壱 桜野原(おのはら)
数学、というやつがある。公式にあてはめると答えが出るアレだけれど、この公式というのが、私には不可解だった。てんで理解できない。理解せずに覚えろと先生は言うけれど、理解できないものを覚えるほど、気持ちの悪いことはなかった。ハンバーガーを噛まずに飲みこめと言われているようなもので、丸ごと一個飲み込むのはさすがに無理だから、噛み切った後、口の中でもぐもぐせずに、飲み込むのに似ている。公式が、私の喉につっかえて仕方がなかった。美味しいハンバーガーも、もぐもぐせずに一個食べ切ろうとしたら、苦しくって、涙がぼろぼろ出て、美味しさを味わうも何も、拷問みたいになってしまう。
今日は「さ」行の生徒から当てられて行く日だから、私の名字、桜野原、が当てられる可能性はゼロだった。時々、フェイントをかけてくる先生もいるけれど、数学の大川先生に限っていえば、それは絶対にない。毎回、律儀に名前順で当てては答えさせ、しかも、メモを取っているわけでもないのに、前回誰まで当てたかをちゃんと覚えている。
ただし、風邪とかで欠席したときに当たるはずだった場合は要注意だ。順番がスキップしたことも覚えてるから、風邪が治って登校したその日に、いきなり当てられることになる。病み上がりでぼぅっとしてるところに突然指されるものだから、これは結構、慌てる。私も一回それでやられて、しどろもどろに答えた回答は、正解と三桁ずれててみんなに笑われた。
授業中、当てられないのをいいことに、私はいそいそと妄想に耽り始めた。時は戦国、辺り一面すすきの原にあって、髭面のいかめしい武将が、鎧兜の重装備で騎馬にまたがり、配下の足軽を従えて行軍していた。みなぎる闘志は槍の穂先にまで満ち溢れ、仏教の四天王、広目天も顔負けの威圧感を周囲に発している、というのが、昨日から断続的に続く私の妄想の一端だった。私は強そうなおじさんというのに目がないのである。
泥沼の底にいるみたいな、深ーい妄想から我に返ると授業が終わっていた。大川先生はいつものように、予習、復習をやっておくようにと、つぶやくように言い残して教室を出て行った。
数学は 噛まずに飲み込む ハンバーガーに似たり
と、教科書の端に書き込んだのが、今日の数学の授業、唯一の成果だった。
授業が終わるなり、すささ、と私の席にやって来たのは、平茜だ。ショートカットに小麦色の肌という、体育会系少女のテンプレみたいな子で、どういうわけか、クラス内での立場がローランクな私にも、ちょくちょくかまってくれる。
「なぇ、さくら。」
さくら、とは私の名前だ。茜はいっつも、ねぇ、と、なぁ、の中間みたいな、不思議なイントネーションで呼びかけてくる。
「次、体育。早く行こう。」
「・・ああ、うん。体育ね。うん。行く。」
「さくらー。元気ないよ。」
「いや、あのね。私は茜みたいに、元気成分があんまり濃くないのよ。苦手な数学に引き続き、苦手な体育の授業を前に、元気なんて出ないよ。」
「まぁたまた。空元気でも元気って言うじゃない。嫌だ嫌だと思ってやる体育より、愉しい愉しい体育だと思う方が、カラダにも心にもいいと思うのよ。」
「むーりー。」
「あと、さくらさ。」
「んー、なぁに?」
「足、開き過ぎよ。背中も丸まってるし。もっと、ぴしっ、としたら、さくらも見れると思うのよね。」
茜は快活だけれど、言うことに遠慮がない。
「見れるって、誰に対してよ。足閉じるの疲れるし、背中が丸まるのは重力のせいよ。私の責任じゃなーい。」
「もー、気の持ち様だって。日本史の授業以外、目も虚ろだしさ。」
「日本史は別枠よ。大好物だからね。ああ、そだ。茜さ、戸次鑑連って、知ってる?」
「知らない。」
