芯になる場合
(オレ)
遺伝子の所為なんだ。
と、オレは思っている。
オレには仕事を休むという悪癖がある。身体がだるい。動く気がしない。気付くと時間が過ぎていて、オレはいつも欠勤の連絡を職場に入れる。一度休んでしまうと、癖になって何日か続ける。当然、そんな状態では仕事にはならない。結果的にはクビになる。
そんな事を何回か繰り返すうち、オレは職を見つけるのが困難になった。ただでさえ就職難の時勢に、短期間で職を変えていれば、そうなるのは当たり前の話だ。しかしオレは頭ではそれを理解しつつもどうにもできなかった。
遺伝子の所為だ。
そしてオレは、自分がそうなってしまうのは、遺伝子が原因だと考えた。
オレは、遺伝子によって、そのように作られてしまった。だから、それは仕方なのない事なのだ。ある意味では、オレは犠牲者でもある。もちろんそれは、遺伝子ばかりの所為ではないだろう。生まれ来た境遇も恵まれてはいなかった。例えば、アイツみたいな家に生まれていれば、オレだって上手くやれたはずだ。きっと。
アイツ。
先日オレは、アイツの結婚式に参加した。相手の嫁さんは、思った通りに美人だった。そういう奴なんだ、昔から。アイツというのは、高校時代の友人の一人の事だ。要領がいいと言うか、何と言うか。とにかく、恵まれている。口が上手くて容姿もまぁまぁ、成績も中の上をキープしていて、スポーツもそれなりにこなす。しかも性格が良い。融通も効く。人付き合いも上手い。弱点らしい弱点は見当たらない。
更に、アイツの実家は金持ちだった。地主というやつだ。土地を業者かなんかに貸し出していて、その貸し賃だけでかなり貰っているらしい。もっとも、それは親の金だが。ただし、と言っても、アイツも当然恩恵には与っている。その結婚式で聞いた話なのだが、その親の土地の何処かに、今度家を建てるのだそうだ。土地代は無料という事になる。家を建てる金は自分で出すようだが、それだって大した負担じゃないだろう。アイツは安定した職に就いているし、もし職を失ってもいざとなれば親を頼れる。
美人の奥さんと、これから生まれてくるだろう可愛い子供。恐らくは、明るい家庭を築くのだろう。
羨ましい。
それに引き換え、オレには何にもない。安アパート暮らし。契約社員を登録しているから、その口がある間は良いが、それがなければただのフリーターだ。そして、オレは仕事を休むという悪癖のお陰で、いつ職を失ってもおかしくはない。
もちろん、アイツみたいな境遇に生まれる奴は少ない。そして、オレよりマシな生活をしている奴は大勢いる。だから、本質的にはそれは遺伝子が原因なのだろう。遺伝子がオレに命令をするんだ。怠けろ、と。
だからこれは、遺伝子の所為だ。
オレの人生が、こんななのは、遺伝子の所為なんだ。
(僕)
遺伝子の所為、と言われても。
と、僕はそう思っていた。
僕は寝ている間に、“何か”を食べてしまうという奇妙な性質を持っている。しかも、それは食べ物でもないし、飲み物でもない、そもそも物質ではない。それは、誰かの感情だとか霊だとか、もし説明を求められるのなら、そう説明するしかないような“何か”なんだ。もちろん、僕だってそれが本当には何なのかは分かっていない。
その時に食べてしまったそれは、どうにも生霊のようだった。もっとも、そんなに強い存在感はなくて、家を離れている間は消えている。話しかけてくるのは、仕事を終えて帰宅した後だ。
多分、それはこの生霊の大元が、僕の家の近くに住んでいるからだろう。晩だと、ソイツも仕事を終えているだろうから、時間帯が合ってしまうんだ。その証拠に、休日の昼間は家にいても話しかけてこない。ソイツがアルバイトをしている事は、生霊の語る内容から察していた。恐らくは、休日はほとんど出勤日なんだろう。
実を言うのなら、今回は、食べてしまった生霊の大元が誰なのか大体、目星がついている。知り合いの結婚式で、久しぶりに会った旧友。ソイツが、恐らくは今僕の腹の中にいる生霊の主だ。
『遺伝子の所為なんだ』
そして、ソイツはそんな主張をしていた。遺伝子が自分に怠ける事を強要する。だから、自分は仕事が続かない。
僕はそれを聞いて困ってしまった。何か言い返してやろうかとも思ったのだけど、反感を買って面倒な事になったら嫌なので、放っておいた。存在感は薄い。やがては消えてしまうかもしれない。
