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婚約破棄されたので、前世の腕を活かして武具職人になります ~なお、魔力はゼロです~  作者: 九葉(くずは)


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第7話 あなたの理論は正しい。でも、剣は折れた

忘れていたわけではない。ただ、思い出す必要がなかっただけだ。


アルヴィン・レクセンドの顔。声。あの日「用はない」と言った時の表情。記憶の奥に沈めていたそれが、工房の戸口に立つ人影で、一気に浮上した。


「久しぶりだね、リーネ」


アルヴィンは微笑んでいた。穏やかで、礼儀正しい。社交界で見せる顔。私は昔、この笑顔を信じていたのだろうか。もう思い出せない。


「レクセンド侯爵子息殿。何のご用でしょうか」


呼び方が変わったことに、アルヴィンの目が一瞬細くなった。


「堅い話はよそう。今日は依頼――というより、提案を持ってきた」


工房の中に入ろうとするアルヴィンを、ガルドが睨んだ。けれど私は手で制した。聞くだけ聞こう。


アルヴィンが椅子に座った。上等な外套。磨かれた靴。ただ――靴の金具が変わっていた。前に見た時は金メッキだった。今は銀。格が落ちている。侯爵家の金回りが悪くなっているのか。


「君の技術を正当に評価している。公開検証の結果も見た。魔力なしであの品質は驚異的だ」


「それはどうも」


「単刀直入に言う。侯爵家の専属職人として来ないか。報酬は金貨二十枚、月額。工房も設備も、最高のものを用意する。素材も侯爵家の鉱山から好きなだけ使っていい」


金貨二十枚。月額。今の工房の月収の十倍以上。設備も、素材も、全てが桁違い。


正直に言えば、揺れた。一瞬だけ。


前世の自分が囁く。設備が良ければ、もっと良い武具が作れる。個人の工房には限界がある。鋼の質、炉の温度管理、鍛造プレス。全部、資金力で差がつく世界だ。


――でも。


「お断りします」


アルヴィンの表情が固まった。


「理由を聞いても?」


「あなたは私の仕事を評価しているのではなく、私の仕事を管理したいんです。違いますか」


沈黙。アルヴィンの目の奥が、一瞬だけ剥き出しになった。苛立ち。焦り。そして――恐怖に近い何か。自分の理論を形にできる「手」を、他の誰かに取られることへの。


「感情で判断しているのか」


「いいえ。事実で判断しています」


立ち上がった。作業台の上に、修繕中の剣がある。その刃に、午後の光が走っている。


「あなたの理論は正しい。でも、剣は折れた」


アルヴィンが息を呑んだのが見えた。


「あなたの研究室が作った武具は、理論の上では完璧です。でも実際に騎士が振ったら折れる。焼き入れが甘いから。鍛接の精度が足りないから。あなたには理論がある。でも、手がない」


言い過ぎだ。わかっている。これは冷静な判断ではなく、感情が混じっている。あの日「用はない」と言われた屈辱が、今、言葉の刃に変わっている。


でも、止められなかった。


「私の手は、もうあなたのものではありません」


アルヴィンが立ち上がった。顔色が変わっている。


アルヴィンが戸口に向かった。その背中は、記憶の中のアルヴィンより少し狭く見えた。


「最後にひとつ」


振り返ったアルヴィンの目を、正面から見た。


「営業停止の虚偽通報。あれは、あなたの指示ですね」


アルヴィンの唇が、わずかに引き攣った。否定はしなかった。


「私の武具が魔力なしで作られていることは、公式に証明されました。次に同じ手を使えば、虚偽通報として問題になるのはそちらです」


静かに言った。声は震えていない。手も震えていない。ただ、こめかみの奥で血管が脈打っているのが自分でわかった。


アルヴィンが去った。外套の裾が戸口の角に引っかかって、一瞬もたついた。それだけの些細なことが、この男の余裕のなさを物語っていた。


エルマがこそこそと教えてくれた。「最近、魔導院でレクセンド家の研究実績に疑問が出ているらしいですよ。儀礼剣を修復したのが別人だって知れ渡って」


因果応報、というやつだろうか。ただ、嘘は長く保たない。


工房が静かになった。


ガルドが何も言わず、炉に薪をくべた。エルマが茶を淹れた。日常が戻ってくる。


◇◇◇


日が暮れた頃、ルーカスが来た。


アルヴィンの訪問を知っていたらしい。工房の近くで見守っていた、とエルマが言っていた。


何も聞かない。何も言わない。ただ、紙包みを作業台に置いた。今日はカーレン菓子店ではなく、リンデン通りの小さなパン屋の焼き菓子だった。素朴な、胡桃入りの。


「……いつもと違う店ですね」


「……近くに用があった」


嘘だ。リンデン通りに用事なんかあるわけがない。この人の「用事」は、全部この工房に来るための口実だ。エルマなら「それ、デートっていうんですよ」と言いそうだけれど、そういうのとは違う。――たぶん。いや、よくわからない。


でも、指摘しない。


胡桃の焼き菓子を齧った。素朴な甘さ。カーレン菓子店の上品な味より、今日はこっちの方がいい。


「ルーカスさん」


胡桃の欠片を飲み込んでから、こちらを見た。


「国境の話を聞きました。グランツ要塞で魔獣の動きが活発になっているって」


ルーカスの表情が、わずかに引き締まった。


「騎士団の一部が、出陣準備に入っている」


「あなたも?」


沈黙。それが答えだった。


喉の奥が、きゅっと狭くなった。不安とは違う。もっと別の何か。この人がいなくなることが、思ったより重い。理由がうまく言語化できないけれど、工房にルーカスが来ない日が続くことを想像したら、胃の底が少し沈んだ。


「……気をつけてください」


「……ああ」


短い返事。いつもと同じ。でも、今日のそれは、いつもより一拍遅かった。


ルーカスが帰った後、工房の窓から外を見た。リンデン通りの向こう、西の空が赤く染まっている。


国境の話。魔獣の活発化。騎士団の出陣。


私にできることは、良い武具を打つことだけだ。


アルヴィンの提案を断ったことは、正しかったのだろうか。前世の自分なら、条件の良い転職先を蹴るなんて馬鹿な真似はしなかっただろう。設備。素材。資金。全てが桁違い。もっと良い武具が作れたかもしれない。


――でも、あの花瓶を思い出す。婚約破棄の日に見た、中身が空洞の花瓶。見た目は立派でも巣が入っている。アルヴィンの下で働くことは、あの花瓶を量産するようなものだ。


自分の炉で、自分の手で、自分の判断で叩く。それを手放したら、前世の自分と何も変わらない。


炉の火を少し強くした。明日の仕事のために。ルーカスの部下たちが使う剣を、あと三本。間に合わせなければ。


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