捌 魚園
青年を追うシゲトーだったが、相手はもう米粒みたいに小さくなっていた。シゲトーは懸命に駆けるのだが、たちまち息が切れ始めた。
「さくら、おぬし、やわすぎだぞ、この身体・・・! もう息があがるとは・・! 学校でも感じていたが、もう少し鍛えろ。」
「そんなこと言われても・・・。向き不向きってもんがあるのよ。苦手なことには時間を掛けないっていうのが私の信条なの。」
「それ、では・・。できない・・・ことが、いつまでたっても、できないまま・・・だ。」
シゲトーは息苦しさに歯を食いしばりながら言った。
「それは・・・そうだけど・・・。」
口ごもるさくらは、はるか先を行く青年が、どこかの柵を乗り越えるのを見た。鉄製の棒が横に並び、三メートル近い高さがあるのだが、一跳びで柵の上に手をかけると、あっという間に中へ入ってしまう。異常なほど軽い身ごなしだった。
「あ! あれ! あの人、柵を越えたわ。」
敷地の中には、鬱蒼と木が生い茂っている。街灯もまばらで、奥へ行くほど深い暗闇に覆われていた。
シゲトーも柵の下まで来ると、それを見上げた。
「高い・・・。」
登りきれるか・・・? 一瞬躊躇したシゲトーだが、ここでぐずぐずしてもいられなかった。心を決めると、柵に手をかけ、よじ登り始める。
「ねぇ、シゲトー。登れるの・・?」
「登らねば奴を追えんだろう。」
「そうだけど。今、履いてるのスカートだし・・・。」
「すかーとだと、何か都合が悪いのか。」
「だって、見えちゃう・・・。」
「何がだ。」
「何がって、パンツよ。」
「気にするな。見る奴などいない。」
「ちょ・・・! どういう意味よ。」
「どういうも何も、他に人などおらんではないか。」
「あ・・・。そっちの意味・・。」
シゲトーは縦に伸びる棒をつかみ、足で身体を突っ張るようにして登りながら言った。
「どっちの、意味だと、思ったのだ・・!」
やっとのことで柵の上までくると、器用にまたいでそれを越え、一気に飛び降りた。
「わぁ!」
と、鞄の中でさくらが悲鳴を上げた。着地の衝撃で激しく揺さぶられたのだ。
「ちょっとー、無茶しないでよね。」
「無茶などしていない。この程度、どうということはないだろう。猫の身であればなおさらだ。」
「身体は猫でも心は人間なんだってば。」
さくらの抗議を聞き流しながら、シゲトーは周囲を見回した。木々の密度が高い。
「ここはいったい何だ。誰ぞの屋敷か・・・?」
クロは、
「いや、公園か何かだろう。この広さと樹木の多さから考えればな。」
と、シゲトーに言った。
「公園・・・。広いのか?」
「多分な。」
「むぅ・・・・。」
柵を乗り越えるのに手間取ったせいで、シゲトーは青年の姿を見失っている。
「どこへ行った・・。」
あたりをじっと見据えるシゲトーと共に、さくらも耳を立て、鼻をひくひくと動かした。今、この場にいる中で最も感覚が鋭敏なのは、さくらだった。鼻に意識を集中していくと、わずかに漂う匂いの痕跡を、さくらは感じた。
「・・・あっち。」
前足で木々の間を指す。
「匂いがする。あの人の・・・。」
「よし・・・。」
シゲトーは、さくらの指し示した方向に走り始めた。
鞄の中で揺すられながら、さくらが首をかしげたのを感じてクロは言った。
「何だよ。」
「うん。あの人の匂いなんだけどさ・・。」
「ああ。」
「なんか、鉄っぽい匂いがするんだよね。」
「鉄?」
「そう。鉄棒やった後の手の匂いっていうか・・・。」
「ふぅん。鉄、なぁ。あいつも柵を登ったんだから、鉄柵を握ったときについたんじゃねぇの。」