結婚式の機会に、久しぶりに会った友人達と近況を報告し合った。苦労している奴、上手くやっている奴、色々といた。もちろん、ほとんど何も話さない奴も。そしてソイツもそんな内の一人だった。住んでいる場所くらいしか話さない。意外にも、ソイツが住んでいる場所は、僕の家の近くだった。ただそれは、お互いほとんど地元を離れていないというだけの話なのだけど。
具体的な場所を聞いても、ソイツは何も話してはくれなかった。何か言い難い事情があるのだろうな、とそう察した僕は深くは尋ねなかった。元々、それほど親しい間柄でもなかったし。ソイツは、仕事の話で盛り上がると、奇妙な目つきになった。その時、それだけは深く印象に残った。
『恵まれた家に生まれて、遺伝子も良くて、しかもあんなに綺麗な嫁さんをもらいやがって、人生の差を実感するよ』
だから、その生霊がそう言い始めた時に、僕は直感的に、結婚式で会ったソイツが大元なのじゃないかとそう判断した訳だ。結婚式の花婿は、確かにソイツが語ったように恵まれた人生を送っていたから。少なくとも、それが友人連中の一致した見解だった。
「まぁ、アイツが恵まれた奴だってのは認めるよ。正直、僕だって羨ましい。だけど、アイツはそれなりに努力をする奴だぜ。それくらいは分かっているだろう? そうじゃなきゃ、あんな会社に就職できる訳がない。職場の人間関係を良好に保てているのだって、そのお陰だろうし」
僕はその生霊の主が、僕の予想通りである事を確かめる為に、それを聞いた時、そう返してみた。すると、
『その努力だって、遺伝子に恵まれただけの話だろうが。性格だって、遺伝子で決定されるんだ!』
と、そう応えてきた。
アイツが努力している点を認めた。話は噛み合っているようだ。それで僕は、半ば確信した。やっぱり、近くに住んでいるその旧友が、この生霊の大元だと。
それにしても、コイツの考え方は偏っている。
その時僕はそう思った。
遺伝子による決定論的世界観。どうやら、それを信じ込んでいるらしい。物語なんかで散々間違った理解のそれが描かれているから、仕方ないのかもしれないけど、勘違いをしている人はとても多い。遺伝子には、本当はそんな力なんてないのに。
でも、この生霊の問題点は、それだけでもないような気がした。否、違う。問題の本質がこんな事じゃないんだ。この遺伝子に対する勘違いはきっと、単に表層に現れている問題であって、もっと奥には根本的な問題が隠れてあるはずだ。
僕は生霊の話しぶりから、そう考えた。
(オレ)
遺伝子だけじゃない。
オレは家庭環境にも恵まれなかった。父親の素行も悪かったし、母親はオレにあまり構ってはくれなかった。
恐らくは、オレが仕事を休んでしまう背景には、そんな事も影響しているんだ。
その証拠に、オレは学生時代は真面目に学校に通っていた。アルバイトで小遣いを稼ぐ事もやっていたし、それなりにハードな毎日をこなしていたんだ。それが社会に出て働き出すと、崩れてしまった。
そう言えば、学生時代はよく遅刻をしてきた奴が、今は遅刻もせずに働けているようだった。そいつとも、先日の結婚式で会ったのだ。職業はプログラマだと言っていたか。労働力不足で就職がし易い職。それに必要な求めれられている技術を探した結果、プログラミングに辿り着き、身に付けたらしい。ご立派だ。
「ただ、労働は過酷だぜ。だから、自律神経系をおかしくする人が多い職業でもあるんだ。うつ病とかね。だから、自己管理には気を付けなくちゃいけない」
そのプログラマが、自分の仕事を自慢たらしく説明してきた時、そんな事を言っていた。“自己管理”。オレは恐らく、それができていないのだろう。だが、そうなってしまうのは、オレが悪い訳じゃない。環境に恵まれなかったんだ。遺伝子にも。だが、
「人間なんて、弱い生き物だからさ。常に自己管理していくって意識を持たなくちゃ、簡単に駄目になる」
プログラマはそう続けた。嫌な事を平気で言う奴だ。オレは、そんな自己管理をしなくちゃいけないなんていう意識は持っちゃいなかったから、聞きたくはなかったんだ。そんな話は。
今日、オレはバイトをサボってしまった。派遣先の職場で出来ない事が、アルバイトで出来るはずはない。これでは、アルバイトもクビになってしまう。
でも仕方がないじゃないか。身体がだるいんだ。上手く動かせない。
“自己管理”
これも、あのプログラマなら、それが出来ていないだけだと言うだろうか? 自己管理ができていないから、体調管理もできない。だから身体がだるくなる。その意見が、本当は正しいのだろうか?
