第8話 あなたの帰る場所はここだ
注文書の山を前にして、私はガルドに言った。「炉をもうひとつ、起こしましょう」。
国境のグランツ要塞への増援が決まり、騎士団からの武具受注が一気に増えた。剣が十二本。短剣が八本。槍の穂先が六本。盾の金具が四組。締め切りは二週間後。
「嬢ちゃん、無理だ」
「無理じゃないです。工程を整理すれば――」
「いや、体がもたねえって言ってんだ」
ガルドの言う通りだった。私一人の鍛冶で、この量を二週間でこなすのは物理的に厳しい。前世の工場なら三交代制で回すところを、一人でやっている。
けれど、断れなかった。この武具を使う騎士たちの中に、ルーカスがいる。
朝から晩まで、炉の前に立った。ガルドが口を出しながらも仕上げの研ぎを手伝ってくれた。エルマが食事の世話と注文管理を完璧にこなした。三人体制で、一日に剣一本半のペースを維持する。
腕が張る。腰が痛い。前世の工場でも、納期前はこうだった。蛍光灯の下で旋盤を回し続けた日々。違うのは、ここには蛍光灯の代わりに炉の炎があること。そして、あの頃は仕事に意味を見出せなかったけれど、今は違う。
一本一本の剣に、使い手の顔が浮かぶ。
夜、研ぎの作業をしながらエルマと話した。
「リーネさん、手、大丈夫ですか。指の皮がめくれてる」
「平気。前世でも――昔も、納期前はこうだった」
「前世って何ですか?」
しまった。口が滑った。
「……昔の話。忘れて」
エルマは首を傾げたが、深追いしなかった。賢い子だ。
砥石の上で刃を滑らせる。水が鉄粉で灰色に濁る。この音が好きだ。しゃり、しゃり、と規則正しく、鉄が少しずつ形を整えていく音。前世の旋盤の、チュイーンという高い音とは違う。でも、何かを削り出していくという意味では同じだ。
◇◇◇
五日目の朝、手紙が届いた。
父からだった。ヘルムート・ロズワール伯爵。几帳面な筆跡。インクの匂いがする。
『リーネへ。いい加減に戻ってこい。縁談を用意した。ロアナス子爵家の次男。真面目な青年だ。お前が鍛冶屋遊びに飽きた頃だろうと思い、この手紙を書いている。父より』
鍛冶屋遊び。
手紙を持つ指に、力が入った。怒っているんじゃない、と自分に言い聞かせる。父は父なりに心配しているのだ。伯爵家の一人娘が職人街で鉄を叩いていることを、世間がどう見るか。父の立場を考えれば、縁談を用意するのは当然のことだ。
でも。
工房を見渡す。煤けた天井。使い込まれた金床。壁に掛かった工具の列。ガルドの茶碗。エルマのエプロン。そして作業台の上に並ぶ、半完成の剣たち。
ここに戻りたいと思った。ここが、私の場所だ。
――うまく言えないけれど。前世の私には、「帰りたい場所」がなかった。工場と自宅の往復で、どちらも「帰る場所」ではなかった。ただの座標。でもこの工房は違う。鉄の匂いがする。ガルドの口癖が聞こえる。エルマの笑い声がする。
手紙を折り畳んで、前掛けのポケットに入れた。返事は後で書こう。
「お父様、ごめんなさい」
声に出さずに、心の中だけで言った。鍛冶屋遊びではないことを、いつか証明する。でも今は、目の前の剣を仕上げることが先だ。
◇◇◇
十日目。急ぎの配達が入った。
騎士団の兵舎に、完成した短剣八本を届ける。工房からまっすぐ西に二十分。
まっすぐ。西に。二十分。
――四十分後、私は東の運河沿いにいた。
「なぜ」
自分に問いかけても答えは出ない。途中で見かけた鉄柵の溶接跡が気になって、しゃがみ込んで観察していたら、いつの間にか方角がわからなくなっていた。溶接の技術自体は粗いが、鉄と鉄の接合面に独特の模様が出ていて、見ていて飽きなかった。
――飽きないとか言っている場合ではない。配達だ。
「ロズワール嬢」
背後の声。振り返ると、ルーカスが立っていた。
「……また迷ったのか」
「すみません」
「兵舎は西だ」
「わかっています」
「わかっていて東にいる」
反論できない。
ルーカスが、小さく息を吐いた。怒っているわけではないらしい。困惑でもない。なんだろう、この表情。諦めに近いけれど、温かい何か。
「……地図を描いてやろうか」
「地図があっても迷うんです」
真顔で答えた。事実だ。前世でもカーナビがあっても迷子になった。地図が読めないのではなく、地図と現実の間のどこかで、注意力が金属製品に持っていかれるのだ。
ルーカスが一瞬、何か言いかけて、口を閉じた。それからもう一度開いて、また閉じた。
「……行くぞ」
歩き出したルーカスの後を追う。短剣の入った袋が重い。ルーカスが無言で袋を半分持ってくれた。
夕暮れの王都。石畳に二人の影が伸びている。並んで歩くと、ルーカスの歩幅が私に合わせて小さくなっていることがわかる。
「ルーカスさん。あの、迎えに来てくれたんですか。配達が遅いから心配して」
「……近くを通った」
嘘だ。運河沿いは近衛騎士の巡回ルートではない。
「ありがとうございます」
今日は言えた。声にできた。小さい声だけれど、確かに音になった。
ルーカスが、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
「……迷惑じゃない」
短い言葉。でも、その中に温度がある。
兵舎で短剣を納品し、工房への帰り道。ルーカスが最後に言った。
「明日から、しばらく来られない」
足が止まった。
国境だ。出征。わかっていた。わかっていたけれど、実際に聞くと、胃の底が沈む。
「……気をつけて」
「……ああ」
ルーカスの背中が、夕闇の中に消えていく。紺色の外套が、街灯の光に一瞬だけ照らされて、また暗がりに溶けた。
工房に戻ると、ガルドが炉の前にいた。
「嬢ちゃん。急げ。まだ剣が四本残ってる」
「……はい」
前掛けの紐を結び直す。金槌を握る。
あの人が使う武具を、あの人の部下が使う武具を、間に合わせる。
それが今、私にできる全てだ。
金槌を振り下ろす。かん。鉄が鳴る。
あの人が「しばらく来られない」と言った時、声がいつもより低かった。いつもの「ああ」より、ずっと。
かん。かん。
火花が散る。鉄が赤く光り、冷えて、また叩かれて。
前掛けのポケットの中で、父の手紙がかさりと音を立てた。二つの場所が、私を呼んでいる。伯爵家と、この工房。
答えはとっくに出ている。
かん。
この音が、鳴り続ける場所。ここが、私の帰る場所だ。




