番の香りを妹に奪われた地味令嬢ですが、獣人王子様の鼻はごまかせなかったようです
雨上がりの温室は、いつもほんの少しだけ甘い匂いがする。
私は湿った土にそっと指を沈め、白い花の根元を整えた。小さな鈴をいくつも連ねたような花が、葉の陰で静かに揺れている。
(今年も、ちゃんと咲いてくれた。……お母様、見ていますか?)
心の中で話しかけても、もちろん返事はない。
母が亡くなって八年。父が後妻のドロテア様を迎え、その連れ子のミラベルが私の妹になってから、この屋敷で私にやさしくしてくれるのは、この花たちくらいのものだった。
伯爵家の長女、エルナ・クローネ。肩書きだけは立派だけれど、今の私の仕事は、朝いちばんに暖炉の灰をかき出すことと、ミラベルのドレスの裾をつくろうこと。それから、誰にも見向きされないこの温室の世話をすることだ。
(まあ、温室の世話は仕事じゃなくて、私が勝手にやっているだけだけど)
ふう、と息をついたとき、温室の扉が乱暴に開いた。
「お姉様、こんなところにいたの? 探したじゃない」
鮮やかな薔薇色のドレスをひるがえして、ミラベルが入ってくる。泥のついた床を嫌そうに見下ろして、ハンカチで鼻を押さえた。
「相変わらず土くさいわね。……ねえ、聞いた? 明日の王宮の舞踏会に、ガルムンドの第一王子殿下がいらっしゃるんですって」
「ガルムンドの……獣人国の?」
「そうよ。白獅子の王子殿下。番を探しにいらっしゃるの」
番。
獣人の方々には、生涯にただ一人だけ、魂で結ばれた相手がいるのだという。彼らはその相手を、香りで見分けるのだと聞いたことがある。
「三か月前に使節団が王都にいらしたとき、殿下は街のどこかで番の香りを感じたんですって。でも、人混みですぐに見失ってしまわれたそうよ」
「まあ……それは、お気の毒に」
「お気の毒、じゃないわよ。だから明日の舞踏会で、王都中の令嬢を集めて番を探すの。殿下がおっしゃるには、その香りは」
ミラベルは、私をじっと見た。
頭のてっぺんから、土で汚れた指先まで、値踏みするように。
「『雨上がりの、白い花のような香り』なんですって」
(雨上がりの、白い花……)
思わず、足もとの花に目をやる。
三か月前。そういえばあの頃、私は母の命日に教会へ花を届けに行った。屋敷の外へ出たのは、この一年でたったそれだけだ。
(……まさか、ね。この花の匂いなんて、どこにでもあるもの)
「ねえお姉様。そのショール、貸してくださる?」
ミラベルの指が、私の肩にかかった白いショールをつまんだ。
母が亡くなる前に、私のために編んでくれたものだ。隅には小さく、私の名前の頭文字が刺繍してある。
「これは……お母様の形見なの。ほかのものなら」
「いいじゃない、一晩くらい。あと、そのハンカチもね。お姉様の匂いがするものが欲しいの」
返事をする前に、ショールは肩からするりと抜き取られていた。ポケットのハンカチも、あっさり奪われる。
「お姉様は明日、お留守番よ。お母様がそうおっしゃっていたわ」
ミラベルは楽しそうに笑って、温室を出ていった。
残された私は、冷えた肩をさすりながら、ぼんやりと考える。
(私の匂いがするものが欲しいって……どういう意味だろう)
考えても分からなかったし、分かったところで、私にはどうすることもできない。
それがこの家での、いつものことだった。
その夜。
寝支度をしていた私の部屋に、継母のドロテア様が侍女を二人連れてやってきた。
「エルナ。ついてきなさい」
「あの、どちらへ……」
答えはなかった。
腕をつかまれて連れて行かれたのは、庭の外れにある離れの物置だった。古い家具と、使わなくなった庭道具が押し込まれた、窓の小さな部屋。
そこで継母は、侍女から受け取った瓶の栓を抜いた。
「っ……!」
頭からかけられたのは、鼻が曲がりそうなほど強い香水だった。甘ったるくて、どこか薬くさい。市場の露店で量り売りされているような、安物の匂い。
「舞踏会が終わるまで、ここにいなさい。食事は運ばせるわ」
「お、お継母様、どうしてこんな……」
「あなたが余計なことをしないためよ。ミラベルの幸せのためなら、これくらい安いものだわ」
扉が閉まり、外から鍵のかかる音がした。
足音が遠ざかっていく。
私は香水の匂いにむせながら、埃っぽい床にへたりこんだ。
(香水をかけて、閉じ込める……?)