否、違う。
そもそも、あいつとオレとじゃ、遺伝子が違うんだ。オレは遺伝子に恵まれなかったのだから、仕方がないんだ。
そう思った時、オレの頭の中で、プログラマはこんな事を言ってきた。
『遺伝子に、そんな力はないよ。
遺伝子が設計図だっていうのは、少し昔の考え方でね。今は、もっと複雑に考えられている。一種の化学的コンピュータとか言われたりだとか。そして、遺伝子が決定しているものだと思われていた多くの事柄に、実は環境が関与しているとも分かって来たんだ』
そこでオレの頭は混乱した。確かにオレの頭の中のプログラマは、そう反論をして来た訳だが、オレはあいつと会った時に、こんな会話はしちゃいないんだ。つまり、オレは自身の記憶を捏造した事になる。否、自分で嘘の記憶と分かっているから、これは正確には捏造ではないのかもしれないが。
オレは試しに、それに返すような感じで、こう思ってみた。
“例えば、どんな事が環境に拠るんだよ?”
すると、驚いた事に、また奴は説明をして来たのだった。
『環境に拠っているというのも、間違った理解だね。環境も、“遺伝”に関与していると言った方が良い。
例えば、こんな話がある。
生まれて間もないヒヨコが、ミミズを追いかける。誰にも教わっていないはずだから、これは遺伝子にインプットされている行動だと考えられていた。ところが、卵から出てきたところで、自分の足の指を見えないようにしてやると、なんとヒヨコはミミズを追いかけなくなったんだ。
つまり、ミミズを追いかける、という行動パターンをヒヨコに形成させるには、“自分の足の指を見る”という環境からの後天的な影響が必要だったって事さ。別に、全てが遺伝子にプログラムされていた訳じゃなかったのだね。そして、ヒヨコに生える足の指は、必然的に与えられる環境でもある。つまり、環境が遺伝に関与しているのさ』
オレはそれを聞き終わった途端に、思わず声を上げていた。
「一体、なんなんだ、これは?!」
もちろん、そんな説明の記憶はオレの中にはなかった。
(僕)
『一体、なんなんだ、これは?!』
と、生霊に叫ばれて僕は困惑した。
随分と長く生霊が僕の腹の中に居座るものだから、遂に耐え切れなくなって、遺伝子決定論を否定していた時の事だ。何しろ、休日だっていうのに話しかけてくるんだ。アルバイトが休みなのかもしれない。こっちは家でゆっくりしたいのに。その、遺伝子に対する、都合の良い解釈に腹が立ったというのもあるのだけど。
「なんだって何さ?」
それでそう尋ねた。すると生霊は、
『こんな記憶はオレの中には、ないはずだ!』
と、そう返してき来た。
記憶?