「でも、クラブの中であの人がシゲトーとぶつかった時から、感じてたのよね・・・。」
「そうすると、奴の身体からそういう匂いがしてるっつーことか。」
「うん・・・。鉄というより、むしろ・・。」
血の匂い。そう言いかけたとき、シゲトーが立ち止まって、低木の陰に身を潜めた。
「いたぞ。奴だ。」
青年が公園の池のほとりにある、東屋にいるのがかろうじて見える。身を隠すには不向きだったが、四方の見通しがよい分、警戒しやすいと考えたのだろう。
ここからでは青年まで声は聞こえないのだが、それでも、さくらはシゲトーへ囁くように言った。
「どうする? あの人、つかまえるの?」
「いや、また逃げ出されても厄介だ。ここから見張る。」
「そうね・・・。」
公園は、夜間、閉鎖されているのだろう。シゲトー達以外に人の気配はない。街中はこもったような熱気に包まれていたが、ここは土のあるせいで、いくぶん涼しかった。
青年が不安気に周囲を見回すのを見つめながら、さくらはクロに言った。
「ねぇ。何でサエマ達は、あの人を追ってるんだろうね。」
「さぁなぁ・・。サエマがクラブ(あそこ)で何をしていたのか知らねぇが、恐らくあいつ目的でわざわざ教会を抜け出してきたんだろうな。」
「殺されるかも、ってあの人言ってたけど・・。」
「殺したいほどの理由がサエマ達にあるのか、あるいはあの男が大げさに言ってるだけか、だな。」
「うん・・。ヴァレンティナって、金髪の女の子、何者なんだろうね。」
「知らん。サエマとつるんで何かやってることは確かだし、あの男を必死になって追っている、ってのも明らかだが、あとはさっぱりだ。」
シゲトーがうめくように言った。
「佐絵馬め・・・。いったい何を考えている・・。」
さくらの身体を本人に返し、元の時代に戻る方法を聞き出さなければならないわけだが、それにしても、佐絵馬の行動は不可解だった。藩邸の庭で、そろそろ桜が芽吹きそうだと、ぼんやり考えていた頃が、何だか本当に遠い昔のような気さえしてくる。実際にはシゲトーの体感上、一ヶ月もたっていないはずだったが、ふと、もう戻れないのではという思いにとらわれることがある。郷里に残してきた両親や、妹の顔が思い出された。
シゲトーは軽く頭を振って、その考えを追い払うと、再び青年を見つめた。
茂みの中で蚊がまとわりつき始めた頃、不意に、シゲトーは背後に気配を感じた。
「さくら・・・。」
「うん。誰か来る。」
シゲトーが緋奔の柄に手をやって警戒しているところへ、いきなり、真横から声がした。
「おやぁ。桜野原じゃん。奇遇だねぇ。」
佐恋だ。気配が近づくのまでは分かっていたが、まさか真横から声をかけられるとは思っておらず、シゲトーは、びく、と半歩引き下がった。
「な、なんだ、佐恋か・・。驚かせるな。」
「驚かせてないよ。奇遇だねぇ、って声掛けただけよ。」
「ここでいったい何をやっている。くらぶにいたんじゃないのか。」
「さくらが血相変えて走ってくのを見たってゆー人がいたから、気になって追いかけてきたのよ。ねぇ、さくら。」
にや、と佐恋が笑う。シゲトーには分かってきたことがある。面白いことを見つけたとき、佐恋はこの顔になるのだ。
「な、なんだ・・。」
「ただの興味本位であのクラブに入った・・・。」
「・・・そうだ。」
「わけじゃないよね。」
「・・・。」
