仇 回帰
ようやく解けかけた畦の根雪を眺めながら、繁藤は春の訪れが近いことを感じた。日の出る時間は一日ずつ長くなっている。冬の間雪に埋もれていた田は顔を出し、田起こしに精を出す村の者達には、晴れ晴れとした表情が見える。
あれから、佐絵馬はもう悪さをしないと言い残し、またしても姿を消してしまった。打ち取れなかったことを不覚と感じ、伊織にその旨、正直に打ち明けた時は切腹も辞さない繁藤であったが、現に、藩の機密漏洩事件はぴたりと止まった。成敗には至らなかったものの、繁藤が介入したことで狐が悪さをしなくなった。話を転じて、繁藤が物の怪を諭して改心させたものと、伊織はそういうかたちへ結論づけてくれた。
繁藤に不利とならないよう落着させてくれた礼を、伊織へあらためてしなければならないと思いながら、繁藤は幼子が失踪した村へと向かっていた。よもや、という予感があったのだ。
「繁藤様!」
畑仕事をしていた中年の女が、鍬を放り出して繁藤に駆け寄ってきた。
「お前は・・・。」
狐に子供がさらわれると聞いて、繁藤が仔細を尋ねていた母親の一人だ。末の女の子を失った悲しみに、落胆していた様子が嘘のように、今ははつらつとしている。
「ヨネが・・! 娘のヨネが帰ってきたんですよ!」
「そうか・・・。いつだ?」
「おとついの夜、家の戸を叩く者があって開けてみれば、ヨネが立ってたんですよ。今までどこに行ってたのか聞きましたら、山奥の屋敷へ連れて行かれたとか。」
「ヨネは、無事であったのか?」
「それがもうぴんぴんしてまして、美味しい米やら味噌やらを、たらふく食べさせてもらったと、そう申すんです。」
「・・・。誰に連れ去られたか、話しておったか?」
「ええ。何でも、きれいな女の人らしくて。裏山の林で山菜を摘んでいたら、その人に手招きされたって。そしたら、何だかふらふらと足が勝手に進み出したそうで、気づいたら、その屋敷に、と・・・。」
「そうだったか・・・。ヨネが戻ってよかったな。」
「ええ、ええ。繁藤様にもご心配いただいて・・!」
母親はそう言って、深々と頭を下げた。家の入り口から、まだあどけない女の子が顔だけ出してのぞいていた。
その後、繁藤が知る限り、子供の失踪していた家のことごとくで、子供達が帰っていた。子らは皆一様に、山奥の屋敷にいた、というのだが、それがどこにあるのか、連れ去ったのが何者なのか、はっきりと説明できる要素は何もない。
藩の屋敷へと帰る道すがら、繁藤は首をかしげながら、腑に落ちない思いでいた。やはり、佐絵馬が子供達をさらったのであろうか。しかし、そうであるならば、なぜ、喰った、などという嘘を・・・?
繁藤が屋敷に帰り、上がり框に腰掛けて足の泥を落としていると、通りがかった伊織が繁藤へ呼びかけた。
「繁藤、戻ったか。すぐ部屋へ来い。」
平静を保つ伊織だったが、いつもに比べて心なしか、早口だ。何かあったのかと繁藤は急いで伊織の部屋へと向かった。
「笹倉の件でな。」
伊織は、繁藤がやってくるとすぐに口を開いた。笹倉。佐絵馬に化かされ、切腹した上級藩士だ。
「あやつ、藩の公金を横領しておったのだ。」
「何ですって・・・!」
笹倉は確かに、藩の支出、会計を担当する役にあったから、横領、というのも不可能ではない。しかし、ばれれば死罪である。そんな危険を犯す笹倉の神経は、繁藤には理解しがたかった。
「そうでしたか・・・。しかし、露見すれば、即、死罪であったでしょう。よく、そのような大それたことを・・・。」
「うむ。それがどうもな、公金横領の罪を、おぬしになすりつけようとしていたふしがある。」
「え・・・!」
繁藤は絶句した。藩内での地位は低い繁藤だ。笹倉も周囲から嫌われていたとはいえ、藩財政の一翼を担う者としてそれなりの発言力はあった。その笹倉が、繁藤に横領の疑いあり、と言い出せば、それを覆すことは難しかっただろう。
「し、しかし、それがしには、そのような身の覚えなど一切ございませんし、笹倉様はどのように、その、罪をなすりつけようと・・・。」
「殿が国と江戸を行き来する際の諸々の出費がござろう。宿代、藩士達の食費、馬の餌代から川越えの人足代まで、相当な出費となるが、それらの一部を、おぬし名義で支払っていた形跡があるのだ。それも、実際の額から水増ししてな。」
