伍 東雲佐恋(さこ)
東雲佐恋は、今日も夕闇の迫る繁華街を歩き回っていた。夕方とあって、仕事帰りのサラリーマンから買い物客、暇を持て余した大学生、若者、老人、男、女、目的地の定まっている者、定まって居ない者、雑多な歩行者で、道はごった返している。
佐恋は微妙に色の違う左右ちぐはぐの靴下も、制服のスカートからはみ出すブラウスのすそにもいっこう頓着しないまま、ゆらゆらと人並みの間を縫っていた。時折話しかけてくるスカウトの、割のいいとか、モデルとか、空いてる時間に余裕で、といった文句の断片を聞き流しながら、ふりふりと手を振っていなした。
そうじゃない、と佐恋は思っていた。
お金が欲しいわけじゃない。自分の欲求は、お金で解決できないことを、佐恋はとっくに知っていた。お金の問題じゃない。友達と遊ぶとか、スマホでエンドレスのチャットを続けるとか、カラオケに行くとか、アイドルと握手をしに行くとかでもない。もっと根本的なことだ。世界の常識というか、基本的な法則というものを逸脱した出来事を、佐恋は望んでいた。そうした出来事に遭遇することで、今の自分の世界が、自分を制限する檻みたいなものが、きれいさっぱり無くなってしまうような。佐恋の胸にある漠然とした望みは、非日常の先にある変化に対してだった。
母親に手を引かれる、小さな男の子が佐恋の目に止まった。男の子が楽し気に、今日あった出来事を繰り返し話すのを、母親は嬉しそうに聞いている。
佐恋は親が嫌いだった。食事は作ってくれるし、必要なお金も出してくれるけれど、どこかよそよそしい雰囲気が間にあって、あまり家には帰りたくない。親子でありながら、まるで、あかの他人とひとつ屋根の下で暮らしているような違和感があった。作ってくれたお弁当を持って学校に行くと、何だか無銭飲食しているみたいな後味の悪さを感じ始めたのも、最近の話ではない。だから、佐恋は自分でお弁当を作ることにした。白弁当。ご飯だけの、おかずも漬け物も、梅干しもない、まっさらな弁当を毎日作った。
白弁当みたいに味気ない親子関係となってしまったのは、結局、あのことが原因じゃないかと今では思っている。
佐恋がまだ幼い頃、水の事故で姉を亡くした。川遊びをしていて、思いのほか強い川の水流に流された。佐恋は助かり、姉は助からなかった。お葬式があって、当時、そこがどこだか分からなかったけれど、今思えばあそこは火葬場だったのだろう。たなびく煙は姉の魂に違いなかった。それまで泣いたことなんて一度もない父が、空を見上げて涙を流す横顔を佐恋は忘れられなかった。
姉が亡くなってずいぶん経ってから、リビングで話す父と母の声を佐恋は偶然、聞いてしまった。世の中には聞きたくないことなんて、いくらでもある。できれば、聞きたくはなかった。聞かずに済んでいれば、あるいは何かが変わっていたかも知れない。でも、聞いてしまったのだ。記憶を引き出しから取り出して、ぽい、と丸めて捨てられれば、どんなに楽かと佐恋は思うのだが、そんなこと、不可能だった。
佐恋ではなく、姉が助かっていればよかった、父はそう言ったのだ。その言葉を否定してくれるものと期待した母からは、けれど、沈黙しか返ってこなかった。沈黙による肯定だった。母もまた、心のどこかで父と同じことを思っていたのだ。だから、父の言葉に沈黙で返した。
姉は勉強もできたし、明るい性格で、佐恋とは対照的だった。姉がいなくなって、ぽっかりと空いてしまった心の空白に引きずられるまま、佐恋は勉強も、友達とのつきあいも何もかも、生活のすべてにおいて、投げやりになってしまった。学校における佐恋の態度は「素行不良」としか評価されなかったし、親もまた、腫れ物に触れるようにして、佐恋の態度を強く諭すことはなかった。
そんな時に聞いてしまった父の言葉と母の沈黙は、佐恋と両親の間に、埋めようのない溝を作り出してしまった。深い溝には激流が流れ、あの日、姉と共に流された川を、佐恋はそこに見る思いがした。
