正義
あなたは正義がなにかを知っていますか?
正義とは人の道にかなっていることや、道理に適った正しいこと全般を指す言葉です。
ただし本当に正義にはそのような規則があるのでしょうか。
一人目
カンッ――裁判所でガベルのなる音が響く。
「何の落ち度もない少女の尊い命を奪った結果は、極めて重大である。ただし、そのとき弁護士、カルテによると被告人は精神が解離性同一性障害だったとし、無罪とする」
裁判所の出口に続く思い廊下で、雨の音が遠く聞こえていた。
傍聴席を立った村上は、静まり返る傍聴席の中で、ただ一人動かずに座り続ける佐藤の背中に歩み寄った。握りしめられた佐藤の拳からは、父子家庭でショックが大きかったこともあり、爪が皮膚に食い込むほど強い力が込められているのが見て取れた。
「……佐藤」
村上が声をかけると、佐藤はゆっくりと立ち上がった。その瞳には涙すらなく、ただ冷たく燃えるような光だけが宿っていた。
「法が守ってくれたのは、あいつの『病名』だけだったな、村上」
「佐藤、待て。気持ちはわかる。だが……」
「わかってたまるか!」
廊下に佐藤の叫びが響き渡り、通行人が驚いて振り返る。佐藤は村上の胸ぐらを掴み、血の走った目で親友を睨みつけた。
「あいつは判決を聞いた瞬間、うつむいて口元を歪めて笑ったんだぞ!解離性同一性障害?ふざけるな!あいつは全部知っていて、法をあざ笑っているんだ!なら、誰が娘の無念を晴らすんだ?法が裁かないなら、俺が――」
「俺が制裁を下す、とでも言うつもりか!」
村上は佐藤の手を振り払い、毅然とした態度で立ちふさがった。その瞳にもまた、溢れんばかりの葛藤と苦痛が滲んでいた。
「それをやったら、お前はただの犯罪者になる。娘さんが望むと思うか?お前に人を殺してほしいなんて!」
「レミの名を安易に口にするな!」
佐藤は冷ややかに言い放ち、村上に背を向けた。
「お前は警察官だ。法という綺麗な紙切れを守っていればいい。……だが俺は、父親だ」
雨が強まる街の中へ、佐藤は傘もささずに歩き出した。村上はその背中を見送りながら、腰の拳銃の重みを嫌というほど噛みしめていた。法を傘にして悪を逃がす世界で、自分は何を守るために警察官になったのか。
その夜、佐藤の姿が自宅から消えた。
土降る雨の夜、街灯の光が濡れたアスファルトをぼんやりと照らしていた。
村上は警察の無線を切り、かつて佐藤から聞いた「娘が好きだった場所」——郊外の廃工場へと車を走らせていた。直感だった。法の手が届かない場所で、佐藤が何をしようとしているのか、彼には痛いほど分かっていた。
工場の重い鉄扉を開けると、カビと鉄錆の匂いが立ち込めていた。奥の薄暗い空間で、一人の男が柱に縛り付けられ、恐怖に震えている。その目の前に、金属パイプを握りしめた佐藤が立っていた。
「佐藤!やめろ!」
村上の叫び声が工場内に響き渡る。佐藤はゆっくりと振り返った。その表情には何の感情も浮かんでいなかった。
「来ないでくれ、村上。お前は警察官だ。見なかったことにして去れ」
「できるわけがないだろ!そいつを殴り殺せば、お前はただの殺人犯だ。娘さんがそんなことを望んでいると思うのか!」
「またそれか……」
佐藤の口元が歪んだ。
「レミはもう何も望めないんだよ!命を奪われ、未来を奪われ、そして今日、あいつの反省の弁すらない嘘で尊厳まで奪われた!法が何も与えてくれないなら、俺がこの手で『天罰』を与えるしかないんだ!」
佐藤がパイプを振り上げる。村上は瞬時に腰のホルスターから拳銃を抜き、佐藤へ銃口を向けた。
「動くな!……頼む、佐藤、それ以上は踏み越えるな!」
村上の手が、わずかに震えていた。法を守るために、傷つき切った親友に銃を向けなければならない不条理。銃口の先で、佐藤は悲しそうに細めた目で村上を見つめた。
「撃てるのか、村上?お前の正義は、娘を殺された父親の僕を撃ち抜くほど正しいものなのか?」
雨音が屋根を叩く音だけが、二人の間に重く響いていた。
村上の指が、引き金にかかる。
法という秩序を守ることが正義なのか。それとも、親友の痛みに寄り添い、法を捨てることが正義なのか。
二人目
薄暗い地下コンテナの執務室。ダクトから流れる循環風の重い音と、無機質な機械の駆動音が低く響いていた。
「所長、3号区画の監視モニターに異常! 隔離バリケードの不具合により、エアロックが開放されました。変異型ウイルスの検知濃度、急上昇しています!」