「そ、そのようなこと、身に覚えはありません!」
「分かっておる。おぬしが代金を払ったわけではないこと、既に裏は取れておる。」
繁藤は、ほ、と胸を撫で下ろした。
「笹倉の奴、自らの私腹を肥やしておきながら、機を見て水増し出費の件を明かし、おぬしにその責があるとして、罪を逃れようとしておったのだ。」
繁藤はそれを聞いて、背筋に冷たいものが走った。笹倉が死んでいなければ、自分がこの腹を切っていたかも知れないのだ。横領という、不名誉な罪を押し付けられてだ。
「笹倉が化かされ、死んだことで後任の者がその不正に気づいたのだ。結果として、おぬしは狐に助けれたようなものだな。」
伊織は冗談めかして言うのだが、繁藤にはそれが、冗談とは思えなかった。佐絵馬が笹倉を化かさなければ、真相は明るみに出ることなく、繁藤は責任を取らされ、すみやかに切腹させられていたであろう。佐絵馬の命を狙っていた自分が、佐絵馬に助けられた。佐絵馬がどこまで考えてそうしたのか分からないが、失踪した子らが帰ってきたことといい、結局、佐絵馬の手の内で騙され、助けられた一連の出来事を繁藤は不思議に思った。
それから間もなくして、繁藤の縁談がまとまった。繁藤の母は夫を亡くし、息子がまだ嫁をもらっていないことをしきりと気にしていたため、縁談の話が持ち上がったときにはひどく喜んだ。相手は格式の高い武家の娘というところも気に入ったらしい。繁藤も家に帰るたび、早う妻をめとりなされ、という母の繰り言みたいな説教を聞かずにすむようになる、と断る理由もない。
滞りなく祝言も済み、床で待つ繁藤のところへ、新しく妻となった者が入ってきた。終始相手がうつむいていたものだから、繁藤はまだ顔をはっきりと見ていない。
「お入りしてよろしいでしょうか。」
消え入りそうな、小さい声だ。繁藤は自分の緊張を相手に悟られないよう、わざと低い声で言った。
「ああ・・・。」
する、と襖が開いて、正座に三つ指ついた格好で深々と頭を下げる。
「ふつつか者でございますが、どうぞよろしゅう・・・。」
「・・・?」
正面きって声を聞くと、どこか聞き覚えがある。
上げた嫁の顔を見て、繁藤は、はっ、と身を固くした。
「お前は、佐絵馬・・・!」
あろうことか、佐絵馬が自分のところへ嫁入りしてきたのだ。繁藤は枕元の緋奔へ手を掛ける。
「どういうつもりだ・・・。」
「どうもこうも、嫁入りさせていただきました。」
繁藤の剣幕とは対照的に、佐絵馬はひどく落ち着いた声で言った。
「何を企んでいる。」
「何も企んではおりません。」
繁藤は、佐絵馬の真意を探りかねた。じっ、と見つめる佐絵馬の瞳は凪ぎのように静かで、感情をうまく読み取れない。ただ、敵意はなかった。いっさいの殺気も感じない。
繁藤は刀から手を放すと、腕組みをして佐絵馬へ言った。
「なぜまた姿を現した。またお前の命を狙うかも知れんのだぞ。」
「それはないじゃろ。」
佐絵馬はかしこまった雰囲気を崩すと、いつもの口調でそう言った。
「何・・・?」
「機密の漏洩もなくなった。子らも帰ってきた。既にことは落着しとる。うちを斬る理由を、ぬしは失ったんじゃ。」
「ぬ・・・。」
佐絵馬の言うことはもっともだった。もはや、繁藤に佐絵馬を斬る理由はない。
「・・・なぜ、子を喰う、などという嘘をついた。いなくなった子らは、皆無事に帰ってきている。」
「・・・子供に興味があってな。だから、さらって手元に置いてみた。皆かわいげな子らじゃったが、しばらくすると帰りたがったんでな。返した。」
「であれば、嘘をつく必要もないだろう。」
「うちがさらった子らに、危害を加えていないと言ったところで、ぬしはうちを信じたか? 相手は狐じゃぞ。」
「・・・・。」
確かに、佐絵馬がそう言ったところで、繁藤は信じなかっただろう。
「・・・・分からん。お前が何を考えているのか、まったく分からん。」
「覚えておるか? 繁藤はん。」
「・・・?」
佐絵馬はちょっとうつむいて言った。
「昔、うちが女童に化けて遊んでたとき、うっかり足を怪我してな。そのとき、山のふもとまでおぶってくれたじゃろ。」