「あそこへの入り方を探っていたところに、ちょうどよく私が来たもんだから、便乗して一緒に入った、と。んで、状況に変化があったもんだから、慌てて走り去った、だよね。あそこでいったい、何してたの? 何が目的? 遊びたくて行ったわけじゃないんでしょ。桜野原、そういうタイプじゃないもん。」
佐恋には、サエマを探していること、シゲトーに身体を貸したような状態になっていること、一切を話していないわけだが、佐恋はシゲトー達の行動のわずかな断片を見るだけで、ぐいぐいと核心に迫ってくるようだった。
シゲトーは強ばった笑みを浮かべて佐恋の追求に応えた。
「考え過ぎだ、佐恋。興味があったから入ってみた。それだけだ。」
「ふぅん。じゃあ、今、ここで、いったい何やってるの?」
「あ、暑かったから、涼みに・・・。」
「わざわざ、閉園中の公園に入って?」
苦しいながら、シゲトーは、こく、とうなずく。
「じゃあ、あいつ。あれ、誰?」
佐恋は、くい、と親指で、東屋の青年の方を指した。佐恋も青年に気づいていたのだ。
「あれは・・・。」
シゲトーは言いかけて、答えにつまった。夜の公園に入り込んでまでここに来た動機と青年を結びつけられると、厄介だった。友人や知り合いに会う、というシチュエーションとして、これほど異常なこともない。
とっさに思いつかない返答を探して、目が泳ぐシゲトーの視界の端に、人影が見えた。金髪の少女、ヴァレンティナだ。一直線に青年のいる東屋へと向かっている。
「佐恋!」
押し殺した声でシゲトーは言うと、佐恋の手を引いて姿勢を下げさせた。
「ちょっと、何?」
「静かに。」
ヴァレンティナに気づいた青年は、立ち上がって再び逃げる素振りを見せるのだが、振り向いたまま立ち止まってしまった。ヴァレンティナと正反対の方向から、佐絵馬が近づいていたのだ。
前後を阻まれ、逃げる機を逸した青年は、東屋の奥、池側の方へと後ずさる。
今か。
青年に対する思い入れなど何もなかったが、青年が窮地に陥っているのは明らかだった。殺される、という言葉がシゲトーの頭に引っ掛かっていたし、佐絵馬を取り押さえるのは、今を置いて、ない。うまくすれば、青年と協力できるかも知れない。
一息の内にそこまで考えたシゲトーは、茂みの中から飛び出した。
佐絵馬は、じりじりと後ずさる青年を前に、疑問を抱かざるを得なかった。なぜヴァレンティナは、この男に執着するのだろう。どうしても探し出したい。ヴァレンティナにそう相談され、佐絵馬はその希望に応えた。善意で、というわけではない。佐絵馬は教会でヴァレンティナを目にしてこのかた、ずっと引っ掛かっていることがあったのだ。それを確かめるために、ヴァレンティナを手伝い、行動を共にしている。
ヴァレンティナが青年に言った。
「逃げないで! 話を聞いて!」
青年は、震える声を押さえながらヴァレンティナに言い返す。
「逃げるな? 命を狙われている相手からそう言われて、逃げない奴がどこにいるっていうんだ。」
「命を・・・?」
言われたヴァレンティナの方が、眉を寄せた。
「いったい誰が、そんなことを・・!」
「誰だっていいだろう。君から逃げる必要がある。逃げなければならないんだ。」
「ちょっと待って! どうしてそんなことに・・・。あなたの命なんて、狙ってないわ。」
佐絵馬は、二人のやりとりを聞きながら、考えを巡らせた。
話が噛み合っていない。青年は命の危険を感じて逃げ出したわけだが、追っている当のヴァレンティナに危害を加えるつもりはないらしい。
「ヴァレンティナ。どういうこと?」
佐絵馬がヴァレンティナに聞いたときだった。
「佐絵馬っ!」
