第5話 火が消える日
その書状は、朝の仕事を始める前に届いた。
蝋で封じられた公式の書簡。王立魔導院の紋章。紙質が上等だった。繊維の密度が高く、表面が滑らかで、百年は保つ品だ。――今そんなことを見ている場合じゃない。
封を切る。
『鉄槌亭工房主殿へ。貴工房において、王立魔導院の許可なく魔力操作を伴う武具製造が行われたとの通報があった。本件の調査が完了するまで、当該工房の操業を停止するよう命ずる。王立魔導院監査局長』
文字が、目の前で揺れた。
「……なに、これ」
声が平坦だった。怒っているのか驚いているのか、自分でもわからない。
エルマが書状を覗き込み、顔色を変えた。ガルドが奥から出てきて、書状を受け取り、黙って目を通した。
「魔力操作なんて、していません」
自分の声が、他人のように聞こえる。
「儀礼剣の修復は全て物理的な鍛冶技術で行いました。魔力は一切使っていない。使えるわけがない。私には魔力がゼロなんですから」
ガルドが書状を作業台に置いた。
「通報者の名前がねえな」
匿名の通報。けれど、誰が通報したかは明白だった。あの夜、工房の前に立っていた侯爵家の使用人。アルヴィンの指示。「リーネは無許可の魔力操作で修復した」。そう報告したに違いない。嘘だ。私は魔力なんて使えない。使えるなら、そもそも婚約破棄されていない。
――儀礼剣の修復が成功し、騎士団の間でこの工房の評判が広がり始めた。アルヴィンにとって、それは都合が悪い。アルヴィンの研究室が納品した武具が、魔力なしの武具に負けている。その事実が広まる前に、潰しておきたい。
理屈はわかる。わかるからこそ、胃の底が重くなった。
「調査が終わるまで操業停止。調査にどれくらいかかるかは書いてない」
「ガルドさん――」
「嬢ちゃん。もう一度か……」
ガルドの声が、低く沈んだ。二十年前、魔力武具の台頭で仕事を失った時のことを思い出しているのだろう。あの時も、こうやって紙一枚で全てが変わったのか。
◇◇◇
受注していた騎士団の武具も、納品できなくなった。
エルマが注文書の束を抱えて、途方に暮れている。ルーカスの部下から持ち込まれた長剣も、門衛の槍の金具も、全て作業台の上に並んだまま。納期が迫っている仕事が五件。謝罪の手紙を書かなければならない。
「リーネさん、どうしましょう……」
「わからない」
正直に言った。策がない。わからないことを、わからないと認めるしかなかった。
炉の火を落とした。ふいごに触れる気力もない。
工房が、静かだった。鉄を叩く音のない工房は、抜け殻のようだった。
前世で、工場がリストラに遭った日を思い出す。あの時も、旋盤が止まった。蛍光灯だけが無意味に光っていて、切削油の匂いだけが残っていた。
また、同じことが起きている。
私が何かを作る場所が、奪われる。
――違う。奪われるんじゃない。奪わせているのは私だ。魔力に関わる法律を甘く見ていた。儀礼剣には元々魔力が宿っていた。それを修復した以上、魔力操作との境界線がグレーだということに、もっと早く気づくべきだった。
でも――法的には、調査されるだけの根拠がある。私の甘さが隙を作った。
二つの感情が、腹の中でぶつかっている。怒りと、悔しさ。自分に向けた悔しさは、怒りより始末が悪い。行き場がない。
◇◇◇
夜になった。
エルマは帰した。ガルドも奥の居室に引っ込んだ。工房に残ったのは私だけ。
炉は消えている。煉瓦の余熱すら、もう冷めている。作業台の上に、道具が整然と並んでいる。金槌。ヤットコ。火箸。砥石。
触れない。触れたら、何かが壊れる気がした。壊れるのは道具じゃない。私の方だ。
がらり、と戸口が開いた。
ガルドだった。手に、二つの茶碗を持っている。
「飲め」
麦茶。蜂蜜入り。温かい。
ガルドが金床の横に腰を下ろした。膝が軋む音がした。この人も、もう若くはない。私も、作業台の前の椅子に座った。椅子の脚が、石の床に擦れて低い音を立てた。
しばらく、何も言わなかった。
「嬢ちゃん」
「……はい」
「お前さんの腕は本物だ」
ガルドの声は低くて、静かだった。
「それだけは、誰にも奪えねえ」
返事をしようとした。「ありがとうございます」と言おうとした。あるいは「大丈夫です」と。
声が、出なかった。
喉が詰まっている。前世から今生まで、ずっと。自分の手で作ったものを正当に評価されなかった。前世の工場では、私が削った部品は「誰が作っても同じ」と言われた。この世界では、婚約者の論文の材料にされた。
手が震えている。金槌を握ろうとして、握れない。震えが止まらない。
でも。
震える手で、金槌を持ち上げた。
作業台の隅に、朝の仕事の前に切り出していた鉄の端材がある。何を作るわけでもない。ただの鉄くず。
炉に火はない。冷えた鉄を叩いても意味はない。
それでも、叩いた。
かん。
金床の上で、冷たい鉄が鳴った。乾いた音。前世の旋盤の回転音と、全然違う音。でも、手のひらに返ってくる振動は同じだ。
止まったら、終わる。
かん。かん。かん。
音が、工房に響く。意味のない音。でも、手が動いている。手は、まだ動く。
ガルドが何も言わずに立ち上がり、奥に消えた。
◇◇◇
どれくらいそうしていたか、わからない。
戸口に気配がした。
振り返ると、ルーカスが立っていた。紺色の外套。夜の街を走ってきたのか、息がわずかに乱れている。
何も言わない。ただ、工房の入口に立って、こちらを見ている。
私の手は、まだ鉄を叩いていた。
ルーカスは中に入らなかった。工房の外の壁にもたれて、腕を組んだ。そのまま、動かない。
――ああ。この人は、何も聞かないんだ。何があったかとも、大丈夫かとも。ただ、ここにいる。
手を止めた。金槌を置く。冷えた鉄の上に、無数の叩き跡が残っていた。
「……証明するしかない」
声が掠れていた。
「この武具に、魔力がないことを」
ルーカスが、かすかに頷いた。
言葉の代わりに、あの人の存在が答えだった。
窓の外で、夜風がリンデン通りの看板を揺らしていた。「鉄槌亭」の文字が、街灯の光の中で影になったり、浮かんだり。
消えてなるものか。
この看板を。この工房を。この手を。




