士 葉羅宿(はらじゅく)
土曜日午前の授業が終わってホームルームが済むと、シゲトーはすぐに席を立って、教室を出ようとした。
そこへ、茜が呼び留める。
「ねぇ、さくら。帰り、ボーリング寄ってかない? ボーリング。急に転がしたくなっちゃった。」
「ぼーりんぐ・・? あ、ごめん。今日はちょっと急ぎの用があってすぐに帰らなければいけない。」
「あら、そう。」
「すまない。」
「謝んなくてもいいって。用事があるならしょうがないでしょ。・・・さくら、大丈夫?」
ぐっ、と身を堅くして、シゲトーが問い返した。
「大丈夫、とは・・?」
「なんか最近、思い詰めたような顔してるから。雰囲気も違うし。」
私は枝の上から茜の話し声を聞きながら、冷や汗が出る思いだった。やっぱり、茜にだって分からないわけがない。この数日、どうにかごまかし続けてもらったけど、さすがに茜もシゲトーの様子を見て、普段の私とは何か違う、と勘づいたみたいだった。
シゲトーは少し間を置いてから、茜に言った。
「少し、悩みがあって・・・。」
「悩み? 深刻なやつ?」
「うん・・・。」
「相談、乗ろうか?」
「いや。とても個人的なことだし、もうやるべきことはだいたい分かっている。相談には及ばないわ。」
「そう・・。」
「でも、ありがとう。茜はいい奴だ。」
「・・・・いやぁ、照れるね。今さら分かり切ったことを言われてもね。」
茜は、いきなりいい奴なんて言われたものだから、一瞬、私の姿をしたシゲトーへさらに心配を深めた気配があったけれど、すぐに照れる素振りをした。あれって、わざと照れたふりをしただけ・・かも。私は面と向かって、茜にいい奴だなんて言ったことは、一度もない。
シゲトーの使った、悩み、という言い方は、普段と様子が違う理由として適当だろうけれど、話せば話すほど茜に心配をかけてしまいそうだった。私はシゲトーに囁いた。
(シゲトー。)
[分かっている。]
「じゃあ、行くから。また来週。」
「うん。じゃあね、さくら・・・。」
後ろ姿を見つめる茜を教室に残し、シゲトーは教室を後にした。
急いで家に帰って、シゲトーにハーフパンツ、ティーシャツという格好へ着替えてもらうと、私達は再び電車に乗った。座席に座ったシゲトーの膝の上で、メッセンジャーバッグの隙間から私は鼻先をちょっとだけ出した。
「行き先は葉羅宿でいいのよね。」
「ああ。佐絵馬を追い詰めた神社がそこにある。時代は違えど、同じ場所に行けば何か手掛かりがあるやも知れん。」
「ふぅん。けど、よりによって、葉羅宿ってさぁ。あんなお洒落人間の集う場所と、狐の妖怪ってのがいまいち結びつかないよね。」
クロが鈴の中から言った。
「あの喧騒は現代になってからだろう。今と昔じゃ雰囲気も違うだろーよ。」
「あ、そっか。・・・ん? 「あの」喧騒? クロ、葉羅宿に行ったことあるの?」
「何度かな。」
「ええ? 一人で?」
「そうだよ。電車に乗ってな。」
「本当? 猫って一人で電車に乗れるの?」
「乗れる。」
「まじで?」
「まじで。自動改札は俺らにとって何の意味もなさねぇから。他の連中も結構乗ったりしてるんだぜ。そもそも律儀に改札を通る猫なんていねぇけどな。」
「ちょ、ほんとに? 電車に乗ってる猫なんて、見たことないよ。」
「そら、さすがに客室に入ってったら目立つが、ここの下なら大丈夫なんだよ。」
「ここの下って?」
「客室の床板の下だよ。モーターの間とかな。」
「そんなとこ、乗れるの?」
「乗れるよ。ちとうるさいが、冬はあったかくて丁度いいんだぜ。」
「ふぇー。新たな都市伝説ね。猫が電車に乗って移動するなんて。」
「それにしても。」
と、シゲトーが窓の外を眺めながら言った。
「この電車という乗り物は便利であるな。多くの人間を乗せて素早く移動ができる。これならば、京まで五日程度で着くのではないか。」
私は、置いた前足に、もふ、と自分の顎を乗っけながら言った。
「五日どころか二時間ちょっとで着いちゃうわよ。」