聞き慣れない声で自分を呼ぶその方向を見ると、女の子が駆け寄って来る。どこかで見た覚えがあった。あれは、どこだったか・・・。そうだ。教会の前で、炎天下、立ち尽くしていた女の子だ。
「あなたは・・・。」
しかし、なぜ、今、ここに彼女が現れるのか、佐絵馬にはその理由がまったく思い当たらない。
少し遅れて茂みから飛び出した佐恋も追いついてきた。佐絵馬を睨むシゲトーの気迫に、思わずかけようとした声を佐恋は引っ込めた。
東屋の前に立ったシゲトーは、佐絵馬を鋭く見据えて言った。
「佐絵馬。もう逃がさんぞ。」
「・・・・!」
容姿は似ても似つかなかったが、その言葉の抑揚、目つきを見て、佐絵馬は悟った。
「ぬしは、繁藤・・・か・・・?」
佐絵馬は、生き別れた兄でも見るかのような目で、シゲトーを見つめた。その表情には、相手を警戒しながらも、懐かしさと安堵を押さえられない、そんな感情があふれている。
シゲトーは、佐絵馬の表情の意味を、自分を小馬鹿にしているものととらえて語気を強めた。
「そうだ。貴様の面妖な術で、この娘の中へ押し込められたのだ。元の身体、元の時代へ戻る方法を教えろ、佐絵馬。」
「元の時代?」
時代、という言葉に意外な方から反応があった。青年と、ヴァレンティナだ。二人の声がそろった。青年がシゲトーを食い入るように見つめて言った。
「あんた、今、元の時代へ戻る、って言ったか?」
シゲトーは、はっ、となって青年を見る。目の前の佐絵馬に集中していたせいで思わず言ってしまったのだが、青年とヴァレンティナ、二人は事情を知らない。数百年も前から自分がやって来たことを、この場で説明する気にはなれなかったし、そもそも、説明して受け入れられるとは思えなかった。
「・・・俺と佐絵馬、二人の問題だ。おぬしらには関係がない。」
シゲトーは、青年に理解してもらう必要などまったくない、という風に、再び佐絵馬へ視線を戻すのだが、予想に反して、青年はさらに食い下がってきた。
「関係なくないんだよ。俺も一緒なんだ。」
「一緒・・?」
「そうだ。俺も、過去からここへ来たんだよ。」
「・・・何?」
何を言っているのだ、という怪訝な顔つきで、シゲトーは青年を見つめた。自分と同じ状況にある人間が他にもいる、ということか・・・。シゲトーの頭が事態を理解しきるより先に、ヴァレンティナの口が開いた。
「やっぱり、政吉さんでしょ!」
いきなり呼ばれた名に対し、青年はぎくりと反応した。
「俺は公平だ。政吉じゃ・・・ない。いや、あ、あんた、その名をどこで・・。」
「どこでも何も私よ! お國よ!」
ヴァレンティナはそう言うなり、政吉、と呼ばれた青年の首へかじりつくように抱きついた。
「お、お國! お前か? 本当にお前なのか? ど、どうして・・・。」
政吉は、動揺し、戸惑いながらも、飛び込んできたヴァレンティナの身体を抱きしめる。
シゲトーはあぜんとして、二人を見つめていた。さくらも、完全に混乱した状態でクロに言った。
「どういうこと・・・?」
「俺に聞くなって。どうも、奴ら表立ってのものとは別の名前を持ってるらしいな。政吉とお國か。シゲトーみたいだな。繁藤国重って名を持ちながら、外見は桜野原さくら・・・。」
「え・・・? それってもしかして・・・。」
千入こと政吉と、ヴァレンティナことお國、二人を傍で見ている佐絵馬が、にやりと笑った。
「そういうこと。やっぱりな。ヴァレンティナ、いや、お國。ぬしはこの時代の人間じゃない。あの洞を通って過去から来たってことじゃの。ぬしもじゃ、政吉とやら。」
