序
落日に続く夜の帳がはや下りつつ、逢魔が刻、暮れ六つの鐘を遠く聞きながら、繁藤国重は足早に道を歩いていた。菅笠を目深にかぶり、その顔は陰の中に深く沈んでいるのだが、固く「へ」の字に結ばれた口が、強い意志を顕示するかのようにのぞいている。
元和六年(一六二〇年)、江戸郊外、葉羅宿近くの間道を抜けるに他の者はなく、幕府開闢より十七年、戦時に比べ治安は安定してきたといえども、薄暗い夜道に油断はできなかった。野盗、追い剥ぎの類いにとって、人気のない林の暗闇を単独で歩く者など、鴨葱も同然なものだから、それゆえ繁藤も腰の刀、緋奔の鯉口をすでに切るほど、警戒を強めている。だが、繁藤の警戒する相手は強盗ばかりではない。否、人ですらない。西の方角、かすかに残る紺碧の空を見つめながら、繁藤は、藩の重臣、伊織貞元に呼び出された時のことを思い返していた。
その日、繁藤はわずかに困惑しながら藩邸内、伊織の自室へと向かっていた。あたりはすでに暗い。父、繁藤国晴は、かつて伊織の腹心であり、それが縁で国重も伊織には幼い頃から可愛がられてきたものの、役職上の事柄で直接呼び出しがかかるほど、藩内の序列が近いわけではない。常にないこととて緊張し、また、用件に皆目見当がつかない点も、繁藤の足を早めさせた。
「繁藤国重にございます。」
伊織の部屋の前で、緊張を抑え込みながら名乗る。
「入れ。」
低いがよく通る声に言われるまま、繁藤は中に入って平伏した。書状でもしたためているのか、伊織はいっこう、無言のままである。紙の上を毛筆が滑るかすかな音と、行灯の灯芯が燃える音、それ以外に聞こえるものはなく、続く沈黙が繁藤の緊張を高めた。筆を文机の上に置く気配がし、
「国重。」
と、伊織は言った。繁藤が顔を上げると、伊織の左頬にある大きな傷痕が目に入った。伊織貞元、関ヶ原では顔面に矢を受けながらも、突撃を繰り返した猛将である。左頬の傷痕はその時のものであり、伊織の威圧感を増す象徴ともなっていたが、顔相における本質は、傷痕などではなく、その目にあった。一重の瞼からのぞく目は静かな湖面を連想させるのだが、ひた、と向けられたが最後、押し迫るようなプレッシャーを放つ。今もまた、その双眸で繁藤を見つめ、見つめられた繁藤は視線を伏せながら、次の言葉を待った。生唾を飲み込みたい衝動に駆られたが、必死にこらえる。伊織は、ふと表情を緩めて言った。
「父は残念であったな。」
繁藤の父、国晴はこの年始めに他界している。声に優しさのこもるその響きは、かつての猛将、謹直な上司のそれではなく、甥を思いやる叔父から発せられたような、いたわりを持っていた。
「は。長らく病床に伏せておりましたゆえ、身体は衰弱しきっておりましたが、気持ちだけはかくしゃくとして最期を迎えました。」
「ふふ。あやつらしいわ。馬首揃えて野を駆けたが、負けず嫌いでな。どちらが速いかでいつも揉め、はばかりながら、拙者の勝ちでござる、などと遠慮もなくわしに向かって言いおる。不思議と気は合った。」
伊織はかつての戦場に思いを馳せたのか、遠い目をした後、再び繁藤を見つめた。
「おぬしは達者なようだな、国重。」
「は。」
繁藤が一言、そう答えるなり再び沈黙が下りた。おかしい、と繁藤は思った。伊織は元々多弁ではなく、どちらかといって無口なのである。実戦経験の豊富な武将らしく、常ならば、真っ先に結論を言う。それが今夜はどういうわけか、その結論が出てこない。まさか世間話をするために、わざわざ自分を呼び出したわけでもないだろう。よほど、口に出すことがためらわれる用件でもあるのだろうか。繁藤は、この呼び出しの真意を受け止める心の体勢を崩さないまま、待った。おもむろに、伊織が口を開く。