「・・・二時間?」
シゲトーが首をかしげたところへ、クロがフォローを入れた。時速をマイルで言われたときみたいに、シゲトーはいまいちぴんときてないみたいだった。
「一時一刻ってところだな。」
「何! ば、馬鹿な・・。一時と一刻だと・・・! 急ぎに急いで、二本橋からやっと皮崎の宿までたどり着く程度だぞ。それが、京まで行ってしまうとは。恐るべし、電車・・。時代は進んだのだな・・・。」
シゲトーはかなり驚いたみたいだ。それもそうだ。昔の人はみんな歩きで移動してたわけだから。でも、新幹線で行くような場所まで歩いちゃうって、あの時代、みんな元気だったのね。
葉羅宿の改札を出たところで、再びシゲトーは目を丸くしていた。
「な、何だ、この人手は・・! 今日は祭りか・・・?」
私は、シゲトーの背中のバッグから顔だけ出して言った。
「別に祭りってわけじゃないよ。いつも土日はこんな感じよ。」
「うーむ・・・。ゃや? あれは何だ? 見慣れぬ格好をしておるが、異人・・か?」
首をひねってシゲトーの言う方を見てみると、フリフリのゴスロリ服に身を包んだ二人連れの女の子が、日傘をさして、しずしずと歩いていた。
「ああ、あれは、ああいう格好をするのが好きな人達。外人さんじゃないと思うよ。」
「あれも・・か? おぬしの学校の制服と同じような服装だが・・・。」
「どれどれ?」
・・・ぉほ! 見ると、四十代くらいのおじさんが女子高の制服を着て楽し気に歩いている。
「あ、あれは・・・。何だろね。」
クロが言った。
「まぁ、女もんの服を着たいって願望を持つ男はいるからな。生物的な性別と性に対する自己認識がくい違っちまったり、とか。目を引く姿ではあるけど罪じゃねぇわな。今のシゲトーだって、外見は女だが、中身は思いっきり野郎だし。」
「そう言われればそうだけどね・・・。」
シゲトーは、女子高生おじさんを振り向きつつ、
「ふぅむ・・・。色々な者がおるのだな・・・。」
と、つぶやきながら雑踏の中を進んだ。
私は元来、見た目は地味な感じで、こういう場所にくると、浮いてるんじゃないか、やっぱり来ない方がよかったんじゃないかすいません、的な卑屈な思いにとらわれることがよくあるんだけれど、そういう外見上の特徴が目についたのか何なのか、突然、シゲトーが男に声を掛けられた。金髪の、見るからにチャラそうな奴だ。
「ちょっとごめん。友達にドタキャンされて今、すごい暇なんだけど、よかったらお茶とかどう? お話しするだけなんだけどさ。」
ひぇー。ナンパだ。
生涯初のナンパを猫の身で背中から傍観することになろうとは、思ってもみなかった。私がドキドキしながら顔を引っ込めたのとは対称的に、シゲトーは落ち着いた声で男に返した。
「すまないが、急いでいる。」
「えー、急いでんの? どこ行くの?」
「言う必要はない。」
シゲトーは脇目もふらず、歩き続ける。
「いいじゃん、いいじゃん。教えてよー。言う必要ないっていうか、断る理由、思いつかなかっただけじゃない? あ、この辺にさ、美味しいマフィンでお茶できるとこがあるんだよね。一緒に行こうよ。」
「いらん。」
「ほんとに美味しいんだって。食べたら一生忘れらんないくらい、何だコラー、つー味なんだって。そういうお店知っとけば、友達とかも連れてけるよ。ネットとかに載ってない店だからさー、知る人ぞ知る、って感じ?」
あー、なんか、この人しつこい。
「・・・・・・。」
「ちょっと、無視しないでよー。少しくらいいいでしょ。ね、ね?」
「しつこいぞ、貴様!」
シゲトーがキレた。
バッグの中からじゃシゲトーの顔は見られないけど、そっとのぞいた相手の男の固まった表情からして、かなり鋭い眼光で睨んでいるのだろう。シゲトーは声を一段低くして続けた。
「そこをどけ。二度と近づくな、この、うつけ者が。」
あか抜けない、地味な女子高生と踏んで声をかけた相手から、いきなりうつけ者呼ばわりされたものだから、相手もかなりひるんだみたいだ。