さくらの目の前で、佐絵馬の雰囲気ががらりと変わった。それまで、いかにも清楚なお姉さんという感じだったのが、妖艶な悪女、といったらいいか、そんな空気を全身からにじませている。
さくらは、
「え・・と。つまり、シゲトーみたいに、江戸時代から来た人たちが、その身体の中に入ってる。そういうこと?」
首をかしげながら、クロに言った。
「そうみたいだな。ま、神社にぽっかり開いてる洞なんだ。シゲトー達以外に入った人間がいたとしても、不思議じゃねぇ。」
クロは、納得した、という風に鈴を小刻みに揺らす。
どうやら、恋仲であるらしい二人を横目に見ながら、シゲトーは、ずい、と一歩、佐絵馬の方へ足を踏み出した。
「貴様、どういうつもりでこのような術をかけたのか知らぬが、元の身体、元の時代への戻り方、教えてもらうぞ。」
シゲトーは言いながら、コートの下に隠れた緋奔の柄に手をかける。抜かない、という約束をさくらと交わしたものの、それをどこまで守れるか、シゲトーには自信がなかった。佐絵馬があくまでもしらを切るつもりならば、力づく、という手段に訴えるしかない。
「あんな。」
佐絵馬が口を開いた。
「これは術じゃない。なんでこないなったか、うちも、分からんのじゃ。こう言ってぬしが信じるか知らんが、正直、洞の奥に入ると時代を越える、なんて、うちも知らんかった。」
「嘘をつけ。こうなることを知っていて誘い込んだのだろう!」
「違うて。あかの他人の身体にぬしの魂押し込めて、うちにいったい何の益がある。」
「それは・・・。このような小娘の身体に俺を押し込め、返り討ちとする・・・。」
「は。返り討ちにするつもりなら、何もそんなせこい真似せんて。ぬしの斬りつけ、かすりもせんじゃったろ。身体を取り替えさせんでも、返り討ちにできたわ。」
「ぬ・・・!」
シゲトーの顔に怒りの表情が浮かんだ。かなり怒っていることが、噛み締められた歯から見て取れる。
そこまで、蚊帳の外に置かれた状態だった佐恋が割って入った。
「ちょっと。ちょっとさぁ。さくら、何? どういうこと? 元の時代とか、身体を取り替えるとか、意味分かんないよ。」
ちら、と佐恋を見ながら、シゲトーは言った。
「事ここに及んで、隠しても意味はない・・・。俺は桜野原さくらじゃない。」
「・・・は?」
「繁藤国重。それが本来の名だ。今より数百年前から、この時代へやって来た武士だ。期せずして、さくらの身体へ押し入ったかたちになっている。信じる、信じないはおぬしの勝手だが。」
「え・・・。ぇえ! 武士って・・・。さくらが武士って。カゲトシぶってるわけ、じゃなさそうね。まじか・・・。」
鞄の中から首だけ出して、さくらは佐恋を見た。佐恋の表情が「混乱」から「好奇」に変わる。これは、シゲトーの言ってることを信じた方が面白そうだと、そう判断した佐恋の顔だった。
佐絵馬は繁藤に向かって妖艶な笑みを浮かべている。
「会いたかったえ、繁藤。こないな時代に飛ばされて、挙げ句、あんたのことも見失ってしまったのだから。」
「冗談はよせ、佐絵馬。」
ぐ、と繁藤の眉間に力が入る。佐絵馬は、繁藤の反応を見て寂しそうなふりをする。少なくとも繁藤には、ふりをしているようにしか見えなかった。
さくらは、繁藤の右手が刀の柄にかかりっぱなしなのを気にしている。こうなっては、もう自分の正体を隠す意味もない。さくらは鞄から飛び出し、繁藤の肩まで駆け上がると、佐絵馬に言った。
「サエマ! 私の身体へ戻る方法、教えなさいよ!」
「おやぁ、猫が喋っとる。」