僕はそれを聞いて考える。さっきまでの態度とは明らかに違う。存在感も強くなっているように思える。もしかしたら、今この生霊は本人の感覚と繋がっているのかもしれない。それで、本人はこの僕との会話を、記憶の中のものと勘違いしているんだ。
もしそうなら、嫌だな。と、僕はまずはそう思った。本人と直接口論するような事になったら厄介だ。しかし、そこで僕はふと思い付いたんだ。咄嗟に、こう言った。
「そう。これは記憶の中の会話じゃないよ。これは君が自分の中で作り出したイメージの中の会話だ。自問自答。それを、こんなカタチで行っているんだね。
もちろんそれは、君自身が悩みを抱えているからに他ならない」
自分の中の葛藤だとしてしまえば、僕が直接巻き込まれる事はないだろう。しかも、この機会を利用して、上手く説得できれば生霊が腹の中から消えてくれる可能性もある。それに、コイツが悩みを抱えているのは、恐らく本当だろう。その解決にも役立つかもしれない。
しばらくの間の後で、こんな返答がきた。
『お前が、オレの中のイメージなのだとしたら、どうして、オレの知らない知識が出て来るんだ?』
まぁ、当然の疑問だろう。
「無意識の内に取り入れていた知識っていうのがあるのさ。僕はそれを引き出して語っているんだ」
僕がそう誤魔化すと、またしばらくの間があって、『分かった。そういう事にしておく。取り敢えず、それで納得するしかないしな』と、そう応えてきた。
なんとか、僕の説明を受け入れてくれたみたいだ。これは、何もコイツが特別愚かって訳でもないのだろう。少しでも自分の認識の範疇での理解できる結論を採用する。それが、人間ってものだ。逆の立場だったら、僕も騙されていたかもしれない。
『じゃ、お前が自分の中の違うオレだという前提で話すぞ。
生物の身体が、単なる遺伝子の乗り物だっていうのは、よく知られた話だろう? よくそういうのを聞くぞ。だから、遺伝子の意志に従うしかないんだ。人間は』
「遺伝子の乗り物、という比喩は誤解が生じそうで好きじゃないけど、確かに基本的には間違っていないと思うよ。ただし、遺伝子に意志なんてものは存在しないけどね」
まずは遺伝子に対する誤った考え方から否定してやらなくちゃいけない。僕はそう考えた。これは表層の問題に過ぎないだろうけど、まずはそこから手を出して、根本の問題を引き出し、それを本人に自覚させてやるのが一番の解決への近道だろう。
『どうして、そう言い切れるんだよ?』
「遺伝子なんて、ただのタンパク質製造装置だよ。遺伝子は、作り出したタンパク質同士及びに、遺伝子自身との相互作用で、自己組織化現象を起こし、生物体を形成するけども、本当は生物体に比べればずっと単純なんだ。自己組織化現象を起こす環境がなければ、複雑な生命体を作り出す事なんてできないし。
そんなものに、意志なんて高度なものが備わっているはずがないだろう? それに、もし仮に遺伝子に意志があると仮定しても、問題点は払拭できないし」
『なんだよ。問題点て』
「遺伝子が意志を持っていると仮定してみよう。そして、人間はその意志に従っている。では、その“遺伝子の意志”は一体、何によって発生しているんだ?」
『何か、別の仕組みがあるんじゃないのか?』
「オーケー。じゃ、その仕組みとやらは、何の意志に従って動いているんだ? つまり“何かの別の意志”を想定してしまうと、いくらでも追及できてしまえるんだよ。そして追求すればするほど、それはより小さくなっていく。普通に考えれば、機構は単純になっていくね。なら、より複雑な生物体で、意志が発生していると考える方が、より自然に思えないか?」
そこまでを語り終えると、生霊は黙ってしまった。恐らくは、この遺伝子による決定論的な考え方は、この男の自己肯定の手段になっている。記憶の中の、学生の頃のコイツはプライドが高かった。そのプライドを維持したまま、今の自分を受け入れるには、何かしらの言い訳が必要だったんだ。それが遺伝子の決定論。
でも、そんな言い訳になんか頼ってちゃいけない。壊さなくちゃいけない自分、というのもあるんだから。
(オレ)
オレは戸惑っていた。
遺伝子が、本当は何の意志も持っていない? オレ自身にはそんな認識はまるでなかった。しかし、そう諭してきている相手は、他ならない自分自身だ。自分の中の、もう一人のオレが、学生時代の同級生の姿で頭の中に現れたもの。
腑に落ちないオレは、こう言ってみた。
「しかし、じゃあ、巷で言われている“遺伝子の意志”は、なんだって言うんだ? 利己的な遺伝子とか」
『あれは、ただそう見えるってだけの話で、別に本当に遺伝子に意志があるって主張している訳じゃないよ。
例えば、何かの生物が“うずくまる”という行動パターンを執っているとする。その行動はたまたま生き残りに有利で、それでその生物同士で交配が行われる事になる。結果として“うずくまる”行動パターンは更に強化されて、繁殖する。