オペレーターの青ざめた声に、この地下避難所の責任者である高城は、組んでいた指にギュッと力を込めた。地表が致死性のウイルスで汚染されてから3年。この旧軍用施設に身を寄せているのは、過酷な環境を生き延びてきたわずか80名の生存者たちだった。
「状況は?」
「汚染エアが3号区画から中央循環ダクトへ流入し始めています! 阻止するには、3号区画のメイン隔壁を完全に遮断するしかありません。ですが——」
オペレーターが言葉を詰まらせた瞬間、通信機から割れんばかりの叫び声が飛び込んできた。現場の農業区画で作業していた隊員の女性、木村だった。
「高城さん! 頼むから待って! 隔壁を閉めないで!」
画面に映し出された木村の顔は恐怖と絶望で歪んでいた。背景には、汚染警告の赤ランプが激しく点滅している。
「あおいが……私の娘が、まだ3号区画の奥に取り残されているの! いま助けに向かってる! あと5分……いいえ、3分だけ待って! お願いだから!」
木村はこの避難所の貴重な食糧生産を一人で支えてきた最大の功労者だ。彼女の幼い娘・あおいもまた、避難所の人々に愛される無邪気な存在だった。高城の胸に、激しい痛みが走る。
「……木村。エアダクトの構造上、中央バイパスへの感染阻止限界タイムは残り40秒だ。3分待てば、メインエリアにいる79人全員が致死性ウイルスを吸い込むことになる」
「そんなの分かってる! 分かってるけど、あの子はまだ7歳なのよ! たった一人の子供も見捨てて、何が避難所のリーダーなの!? そんなものがあなたの言っていた『全員を生き残らせる正義』なの!? そんなの、ただの殺戮じゃない!」
涙と汗でぐしゃぐしゃになった木村が、カメラ越しに高城を睨みつける。その目は「助けてくれ」という懇願ではなく、「お前は人間なのか」という問いかけだった。
高城の手が、デスクに置かれた赤い非常用ロックレバーへと伸びる。指先が震えていた。
(ここでレバーを引けば、あおいちゃんは確実に命を落とす。木村の心も破壊される。だが、引かなければ、ここにいる全員が今日で終わる)
三人目
まぶしい液晶画面の光が、深夜の暗い部屋で浅倉の顔を白く照らしていた。
「——また一人、『悪』を社会から排除した」
浅倉の手元にあるキーボードの打鍵音は、彼にとって正義を執行する槌ガベルの音だった。
浅倉は、ネット上で「正義の審判者」として知られる存在だった。法の手が届かないズルい人間や、過去の過ちを隠して平然と生きている人間を特定し、その裏の顔を暴いて社会的に抹殺する。世間は彼を「ネットのヒーロー」と持て囃し、浅倉自身もまた、自分は世の中を正しくするための『絶対的な正義』を行使していると確信していた。
そんな彼が次に標的に選んだのは、地方の児童養護施設で働く一人の女性・ヒナだった。
浅倉が掘り起こしたのは、彼女が数年前に起こしたとされる「集団窃盗および放火未遂事件」の記録だった。現在は子どもたちに慕われ、献身的に働く「聖女」のような評判を得ていたが、浅倉にはそれが反吐が出るほど偽善的に思えた。
「過去の罪を隠して、自分だけ幸せに暮らすなんて許されない。悪人は死ぬまで悪人だ」
浅倉は速やかに彼女の本名、現在の職場、過去の経歴を証明する画像をSNS上に拡散した。
『正義の拡散希望。子どもを預かる施設に、元放火未遂犯が潜伏中』
投稿は一瞬で爆発的な拡散を見せた。まとめサイトが取り上げ、彼女の職場には無数のいたずら電話が殺到した。施設の前には動画配信者や野次馬が集まり、彼女の自宅のドアには「死ね」「人殺し」といった張り紙が隙間なく貼られた。
炎上から三日目の夜。浅倉がコンビニから出ると、街灯の影に痩せこけた女性が立っていた。ヒナだった。
「あなたが……あの投稿をした『浅倉』さんですか」
かすれた声だった。目は落ちくぼみ、恐怖で全身を震わせている。浅倉は鼻で笑った。
「なんだ、直接抗議か? 自分の過去を呪うんだな。罪を犯した奴が報いを受けるのは、この世の当然の『正義』だ」
「私は……やり直したかったんです」
ヒナはボロボロと涙をこぼしながら、浅倉の目を見つめた。
「あの事件のあと、私は自分の過ちを一生かけて償うと誓いました。施設での仕事は、奪ってしまった未来を、誰かに返すための私の全てだったんです。それを……あなたはどうして、踏みにじるんですか」