街の空はすっかり暗くなって、まばゆいネオンが佐恋の瞳に映った。路地から路地へ、袋小路に迷い込んだラットのように、佐恋は歩き回っていたところ、ふと、目につくものがあった。
桜野原さくらだ。
一人何かをつぶやいている。思わぬところで最近のお気に入りに巡り会ったものだから、にや、と佐恋は口の端に笑みを浮かべ、桜野原の背後にそっと近づいた。
「佐絵馬の手掛かりはなかったな。あの狐め・・。・・・・ああ、また一から探るしかあるまい。」
桜野原は、高層ビル群を振り仰いで言った。
「しかし、さくら。あの高さはいったい何だ。物見櫓・・か? 御城の天守より、はるかに高い。」
狐? 天守? 何の話だろう? ヒメとカゲトシの続きだろうか。
「・・・・ビル、というのか。なにゆえ、あのように高く造るのだ。城攻めへの備えにしては、少々高すぎる気もするが。・・・・・・。店があの中に。増え過ぎた人が、横ではなく、縦に、な。・・・・・・理屈としては分かるが、あのようなものが人の手によるものだとは、にわかに信じられんな。」
独り言、のようにも思えるのだが、合間、合間に入る沈黙からすると、誰かと話している風でもある。ハンズフリーの携帯で通話でもしているのかと、さらに佐恋が桜野原へ近づいた途端、桜野原が風を捲くようにして素早く振り返り、姿勢を落としながら左の腰に手をやる。まるで、刀を抜こうとするかのような仕草だった。
「び・・・っくりしたわぁ! いきなり振り返るんだもん。よく私が近づいたの、分かったね。」
「おぬ・・、あんたは東雲・・・!」
「佐恋でいいよ。少佐の「さ」に、恋で佐恋。」
「いきなり近づくな、佐恋。驚く。」
と、桜野原は警戒を解いて言った。
「いや、驚いたのは私の方だって。何かぶつぶつ独り言を言ってるみたいだから、こっそり近づいてみればあの反応だもん。刀でも抜くつもりだった? っていうか、その口調、何? 前からそんな男前口調だったっけ?」
「あ、いや、別に刀とかではなく・・。口調も、ちょっと驚いただけだ・・だけよ。」
桜野原の、どうにもおかしい様子を佐恋は見逃さなかった。
「驚いただけぇ? ほんとに〜? あやしいねぇ。カゲトシの続きでもやってたんじゃないの?」
「やってなど、ない・・わよ。そ、それで、佐恋、は何してたの。」
「ああ、私? ほら、例の面白いこと見つけられるかもって、言ってたじゃん。あれよ。」
「面白いこと・・・?」
「知りたい?」
「あ、いや、別に。」
「知りたいって言いなさいよぉ。つまんないでしょ。」
佐恋は桜野原の首に腕を回して、ぐいぐいと揺さぶる。
「いや、だから、それを知ったところで、私には関係が・・・。」
「関係ないとか言わないでさぁ。」
放そうとしない佐恋にされるがままだった桜野原だが、不意に、佐恋の腕をぐっとつかんで言った。思いのほか力強い桜野原の握力に、佐恋は驚いた。
「知りたくないと言ってるの。やることがあるから、私はこれで。」
桜野原の鋭い視線が、射抜くように佐恋へ向けられた。初めて保健室で出会ったときの印象からして、佐恋は桜野原のことを、どこか引っ込み思案な、おとなしい歴女としか思っていなかったのだが、今、目の前にいる桜野原は、そんなイメージから完全に逸脱していた。桜野原の目からは、堅い闘志のようなものすら感じる。佐恋は思わず腕を離して言った。
「あ、そぅ。・・・・ごめん。」
桜野原の迫力に気押され、しゅん、となってしまった佐恋を一瞥して、そのまま歩き出した桜野原だったが、数歩進んだところで、立ち止まった。数秒の沈黙の後、佐恋へ振り返って言った。
「・・・気が変わった。佐恋の言う面白いことって、何? 知りたい。」
「ぇえ? どっちよ。知りたくないって言ったり、知りたいって言ったりさ。」
「・・・・やっぱり、知りたい。」