「あ、はは。そんな怒んないでよ・・・。」
と、ぎこちない笑みを浮かべて後ずさる。そばを通るカップルが、シゲトーと男をいぶかしげに見ながら通り過ぎて行った。
シゲトーは、そのまま、ずい、と歩みを進めて後は、男を一顧だにせず進んでいる。
さすがは武士。軟派ヤローをはねのけてしまったシゲトーに、私はちょっと感心してしまった。
私はバッグの中からシゲトーに言った。
「へぇ、シゲトー、やるじゃない。」
「何がだ?」
「ナンパしてきた奴、追い返したでしょ。」
「ああいうのをなんぱというのか。へらへらと女子に言い寄ってくるなど、恥ずかしいとは思わないのか。」
「思ってないからナンパするんだろーけれどね。それで、シゲトー。今どこに向かってるの? そのサエマって狐を追った神社、だよね。場所、分かるの?」
「知らぬ。」
「知らぬ、って・・。じゃあ、何で歩くのよ。」
「立ち止まっておれば見つかるというのか。とにかく歩き回ってみるつもりだ。」
「ちょ、ちょっと、待った待った。」
何ということ。シゲトーは完全にノープランで歩き続けていたみたいだ。私は、バッグの中から、ぽすぽす、と肉球でシゲトーの背中を叩きながら言った。
「場所も分からず歩いても、見つかんないんじゃない?」
「だからこうして、探しておるのだ。」
「探しておるのだ、って言ってもねぇ・・・。ねぇ、どうしよ、クロ。」
私は鈴に向かって言ってみる。
「ふむ。そうなぁ。四百年も前と今じゃ、ここらの様子もすっかり変わっちまってるだろうし。おい、シゲトー。その神社、名前とか分かるか?」
「名前・・? 確か、越智掛神社、といったな。」
私はクロに尋ねた。
「神社の名前なんて聞いてどうするの? 昔とは様子も違ちゃってるんでしょ。」
「そら、建物や道路なんてのはだいぶ違ってんだろうけど、神社だったら、あんまり場所は変わらねぇからな。境内の御神木ともなれば、樹齢数百年なんてのもざらにあるわけだしな。さくら、ちょっと調べてみろよ。」
「分かった。ねぇ、シゲトー、ちょっと下ろして。携帯貸して。」
「よし。」
道路脇の植え込みの端に座ってバッグを下ろしてもらい、私は携帯を操作し始める。
と、すぐに黄色い声が上がった。
「きゃーっ、ちょっと見て、あれ。猫がスマホいじってるんですけど。かわいくない?」
「かわいいー! あの、写真撮っていいですか?」
奇抜なファッションの女の子達が集まったのを皮切りに、あっと言う間に人の輪ができてしまう。
「し、しまった・・!」
「おいー、さくらぁ。目立つなって言ってんだろ。」
鈴の中から非難するクロに、私は言った。
「そんなこと言ったってさぁ・・・。と、とにかく、逃げよう、シゲトー。」
「ああ、それがよさそうだ。」
ずぼっ、と私を携帯ごとバッグに突っ込むと、シゲトーは、ごめん、と言いながら人垣から外れ、小走りにその場を後にした。写真を撮ろうと構えていた人達から、残念そうな声が上がる。
表通りから路地裏に入ると、急にひとけが減って、通行人もまばらになる。私はバッグの中で、そのオチガケ神社というやつを調べてみた。いくつかヒットした検索結果を基に、私はシゲトーの背中から道を示した。
「今いる場所から右上に三百メートルくらいのとこみたい。」
「右上って何だよ、右上って。北東、ってことだろ。」
クロがすかさずツッコンできた。
「うん。そうとも言う。」
シゲトーは、
「こっちの方角でいいのだな?」
と、足早に進みながら言った。
「うん。そのまま真っすぐ行って、突き当たりの角を左に曲がって。」
「分かった。」
ゆさゆさとシゲトーの背中で揺すられ五分ほどたったところで、ぴた、と立ち止まる気配がした。
私はバッグから首を出して話しかける。
「神社、あった?」
「あるにはあるが、これは・・・・。」
「?」
戸惑いを含んだシゲトーの声だった。バッグから頭を出して見ると、かわいらしいショップが目の前にあり、その隣には、街の雰囲気になじまない、小さな古い石柱が建っている。