「国重、おぬしに狐を退治てもらいたい。」
「・・・・・。」
繁藤に耳には、伊織が「狐」と口にしたように思われた。いや、確かに狐と、伊織様は仰られたか。あまり唐突なことを言われ、繁藤はしばし返事をするのも忘れて、伊織の顔を見つめてしまった。完全に予測の範囲外である。あるいは、自らも気づかぬ職務上の不手際を糾弾されるものかと身構えていたものが、狐退治とはどういうことか。ようやく気を取り直し、聞き返す。
「狐、でございますか。」
「うむ。」
伊織が自分をからかっているのかと、繁藤は一瞬考えもしたが、すぐにその考えを否定し、さらには伊織を疑った自分を恥じた。伊織は自分に対し、叔父のような気さくさを見せることもあるが、狐退治をせよ、などと、部屋まで呼び出し冗談で言うことほど、ありえないものもなかった。伊織はあくまで本気なのである。仔細を聞きたがる繁藤の心を見透かすように、伊織は続けた。
「笹倉のことは知っておるな。」
勘定奉行、笹倉重孝。知っているも何も、家中の者が二人以上集まれば、笹倉の噂話が始まるほどで、今や時の人である。
どういう経緯か、往来のど真ん中で笹倉が仰臥し寝入っているところを、物見高い町人達が囲んだ。武士が昼間から通りで寝ていること自体、異常である。しかも、格好がまた尋常ではない。素裸であった。褌すら着けない、裸の状態で大の字になり眠っていた笹倉は、目を醒まして状況に気づくや周章狼狽、転げるように路地裏へ逃げ込んだ。一世の大恥と、その夜、屋敷で自刃したまでが事の顛末である。横柄で不遜な人柄であったから、嫌う者も多かったが、藩の人間が白昼、裸で眠り込み、それを恥じて割腹など一大事である。笹倉はそもそも、なぜ往来で裸の仰臥に至ったか。当然、その経緯が調査されたが、何も判明することのないまま、十日が過ぎようとしている。
「は。存じております。家中でも噂に上らぬ日はないほどにございます。それと、狐がどのような・・・。」
繁藤はそこまで言いかけて、まさか、と伊織を見つめた。狐狸妖怪の類いに悪さをされた、など町衆の好みそうな芝居の筋書きではあるが、それはあくまで物語である。笹倉が、狐に化かされ裸のまま、往来に置き去りにされたとでも言うのであろうか。どう言葉を続ければいいものか、口を半分開いたまま思案する繁藤に向かって、伊織はうなずきながら言った。
「にわかには信じられぬであろう。わしも最初に狐の話を聞いたとき、何を馬鹿なと一笑に付したわ。だが、話の出所が里の者からだと分かると、笑ってもおられん。」
「里の者が、そのようなことを言ったのでございますか。」
里の者、とは藩内の隠語であり、敵情の調査、潜入、煽動、かく乱から暗殺まで、特殊な任を帯びる集団を指す。いわゆる、忍びの者達であった。彼らからの情報は、出所の分からない噂話などより、よほど信憑性が高い。里の者が狐云々の話を持ち出す以上、興味を煽る面白半分の井戸端話とは、毛色が異なってくる。伊織は続けた。
「郭に潜っている里者の一人が、事の起こる前日、笹倉の姿を見ておる。夜半まで笹倉は遊びに興じたようだが、その後の詳しい足取りはつかめておらん。夜が明けてみれば、往来、裸で仰臥しておったわけだが、前夜、笹倉と共におったのが、佐絵馬という遊女だ。」
「佐絵馬・・・。噂には聞き及んでおりますが、なんでも傾城の美女であるとか。」
「うむ。」
「その佐絵馬が、笹倉様をたばかったと・・・?」
「そこまでは分からぬ。だが、笹倉の悲鳴と共に、里の者は確かに見たと言っておる。郭の外塀に映る、狐の影をだ。」
狐の影を・・・。繁藤は頭の中でそう呟いてから、一気に言った。
「・・・里の者が見たと言うからには、夜目のきく彼らのこと、確かに見たのでしょう。しかし、それと笹倉様の件を結びつけ、狐の仕業とはいささか短絡ではございませんか。」