佐絵馬かどうかなど知らないが、そんなことが確かにあった。ひどくみすぼらしい格好をしている女の子が、河原で泣きべそをかいていた。格好が格好だけに、道行く者は皆関わりあいを避けていたが、通りがかった繁藤は、家の近くまでおぶってやったのだ。三年ほど前のことであろうか。
「もし、うちがもっとええ格好をしていたら、他のもんらの態度も変わったのじゃろうが、格好ひとつで相手を助けたり助けなんだり。つくづくうちは、この世の世知辛さが嫌になったんじゃ。廓でもそうじゃ。あそこは虚飾の箱庭じゃ。なんもかんもがうわべだけ、外面だけで、真実ちゅうもんがない。金と見栄でごてごてとつくろった、いびつな土の楼閣じゃ。そんなとき、繁藤はん、ぬしが手を差し伸べてくれたんじゃ。」
繁藤は、女の子に声を掛けたときのことを思い返していた。泣き濡れた頬をして、何より、声を掛けられたことにひどく驚いた表情が印象的だった。誰も助けてはくれないと分かっていたから、泣いても無駄だ。足を引きずってでも帰らなければならない。そう考えていたところへ気遣われた驚きが、そのまま顔に出ていたのだ。
「嬉しかったわ。ぬしの背中の温もりは、今でも忘れん。」
「・・・笹倉様の一件、俺に罪がなすりつけられるのを防ぐためか。」
「あないな腐れ狸に繁藤はんがおとしめられるの、見てられんもん。あいつ、そもそも自分で口を割ったんじゃ。繁藤いう若造に罪をかぶってもらうて、嗤いながら言うんじゃ。だから、眠らせて身ぐるみはいで、道端に放った。」
「・・・・礼は言わんが、お前に悪意がないのは分かった。しかし・・・。」
繁藤は佐絵馬をまじまじと見つめた。自分に害意はなかったと言うためだけに、嫁入りのふりまでして忍んで来たというのだろうか。
「わざわざ、それを言うためだけにこんなところまで来たというか。要が済んだのなら、もう去れ。」
去れ、と言われ、佐絵馬は寂しそうにうつむいた。
「・・・もうここ以外に帰る場所なぞない。身投げしたゆうことにしてきた。」
「何・・・?」
「うちに似せた作りもんの身体に着物着せて、お堀に投げ込んだんじゃ。腑分けでもせん限り、うちと区別はつかん。今頃、大騒ぎになってるじゃろ。」
「・・・・・。」
「それとな、うち、お國と入れ替わったんじゃ。」
お國。政吉と駆け落ちした武家の娘だが、そこへ佐絵馬がお國として後釜についたのだ。容姿をごまかすことなど、佐絵馬にとっては容易だった。お國の両親は、何も言わずにいなくなった娘が、ふい、と帰ってきたものだから、ひどく喜んだ。おまけに、嫁ぎ先も決めたというものだから、一も二もなくこの結婚に賛成したのだった。
「なぁ、繁藤はん、うちと一緒になってくれんか。」
身を寄せる佐絵馬の目がうるんでいた。白雪のような頬へわずかに赤みがさし、あまりの美しさに、繁藤はたじろいだ。
追い払うべきだ。そう考えながらも、繁藤にはどうしても、それを言葉にして言うことができない。苦い表情を浮かべて黙っていた繁藤だが、不意に、床へもぐりこんで頭から布団をかぶってしまうと、
「勝手にせい。」
ぼそりと、そうつぶやいたのだった。
「さーくーらーちゃん。ガッコ行こ。」
大きな声で玄関先から呼ばわるのは、佐恋だ。
小学生か、と心の内でつっこみながら、さくらは急いで階段を降りた。
「おーい、さくら、佐恋ちゃん、来てるよ。」
キッチンから茂が言うのにさくらは応えた。
「分かってるー。」
ひょい、と顔をのぞかせながら、茂は言った。
「さくら。最近、侍なりきりごっこはしないんだな。」
「え?」
ぎくり、と制服のブレザーを着る手をさくらは止めた。
「な、なんのこと?」
「一時期、侍みたいな口振りで喋ってたじゃないか。何だか立ち居振る舞いまできびきびとしてたけど、もう飽きた? お父さん、あれ結構好きだったんだけどなぁ。」
「べ、別に、なりきりごっこなんてしてないよ。お父さんが勝手に勘違いしただけでしょ。」
「ええ? そうなの?」
にゃむ、とか言いながら、クロがさくらの足下にまとわりついてくる。
「分かった、分かった。お父さん、クロにご飯あげといてくれる。」
「ああ。おいで、ブラックローズ。美味しいご飯をあげよう。」