「これって・・・?」
石に彫られた文字は縁が雨で削れてしまってひどく読みにくかったけれど、そこには確かに、「越智掛神社跡」とあった。
「「跡」・・・。神社、なくなっちゃってる・・・。」
私の顎下から、クロが言った。
「ふぅん。都市開発の波に耐えきれなかったってところか。なぁ、シゲトー。」
「・・・何だ?」
サエマや、元の時代への戻り方につながる、有力な手掛かりとなるはずだった神社がなくなっているものだから、シゲトーもかなり落胆しているみたいだった。声にそれが出ていた。
「社の洞に入った、って確か言ってたよな。」
「ああ、そうだが・・・・。」
「それって、どこら辺だ? 社本体や生えてる木なんかはなくなっても、地形までは変わってねぇんじゃねぇか?」
「む・・・。神社は小高い丘の上にあった。洞はさらにその奥だ。」
そう言って、シゲトーは辺りを見回す。
小高い丘・・・? 道は確かに、ここへ向かって勾配のきつい上りになっていた。シゲトーは、記憶をたぐりながら地形を読んでいるようだった。
「境内に入るまで、半町ほど急な石段が続いていた・・・。ちょうどあれくらいだな・・・。」
シゲトーは、ちょっと先にある坂道を見る。
「鳥居がふもとにあり、石段を登ってあのあたりが境内の入り口・・・。社殿がこことして、洞は・・・。」
記憶の中の神社と今の地形を重ね合わせたシゲトーは、はっ、と後ろを振り向いた。
「ここだ。この奥に入り口があった。」
視線の先には、さっきの小さなショップがある。
「この先って・・・。」
その洞はもう埋められてしまったのだろうか・・・。
「どうしよ、クロ・・・。埋められちゃったのかな。」
「まいったね、どうにも・・・。とりあえず、店に入ってみろよ。」
「うん・・・。シゲトー、入ってみよ。」
「うむ・・。」
シゲトーがショップの扉を押して開くと、チリン、とベルの音が店内に響いた。バッグの中からこっそりのぞいて見ると、服のことはあまりよく分からなかったけれど、私の目から見ても、かわいい服ばかりだ。もっとお客さんがいてもおかしくない感じのセレクトショップなのだけれど、私達以外に人は入っていなかった。表通りから少し離れた場所柄かしら・・・。
「いらっしゃいませ。」
お店の奥から、若い女の人が声を掛けてくれる。微笑む笑顔がまぶしくて、着ている服もお洒落で、お店の雰囲気といい、いつもの私だったら絶対、後ずさりしてそのまま逃げ出してしまうところだ。それに、そのお姉さんは大学で文化人類学のフィールドワークをしてそうな、と言ったらいいのか、どことなくワイルドな雰囲気も漂わせていた。
シゲトーは、私がひるんだのとは裏腹に、物怖じせず女の人に言った。
「ご免。あ、いや、こんにちは。」
ぺこりと、礼儀正しくお辞儀をする。
「あら、こんにちは。ふふ。ずいぶん丁寧に挨拶してくれるのね。今日はどんなものをお探しですか?」
お姉さんの柔らかい話し方と、低めの声が魅力的だった。
「探す、と申せば探していることになるのですが・・・。つかぬことをうかがいますが、ここは元神社だったみたいですね。」
「神社・・・? ああ、そういえばそうね。オーナーがそんなこと言ってたかしら。表にある石碑よね。」
「はい。実は古い神社に興味がありまして、いろいろと調べているのです。」
おお。シゲトー、ナイスな口実。それなら、ちょっと変わった趣味を持った女子高生、で通らなくもない。
「ここにも昔、越智掛という神社が建っていたようでして、買い求める用もなく失礼ながら、お店に入らせていただきました。」
「ああ、そこは気にしないで。今、ちょうどお客さんもいないしね。私もちょっと興味あるわ、その話。それで、この場所が境内だったってこと?」
「いえ、境内は境内なのですが、祀られている洞が、ちょうどこの場所にあったみたいなんです。」
「洞・・・。」
洞、という言葉を聞いた途端、それまでにこやかだったお姉さんの顔が曇った。