まるで、遺伝子に“繁殖する”という意志があって、生物に“うずくまる”って行動を執らせているように思えるけど、本当はただ単に、そういう性質がたまたま生き残っただけだ。これには意志なんて介在していない。
遺伝的アルゴリズムって発想なのだけどね。そして、先に述べた通り、その行動の遺伝が、遺伝子……、混乱しそうだからゲノムと言うけど、ゲノムによってだけ為されているとは限らない。環境も、その行動パターンの“遺伝”に関わっている可能性が大きいんだ』
オレはそれを聞いて、こう返す。
「つまり、オレがこうしてアルバイトを休んだのは、何も遺伝子の所為って訳じゃないのか?」
すると、プログラマは声を上げた。
『え? 休んだ?』
「なんだよ。オレ自身なんだから、お前だって知っているだろう? オレは今日、アルバイトをサボったんだよ。会社にちゃんと通えなかったみたいにな」
『もちろん、知っているさ。
少なくとも、遺伝子の責任にするべきじゃないとは言えるはずだ』
責任。
嫌な言葉が出てきた。それに対してオレはこう漏らす。
「まぁ、遺伝子が原因じゃなくても、オレの場合は、育った環境が……」
しかし、そう言いかけたところで、プログラマに制されてしまった。こう言ってくる。
『ちょっと待って。“原因”という言葉は使うべきじゃないと思うよ。遺伝子が原因だろうが環境が原因だろうが、君が為すべき事は何も変わらないのだから』
オレにはその言葉の意味が分からない。
「なんだよ、それは?」
『例え、何が原因だとしたって、君が社会的責任を負っている点は何も変わらないって話だよ。だから、真面目に出勤するという義務を負っているし、今の君にそれができないのなら、それを乗り越える為の努力をしなくちゃならない』
「そもそも、そんな力がないオレに、どうがんばれって言うんだよ? オレは生まれ育った環境が悪かったんだ。だから、これはオレの所為じゃない」
『所為じゃない。それは、自分の責任じゃないと言っているんだね。そして、環境が悪いという主張は原因を指している。ところが、原因って概念と責任って概念は、混同され易いけど実は全く別のものなんだ。原因が自然科学的な色合いが強い概念なのに対し、責任は社会科学的概念だ。そして、これは社会科学的な概念に広く言える事なのだけど、機能面が重要になって来る。平たく言うのなら、役に立つかどうかって事だね。つまり、責任って概念は、用いると社会的に役に立つからこそ設定されているんだ』
「役に立つ?」
オレはその時、随分と間抜けな声でそう言ったと思う。多分、恐怖を感じていたのだろう。オレの感覚にはない、こいつの言葉に。
こいつは、本当にオレ自身なのか?
そう疑問に思う。
しかし、同時にどこかでこんな思いも立ち上がってくる。心のどこかでは、ずっと分かっていたはずだ。今の自分の考えや生き方が間違っている事に。
プログラマは続けた。
『そう。役に立つ。
例えば、こんな話があるよ。精神病が発症し易い家系のある人が“自分は遺伝的に精神病になるのだ”という考えを持っていた。
その人は遺伝子が全てを決めるからどうせ無駄だと考え、何にもしなかった。そして、何も対策を執らなかった。その結果として、精神病院に出たり入ったりの生涯を送る事になってしまった。
つまり、遺伝子に責任を押し付け、自分の責任を放棄していたのだね。だから、何にも努力をしなかった。
ところが、その家系の他のある人は、そうは考えなかった。遺伝子の決定論を信じていなかったし、だから遺伝子に責任を押し付けたりもしなかった。自分の人生には、飽くまで自分に責任があると考えた訳だ。それで、自ら色々と対策を執った。どんな事が効果があるのか調べて実践してみたり、周囲に協力を求めたり。もちろん、苦労もしたのだけど、その人はそれで自分の問題を乗り越えられたんだ。
この話では、責任って概念を用いる事でこのある人は、自分の問題を乗り越えるのに役立てている。
こう表現する事も可能だ。
遺伝子が原因の一つだというのは、間違いない。でも、それに責任を押し付けてしまったら、乗り越えられる問題も乗り越えられなくなってしまう。だから、それを自分の責任だと考える。これは、その原因が環境だろうが他の何かだろうが同じ事だね』
オレはそのプログラマの回答に頭を抱えた。納得がいかない。
「ちょっと待て。どうして、環境が悪いのに、その分をオレががんばらないといけないんだ?」
そんなの、不公平過ぎるじゃないか。
『世界はそもそも平等じゃないよ。どう文句を言ったところで、ハンデを背負ってしまったその分は、努力しなくちゃならない。もっとも、そのハンデがプラスになる場合もあるけどね。それは本人次第だ』
“それは本人次第だ”
本人。
オレはその言葉に歯軋りをした。つまりはオレ次第だという事。
『社会が、そのハンデをカバーしてくれる場合もあるけど、個人的には極力頼らない方が良いと思う。少なくとも、個人の側からはそのスタンスでいるべきだ。もっとも、よほどの事情があるのなら、話は別だけど』
こいつは、本当にオレ自身なのか?