佐絵馬は、にぃ、と口の端を開いて笑った。佐恋にいたっては、目を大きく見開きながら、嬉しそうに口をぱくぱくとさせている。
「猫じゃないわ。私が桜野原さくらよ。シゲトーに押し出されちゃったのよ。この術、解いてよ!」
「ああ、そないなことになっとんねんな。そら知らなんだ。さくらとやら、とんだとばっちりだったの。迷惑かけたわ。」
「あ・・・え・・?」
勢い込んで佐絵馬を問いつめようとしていたさくらだが、素直に謝られてしまうと、肩すかしをくったようだものだ。後の言葉が続かない。佐絵馬はそんなさくらと繁藤を見ながら言った。
「さっきから言ってるけどな、ほんとに、分からんのじゃ。元の時代に戻る方法も、ぬしの身体を元に戻す方法も。むしろ、うちが聞きたいくらいなんじゃが・・・、お國よ。」
突然、佐絵馬はお國へ視線をやった。
「ぬし、知ってるんじゃろ。」
「え・・? 何のことかしら。」
「とぼけるな。元の時代に戻る方法じゃ。それを知ってて、そこの政吉を探す手伝いをうちにさせた。時折、自分はうちが知りたいことを知っていると匂わせて、餌にしたつもりじゃろう。」
「ばれてたのね・・・。」
「当然じゃ。騙されたふりなど、狐にとっては朝飯前じゃ。」
お國は、政吉の顔を見て、それから繁藤達に目をやった。
「・・・知ってるわ。元の時代に戻る方法を。サエマには、政吉を探すのを手伝ってもらいたかったから、教えなかったけど。教えたら、サエマには私を手伝う理由なんてなくなるもの。」
「じゃ、じゃあ、私を自分の身体へ戻す方法も・・・!」
さくらが期待をこめた目で言うのに、お國は答えた。
「ええ。これは、おそらく、でしかないけれど、そこに入っている繁藤様が抜けてしまえば、あなたを身体から押し出している力がなくなるわ。つまり、元の身体に戻れるってこと。」
「やった・・! それで、どうやって・・・?」
お國はそこで、ちょっと顔を伏せた。
「簡単よ。抜けてきた洞に元の身体を通せばいいだけ。でも、問題が・・・。」
「問題って?」
「・・・分からないのよ。その洞の場所が。色々な建物がたってしまって、神社のあった場所も、洞の場所も、分からなくなってるの。もう、埋められてしまったのかも知れない。」
「それって、もしかして越智掛神社の洞のこと?」
「そうよ。神社の名前、知ってるのね。もう存在しない神社なのに。」
「だったら・・!」
さくらは繁藤と顔を見合わせ、それからお國に言った。
「知ってるわ! その神社の場所も、洞の場所も!」
「・・・え?」
「まだ、あるのよ、その洞。建物の地下にね。場所も、行き方も分かるわ。」
「・・ほ、ほんとに?」
「ほんとよ。」
「じゃあ、帰れるのね・・・?」
「そう!」
「政吉さん!」
お國はそう言って、政吉の顔を嬉しそうに見た。
「ああ、お國。帰れるぞ。それに、元の身体にも戻れる! お前の顔を見るのを、どんなに待ち焦がれたことか・・!」
「ええ、私もよ!」
ひしと抱き合う政吉、お國を白い目で見ながら、佐絵馬はつぶやいた。
「それはそれは、よかったの。」
繁藤は、
「佐絵馬。」
と、再び佐絵馬を睨む。
「よもや、また逃げるつもりではあるまいな。」
「・・・逃げなかったら、どないするつもりじゃ?」
「・・・斬るしかあるまい。」
繁藤の目には、確固たる信念が光っている。
「斬ると言われて逃げんあほでもないんじゃけどな・・。けど、その娘の姿でやるつもりか?」
「・・・いや。元の時代に戻ってからだ。」
「ふん。そやろな。その身体じゃ、そもそも力不足じゃもの。」