「もう埋められてしまったものとも思いましたが、せめて名残のようなものでもあればと思ったのですが・・・。」
シゲトーも、お姉さんの表情の変化に気づいたみたいだ。その表情の裏にある思惑を探るかのように、シゲトーは、じっ、とその顔を見つめていた。
「何かご存知でしょうか。」
「うーん。それは聞いたことないわね。ここには地下室もないし。」
お姉さんが目を逸らして言った。
「そうですか・・・。」
「・・・なぜ、この神社跡に興味を持ったのか、訊いてもいいかしら。ほら、普通、興味を持つなら、今も建っている神社でしょ? 神社の「跡」を調べているというのは、何か理由があるのかしら。」
「それは・・・。」
シゲトーはそこで言葉につまった。妖狐を追って、神社の洞をくぐってきた、なんて言ってしまえば、胡散臭さ爆発だ。そこへ、クロが信長のトゲを介して耳打ちするように、シゲトーへ何かを囁き始める。シゲトーはお姉さんへ言った。
「・・私のご先祖がその神社に・・・、縁のある者でした。何でも、神社の創建にも携わったそうです。文献では社の裏手に洞があって、信仰の対象ともなっていたようなのですが、詳しいことが分かりませんでした。それで、実際のものを見ればご先祖のことについて、何かつかめるかと思ってここへ参った次第です。」
よくもそんな嘘がすらすらと・・。クロの舌の回りの速さに驚いたけれど、お姉さんの顔には笑顔が戻っていた。
「ふぅん。そうだったの・・・。」
それから、はっ、と何かにきづいたようにシゲトーは言い足した。
「・・・あ、名も名乗らずたいへん失礼いたしました。私は桜野原さくらと申します。」
シゲトーはそう言って、深々と頭を下げた。
お姉さんは、シゲトーの丁寧すぎる挨拶にちょっと驚いたみたいだけれど、
「ああ、さくらちゃん。私は小佐野、小佐野楓よ。」
と言って、にっこりと笑う。
楓さんは宙を見つめて少し考えてから、お店の入り口の方へ歩いて行った。
「オーナーには口止めされていたけれど、事情があってわざわざ来てくれたのに、追い返すのも悪いわ。」
そう言いながら、入り口のガラス戸に掛かっていたプレートをひっくり返して、Closed を外側に向けた。
楓さんはシゲトーに向かって、真剣な顔をして言った。
「ここで見たこと、他の人には言わないって、約束してくれる?」
「それは、もちろん・・・。もともと、個人的な動機で調べているものですし、他言することはありません。」
言わないでほしいって、何のことをだろう。シゲトーが、他言しないと断言するのを聞いて、楓さんも安心したみたいだ。
「ありがとう。ついて来て。」
そう言って、お店の奥の方にシゲトーを案内する。
楓さんが立ち止まったのは、試着室の前だ。正面に大きな姿見があって、縦横一メートルくらいのスペースがある。試着室の壁には着替えの邪魔にならないよう小さな花瓶が掛けられていて、真っ赤な薔薇が一輪、挿してあった。
楓さんはそこでかがみながら、背後のシゲトーに言った。
「昔、フランスでね、おかしな噂が広がったことがあるのよ。ブティックの試着室に入った女性のお客さんが、そのままいなくなってしまう、って。女性はどこかにさらわれたり、売られたりした、なんて噂が、まことしやかに囁かれてね。大きな社会問題になったんだけれど、結局、さらわれた女性なんて、一人もいなかったのよ。」
「・・・・?」
「すべては噂。根も葉もない出来事なのに、人がブティックでいなくなったようだ、という話だけが、尾ひれをつけて人々に伝わって行ったのよ。」
楓さんは、そこまで言って、ゆっくりと、試着室の床板を押し上げた。木の板がきしむ音と、むっ、とする土の匂いと共に、ぽっかりと、暗い穴が現れた。
「そういう噂が広がるのを、オーナーも恐れたみたい。試着室って、たいてい一人で入るでしょう。そこでさらわれた、なんて話が出れば、みんな怖がってお店に来なくなっちゃうものね。だから。」
楓さんは振り向いて言った。