繁藤は言い切ってしまってから、はっ、と息を飲んだ。いくら幼少の頃から可愛がられてきたとは言え、数段上の上役に対して使う言葉ではない。血の気が引く思いでいる繁藤だが、その考えを読み切り、なお面白がるようにして、伊織の目が笑っている。
「ふふ。その物の言い方、おぬしの父にそっくりだわ。」
「面目もございません。伊織様に対してこのような言葉遣い、どうぞお許しを・・・!」
平に謝る繁藤を遮るように、伊織は言った。
「よい。物の言い方など些事である。気にするでない。」
「はは。」
冷や汗で、繁藤の背が冷たくなっている。そんな繁藤を見ながら、むしろ楽しんでいる風すらある伊織は、話を続けた。
「おぬしの言う様に、里の者が狐の影を見たという、ただそれだけで狐の仕業とすれば短絡である。だが、佐絵馬にはとかく噂が絶えんのだ。障子越しに狐の姿を見た、狐火を引き連れて夜道を歩いていた、など序の口で、藩内の機密が漏れる、底なしの井戸とも言われておる。どんな術を使うのか知らぬが、彼奴の前では秘密を守り通せぬらしい。いつの頃からか、佐絵馬は狐であると、まことしやかに囁かれておる。」
「左様でございましたか。すると、里の者が郭に潜ったそもそもの目的とは、佐絵馬の動向を監視するため、となりましょうか。」
「その通りだ。そこでたまたま、笹倉の一件が起きた。機密の漏洩は甚だしく、家臣の割腹にまで至ったここにおいては、もはや捨て置けぬ。腕の立つおぬしの手で、秘密裏に始末をつけてもらいたい。」
伊織はそこまで言って、行灯の明かりをじっ、と見つめながら、黙った。
繁藤は思った。しかし、女郎に化けた狐とは。いくら里の者の報告であるとはいえ、世間の者はそうと信じないであろう。公然と狐を退治するなどとしても、もの笑いの種になるのは目に見えている。だから、秘密裏の始末というところはうなずける。だが、なぜ伊織様はこの自分に、それを命じるのか。里の者が追跡しているのである。そのまま、彼らに任せればよいのではないか。繁藤は畏まって言った。
「その命、しかと承りました。しかし、なぜこの私が。里の者達の方がより適任であるやにも思えますが。」
「色々と事情がある。里の者はわしの命令だけでは動かん。」
伊織は苦々(にがにが)しげに言った。藩上層部では、様々なかたちの権力闘争が、現在も進行していることを、繁藤は風の噂に聞いていた。馬上疾駆し、その勇名を轟かす時代は終わったのである。戦国時代生え抜きの伊織といえども、ままならないことがある。繁藤は、伊織の眉間に寄った皺を見ながら、時代は窮屈になりつつあるものかと、思わざるをえない。それはそれとして、こうしたいわば密命のような事柄を、自分を頼りとして任せてくれたのが繁藤には嬉しかった。
「この任、かならずや果たしてご覧に入れます。」
「うむ。頼んだぞ、国重。」
そう言う伊織の声が、亡き父の言葉のようにも聞こえた。繁藤は伊織の部屋を辞した。今から七日前のことである。
葉羅宿の間道からさらに脇道へそれ、急な階段へと続く鳥居の下に着いたとき、あたりは完全に暗くなっていた。提灯に火は入れていない。わざわざ、自分の存在を知らせることもない。
この数日、目明かし(※奉行所の非正規構成員)の協力を得ながら佐絵馬の動向を探り、繁藤は情報を集めていた。当初は藩の重要な秘密が狐を通して漏れている、という話であったが、様々な場所で事情を聞くにあたり、事態は凄惨な様相を帯び始めていた。