佐絵馬は言いながら、くっ、と嗤った。
繁藤はさくらのベッドの下から自分の身体を、お國と政吉もそれぞれ、隠していた自身の身体を引き出してきて、越智掛神社の跡地、ショップの前に集まっていた。佐絵馬と、それに佐恋までいる。
時刻はもう明け方に近い。急がないと、とさくらは思いながら、繁藤を見た。繁藤は荒い息を整えている。
「・・・自分の、身体というのは、存外重いものだな。いや、おぬしの筋力不足か、さくら。」
繁藤自身の身体を無理矢理スーツケースに押し込み、タクシーで来たわけだが、あまりに重いスーツケースを、トランクへ入れるのを手伝ってくれた運転手の人に、怪訝な顔をされたときは冷や汗ものだった。スーツケースを開けられでもしたら、大騒ぎになっていたところだ。
「でも、スーツケースの中、ばれなくてよかったね。」
と、さくらが言うのへ、クロが応えた。
「そりゃ、ばれたらただじゃすまねぇだろ。侍の死体をタクシーで運ぼうとする女子高生、なんて、トップニュースになるネタだぜ。」
「死体じゃないけどさ。ありがとう、佐恋ちゃん。」
さくらは佐恋に向かって礼を言った。佐恋には、一緒にスーツケースを持ってタクシーへ乗ってもらったのだ。繁藤一人で、異常に重いスーツケースを持ってタクシーに乗れば不審にも思われるが、佐恋と一緒であれば、早朝の飛行機に乗ろうとする海外旅行二人連れの女の子、に見えなくもない。
「いいって。こんな面白いこと、放っておくほうが寝覚めが悪いよ。ふひ。猫と喋るのに慣れてきた自分が怖いわ。」
佐恋はそう言って、さくらに笑いかけた。
繁藤と同じように、元の身体を持って来ているお國は、ガラス越しにショップの奥の方を見た。
「ほんとに、この奥に、洞が残ってるの・・・?」
さくらは言った。
「ほんとよ。試着室の床下。でも、鍵がかかってるわね・・。」
佐恋が、すい、とドアの方にかがみこみながら言った。
「ちょっとどいてな、シゲトーさん。・・・っと、これなら・・。」
佐恋はどこからか取り出したヘアピンでごそごそやったかと思うと、あっと言う間にドアの鍵を開けてしまった。
「よっ、と。開いた。」
「え・・? 佐恋ちゃん、そんなことできるの?」
ヘアピンで鍵を開けるところなんて、初めて見たさくらだった。
「処世術よ。ショセージュツ。」
嬉しそうに言う佐恋だが、ヘアピンで鍵を開けるテクニックが処世術の分類に入るのか、ぎりぎりのところね、とさくらは思う。
佐絵馬は、佐恋の頭をくしゃくしゃとなでながら言った。
「なかなか芸達者な娘じゃな。助かったぞ。」
へへ、と笑う佐恋と、佐絵馬を見比べながら、繁藤はひどく怪訝な顔をしている。子供を殺して喰う、人を化かし、騙して死に追いやる。そんなイメージと、目の前の佐絵馬がとてつもなくかけ離れているからだ。
繁藤は、念を押すように佐絵馬へ言った。
「佐絵馬。戻ったら、分かっているであろうな。今度は逃さんぞ。」
「へいへい。言わんでも、ぬしがうちを追い回すだろうことは百も承知じゃ。それより、急いだ方がええんじゃ? 夜が明けるぞ。」
佐絵馬の言う通りだった。空がほんのりと白み、辺りが明るくなり初めている。
繁藤達は店の奥、洞へと入って行った。
洞を進みながらお國が言うには、政吉とは確かに、恋仲ということだ。ただ、身分の差がありすぎた。政吉は一介の魚売りにすぎなかったし、お國は格式高い家柄となる武家の一人娘だった。良縁を、と望むお國の両親が、政吉と一緒になることなど許すはずもない。越智掛神社とは、越智、掛け、駆け、「駆け落ち」につながるとして、許されざる恋の成就を願う者達から、密かに願掛けの対象となっていた。家を抜けたお國は、願いがかなうとされる洞へ政吉と共に入った・・・。それがお國と政吉、これまでのいきさつだったのだ。