「お店の試着室の床下に、こんなトンネルが広がっているってこと、誰にも言わないでほしいの。今回は特別よ。」
楓さんは、誰にも言わないでほしい、と口では言うものの、自分自身、その穴に対して大いに興味を持っているみたいだ。秘密の基地へ新しい友達をこっそり案内する小学生みたいに、きらきらした目で穴とシゲトーを交互に見ていた。
「これは・・・!」
シゲトーが身を乗り出して、穴をのぞく。
「この穴がどこに通じているのか、よく分からないわ。オーナーからは、二つのことしか言われていないわ。危ないから入るな、穴があることはお客さんに秘密にしろ。地下鉄や水道管みたいなものと、どこかでぶつかってもおかしくないんだけれど、不思議と何にも突き当たらず、ずーっと奥まで続いているのよね。」
「何にも突き当たらない・・・? あなたは、入ってみたのですか?」
シゲトーが首をかしげながら楓さんに訊いた。
「あ・・・、うん。ちょっとだけね。内緒よ。」
人差し指を口にあて、しーっ、と内緒のポーズをとる楓さんだけれど、ちょっとだけ、というのはどうにも嘘っぽい。ずーっと奥まで続いている、と本人が言っちゃっているのだ。かなり深いところまで、この人は降りたに違いない。
穴の中は不気味なほどに静かで、生暖かい風が、ぬるりと地の底から這い出てくるみたいだった。
シゲトーは鋭い視線で奥をにらみながら、楓さんに言った。
「入ってもよろしいでしょうか?」
「だめよ。」
楓さんに、即座に拒否されてしまった。
「物凄く深いのよ、この穴。入って迷いでもしたら、本当に出られなくなるわ。私も迷いかけた─。」
楓さんはそこまで言って、はっ、と口をつぐんだ。やっぱり、入ってみたんだ、この人は。
「とにかく、どこまで続いているか分からないし、ちゃんとした装備もなしに入るのは危険よ。この穴の存在を教えるまでが、私にできる精一杯のことよ。」
そう言って、楓さんは床板を閉じてしまった。
「このことは、内緒にしておいてね。」
楓さんは真剣な顔で、シゲトーにそう言った。
私はシゲトーに囁いた。
(どうする、シゲトー。)
[できれば奥に入って中を改めてみたいが・・・。]
クロがそこに口を挟んだ。
「やめておけ、シゲトー。入ったところで何か見つかりそうな雰囲気じゃあなさそうだし、このまま勢いで入っても、そこの姉ちゃんの言うように、ほんとに迷っちまう可能性だってある。洞がまだここにある、って分かっただけでも収穫だろ。」
[む・・・。]
クロの言うことはもっともだった。闇雲に穴の中を探し回っても、危険なだけかも知れない。
シゲトーもそう思ったみたいで、楓さんに向かって深々と頭を下げた。
「口止めをされているにも関わらず、このような密事を明かしていただき、かたじけないです。この御礼は、別の折に必ず・・・。」
「お礼なんていいのよ、別に。実は私も、人に話したくてうずうずしてたの。だって、葉羅宿のお店の真下に、こんな長大な洞窟が広がってるのよ。わくわくするでしょ。」
楓さんも、ほわっとした見た目とは裏腹にアクティブな人だ。オーナーさんの許可さえ出れば、本気で探検をしかねない、生き生きとした目をして言うのだった。
「それにしても。」
と、楓さんは続けた。
「密事、とか、かたじけない、って。さくらちゃん、古風なのね。お侍みたい。」
「あ、やや、侍というわけじゃ・・・! 江戸の時代が・・・好きなだけです。」
「そうなの。歴女ね。分かるわ。」
分かってくれるのね、楓さん!
楓さんと色々お話をしたいところだったけれど、猫の身で歴史トークに盛り上がるわけにもいかない。バッグの中で、私はうずうずと髭を揺らすことしかできなかった。
思いもよらず、正体を指摘されたシゲトーは、動揺を隠すようにして楓さんに言った。
「それで、元、ここにあった神社は取り壊されたのでしょうか・・?」
「さぁ、私も詳しいことは知らないんだけど・・・。ああ、そう言えば、昔あった神社は遷座したとかなんとか、オーナーがそんなことを言ってたような気も・・・。」
センザ?
