星空
夜しかない暗がり。
私はただただ、ぽうぽうと光る星たちと三日月と風の流れを眺める。
街は昼の顔とは異なり、陰鬱で、険悪で、まるで曇天としているようだ。今にも自然の渦に巻き込まれそうなその姿には人の無常さを感じずにはいられない。
絶望に染まる糸杉こそもっとも自然らしい。
社会も空に漂う星々も、今いるそれぞれのこの場所この時間に拘泥しているように思える。けれども、実態としてそれは全くの誤りだ。
人間は生と死に固執しているのに対し、星はもっと流動的である。長い旅を続けて、今ここにる。そこに何か恣意性を帯びるといったことはあり得ない。(いや、むしろ彼らこそ自由の象徴なのかもしれないが)
だから、私たちがいつも見ている夜空は写真に過ぎない。一瞬を切り取っただけでは、物事の本質と多面性が見えない。フレームの外を写真から推し量ることすら難しいのだ。
無論、写真を批判したいわけではない。切れ端の方が洗練されていて美しい見た目であるともいえる。
だが、ここの景色は違う。
この夜空こそインビジブルを孕んだ、真の闇。
厚塗りの色彩に溢れた夜。
これに多くの人が心を奪われるのも当然。現に私も目を離すことができなくなっている。
あの星はなんだろう。
夜空を見るのは好きだが、特段星に詳しいということはない。眺めるだけなら知識などは不要である。やけに博識ぶったマニアなどが得意になって講釈を垂れるせいで、一般人から軽蔑されるようになる、といったことは非常にもったいない。
あそこに光るは明星だと聞いたことがある。
あれは、デネブ、そこから視線を右に進むとあるのはアルタイルだということも。では、地平流れる天の川の向こう側に織姫がいるのか。
頭の中で線を繋いでいく。途端に、広大な空は無限のスッケチブックになった。何を描くも、何を消すも、存の外、我々の手に委ねられているようだ。
ふと周りを見渡す。
時間帯のせいだろうか、曜日のせいだろうか、誰もが息を呑む美しい景色なのに、さほど人が多いとは言えない。とはいえ、それは他と比べてのことであり、一般的な絵画に比べると、やはり興味を示す客が犇めきあっていると言える。
さて、そろそろ次の絵を楽しもう。断面的な写真ではない。意味と意義と意図の連続した絵を。
そう思い、そして、私は人混みを掻き分け、赤いロープのバリケードに守られたフィンセント・ファン・ゴッホの『星月夜』の前から立ち去った。