口ではそう言う桜野原だったが、しぶしぶ、知りたがっている様子がないでもなかった。無理矢理、誰かから指示されたように見えなくもない桜野原へ、佐恋は腕を組みながら言った。
「あ、そう。知りたいの。ふーん、どうしよっかなぁ。」
桜野原の眉間にしわが寄った。メンドクサイ奴だと思ってるみたいだが、それを楽しむように、佐恋はにやにや笑いを浮かべている。
「じゃあ、桜野原が何やってたのか、教えてよ。」
「何って・・・。か、買い物。」
「何買ったの?」
「え・・? ・・・ふぃ、ふぃぎゅあ? を・・。」
「フィギュアって、何の?」
「・・・山県昌景。赤備えシリーズの・・。」
「嘘!? そんなの売ってんの? 見せて、見せて。」
「いや、見せるわけには・・。」
「んん? 何を買ったかまでは言えるけど、それは見せられない、ってこと。どーも、さっきから怪しいよね。桜野原。何か、隠してる?」
ずい、と寄る佐恋から目を逸らしながら、桜野原は言った。
「何も、隠してなどない。」
「じゃあ、どうして目を逸らすのよ。」
「う・・。」
「それに、さっき狐がどうとか、独り言いってたよね。一から探るしかないとか何とか。狐って?」
「それは・・・。」
ゆらゆらと目が泳ぐ桜野原だったが、ごまかしきれないと悟ったのか、ちょっとうなずいて、覚悟を決めると言った。
「実は・・・。笑わずに聞いてほしいのだけれど・・。」
「笑わないよ。何、何?」
「とある狐女を探している。」
「コジョ? 狐の・・・妖怪ってこと?」
「そう。ゆえあって、そいつを探さなければならない。手掛かりとなる神社を巡って、ここまで来たけれど、それも途絶えてしまった。」
「探してどうするの?」
「退治する。」
「退治! 退治って単語、久々に聞いたわ。へぇー、桜野原も面白いことやってんのねぇ。退治ってことは、その狐に何か恨みでもあるの?」
「恨み、というものではないが・・・。退治しなければ、いろいろと困ることがあるのだ。」
「困ること。呪い、みたいな?」
「呪い・・。あるいはそうかも知れない。その狐を捉えなければ、呪縛から解放されないという意味では、呪いに等しいだろうな。」
「呪いから逃れるために、妖怪退治か・・・。いいねぇ。面白いよ。ふふふ。ヒメとカゲトシの次は、妖探し、と。」
「佐恋は、それで、何をしていた?」
「ああ、私はね・・・。」
佐恋は、桜野原の耳元に口を寄せて囁くように言った。
「吸血鬼を探してるのよ。」
「キュウケツ・・・鬼?」
きょとんとした顔で聞き返す桜野原の背中で、メッセンジャーバッグがもぞもぞと動いた。
「ん? そのバッグ何か入ってるの?」
「いや、何も・・。」
「でも、今、動いたよ。」
「たぶん、山県が暴れているんだろう。」
「へぇー・・・。」
佐恋は、興味がないふりをして視線を逸らしつつ、突然、桜野原の背後に回り込んだ。
「見せて!」
佐恋は、桜野原の返事も待たずにメッセンジャーバッグを、がば、と開いた。中からこちらを見上げる黒猫と、佐恋は目が合った。ひげのあたりがふるふると震え、猫のくせに、その顔は笑っているように見えなくもない。
「猫! 桜野原、猫を鞄に入れて持ち歩いてんの? 桜野原の猫だよね。勝手にどっかから入って来た野良猫、じゃないんでしょ。」
「あ、ああ・・・。うちの・・クロだ。」
「ぉほ。クロよい。何だ、ご主人の鞄の中がいいのか? うりうり。」
佐恋はそう言って、バッグの中に手を突っ込むとクロの顎下を掻いた。最初は嫌がったクロだが、すぐに、うっとりと気持ちよさそうにゴロゴロ喉を鳴らす。
桜野原は佐恋にクロをいじらせたまま言った。
「それで、キュウケツ鬼とは、何だ。鬼の類いか・・・?」
「鬼って・・・。吸血鬼よ。ヴァンパイア。まぁ、鬼っちゃ鬼だけど、でも角の生えた赤鬼だとか、酒呑童子のそれとは違うでしょーよ。知らないの?」
吸血鬼、という単語を聞いて首をかしげる桜野原を前に、佐恋もまた首をかしげた。桜野原は再び目を泳がせ、しばらくの間沈黙したかと思うと、突然うなずいた。
