと一緒にゴミに出されてしまう。自由なんかじゃないじゃないか?」

けれどカエルは悲観するどころか、あっけらかんと言った。

「なにを言ってるんだ?俺は今更田んぼに戻りたいなんて思っちゃいないさ。来世というやつに期待するだけだ」

生きていたことの無い私には、振り返れる過去は無い。けれど、カエルは雨が降るたびに生きていたころを懐かしんでいた。田んぼの畔で虫を食っていた事、足が生えた日、陸に上がる瞬間、そんなことをまるで思い出話の様に、適当に自慢げに、懐かしそうに語っていた。

「カエルくん」

「なんだよ?先に行くのは忍びないが、まあここで小学生のおもちゃでもやりながら、新入りの相手でもしてくれよ」

私はカエルの言葉を無視して顎を動かした。

「雨を見に行かないか?」


その日は日曜日だった。丁度梅雨時で、小さい水の粒たちは、不躾に乱暴に、とても無邪気に窓を叩いていた。私は体を振り子の様に振って反動をつけ、私を釣り上げているポールの後ろにある壁を思い切り蹴った。ポールと台座はびくともしなかったが、頭を吊っているフックは見事に外れた。床に骨の足で着地するとすぐに滑って転んでしまった。それでも立ち上がると、私は戸棚に竹のような指を掛けた。しかし鍵が閉まっていて開かない。

「仕方ない…」

私は教室の扉に手を掛け、内側から鍵を開けた。廊下に出るとまた滑って転びそうになった。それでも廊下を進み、階段を下りていく。薬品庫の鍵は職員室にあるのだろうか?私は一抹の不安を抱えつつ、職員室の前までどうにかたどり着いた。

「なにをしてるの!?」

声に振り返ると、そこに教頭先生が立っていた。あまりの驚きで目を丸くしている。

「じっとしていなきゃダメだと言ったじゃないか!?」

焦燥と狼狽を浮かべた教頭先生に、私は少し後ろを指さして注意する。

「教頭先生、姿が戻っていますよ?」

教頭先生は窓に映った自分の姿を見て、信楽焼きのタヌキと目が合うと慌てて中年男性の顔に戻った。

「キミが急に脅かすからだよ!まったく、まだ子供たちと触れ合いたいというから、廃棄処分になり掛けていたキミに、わざわざこのアルバイトを紹介したのに、これじゃあクビにしなくちゃならなくなるよ?」

「それを承知で、少しわがままを聞いてはいただけないでしょうか?」

私の言葉に、教頭先生はその前に…と気まずそうに忠告した。

「取り敢えず…服を着てくれないかな」


私はガラスの瓶を携えて学校を後にした。教頭先生の奥さんは散々亭主に罵声を浴びせていたが、それでも私に着物と傘、履物まで貸してくれた。青年から劇物だと聞いていたので、あまり人の迷惑になってはいけないと教頭先生から釘を刺され、私はカエルの入った瓶を携えて外へ出た。しばらく平屋の文化住宅が並ぶ路地を行くと、少し開けた場所に、緑色の毛足の長い絨毯が現れた。田んぼの畔を歩きながら、久々に肌を撫でて行く空気の感触を思い出し、新鮮な気持ちになる。右手には暗い深緑の山が霧雨に霞んでいる。雨の匂いは青臭くて、どこか清々しく、ほんの少し肌寒い。

「全く、余計な事しやがって」

カエルは呆れた表情で溜息をついた。

私はそれでも、彼をここに連れてきてやりたかったのだ。

畔から田んぼの稲穂の根本を覗き込むと、オタマジャクシがゆらゆらと泳いでいた。私は瓶のふたを開けて、カエルを外に出した。開いていた腹は不器用なりに刺繍糸で縫ってあげたが、本人は至極不満らしい。

「俺よりも自分の指ばかり刺しやがって」

「仕方ないじゃないか?裁縫は慣れていないんだから」

さあ、と瓶の中へ絆創膏だらけの手を差し出すと、カエルは気だるげに、けれど軽やかにぴょんと飛び乗った。手を静かに地面につけると、カエルは水を吸い込んだ雑草の上にぴょんと降りる。

「なにか、思い出すかい?」

私の問いに、カエルはやれやれと言った様子で頭を掻いた。

「昔の事なんか、覚えてるわけねーだろ?あんなのただの作り話に決まってるだろうが」

ふと、カエルが鳴き声を上げた。雨音に混ざって、他のカエルの鳴き声が呼応する。

「けど、懐かしい。そんな気がするよ」

カエルと私は、雨が上がって、雲間から夕刻の光が差すまで、田んぼの稲穂で遊ぶ雨粒を眺めていた。

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