「最近のお気に入りなんだけどね、雷を斬ったとか、手柄をなかなか立てられない家臣を励まして奮起させたりとか、色々逸話があるんだけど、なんと、雷に打たれて身体が不自由になっても、輿に乗って戦場に出ちゃう、気合いの入った武将なのよ。すごいでしょ。」
「うん、・・・よく分からない。」
「えー、何でよぅ。一度でいいから、彼が雷を斬ったと言われるその刀、雷切をこの目で見たいのよ。」
「斬ったって、刀で?」
「そう。」
「雷を?」
「うん。すごくない?」
「それって、雷がゴロゴロ鳴ってるのに刀を振りかざしたから、落雷しちゃったんじゃないの。」
「ち、違う! ほんとに! 斬ったんだってば。」
「ほんとにー?」
「ほんとだって。」
「無理だと思うわ、私は。相変わらずの歴女っぷりよね、さくらは。そんなことより、体育。着替えに行かないと、遅れちゃうよ。」
「そんなことって、茜!」
私のベッキーの英雄譚をそんなこと呼ばわりしながら、茜は私に体操着を持たせて、ぐいぐいと引っ張って行く。男子とは別の教室で着替えなくちゃいけないのだけれど、茜にベッキーの素晴らしさを理解してもらえないのが、なにより残念だった。
体育の授業はバスケだ。何が楽しくてあんな人間の頭みたいに大きなボールを投げ合わなければいけないのか、私にはまったく理解ができない。しかも、ボールを常に、地面に向けてついていなくちゃいけないなんて。持って運べばそれでいいのに、トラベリングなる違反によって、私はしょっちゅう怒られる。
そして何より、このスポーツの恐ろしいところは。
「さくら! パス!」
「あ、え? ちょっ・・・、ぎゃっ!」
重く固いボールを、パスと称して、ものすごい勢いで投げつけられるところだ。動体視力が十分にあって、ボールの軌道に対応できる身体機能が備わっていれば、きれいにボールを受け取って、そのままシュートを決められるのだろう。けど、予想に漏れず、私は茜からのパスを受けそこね、ボールで思いっきり、突き指をした。
「ふぐぅぅ・・。痛い。」
「あらー。ごめん、さくら。大丈夫。」
茜が心配そうに駆け寄ってくる。私は指を握りしめ、試合中に接触したサッカー選手よろしく、痛くてたまらない! という顔を演出した。いや、本当に痛いのは確かだけれども、五割増しで大げさに痛がった。
体育教師の水島先生もやって来た。美人で生徒の人気もあるけれど、年齢不詳なものだから、いつしかついたあだ名は永遠の三十路。悪意があるんだかないんだかよく分からないそのあだ名を、みんなは好意をこめて使っている。三十路先生ー、とか呼ばれて怒るどころか、はーい、なんてにこやかに返事をしてくれるものだから、さらに好かれた。
その水島先生が来てしゃがみこむと、私の顔をのぞきながら言った。何の香りか分からないけれど、いい匂いがした。
「大丈夫、桜野原さん? ちょっと見せて。」
「あ、あの、大丈夫ですから、ほんと、骨とかそこまではイってないと思いますから。保健室行って、湿布貼ってもらいます。」
「そう? じゃあ、平さん、一緒について行ってくれる?」
私は慌てて首を振った。
「あ、やや、一人で大丈夫なんで。ほら、茜も続きをやりがってるみたいだし。」
「ん? 私は別に平気だよ。保健室、一緒に行くよ。」
爽やかにそう言う茜を前に、私はかたくなに拒否を続けた。
「別に、足とかじゃないから大丈夫です。じゃ、じゃあ、ちょっと行ってきまーす。」
私はそれだけ言い残し、そそくさと体育館を後にした。
ふぅ。やれやれ。私は体育館の外に出るや、わざとのろのろ歩き始めた。なるべくゆっくり保健室に行って、手当てをしてもらいながら保健室でだらだらして、体育館に戻ってみれば授業はもう終わるところだった、というのが私の狙いだ。作戦を実行するにあたり、茜が一緒では都合が悪い。保健の先生が居ようが居まいが、十五秒くらいで湿布を貼って、私を無理矢理体育館に引きずって行くことだろう。それでは、突き指をしたアドバンテージが失われてしまう。せっかく負傷したのだから、この好機を最大限に活用したかった。