意地悪をされるのには慣れている。でも、今夜のはなんだか、意地悪のやり方としては変わっていた。
(そんなに、私の匂いを消したいのかしら。……私の匂いなんて、土と花の匂いしかしないのに)
小さな窓の向こうで、また雨が降り始めていた。
番を探して、もう何年になるだろう。
王宮の大広間に足を踏み入れた瞬間から、俺の鼻はうんざりするほどの香りに埋もれていた。薔薇、麝香、柑橘、白粉。この国の令嬢たちは、獣人の嗅覚というものをあまり知らないらしい。
「殿下、顔。顔に出てます」
背後で、側近のフィンが小声でささやいた。狐の耳がぴくぴくと動いている。
「出していない」
「出てますって。眉間のしわが、獅子っていうより鬼です」
軽口を聞き流しながら、俺は広間を見渡した。
三か月前。この国の王都で、ほんの一瞬だけ感じた香り。雨上がりの石畳の上を、白い花の香りがすっと横切っていった。振り返ったときには、もう人混みにかき消されていた。
あの香りの主を見つけるためだけに、俺は両国の友好を名目に正式な申し入れをし、この国の王にこの舞踏会を開かせたのだ。
(どこだ。……どこにいる)
そのとき。
ふわり、と。
「……っ」
息が止まった。
雨上がりの、白い花。三か月間、一日たりとも忘れなかった香りが、確かにこの広間のどこかにある。
気づけば体が動いていた。人波が割れ、ざわめきが広がる。香りを辿った先にいたのは、白いショールを肩にかけた、薔薇色のドレスの令嬢だった。
「まあ……殿下」
令嬢は頬を染めて、優雅に膝を折った。
「クローネ伯爵家の、ミラベルと申します」
周囲から悲鳴のような歓声が上がる。少し離れたところで、伯爵夫妻らしき二人が勝ち誇ったように顔を見合わせているのが見えた。
俺は、ミラベルと名乗った令嬢に一歩近づいた。
そして、違和感に気づいた。
(……違う)
香りは確かにある。けれど、それはショールからしか漂ってこない。ショールの下からは、まったく別の甘い薔薇の香水と、この令嬢自身の匂いがしていた。
二つの匂いが、少しも混ざり合っていない。
何より、番の香りというものは、近づけば近づくほど、相手の鼓動に合わせて強く立ちのぼるものだと聞いている。それなのに、この香りは近づいても少しも強くならない。それどころか、まるで残り香のように、時間とともに薄れていく。
「殿下」
フィンが、俺にだけ聞こえる声でささやいた。
「その方、たぶん番じゃないですね。俺の鼻でも分かります。あれ、布に移った匂いですよ」
「……ああ」
分かっている。
分かっているからこそ、腹の底が冷えていく。
それでも俺は、表情を変えずにミラベルへ手を差し出した。
「一曲、お相手を願えるか」
「よ、喜んで!」
踊りながら、俺は穏やかに問いかけた。
「あなたからは、花の香りがする。白い花だ。お好きな花なのか」
「え、ええ! もちろんですわ。花はなんでも好きですの」
「では、その白い花の名前は?」
「な、名前……?」
ミラベルの視線が泳いだ。
「ええと……百合、かしら。いえ、ええと……」
「百合ではないな。もっと小さくて、下を向いて咲く花の香りだ」
「そ、そうでしたわ、ど忘れしてしまって! おほほ……」
曲が終わるころには、ショールに残った香りは、ほとんど消えかけていた。
ミラベルもそれに気づいたらしい。焦ったようにショールの端を持ち上げて、顔をうずめる。まるで、残った匂いを自分に塗りつけようとするかのように。
(……見苦しい)
その仕草を見た瞬間、俺の中で何かがはっきりと形になった。
この香りの持ち主は、この場にいない。そしてこの女は、その誰かから香りだけを奪ってきたのだ。
「そのショールは、誰のものだ」
低く問うと、ミラベルの肩がびくりと跳ねた。
「わ、私のものですわ」
「へえ」
横から、のんびりした声が割って入った。フィンがいつの間にか近くに来て、ショールの隅をのぞきこんでいる。