茂は、断固としてクロのことを本名のブラックローズと呼ぶ。恥ずかしいからやめてくれとさくらに言われても、そこだけは譲らなかった。クロは、呼び方なんてどうでもいいという顔で愛想を振り撒きながら、キッチンに駆け込んで行った。
「いってらっしゃい。今度、茜ちゃんと一緒に、佐恋ちゃんも家に呼んであげなよ。」
エプロンで手を拭きながら、茂が行った。
「うん。いってきます。」
玄関のドアを開けると、佐恋が立っていた。眠たげな顔を茂に向けると、へこ、と頭を下げる。ブレザーの下から、ブラウスのすそがちょっとはみ出している。
肩を並べて歩き始めたさくらへ、佐恋は言った。
「もう慣れた?」
「ん?」
「身体よ。ちょっと違和感があるって言ってたじゃん。猫から人間にいきなり戻ったんだから、そりゃ違和感もあるだろーけど。」
「うん。もうすっかり元通りだよ。運動神経の悪さまでね。」
しなやかで敏捷な動きのできていたクロの身体を使っていたときと違って、この二足歩行というやつはどうにも不安定で、動きづらい。
「なんかスポーツでもやればいいじゃん。」
「スポーツっていっても・・・。バスケをやれば突き指するし、走れば転ぶし、あんな危険と隣り合わせの活動、しないに越したことはないよ。」
「危険なのは、さくらだから、でしょーに。」
「そうなんだけどさ。」
さくらは佐恋の横顔を見ながら、なんだか今日はやけに機嫌がいい、と思った。
「何? 何かついてる?」
「ついてるわけじゃないけど、珍しく、機嫌いいと思って。」
「機嫌? 別に普通よ、普通。」
そう言う佐恋だったが、やはり機嫌がいい。
「何かあったの? いいこと。」
「いいことっていうか・・。たいしたことじゃないんだけど。」
佐恋にしては珍しく、口ごもる。いいこと、には違いないのだろうけれど、言い難いことなのか。
しばらく沈黙した後、佐恋は、ぽつり、ぽつりと話しだした。
「うちの姉さ、私がちっちゃい頃に、水の事故で死んじゃったのよね。」
「・・え?」
内容は重いのだが、佐恋の淡々とした口調から、湿っぽさは感じられなかった。
「んで、川に流された私だけが助かったんだけど、まぁ、その頃はさ、自分だけが助かった、っていう考えはあんまりなくて、お姉ちゃんが急にいなくなって寂しいって。そう思うだけだったんだけど。しばらく前に、両親が話しているのを立ち聞きしちゃったのよ。」
「立ち聞き・・?」
「そう。最悪よ。最悪の内容よ。私じゃなくて、お姉ちゃんが助かればよかったって、そう話してたの。」
「そんな・・・。」
「お姉ちゃんは、私より勉強も運動もできて、明るい性格でさ。すべてにおいて、私よりもうまくできたわ。すべてのステージが、私より上って感じだったのよ。だから、それ聞いた時もさ、ああ、やっぱりって。やっぱり、お父さんもお母さんも、私より、お姉ちゃんの方が大事だったんだって、そう思ったわ。」
「・・・・。」
「ショックだったけど、でもなんとなく想像はついてたから。両親がそういう風に考えているって。私に対する距離の置き方からしてね。でも。」
佐恋は、そこでちょっと言葉を区切ってから続けた。
「一昨日の夜、母親とすっごい喧嘩してさ。夜、帰りが遅いから、もっと早く帰って来いっていうのよ。だから、私、言い返したわ。お姉ちゃんならまだしも、別に私が帰ってこなくてもいいんでしょって。立ち聞きした内容、全部話したのよ。私はいらない子だってこと。お姉ちゃんの方が、助かればよかったって、思ってるんでしょってさ。そしたら、お母さん、本気で怒ってさ。そんなこと、言うわけないって。それは私の聞き違いだって。お姉ちゃんが助かったらよかった、じゃなくて、お姉ちゃん「も」助かったらよかった、だって。馬鹿みたいな話よ。勝手に聞き耳立てて、勝手に勘違いして、勝手に一人ですねてたのよ。ありもしない事実を元に、すね続けた自分がショックだったわ。でも、気持ちに折り合いつけたら、ちょっと楽になってね。たぶん、機嫌がよく見えるのは、そのせい。」
「・・・そうだったんだ。」
「って、あはは。朝から重い話でごめん。」
佐恋はそう言って、ばん、とさくらの背中をぶったたいた。
前につんのめりながらも、さくらは嬉しかった。佐恋に根深く息づいていた暗い闇のようなものが、何となく薄らいでいた。