子がいなくなる、というのだ。郊外の村や宿場で、幼い子供がいなくなる事件が、ここのところ頻発していた。親はもとより、町の若い衆も動員して探すのだが、どう探しても見つからない。神隠しにあったものと嘆き、無念の内にあきらめる家族がいる中で、狐に連れ去られている、という噂がいつしか立った。妖狐が子供を喰らうのだと。狐が子をさらう様子を見たという者が、幾人も出始めたのだ。
繁藤は始め、二度と藩の機密漏洩に関わらないと約束するのであれば、狐を密かに逃がしてもよいのではないか。そんなことすら考えていたのだが、子殺しの一件を聞いて考えを改めた。やはり、化け狐は斬らねばならない。そのための刀も、伊織から拝領されていた。寄せる波のような形をもつ刃文、濤乱刃から先の刃の部分が、薄紅色を帯びて見えることから、緋奔、と銘が打たれている。繁藤の自腹ではとても手にできない見事な刀だ。妖狐を斬るという目的があるとはいえ、ほとんど、伊織の好意で与えられたものだった。
佐絵馬はすでに、遊郭から姿を消していた。その足取りは杳としてつかめなかったが、茶屋の隠居がひと月に数回、人目を避けるようにしてこの寂れた神社へと訪れる女人を目撃していた。目明かしの報告で、女人というのが佐絵馬で間違いなかろうということになり、今日が女人の訪れるその日である。
鳥居をくぐり、足音を立てないようにしながら、繁藤は素早く階段を登って行く。このように人気のない神社で、何をするつもりなのであろうか。藩の要人から聞き出した様々な情報を、それらを欲する何者かへ、密かに売ってでもいるのだろうか。
風でざわりと木々が揺れ、月が雲に隠れると、あたりの闇が一層深まる。佐絵馬が一人でいればよいのだが、情報の買い手や手下がいれば厄介だ。繁藤は若いながら、藩内でも屈指の手練であり、剣に素人の悪漢二人や三人を相手に切り結ぶ程度であれば、優位に立てる自信がある。だが、それ以上の人数となると、迂闊に手出しはできない。
長い階段を登りきった先、境内への入り口となっている鳥居の陰に身を寄せながら、繁藤は中の様子をうかがった。ざぁ、と風が吹き、境内の神木、大銀杏が揺れる。
佐絵馬の奴、今日は来ていないのか・・・?
暗がりと風によって、気配を感じにくくなっている中、繁藤は、じっ、と目を凝らした。
いた。社の階段に腰を下ろしている者が一人。姿から、それが誰であるかまでは分からなかったが、ひりつくような気配をその者から感じる。ざらりとした鮫肌で、ゆっくりと肌をこすられているような、名状し難い不快感が立ち上ってくる。他に人影はない。佐絵馬とみなし、無言のまま斬り掛かるという手もあるのだが、それはあまりに卑怯だ。他の者の目がないとはいえ、繁藤は自らの恥となるような行動を、選択肢に入れるつもりはない。ふっ、と短く息を吐き、腹を据えた繁藤は、ずい、と鳥居の陰から身を現した。
「佐絵馬と見受ける。相違ないか。」
繁藤は社の人影に向かって、凛然と誰何した。微動だにしない影であったが、やがて、おもむろに立ち上がると、一歩、階段を下りて言った。
「そうや。あての名を呼びつけにするんは、誰か?」
上方のイントネーションではあるが、どこか物憂げで、投げやりな響きを語尾にまとう声だった。暗がりにあってその顔は見えない。
「繁藤国重と申す。我が藩命により、お前を斬る。」
一瞬の沈黙が下り、次いで、自らを佐絵馬と認めた影が小刻みに震えた。恐れをなし、震えているのか・・・? いや、笑っている。自らの使命を嗤われたように感じた繁藤は、一太刀で決める、と殺気を研ぎすませた。佐絵馬は笑いの余韻が残る声で言う。
「くく。そないに怒りなはんな。ぬしがあんまりきっちり名乗りを上げ、お前を殺すと宣言するもんやから、つい笑ってしもたわ。えらい正直ゆーか、馬鹿正直ゆーか。そない名乗っとる間に、さっさと斬ってしまえばええものを。」
「何!」