「ああ。吸血鬼とな。」
なんだか、合点がいったみたいだ。
「何、今の沈黙は・・?」
「いや、ちょっと思い出していた。佐恋も珍しい者を探してるな。こんな街中にいるものなのか?」
「街中だからいるんでしょーよ。ひとけのない山奥とか、絶海の孤島にヴァンパイアって似合わないもの。」
「似合う、似合わないの問題でもないと思うが・・・。その、吸血鬼とやらがこの街にいると。」
「噂ではね。具体的に、どこ、って細かい場所までは分からないんだけど、この辺りにいるってネットで噂になったのよ。」
「その噂は、本当なのか? 吸血鬼など妖のようなものだろう。狐狸妖怪の噂ほど、当てにならないものもない。」
「本当かどうか分からないから噂なんでしょ。だから、自分の目で確かめに来てるのよ。」
「それが佐恋の言う、面白いこと、なのか?」
「そうよ。」
そこで桜野原は、しげしげと佐恋を見つめた。何とも珍妙なことをする奴だ、といわんばかりの顔だった。本気で言っているのか? という疑心も混じっている。それでも、桜野原は真面目な顔に戻って、佐恋に言った。
「それで、見つかりそうなのか、その吸血鬼は。」
「それが全然だめでさぁ。怪しい路地裏とか、いかがわしい店とか、片っ端からあたってるんだけど、なかなか見つかんなくて。いけてる手掛かりがあったんだけど、それも空振り。」
なぁう、とクロが鳴いた。まるで、そんなの見つかんなくて当然だ、と言っているような鳴き方だった。
「なんだ、クロ。見つかるわけないって顔してるね。」
うにゃあ。
「そんなことはないよ。いる。奴らは必ず、この街のどこかにいるんだよ。あまりにうまく、人間社会に溶け込んでるものだから、見分けがつかないだけでさ。あ、そうだ。」
すかっ、と鳴らない指パッチンをして佐恋が言った。
「桜野原は狐の妖怪を探してるんでしょ。そんで私は吸血鬼。どうよ。お互い情報共有しない?」
「ジョウホウキョウユウ?」
「そ。桜野原が狐探しの途中、吸血鬼に関して何かつかんだら、私に教えるの。そのかわり、私が狐の情報を得たら、桜野原に教える。お互い一人で探してたのが、二人で探すことになるわ。探索範囲が二倍になるってこと。」
「ふむ・・・。」
「一人で歩き回って探すのも限界があるのよ。桜野原にとっても、私にとっても悪い話じゃないでしょ。」
クロがもそもそと鞄の中から這い出してきて、桜野原の肩へ腹這いになった。桜野原とクロ、二人して佐恋に背中を向け、何やら相談しているように見えるのが佐恋にはおかしかった。
やがて、桜野原が振り返って言った。
「その案、乗らせてもらう。」
「お。いいね。じゃあ、番号とメアド、交換しとこう。何か分かったら連絡するよ。」
「あ・・・、うむ。」
桜野原は携帯を取り出しはしたものの、いつまでも、もたもたと操作している。
「・・・・。あー、もう。貸してみ。」
佐恋は桜野原から携帯を取り上げると、素早く操作して自分の携帯にメールを送り、一回コールして切った。
「あ、それとさ。このこと、他言無用よ。吸血鬼探しをしてるなんて学校の連中にばれたら、絶対馬鹿にされる。」
「その自覚はあるのか。いや、それはこちらも同じこと。女狐探しなどと言って、真に受ける者もいないだろう。無闇に言い触らすつもりはない。」
「お互い様ってことだぃね。ほいじゃ、私、行くから。」
佐恋はぷらぷらと手を振ってそれだけ言い残すと、歩き出した。
「ああ。では、また。」
桜野原がそう言うのに合わせて、クロも、なぁう、と一回鳴いた。
にへ、と佐恋は笑った。
いい。やっぱり、桜野原は面白い。鞄の中に飼い猫を入れて持ち歩いたり、呪いの狐を探していたり、ヒメとカゲトシの寸劇をやってた時から気にはなっていたのだけれど、今のは決定的だった。
久々に楽しい気分になって、佐恋は真宿の街を歩いた。