「でも、元の時代に戻って、また一緒になれるの・・?」
さくらはお國へ言った。
「それは・・・、難しいこともあるでしょうけど、私はもう家を出てしまったもの。政吉さんと二人、遠いどこかで暮らせるわ。この身体を本来の持ち主へ返さなくてはいけないしね。」
政吉もうなずいた。
「そうだな。いつまでも借りっ放しというわけにもいかない。この身体の持ち主、千入は、その娘、ヴァレンティナを恐れているようではあるが・・。」
後ろの方で話を聞いていた佐恋が、敏感に反応した。
「千入・・・。千入! あ、あんた、今、千入って言った?」
「言ったが・・・。」
「じゃ、じゃあ、吸血鬼っていうのは、ほんとなの?」
「ほんとだよ。」
さくらは、ぽかん、と政吉の顔を見た。さらっとすごいことを言ったが、にわかには信じられない。
「ほら。」
ぱか、と開けた政吉の口には、異常に長い犬歯がある。牙、といってもよい長さで、常人のものとはほど遠い。
「ヴァレンティナとの因縁は、千入が吸血鬼ゆえ、ってことみたいだね。千入の怯えっぷりからして、ずいぶんしつこく付け狙われていたらしい。」
政吉の言葉に、佐恋は目を輝かせているのが、暗闇の中でも見て取れた。
洞の中を少し進むと、それまでなだらかだった傾斜が急にきつくなって、ほとんど縦穴状になっている場所へ突き当たった。ライトで照らしても、底が見えない。とてつもなく深い穴だ。
縦穴をのぞきこみながら、お國が言った。
「ここよ。ここに元の身体を投げ込めば、帰れるって、神社の口伝では言われているの。」
繁藤はさくらをかかえて地面に下ろすと、ひざまづいて言った。
「さくら。これで別れだな。」
「・・・うん。」
元の身体に戻れる。さくらにとってそれは嬉しいことだったが、同時に、繁藤との別れを悲しく思う気持ちもあった。自分の姿を傍から見ていると、その人格が例え繁藤のものであるとしても、自分が桜野原さくらなのか、繁藤なのか、ひどく曖昧になるのだ。自分の姿を通して、さくらは繁藤と同一化するという感覚を感じるようになっていた。自分と別れる、という奇妙な寂しさが、さくらの胸にあった。
「戻っても、元気でね、シゲトー。」
「ああ。世話になった。クロもな。」
「おう。ちっと寂しくなるが、すべて元に戻るってぇこった。」
では、と言って、お國と政吉は、それぞれ、自分自身の身体を縦穴へと押した。一呼吸置いて、くたり、と千入、ヴァレンティナの身体が崩れ落ちる。お國と政吉の人格が抜けたのだろう。
さくらは佐絵馬に言った。
「結局、サエマだけは、身体、入れ替わらなかったのね。」
「そうな。元々、物の怪、狐なわけやし、人とは違うから、ゆうことかもな。」
ぽん、と佐恋の頭に手を置いて佐絵馬は言った。
「嬢も元気でな。ほなら、うちも行くわ。」
ぱっ、と身をひるがえしたかと思うと、佐絵馬は穴の中に飛び込んだ。繁藤は慌てて穴のふちから奥をのぞく。ぐずぐずしているとまた逃げられかねない。
「では行くぞ、さくら、クロ、それから佐恋。達者でな。」
「うん!」
どん、と繁藤は自分の身体を穴へと落とし込む。繁藤の身体は、あっと言う間に闇の奥底へと見えなくなった。繁藤の身体が見えなくなるのと同時に、さくらの意識も遠のいていった。