「それがぬしのやり方なのか知らんけど、あての周りをうろちょろしとった連中なら、そない遠回りなことせんやろ。」
里の者のことか。
「彼らには彼らのやり方がある。俺は、名乗りもせず闇討ちなど、卑怯な真似はせん。」
「卑怯な真似て、か弱い乙女相手に、男が腰の物で斬り掛かるゆうんも、なかなか卑怯な真似やと思うけどな。」
「どの口が言うか。面妖な術で人を騙しては藩内の密事を外に漏らし、挙げ句、子までさらって喰らうているのであろう。お前に恨みはないが、斬らねばならん。」
「子をさらう?」
暗がりの中、にぃぃ、と佐絵馬の口が笑みで歪むのがかろうじて見えた。
「ああ、そやなぁ。子らはうまいからなぁ。」
繁藤の背筋に、冷たい戦慄が走った。何という顔で嗤うのだ・・・。
す、と真顔に戻った佐絵馬は続けた。
「知っとるか? さらった子は最初、激しく泣き叫ぶ。恐ろしいからな。けど、いざ喰らうとなると、どの子も皆、ぴた、と泣くのをやめる。恐ろしくなくなったからか? 違う。恐ろしさの極みじゃ。恐ろしさも過ぎると、声が出なくなる。ただ、がたがたと歯を鳴らして、涙に濡れた目を大きく見開いたまま、あてを見つめる。ひたすら、穴が開く程見つめてくる。そこを貪る。」
淡々と、さらわれた子らの最期を説明する佐絵馬の口調には、何の感情もこめられていなかった。それがかえって、おぞましい。恐怖に言葉を失くした幼な子の姿は想像するに痛ましく、繁藤は思わず緋奔の柄を握りしめた。
佐絵馬は、ふい、と繁藤から顔を逸らして言った。
「ふん。密事を外に漏らし、言うたかて、そない騙される方が悪いんやないか。皆、阿呆ばっかりじゃ。あんたも、そんな阿呆の一人やゆうことを、きっちり自覚するんやな。」
「阿呆だと?」
「そう。何も知らんと、ぼやぼや生きとるんやから。」
「どういう意味だ。」
「言う意味などあらへん。あんたはあてを斬りに来た。斬る者と、斬られる者、渇ききった関係じゃ。細かいこと教える意味などあらへん。知りたければ、あてにきっちりお願いすることやな。」
「戯れ言を。俺を惑わすか。」
「違う。あんたが勝手に惑っているんじゃ。」
「俺は惑ってなどいない。」
「いいや。惑ってる。そうでなければ、何でいちいちあてと、こないな会話を続けるか。」
繁藤は自分でも意識していなかったところを突かれ、ひるんだ。この狐女を斬るのに、自分は躊躇しているのではないか。だから話など。佐絵馬の言う通り、さっさと斬るべきだ。これ以上、佐絵馬と言葉を交わすべきではない。
緋奔の柄に手をかけ、抜刀のモーションたる最初の一歩を踏み出しかけたとき、雲に隠れていた月が、唐突に現れた。境内を、社を、大銀杏を、銀色の月光が満たす。
月に照らされた佐絵馬の顔を見た途端、繁藤は、はっ、となって足を留めた。月明かりの下で白々と輝く肌は透けるように美しく、傾城の美女と聞くその姿を、円熟した大人のそれと勝手に想像していた繁藤の、予想を裏切る若々しい姿だった。二十歳に届かぬ自分と、さほど変わらぬ年頃の、少女のあどけなさすら残す容姿である。繁藤は心ならずも佐絵馬に見蕩れた。佐絵馬は、抜刀しかけたまま止まる繁藤を前に、まったく動ぜず言った。
「斬りたければ、斬りなはれ・・・、とは言われへんわ。あてかて、無惨に刀の錆となるのはいややもの。どうやろ。あてが一晩つきあったるから、見逃してくれへんか。」
命乞い、と言えばそうなるのだが、佐絵馬の態度はあくまで冷静だった。というより、一晩共に過ごすことが、自分の命と等価であると言わんばかりの、確信に満ちた物言いだ。この提案、よもや拒否することはないであろな、という自信がこめられている。自分の魅力に対する絶対的な信頼を背景とした、負けなしのカードをきる面持ちで、繁藤を試すように視線を向けてくる。