「・・じゃあ、夜はもうちょっと早く帰ってあげないとね。心配してるよ、お父さんも、お母さんも。」
「まぁね・・・。」
「でも、夜遅いって、また千入のこと、つけまわしてるの?」
「そうよ、それ。」
佐恋は、にっ、と嬉しそうに笑いながら、さくらに顔を寄せた。
「あいつ、ヴァレンティナに追われてるわけだからさ、なかなかエンカウントできないんだけど、相変わらず、例のクラブ、サン・デストロを拠点のひとつにしてるみたいなのよ。」
「エンカウントって、ゲームのモンスターか。」
「モンスターっちゃ、モンスターでしょ。ヴァンパイアなんだから。本物のヴァンパイアよ。気の弱いところがちょっとイメージ的にアレなんだけど、レア中のレアな存在なわけだし、こんな面白いこと、放っておけないわ。」
「ヴァンパイアねぇ。でも、人を襲ったりしないの? 吸うんでしょ、血。」
「どうも、吸ってるとこ見たことないのよね。何か、チューブに入った赤い液体を飲んでるの、一度だけ見かけたけど。」
「チューブ?」
「そう。何てゆーか、あれ、輸血パック、みたいな。」
「ゆ、輸血パック・・。まさか、献血された血液をそのまま飲んでるのかな。」
「かもねー。裏ルートがあるのかも知れない。血液型で味が変わるのかも訊いてみたいんだけどさ。どうも、千入の居所が定まらないのよ。あっちに行ったり、こっちに出たりでさ。」
「ヴァレンティナに追われてるんでしょ。一箇所にいたら、見つかるからじゃない。」
「それはそうだけど、会いに行くこっちの身にもなってほしいわけよ。」
そんな余裕、千入にはなさそうだけれど、とさくらは思った。シゲトー達が元の時代へ帰った後、千入は血相を変えて逃げて行った。彼にとっては幸い、ヴァレンティナよりも早く気絶から目覚めたのだ。
ヴァレンティナ・ドナゼッティ。霜北沢の教会を足がかりに、吸血鬼を退治しにイタリアから来たのだとか。海外にある教会の総本山による、正式の承認を得ているらしく、本気で吸血鬼退治にやって来たものの、お國に身体を乗っ取られたといって、ひどく憤慨していた。年恰好はさくらよりも若く見えるのだが、実際は四つも年上だった。言ってることのどこからどこまでが本当なのか、それを事実として確かめようがないさくらと佐恋だったが、千入というヴァンパイアを殺す気でいるのだけは分かった。彼女は本気だった。さくらと佐恋を置いて、ヴァレンティナもまた、千入を追って明け方の街へと消えて行ったのである。
「ふーん・・。私も行ってみようかな・・・。」
「お? 一緒に行く、さくら?」
「うん。」
「だったら助かるよ。千入の居場所、探すのもひと苦労だからね。GPSでもつけてりゃいいのに、あいつ、いっつも携帯の電源オフってるから。追尾する手段が人づてのみって、いったいいつの時代って感じよ。こういうときは、人手がものを言うからね。」
そう言う佐恋の表情は、生き生きとしていた。
クロの身体を使っていたときの名残で、さくらはついゴロゴロと喉を鳴らしてみようとしたけれど、うまくいかなかった。二本の足で歩きながら、つくづく、元の身体に戻ったのだとさくらは実感した。クロの言葉はもう分からなくなっていたし、自分の身体を好き勝手されたものの、シゲトーがいなくなった寂しさは、ちょっとこたえた。まるで、自分の中にあった別の人格が、ぽっかりといなくなってしまったようで、心の中に空白がある気分なのだ。
ヴァンパイア、千入の追っかけは、そんな寂しさを紛らわせてくれると、さくらはそう思った。
「あー、さて、今日も力を蓄えるために、保健室で一寝入りとしますかね。」
大きく伸びをしながら、佐恋が言った。
「また? せっかく仲直りしたのに、お母さん、心配するんじゃない?」
「冗談よ、冗談。最近、保健室行ってないのよ。ちゃんと授業受けてるわ。すごいでしょ。」
「すごくない。それが普通よ。」
普通、という自分の言葉が、さくらの耳に響いた。自分の身体を自分が思い通りに動かせるという、これ以上ない、あたり前のことを、さくらは今さらながら、噛み締めるように実感していた。
初秋の空が澄み渡って蒼かった。今夜もよく晴れるだろうと、さくらは思った。