再び、オレはそう思った。
もし仮に、こいつがオレ自身なのだとしたら、一体、オレはどんな事で悩みを抱えているというのだろう?
その根本部分で。
(僕)
コイツの根本的な問題は、恐らくは、頑なに自己肯定しているという部分。自己否定をしたくないから、その為の言い訳を探して、それを見つけたら、大して疑いもせずにすがりついてしまう。そしてそれが、遺伝子だったり、環境だったり。
「自分の行動を自分の責任だと認める事で、人生には主体性が生まれるのだと思う。君は、遺伝子の所為にしたり、環境の所為にしたりしているお陰で、主体性を失ってしまっているのだと思う」
社会の所為にする、なんて人もいるか。
生霊から、アルバイトをサボったという話を聞いた時、僕は正直驚いてしまった。だから休日なのに話しかけてきたんだ。コイツは確か、一人暮らしをしているはずだから、もし収入源がなくなってしまったら、生活できなくなる。そんな状況でも、行動できないとなるとかなりの重症だ。
「主体性がなければ、経験したストレスはただの不快なものになる。それでは、自分を形作る芯にはならないよ」
『――芯になる?』
「うん。人間は、ストレスをプラスに変えられる生き物なんだ。でも、ストレスをただのマイナスとしか受け止められないのなら、何にもならない。
昇華って心理学用語を知っているかい? ストレスを、まぁ、欲求不満と説明される場合も多いのだけど、芸術活動なんかに向ける心理作用の事だね。これを起こす為にも、それなりの感情コントロールが必要なんだ。そして、感情コントロールは、一つの自己管理だ」
語りながら、僕は少し疑問に思い始めていた。学生時代は、コイツは真面目にとは言わないが、それでも毎日通学して来たし、それにアルバイトなんかもやっていた。それがどうして、今はできないのだろう?
自己管理。もしかしたら、その答えのキーになるのは、自己管理なのかもしれない。そう考えた僕は、「君に足らないのは、恐らくは自己管理するっていう意識だと思う」と、そう言ってみた。それを聞くと、生霊はこう返してくる。
『よく分からねぇ。仮に、その自己責任だとか、自己管理だとかが必要なのだとして、オレは一体、何をすれば良いんだ?』
僕はそれを聞いて、少し迷った。言葉で伝えるのは難しい。本人にそれを体験してもらわなくてはならないからだ。だけど、それから思い付いた。学生時代は、コイツは普通に通学していた。その時代と、今とで何が違っているのか、よく考えてみるように促すというのは、一つの手かもしれない。
「学生時代を思い出してくれ。君は、ちゃんと学校に通えていた。それが今では仕事には通えなくなっている。一体、それはどうしてなのだろう?」
『分からない。真面目に通っていた、その反動が出たのじゃないか?』
あの頃も真面目には通っていなかった。と内心では思いつつも、僕はこう言った。
「それが原因なら、真面目に学校に通っていた多くの人は、社会に出てから、仕事に行けていない事になるよ」
それを聞くと、生霊は考え込み始める。
やはりな、
と僕はそれを受けて、そう思った。
コイツには、そもそも“自己管理”という、概念がないんだ。
学生と社会人の決定的な差は、何より自分で自分の管理をしなくてはいけない事だと僕は考えている。しかし、そもそも“自己管理”という概念がなければ、学生時代には管理されている、という自覚がないだろうし、だから社会人になっても、自己管理が必要だとも考えない。
自己管理を放棄していたら、簡単に人間なんて駄目になる。しかし、“自己管理”という概念がない人間には、それが自己管理の放棄から起こったのだとは気付けない。
「例えば、目標の設定だよ… 学生時代には、ちゃんとそれが明確に示されていたはずだ」
僕はそう考えると、更に続きを語った。
(オレ)
『例えば、目標の設定だよ… 学生時代には、ちゃんとそれが明確に示されていたはずだ』