体育館ではバスケの試合が続けられ、教室では地理やら現代文やらの授業が厳かに進めれる中、私はカタツムリみたいな歩みでもって、いや、カタツムリは歩かないか、カタツムリみたいにゆっくりと、保健室に向かった。午後の生ぬるい日差しが、廊下の窓越しに差し込んでいた。
保健室の前まで来て、遠慮がちに小さく二回、ノックをしてみる。
・・・返事がない。
「失礼しまーす・・・。」
そっと扉を開けて、のぞき込みながら入ると、中には誰もいなかった。ほのかに消毒薬の匂いが漂っていて、懐かしいというかなんというか、ノスタルジーな気分が湧き起こった。小学校の保健室も、こんな匂いがしたっけ。
保健の先生は留守みたいで、私は壁に貼られた、視力測定用のC文字が並ぶポスターを見ながら、この配列を覚えれば視力がよくなるかもと思ったり、人体の血管走行図なる、ちょっとグロテスクな絵を眺めたりしていた。
五分ほど待ったけれど誰も来ないものだから、私はその時、魔がさした。そうとしか言いようのない行動に出たのだ。家で一人のときは別として、学校でこんなことは絶対にしなかったのだけれど、授業時間中に保健室で一人、という特異なシチュエーションが、私を大胆にさせたみたいだった。
「・・・姫。達者で暮らせ。」
「ああ、影歳・・・!」
一人二役で、一人は野太い男の声、もう一人は可憐な女の声、のつもりだ。
「この戦、ワシはもう帰らんだろう。ここで散って果てるが家のため。運命なのじゃ。」
「運命などと、そのようなことを申すな・・・! あては、あては、影歳なくしていったいどのように生きればよいというのか・・・。」
「姫ならば、良縁も多くござろう。ワシのような者のことなど、早くお忘れめされよ。」
「いやじゃ! 忘れることなどできぬ! いつもあての側にいて、守ってくれたお前のことを忘れるなど、できるものか・・・。」
「姫・・・。」
「影歳・・・。」
姫は、影歳の分厚く冷たい甲冑に、熱い涙の流れるその頬を押し当て─。
「死ぬの? カゲトシ。」
「はぅっ!」
私は、心臓が口から飛び出しそうなくらい驚いて、振り向いた。
ベッドを囲むように垂らされたカーテンの隙間の奥から、こちらを見る女子がいる。声の主は、B組の東雲だった。
眠た気な目をして、鴉みたいなガラガラ声で喋るのだけれど、見た目は物凄くかわいい。ああ、東雲が黙っててくれればなぁ、という男子の嘆きが変格活用されてついた呼び名は、黙ってれば東雲。テレビに出ても不思議じゃないルックスの子だけれど、私はこの東雲という子がちょっと苦手だった。ちょっとどころか、とても、というか、とてつもなく、苦手だった。実際に話をしたことはなかったけれど、なんと言ったらいいか、東雲は素行不良なところがあって、近づきがたかったし、なるべく関わらないようにしていたのに・・・。
へら、と嗤いながら、東雲は言った。
「それで?」
「そ、それで、って何が?」
まだどきどきしている心臓の鼓動が、東雲に聞こえませんように、と願いながら私は冷静を装って言った。
「どーなったのよ、ヒメとカゲトシは。」
「な、何の・・・こと?」
「あんた今、一人芝居に興じてたじゃねーの。私を気にせず続きをしたら、ってこと。」
「み、見てたの?」
「達者で暮らせ、の辺りから。」
ほとんど丸々見られてるじゃあないか。私は自分の顔が赤面するのを、為す術もなく感じていた。恥ずかしさをごまかすように、私は小さな声で言った。
「隠れて見てるなんて、ひどい・・・。」
「ひどくはなーわよ。私は隠れてなんかいないもの。気持ちよく寝てたら、あんたがいきなり『ヒメとカゲトシ今生の別れ』を始めるもんだから、目が醒めちゃったのよ。ひどいと言うなら、あんたの方がひどい。」