「でもこれ、刺繍の頭文字が『E』になってますけど。ミラベル嬢は『M』ですよね?」
広間が、しんと静まり返った。
ミラベルの顔から血の気が引いていく。周囲の令嬢たちが扇の陰でささやき合うのが、獣人の耳にはすべて聞こえた。
「クローネ伯爵家には、確かもう一人……」
「長女のエルナ様よ。社交の場には一度も出していただけないって……」
俺は、青ざめた顔で立ち尽くす伯爵に向き直った。
「クローネ伯爵。あなたには、もう一人娘がいるな」
「そ、それは……あの、上の娘は体が弱く、今夜は……」
「今夜は、どこにいる」
自分でも驚くほど、声が低くなっていた。
伯爵は答えられなかった。代わりに伯爵夫人が、ひきつった笑みを浮かべて前に出る。
「殿下、あの子は少し変わり者でして、殿下のお目に入れるようなものでは」
「それを決めるのは、俺だ」
俺はショールに残った最後の香りを、深く吸いこんだ。
かすかに、土の匂いが混じっている。それから、雨に濡れた葉の匂い。
「フィン。馬を出せ。クローネ家へ行く」
「はいはい、そうくると思いました」
どれくらい時間がたったのだろう。
雨はいつの間にかやんでいて、小さな窓から湿った夜風が入ってくる。私は窓の下に座りこんで、少しでも香水の匂いを逃がそうと、ぼんやり外を眺めていた。
(温室の花、雨で倒れていないといいけど)
こんなときに花の心配をしている自分が、少しおかしかった。
ミラベルは今ごろ、舞踏会で王子殿下と踊っているのだろうか。私のショールを肩にかけて。
(……返してもらえるかな、ショール)
膝を抱えた、そのときだった。
遠くで、馬のいななきが聞こえた。それから、屋敷のほうがにわかに騒がしくなる。
ばたばたと、いくつもの足音。誰かの悲鳴のような声。
「お、お待ちください殿下! そちらは物置で、何もございません!」
継母の声だった。
その声をかき消すように、まっすぐこちらへ近づいてくる足音がある。迷いのない、大きな歩幅。
足音は、扉の前で止まった。
「……ここだ」
低い声がした、と思った次の瞬間。
ばきん、と。
鍵のかかっていたはずの扉が、蝶番ごと外れて、内側に倒れてきた。
「ひゃっ……!」
思わず身をすくめた私の前に、月明かりを背負って、大きな影が立っていた。
白銀の髪。夜の中でも光るような、金色の瞳。頭の上には、丸くてふさふさした耳がある。正装の背では、獅子の尾がゆっくりと揺れていた。
(……え? え? どなた……?)
その人は私を見下ろして、一瞬だけ動きを止めた。
それから大股で近づいてきて、膝をつき。
ためらいもなく、私を抱きしめた。
「……見つけた」
(え、ええええええ!?)
頭が真っ白になった。
広い胸に顔が押しつけられて、身動きひとつできない。この人の体温が、冷えきった私の体にじんわりと染みこんでくる。
「あ、あの、香水が、においが、お召し物に移ってしまいます……!」
「かまわない」
その人は私の首筋に顔をうずめ、深く息を吸いこんだ。
「ひゃっ」
「……こんな安物で、俺の番を隠せると思ったのか」
耳もとでつぶやかれた声は、ひどく静かで、ひどく怒っていた。
けれど、私を抱く腕だけは、壊れものを扱うようにやさしかった。
「香水の奥から、ちゃんとお前の香りがする。雨上がりの、白い花の香りだ。三か月前、街で一度だけ嗅いだ」
(三か月前……教会に花を届けた、あの日?)
まさか、と思う。
でも、この人の言う香りが、私のことなのだとしたら。
「あの……失礼ですが、どちら様でしょうか」
おそるおそる尋ねると、その人の腕が少しだけゆるんだ。
金色の瞳が、私をのぞきこむ。
「ガルムンド王国第一王子、ラザール・ヴァイスガルトだ」
「お、王子殿下……!?」
「お前の名前を聞かせてくれ」
「エ、エルナ……エルナ・クローネ、です」
「エルナ」
殿下は私の名前を、大切なものを確かめるように、ゆっくりと口にした。
「やっと会えた。……俺の番」
(つ、番……!? 私が……!?)