首をかしげた私へフォローするように、クロが言った。
「神社のご神体をよそに移すことだよ。神社の引っ越しだな。」
「ああ、それで、遷座ね。」
シゲトーは、ぐっ、と身を乗り出すようにして、楓さんに言った。
「詳しく教えていただけませんか。」
「うーん、と・・。そうねぇ。私もちょろっとしか聞いてないし、うろ覚えなんだけど、なんでも、真宿あたりに移したとか・・・。」
「真宿に・・・。神社の名は分かりますか。」
「神社の名前・・ね。ちょっと難しい字だったような・・。確か、て、から始まるのよ。て、て・・・。花の名前、だった気がするんだけど。」
うーん、と言いながら首をひねる楓さんだ。ここはぜひとも思い出してもらわないと。遷座した先の神社に、狐女にまつわる伝承みたいなものが残っていないとも限らない。それでなくても、サエマって奴の手掛かりがないのだ。私の身体を取り戻すに至る糸を、ここで途切らせるわけにはいかなかった。
突然、クロが囁いた。
「天蓋花、じゃねぇか?」
「え?」
「天蓋花。て、から始まる花の名前。彼岸花の別称だよ。」
(シゲトー。)
[何だ、さくら。]
(て、から始まる難しい字の花、天蓋花じゃないかって。)
一生懸命思い出そうとしてくれている楓さんに、シゲトーは言った。
「天蓋花、ではありませんか。」
「そうそう、それよ。さくらちゃん、よく知ってたわね。越智掛神社っていうのが、どういうわけか名前が変わって、真宿に天蓋花神社として移った、って。確かにそう言ってたわ。」
当たった。
「クロ・・・。よくそんなことまで知ってたわね。」
「んー? 長年、猫やってると、いろいろ分かるんだよ。猫の情報網は半端ねぇからな。」
得意気に言うクロだった。
楓さんは微笑みながら、
「じゃあ、その天蓋花神社に行けば、何か分かるかも知れないわね、ご先祖様のこと。」
と、シゲトーに言ってくれた。
シゲトーはあらためて楓さんにお礼を言うと、お店を後にした。
「真宿だって。何か手掛かりがつかめるといいけど・・・。」
駅に向かうシゲトーの後ろで私は言った。
「ああ。そうだな・・・。」
シゲトーは不機嫌そうに応える。
「何か、機嫌悪い?」
「悪くない。」
「でも、悪いじゃない。」
シゲトーは立ち止まってバッグを背中から下ろすと、中の私をのぞき込むようにして言った。
「悪くないと言っているだろう。」
「明らかに悪いでしょ。どうしたのよ、いったい。」
シゲトーは、ひとけのない路地で建物の玄関口にある階段に座りこみ、私はバッグから外に出た。
「俺の時代にはそこにあった神社がなくなっている。人々は得体の知れないからくりをいじってばかりで、目も合わせない。空気は汚い、潮の匂いすらしない。これで機嫌など良くなるものか。」
ああ、そうか、と私は思った。
肉体を奪われてしまった私にストレスがあるのと同じように、シゲトーもつらい思いをしてたんだ。いきなり、知り合いも友達もいない時代にやって来てしまって、慣れない身体、慣れない生活の中、他人の人格を演じ続けなければいけない。なにひとつ拠り所のない孤独な世界で、それはとてもつらいことなんだろう。こんなにいっぱい人がいるのに、シゲトーは、無人島で脱出の方法を探る漂流者みたいに、寂しい気分を味わっているのかも知れない。
「シゲトー・・・。」
でも。シゲトーは決して孤独なロビンソンなんかじゃない。
私はシゲトーの膝の上に乗ると、そこで、どすん、と一回ジャンプして言った。
「ほら、しっかりしてよ。行ってみよ、真宿。弱音を吐くなんて、らしくないわよ。」
「・・・弱音を吐いてなどおらぬ。時代が肌に馴染まんと言っているだけだ。」
「どっちでもいいけどさ。ほらほら。」
私はさらに、ぴょんこ、ぴょんこ、と膝の上で飛び上がった。
「や、やめんか。爪が引っ掛かる。」
苦そうな笑みを浮かべながら、それでも、シゲトーの目に光が戻った気がした。シゲトーは私をバッグの中に放り込むと、立ち上がって言った。
「さくら。おぬしに言われんでも、分かっている。佐絵馬を見つけ出す。本懐を遂げ、おぬしにはこの身体を返さねばならん。余計な気遣いは無用だ。」
「あ、気遣いってところは、気づいてくれたのね。」
「俺とて、そこまで野暮ではないわ。」
シゲトーはそう言って、片頬に笑みを浮かべると駅に向かって歩き出した。