「そ、そんな・・・。」
「声の作りからして、カゲトシは年上の男、だよね。何? あんた枯れ専?」
「か、枯れ・・! 違・・・!」
「私の」は枯れ専とは違う。年上やおじさんだからいいというわけじゃない。「強そうな」おじさんがいいのだ。貧弱なおじさんにはお帰り願いたいのだ。
「か、枯れ専じゃないよ・・・。」
「ふぅん。そ。まぁ、あんたが枯れ専だろうが何だろうが、どうだっていいけどさ。」
ぼふっ、と音をたてながら、東雲はベッドに寝転がってしまう。
カーテンで光が遮られて最初はよく見えなかったけれど、目が慣れて見ると、東雲は制服のブラウスを脱ぐのか着るのか、第二ボタンが第三ボタン用の穴に掛け違えられていて、ひどくだらしない。ちらちらと隙間から見えるブラを気にしながら、私はそのことを言おうか言うまいか、迷っていた。
「何?」
東雲は寝転んだまま、私の方をじろ、と見た。
「い、いや、えーと、東雲、さんはどうして保健室に? 具合でも悪いの?」
「具合? 悪いといえば悪い。」
「風邪?」
「違う。寝不足。」
寝不足は具合が悪いの範疇に入るのだろうか。
「寝不足・・・。それで保健室に来るなんて・・・。」
その大胆さが羨ましい。
「寝不足を理由に保健室で寝るなんて不真面目だー、とか言うんじゃないよね。」
「い、いや、そうじゃなくて、不真面目とかじゃなくて、羨ましいというか、何というか・・。」
「おやぁ? ふふふ。だったら。」
ぽん、とベッドを叩きながら、東雲がにやりと笑った。
「もう一人くらい、余裕で寝られるよ。一緒に寝ようぜ、桜野原ぁ。」
「いや、寝ないよ、いくらなんでも、って、私の名前、知ってるの?」
「知ってるよ。A組の桜野原でしょ。猫背のだらしねー女だなぁ、って、思いながら見てた。」
「うぐ・・・。わ、私って、そんなに猫背かな・・・。」
「うん。」
「だらしない・・?」
「ああ。食堂で食べてるの見かけるけど、ぽろぽろこぼすし、ご飯粒くっつけたまま行っちゃうし、それはもうひどい。」
私って、そんなにひどく見えるのか・・・。ショックだった。
「け、けど、東雲さんだって、ほら、ボタン、掛け違えてるし。」
「ボタン・・・? ああ、ホントだ。いいよ、別に、テキトー、テキトー。」
「適当って・・・。」
「こんなの、中が見えなければいいのよ。」
「いや、見えてるんですけど、ブラ・・。」
「ぉお? あらら。」
開いた胸元に気づいた東雲は、ボタンを掛け直すものとばかり思っていたけれど、完全に予想外の行動を取った。ブラウスの開いた部分を強引に掻き合わせて、それでよし、としてしまったのだ。
「それじゃ、すぐまた見えちゃうよ。」
「大丈夫よ。減るもんじゃないから。」
「増えるとか、減るとか、そういう問題じゃなくて・・・。」
「親じゃあるまいし、堅いこと言わないでよね。ああ、親はそんなこと言わないか。」
「え? 言うでしょ、普通。」
「そう?」
「うん。」
「ふーん。ま、どうでもいいし。・・・寝る。一緒に寝る気がないなら、邪魔しないでよね、桜野原。」
東雲は急に機嫌が悪くなったと思ったら、薄いタオルケットを頭からかぶってしまった。明らかに、これ以上話しかけられたくないという格好だったけれど、私はどうしても気になったものだから、東雲に聞いてみた。
「・・・寝不足って、何で?」
夜通し何かをやっていたから、寝不足になる。東雲は、寝不足になるほど、いったい何をやっていたのだろう。
けれど、東雲は答える代わりにタオルケットからにょきっ、と腕だけ出して、しっ、しっ、と手を振り私を追い払う仕草をした。
あとはもう、何を聞いても答えなんて出てきそうになかったから、私は薬箱の中から湿布を探し出して、突き指した辺りを不器用に包むと、静かになってしまった東雲を置いて、体育館に戻った。