そう言われて、オレは学生時代を思い出した。確かにそうだ。高い点数を取る事、良い学校へ行く事、高い成績を収める事。学生時代には、そういった目標があった。そしてオレはそれなりに高い成績を収めてもいたのだ。だから、大学にだって進学した。
プログラマは、続けた。
『だけど、社会に出てからはどうなのだろう? 会社にもよるけど、明確な目標はなかったのじゃない? 更に言うのなら、その目標を達成する為の、具体的な方法も示されなかったはずだ。
学生時代には、参考書なりなんなりを紐解けば、簡単に目標達成の手段は載っていた。しかし、会社に入って良い成績を収めるとなるとそうはいかない。自分でその方法を見つけ、実践していかなくちゃならない。君はその差に戸惑ったはずだ』
確かにその通りだった。オレは、社会に出て就職をして、それから、どうして良いのか分からなくなった。
レールを探していたのかもしれない。
よく言われる比喩だが、オレは学生時代は、敷かれたレールの上を走っていたんだ。その事自体は、大きな問題でもないかもしれない。根本的な問題は、その事にオレが気付いていなかった点だ。
それでオレは、会社に入ってからも、レールの上を走ろうとしたんだ。だけど、レールなんて何処にもない。
結果、オレは何もない場所を、道しるべも求めずに走ったんだ。迷うのは当然だが、そもそも自分が何に迷っているのかも分からない。
そして、色々な事が崩れていった。連鎖的に。
生活も怠惰になっていったし、やる気もなくなっていった。しかし、にも拘らず、プライドだけはある。そして、自分自身が描いている自分と、自分の立場との差が、加速度的に辛くなっていった。
結果、オレは仕事を休むようになった。一度休むと、それが癖になった。自分が悪いとは思っていなかったから、治す気にもなれなかった。
『生活が乱れると、体調も悪くなる。結果、気分もますます乗らなくなる』
そこまでをオレが思ったところで、まるで分かっているかのように、プログラマがそう言って来た。いや、分かっているのかもしれない。こいつが、本当にオレの中のもう一人の自分なのだとすれば、だが。
『だから、取り敢えずはそこから始めるといい。身体面での負荷を取り除く暮らしを、自分の中に定着させること』
その後で、静かにプログラマはそう続けた。オレはゆっくりと「分かった」と、それにそう返した。
次の日、
アルバイトに向かうために、外を歩いていると、プログラマに会った。道の反対側から歩いて来たんだ。もちろん、想像の中の奴じゃなく、本物の方だ。
奴はオレを見るなり、妙な表情を浮かべてきた。そして、それでオレは察した訳だ。あの想像の中のプログラマは、オレの中のもう一人の自分なんかじゃないって。本物のこいつが、何らかの手段でオレに働きかけたんだ。
確か、こいつには妙な噂があった。オカルト的なやつ。霊かなんかを飲み込むとか、なんとか。
しかも、お節介をやくとか。
オレは少し悔しくなる。
それで、口を開いた。
「余計な事をしやがって……」
(僕)
『分かった』
という声が聞こえた後、生霊の存在感は徐々に薄れていき、そしてやがては消えてしまった。
どうやら、説得に成功したらしい。
もっとも、本当に重要なのはこれからだ。問題の自覚には成功した。しかし、その問題を乗り越えられるかどうかは、これからの本人次第だろう。
次の日、まだ僕は休みだったのだけど、なんとなく朝早くに外を散歩してみた。すると、偶然に例の旧友に会ったのだ。いや、偶然ではなかったのかもしれない。僕は無意識の内に、これを狙っていたのかも。ま、どちらでも同じだけど。
奴は反対側から歩いて来ていて僕を見ると、少し目をきつくした。僕は悪い予感を覚える。どうも、昨夜のあれが僕だと気付いているようだ。それから、口を開いた。
「余計な事をしやがって……」
それから少しだけ言葉を濁し、擦れ違い様に、奴は、
「……ありがとうな」
と、そう続けた。
これからも、そんなには会う機会はないだろう友達だけど、それでも僕は、少しだけ嬉しかった。
がんばれよ、
と、あの時は言えなかったその言葉を、その時僕は、小声で言った。