心の中でいくら叫んでも、誰も答えてくれない。
扉の外では、遅れて駆けつけた継母と父とミラベルが、真っ青な顔で立ち尽くしていた。そのさらに後ろで、狐の耳をした男の人が「あーあ、扉壊しちゃった」と肩をすくめている。
屋敷の応接間は、凍りついたように静かだった。
私は殿下の上着にくるまれて、なぜか殿下の隣に座らされていた。離れようとすると、尻尾が腰にくるりと巻きついてくる。
(……逃がしてもらえる気がしない)
向かいには、父と継母とミラベルが並んでいた。三人とも、私と目を合わせようとしない。
「確認しておこう」
殿下の声は穏やかだった。それがかえって怖かった。
「あなた方は、俺が番を探していると知りながら、本物の番であるエルナを物置に閉じこめ、香りを消すために香水を浴びせた。そして、エルナの持ち物で香りを偽った娘を、俺の番として差し出そうとした。……間違いないか」
「ち、違います!」
ミラベルが立ち上がった。
「私はただ、お姉様からショールを借りただけで……それに、殿下が最初に反応なさったのは私ですわ! 私だって、番の可能性が」
「ない」
殿下は、ばっさりと言い切った。
「香りは奪えても、彼女にはなれない。番の香りは、その人の命の匂いだ。布に移した残り香で、ごまかせるものではない」
ミラベルが、唇を震わせて座りこむ。
殿下の側近だという狐耳のフィンさんが、手もとの書類をめくりながら口をはさんだ。
「ちなみに、ガルムンドとこの国の取り決めでは、番を偽って獣人の王族を欺くのは、わりと重い罪なんですよね。外交問題ってやつです。この国の陛下にも、もうお知らせしてあります」
「そ、そんな……!」
継母が悲鳴を上げた。父は額に汗を浮かべて、震える声で言う。
「わ、私は何も知らなかったのです! すべて妻と娘が勝手に……」
「知らなかった、か」
殿下の金の瞳が、すっと細くなった。
「娘が物置に閉じこめられていることも、社交の場に一度も出してもらえないことも、使用人のように扱われていることも。あなたは何年も、知らなかったと言うのだな」
父は、何も言えなくなった。
それから十日ほどで、すべてが決まった。
継母とミラベルは、王族を欺こうとした罪で、北の果ての修道院へ送られることになった。そこは規律がとても厳しく、外との手紙のやりとりさえ制限されているらしい。
最後の日、ミラベルは迎えの馬車の前で、私をにらみつけた。
「どうしてお姉様なのよ。土いじりしかできない、地味なお姉様が、どうして……!」
答えられずにいる私の前に、殿下がすっと立った。
「エルナが毎日土に触れて、花を守ってきたからだ。お前が欲しがったその香りは、そうやってできたものだ」
ミラベルは何か言いかけて、結局何も言えないまま、馬車に押しこまれていった。
父は爵位を叔父様に譲り、領地の片隅の小さな館へ移ることになった。
出発の朝、父は何か言いたげに私を見た。けれど結局何も言わないまま、目をそらして馬車に乗りこんだ。
(……最後まで、何も言ってくださらないのね)
遠ざかっていく馬車を見送りながら、不思議と涙は出なかった。悲しくも、悔しくもない。ただ、この家で私を見てくれる人は最初から誰もいなかったのだと、静かに思っただけだった。
そのとき、肩にそっと大きな手が置かれた。
「これからは、俺が見ている」
顔を上げると、殿下が私の隣に立っていた。
私は小さくうなずいて、もう見えなくなった馬車の行き先から、そっと目を離した。
ガルムンドへ発つ前の日。
私は温室で、白い花を鉢に植え替えていた。
「それも持っていくのか」
振り返ると、入り口に殿下が立っていた。白銀の髪に、ガラス越しの光がきらきらと反射している。
「はい。母が遺した花なんです。……あの、だめでしょうか」
「だめなわけがあるか。温室ごと持っていきたいなら、そうさせる」
「温室ごとは、さすがに……」
殿下は小さく笑って、私の隣にしゃがみこんだ。
それから、土で汚れた私の手を、ためらいもなく取った。
「エルナ」
「は、はい」
「改めて言う。俺と結婚してほしい」
金色の瞳が、まっすぐに私を見ている。
「お前を見つけるのに三か月かかった。もう二度と、見失うつもりはない。……それから」
殿下は私の首もとに顔を寄せて、すん、と匂いをかいだ。
「ひゃっ……!」
「これからは、俺の匂い以外つけさせない。香水も、ほかの誰の匂いもだ」
(ち、近い! 近いです殿下!)
顔が熱くなるのが分かった。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
でも、この人の腕の中が少しも嫌ではないことも、もう分かっていた。
私は深呼吸をひとつして、小さな声で答えた。
「……それは、少し困ります」
「なに?」
「花の匂いだけは、つけていたいので」
殿下は一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。
耳がぴんと立って、尻尾が嬉しそうに揺れている。
「なら、花ごと連れていく。お前が育てる花なら、全部俺の国に咲かせればいい」
「……はい」
私は、殿下の手をそっと握り返した。
「よろしくお願いします、ラザール様」
その名前を呼んだ瞬間、殿下は、ラザール様は、私をもう一度強く抱きしめた。
温室の白い花が、ふわりと揺れる。
雨上がりの、甘い香りがした。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
香りを奪われても、本物は見つけてもらえる、そんなお話を書きたくて生まれた短編です。
獅子王ラザールと、花を愛するエルナの物語を少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
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