体育館ではちょうど授業が終わって、みんなが三々五々、教室に戻るところだった。茜が心配そうな顔でやってきた。
「さくら。遅かったね。傷、ひどいの?」
ごてごてと無駄に湿布の貼られた私の指を、茜は心配そうにのぞき込む。
「ううん。たいしたことない。だいじょぶよ。」
「・・・そう。あ、そいじゃあ、帰りに荷物持ってあげる。」
「ええ? いいよ、別に。そこまでひどい怪我じゃないんだし。」
「いいから、いいから。荷物持ってあげるというか、荷物を私に持たせて。そうでもしないと、償えないから。」
「償えないって、大げさな・・・。」
「バランスの問題よ。自分のやっちゃったことには、納得できる償いが必要なのよ。罪と罰の均衡よ。」
「罪と罰ねぇ・・・。」
そこまで大げさに捉えられても困ってしまうのだけれど、茜も、何かしないと申し訳なさで一杯になってしまうのだろう。私はうなずいて言った。
「じゃ、お願いするわ。それと、アイスもつけてよね。」
「あ・・うん。い、いいよ。けど、高いのはなしね。おこずかいが・・・。」
「分かってるって。」
茜と二人で、真ん中でポキッて折るアイスを買い、食べながら帰った。もちろん、尻尾のついてる方を私が食べて、突き指のことはそれでちゃらになった。
茜と別れて駅で降りると、初夏の生暖かい風に乗って、熟れた果物みたいな空気がむっと鼻孔をくすぐった。改札を出て今日の晩ご飯を何にしようか考えているとこに、お父さんからメールが来た。今日はちょっと遅くなるから先に食べてなさいと伝えられたのをいいことに、レトルトのカレーだけ買って帰った。カレーを温めて、よそった残り物のご飯にかければカレー丼の完成だ。居間にあるテレビとレコーダーの電源をオンにしてソファーに座り、アメリカ人顔負けのテレビディナーを始めようとしたとき、なわぁーん、という甘えた猫の声が足下からした。
飼い猫、黒色、雄、七歳のブラックローズが、足にすりすりしてくる。ブラックローズという、ちょっと人前で呼ぶに恥ずかしい名前は、お父さんがつけた。長いし恥ずかしいし呼びにくいものだから、私は短くクロ、と呼んでいる。かわいいと思うなかれ、クロはあざとくも、お腹が空いた時にだけこうしてすり寄ってくる。空腹が満たされればあとは、つんとすまして完全に私を無視する、なかなか憎らしい野郎猫だ。
「分かった、分かった。ちょっと待ってよ。」
私はカレー丼を一旦テーブルに置くと、猫缶を開けて、お皿に盛ってあげた。まだ盛り終わってないのに、私の手が邪魔と言わんばかりに頭を突っ込んできて、クロはムシャムシャと食べ始めた。餌がもらえた以上、後は用済みとでもいうように、私にお尻を向けたまま、クロは一心不乱に食べている。
「まったく、お礼のひとこともないんだから。ご主人様の夕食に割り込んで、自分の分を用意させたのにね。」
カレー丼に取りかかる前に、私は制服のブラウスにカレーをこぼさないよう、ボタンを全部はずして前を全開にした。これなら、下に着ているキャミにカレーがこぼれるだけで済む。
「これでよし。さてさて・・。」
録画しておいた関ヶ原特集を再生し、カレーを食べながら見ること一時間。番組後半、小早川秀秋離反のクライマックスに差し掛かる。
「ただいまー。」
(松尾山上に布陣した小早川秀秋は、ついに西軍、大谷吉継方へと襲い掛かった。)
「・・・。」
「ただいま、さくら。」
(山上からの急襲、不意をつかれた大谷勢は寡兵ながらも激しく抵抗。)
「・・・・・。」
(しばらくは小早川勢の攻撃をしのぐが、連鎖的に広がった西軍諸将の離反を前に、為す術もなく─。)
「ただいまって。」
「わぁ!」
お父さんが目の前に、ぬっ、と顔を近づけたものだから、私は危うく手にした丼を取り落としそうになった。