「踏みにじる? 勘違いするな」浅倉は冷たく言い放った。「俺は世の中のルールを守っているだけだ。お前みたいな『悪』が存在すること自体が、被害者に対する暴力なんだよ。自分の不運を俺の正義のせいにするな」
ヒナはしばらく絶望に満ちた目で浅倉を見つめていたが、やがて小さく絞り出すように言った。
「……あなたの『正義』は、人を殺すことなんですね」
彼女は背を向け、暗闇の中へと消えていった。
一人目
カンッ――裁判所でガベルのなる音が響く。
「そのとき弁護士、カルテによると被告人は精神が解離性同一性障害だったとし、無罪とする」
俺は当たり前のように、無罪になった。あの時僕は知らなかったが、俺は村上をなぎ倒し犯人を殺していたらしい。その後僕は裁判官の出した判決によって無罪になった。
俺は裁判所を出ると後ろから村上がついてきた。
「佐藤、これが本当にお前の正義なんだな」
「当たり前だ。僕のレミを殺したんだからな」
「『僕』なんて、お前らしくないな。」
二人目
「高城さん! おねが——」
「……3号区画、メイン隔壁を強制閉鎖」
高城は感情を押し殺し、レバーを最後まで押し下げた。
『警告。3号エリアを緊急封鎖します。カウントダウン、3、2、1』
「やめてえええええ!!」
狂おしい叫び声を断ち切るように、ズドン、と地響きを立てて分厚い装甲隔壁が下りた。通信は途絶し、スピーカーからのノイズも消え去った。
数日後。
ウイルス流出の危機は去り、メインエリアにいた79人の生存者たちは命をつないだ。シェルターには再び静かな日常が戻ったはずだった。
しかし、誰ひとりとして高城に「助けてくれてありがとう」と感謝の言葉をかける者はいなかった。
食堂で高城が姿を見せると、会話はピタリと止まり、人々は気まずそうに目を逸らした。生き残った人々は、高城の背中に聞こえるように囁き合った。
「あおいちゃんを殺したんだろ」
「あいつは平気な顔で人を切り捨てる」
「次は自分の番かもしれない」
高城が守ったはずの人々は、今や高城を「冷酷な悪魔」として恐れ、蔑んでいた。娘を失った木村は一度も自室から出てこず、ただ静かに死を待つように横たわっているという。
深夜、誰もいない暗い執務室で、高城は一人、引き金を引いた自分の右手を見つめていた。
79人の命を救うために、1人の命を捨てた。
論理的には正しい。過半数を生かすことこそが、極限状態における唯一の「正義」だと信じて疑わなかった。
だが、救われたはずの人々に憎まれ、希望を奪い取って得たこの平穏を、どうして「正義」と呼べるのだろうか。
「これがあんたの正義なんだね!?」
俺は答えることはできなかった。代わりに呟いた。
「俺は……何を救ったんだ」
ポツリと漏らした呟きは、重い空気に吸い込まれ、ただ静かに消えていった。
三人目
その翌朝。ニュースが衝撃的な事実を報じた。
ヒナが自ら命を絶ったのだ。そして彼女が残した遺書と、警察の再調査によって、ある『真実』が明るみに出た。
数年前の事件で、彼女は何も盗んでおらず、火もつけていなかった。幼い弟が引き起こした罪を、当時未成年だった彼女が「自分がやった」と身代わりになって被っていたのだ。彼女は罪を犯したからではなく、家族を守るためにすべてを背負い、そしてその過ちを背負ったまま、他人のために一生懸命生きていたのだった。
世間の風向きは、一瞬で裏返った。
「無実の女性を追い詰めた殺人者」
「正義気取りの狂信者」
「これがあいつの正義だ」
昨日まで浅倉を絶賛していたネットの群衆は、手のひらを返したように浅倉への攻撃を開始した。
浅倉の本名、卒業アルバムの写真、自宅の住所、家族の職場。あらゆる個人情報がネット上に晒され、瞬く間に拡散した。
ドアを激しく叩く音。スマホの画面を埋め尽くす殺害予告と誹謗中傷の通知。過剰な通知音の嵐の中で、浅倉はガタガタと震えながら部屋の隅にうずくまった。
「俺は……俺は正義のためにやったんだ……悪を許さなかっただけなのに……!」
画面に映る自分の名前と顔写真。かつて自分が他人に叩きつけていた「正義の言葉」たちが、今は刃となって自分自身の全身に刺さっていた。
誰かを裁くために振るったその拳は、いつの間にか自分自身を殺す「悪」へと変貌していた。
ご覧いただきありがとうございます。
これらを読んであなたは改めて正義が何かを答えることができますか?