だが、繁藤は立ち止まってしまった遅れを取り返そうとするかのように、自らの迷いと惑いを振り払うかのように、猛然と間合いを詰め、佐絵馬に一刀を浴びせた。緋奔の切っ先が、淡い残紅を軌跡として残す。渾身の一太刀だった。
佐絵馬の喉元を、完全に払い斬ったはずだ。手元に、斬ったときの確かな感触すら残っている。それなのに、折り崩れるであろう佐絵馬の姿がない。
「く・・・。はずれ。」
押し殺した嗤い声に、繁藤が素早く後ろを振り返る。月明かりの下、能面のように無表情な佐絵馬が立っている。
「馬鹿な・・・!」
と、繁藤がうめくように言う。確かに斬ったはずなのに、佐絵馬には傷ひとつない。
目で追うことすらできなかった佐絵馬の動きに、動揺を抑えきれない繁藤である。すぐさま、二の太刀、三の太刀を放たねばならないところ、躊躇した。佐絵馬の動きは、速い、遅いという次元のものではなかった。幻惑されているのではないか・・・。
佐絵馬は、真冬の井戸水みたいに冷たい目を繁藤に向けながら、
「繁藤よ、あてを殺したいなら、やってみるがええ。」
そう言い残し、地面を滑るように足を運んで、社の裏手へと向かった。
「待て! 佐絵馬っ!」
一刀で片をつけられなかったいら立ちと、佐絵馬に見蕩れてしまった罪悪感のような胸のざわつきを吹き飛ばそうと、繁藤は腹の底から叫んで佐絵馬を追う。
社の裏、入り口に注連縄を張られた洞へ、飲み込まれるように姿を消す佐絵馬を繁藤は見た。人一人通るのがやっとの幅しかない、狭い洞窟である。
目が痛くなるほどの虚空を前に、繁藤は一瞬、入るのを躊躇した。暗過ぎる。中で待ち伏せでもされれば、分が悪い。だが、佐絵馬が逃げ込んだ以上、別の場所に通じる抜け道である可能性は高かった。ぐずぐずしていれば逃げられる。火を起こして灯りを作る時間もない。繁藤は抜き身の緋奔を下げたまま、意を決して洞へと入った。
中は暗く、真の闇だった。そして、妙に蒸し暑い。晩秋の外気から一転、まとわりつくような暑さに、不気味なものを繁藤は感じた。前を行く佐絵馬の足音が聞こえてもよさそうなものだが、洞の中は静まり返ったまま、耳鳴りしか聞こえない。奥の方からかすかに流れて来る風を感じながら、繁藤は奥へと進んだ。洞は予想以上に長く、深かった。ゆるやかに傾斜する地面が、下へ下へと進んでいることを感じさせるのだが、いっこうに突き当たらない。左の壁に触れながら歩み続けると、突然、手に触れるものが途絶えた。開けた場所に出たのかと、周囲を刀で探ってみると、何の手応えもない。それどころか、今来た道の壁にさえ、刀が当たらない。数歩後ろにはあったはずの壁がないのだ。
繁藤は焦りを感じた。これから斬ろうとする相手のいる場所で、三百六十度、自分の位置を確認する、いかなる基準をも失ったのである。前後、左右の感覚が薄れ、自分が目を開けているのか、閉じているのか、それすら定かでなくなる。繁藤は気を沈めるように深く息を吸い、長く息を吐いた。暗闇の中で視界を失っている以上、耳に頼るしかない。わずかな気配も逃すまいと、静かに佇む。どれほどそうしていたのか、時間の感覚すら麻痺しかけた時、再び風が頬に触れた。
出口か・・・?
繁藤は風の吹く方向に向かって歩いた。自分が何歩、歩いたのか、洞に入ってどれくらいの時間が経ったのか、完全に分からなくなっている。闇の中、自分の内側と外側を隔てる、意識の中の、膜のようなものが薄れて行くのを感じた。繁藤は前に進む。ぐるぐると、天地が回転するような感覚を覚えるが、それでも前に進む。立ち止まって引き返すなど、繁藤には考えられないことだった。その選択肢は繁藤の頭にない。
ぐるぐるぐるぐる、感覚の中で上下の反転は果てしなく続いた。