わずかに入った白髪のせいで、実際の歳より上に見られるらしいけれど、我が親ながら、眼鏡だけは、似合っている。桜野原茂、父だ。バレンタインには、やれやれ、困っちゃうなー、とか、全然困ってるようには見えない顔して会社でもらった大量の義理チョコを広げつつ、中には本命なんじゃね? というものも混じっているのだけれどそれはさておき、私からのチョコレートをそわそわしながら待つような人で、まぁ、悪い人間じゃない。
「カレー?」
お父さんが私の手元を見ながら言った。
「うん。カレー丼。」
私は、お父さんの顔で遮られたテレビ画面を見る為に、身体を横に倒さなければならなかった。
「カレー丼とカレーライスってさぁ。」
お父さんが、ネクタイを緩めながら唐突に言った。
「いったい、何が違うんだ?」
私は、総崩れとなった西軍の中、東軍への中央突破を図る島津義弘の活躍を見たいのだ。お父さんのくだらない疑問にかまっている暇はなかった。
「・・・・。」
「だって、どっちもご飯の上に、カレーが載ってるわけだろ。盛ってる器を指すなら、カレーライスじゃなくてカレー皿って呼ばなくちゃいけないわけだし、ライスの上に載ってるって意味では、カレー丼もカレーライスじゃないか。」
「・・・・・・。」
「そこでだ。さくら、どうしてお前は、丼でカレーを食べてるんだ。それはカレー丼か? カレーライスか?」
「どっちだっていいでしょ! もー、今いいところなんだから、邪魔しないでよ。」
「お帰り、も言ってくれないなんて、お父さん寂しいよ。一人娘のためと思って、汗水たらして働いてるのに、帰れば娘は義弘に夢中なんて、このやり場のない虚しさを、お父さん、いったいどこにぶつければいいんだ。」
「分かったわよぅ。もー。」
私は再生を一旦停止して、わがままを言うお父さんに言った。
「お帰り。お疲れさま。」
「うん、ただいま。お父さんのカレーもある?」
「あるよ。キッチン。」
「お、ありがと。じゃあ、お父さんは、カレー皿を食べようかな。カレー皿を。」
私は、お父さんが得意気に連呼するカレー皿というのを無視して、番組を再開した。カレーを温めながら、調子外れの鼻歌を歌うお父さんが、キッチンから声をかけてくる。
「さくら、林檎食べる?」
「うん。」
「よし、剥いてやろう。」
お父さんはカレー「皿」と、林檎の盛られたガラス皿を持ってくると、テーブルに置いた。
「はい。食べな。」
「うん。」
林檎はご丁寧にも、うさぎちゃん型にカットされている。
お母さんが死んでしばらく経つけど、これがお父さんと私の、毎日繰り返される日常だった。お父さんは幸い仕事はできるらしく、我が家の立地や、並よりやや上らしい、茜の反応によると、マイホームがその経済力を示していた。
お父さんと二人きりで寂しいという感覚も、薄れて久しい。元からだいたいこんなものでしょと、達観できるようになるまで、そんなに時間はかからなかった。お父さんが留守のときは一人で羽を伸ばせるし、茜を呼んで遊ぶのも楽しい。勉強もスポーツもさして得意でなかったけれど、転校を勧められるほどひどい成績でもない。毎日の生活は変わらず、変化と呼べる変化といえば、クロの毛が家のあちこちに落ち始めることで感じる夏の訪れくらいなもので、今日の次は明日、明日の次は明後日が、平々凡々続いて行くのだろうと思っていた。壊れるとは思いもよらないひとつのリズムを、日常と呼んでさしつかえないのなら、これが私の日常だった。けれど、いつか必ず壊れるのが日常というものだ。それは緩やかに、壊れる、というより、変化、という形で訪れる場合もあるし、文字通り、お盆の上のグラスをひっくり返したような壊れ方をするときもある。私の場合はどうやら、後者だったらしい。それも、グラスはばらばらに割れたのに、中の水は一滴もこぼれていないというような、どう考えてもありえない壊れ方をしたのだった・・・。




