第3話 最初の一振り
前世で叩いた鉄は何万回になるだろう。異世界の鉄はまだ百回にも満たない。
けれど、手は少しずつ覚え始めていた。
儀礼剣の修復と並行して、工房には小さな仕事が入るようになっていた。騎士の実戦用剣の刃こぼれ直し。農具の修理。門番の槍の柄金具の交換。銀貨数枚の仕事ばかりだが、鉄に触れる時間が増えるのはありがたかった。
「嬢ちゃん、その鉈の刃付け、もう少し角度を寝かせろ。この辺りの木は堅い」
ガルドの指導は的確で短い。余計なことは言わない。必要なことだけを、必要な分だけ。前世の工場長と同じだ。あの人も、旋盤の前では無駄口を叩かなかった。
エルマが帳簿をつけている横で、私は設計図を描いていた。羊皮紙にインクで、刃の断面図と温度管理の表を。前世ならCADで済んだ作業を、手描きでやる。不便だけれど、手を動かすと頭が整理される。
「リーネさん、それ何の図ですか?」
「刃の構造図。硬い鋼と柔らかい鋼を組み合わせて、折れにくくて切れる刃を作る設計」
「へえ。お菓子の層みたいですね、パイ生地の」
――なるほど。パイ生地。確かにそうだ。硬い層と柔らかい層を交互に重ねるという意味では、パイ生地の構造と同じだ。エルマはときどき、妙に本質を突いたことを言う。
三週間が経った日。
私は一本の剣を打ち上げた。
儀礼剣ではない。実戦用の片手剣。鉄槌亭にある素材だけで作った、魔力を一切使わない武具。
前世の知識を総動員した。炭素含有量の調整。焼き入れ温度の最適化。刃と峰の硬度差を出すための焼き分け。それを全部、この世界の魔鉄鋼に置き換えて、ガルドに教わった油冷の技法と組み合わせた。
ガルドが刃を指の腹で確認し、天井の梁に向かって軽く振った。
「……ふん」
それだけ。でも、口元がかすかに緩んだのを私は見逃さなかった。
◇◇◇
ルーカスが来たのは、その翌日だった。
儀礼剣の修復の進捗を確認するため、という名目。週に二度ほど、非番の日に工房を訪れるようになっていた。
「試作品を見てもらえますか」
私が差し出すと、ルーカスは無言で受け取った。
工房の裏手にある小さな広場。ルーカスが剣を構える。一振り、二振り。速い。前世で見たどの動画の剣術より、ずっと無駄がない。
三振り目で、ルーカスの表情が変わった。ほんの一瞬。目が見開かれ、すぐに戻る。
「……切れる」
短い言葉。でも、その後ルーカスがもう一度剣を構え直したことが、何より雄弁だった。二度目は、より速く。三度目は、踏み込みを変えて。この人は剣を試しているのではなく、剣と対話していた。
前世の工場で、新しい刃物を手にした職人が見せる表情を知っている。言葉にする前に、手が先に理解する。あの瞬間の目の輝きは、どの世界でも同じだ。
「騎士団で使っている剣と比べて、どうですか」
ルーカスが手元の剣を見つめた。柄を握り直し、もう一度振る。
「レクセンド侯爵家が納品した剣より、重心が安定している。刃の抜けもいい」
「魔力は一切使っていません」
沈黙。
「嘘じゃないのか」
「私に魔力はありません。ゼロです」
ルーカスの視線が、剣から私の手に移った。火傷と切り傷だらけの指先を、無言で見つめている。
「……悪くない」
また、あの言い方。でも、前回よりも声が低かった。褒めているのだと、たぶん、思う。
◇◇◇
問題は、その後に起きた。
材料の追加発注のために市場に向かった。工房から市場までは、リンデン通りをまっすぐ北に歩いて、広場を左に曲がれば着く。ガルドにそう教わった。
まっすぐ北に歩いた。はずだった。
気がついたら、工房の南にある運河沿いにいた。
――なぜ。
いや、わかっている。途中で鋳物屋の看板が目に入って、ショーウインドウの鋳鉄の置物の出来が気になって、近くで見ようとしたら路地に入り込んで、路地の先にあった鉄柵の溶接が面白くて、そのまま――。
「ロズワール嬢」
背後から声がした。振り返ると、ルーカスが立っていた。紺色の外套。無愛想な顔。
「なぜ南にいる」
「……すみません。道を間違えました」
「市場は北だ」
「わかっています」
わかっているのに逆方向に来ている。ルーカスの表情が、無愛想から困惑に変わる微かな変化を、私は見逃さなかった。
何も言わず、ルーカスが歩き出した。私の半歩前。ちらりと振り返って、私がついてきていることを確認してから、また前を向く。
市場までの道を、二人で歩いた。
ルーカスの歩幅は大きいのに、不思議と置いていかれない。たぶん、意識して速度を落としている。前世の上司は、私が道を間違えるたびに呆れた顔をした。この人は、呆れた顔すらしない。
市場の入口で、ルーカスが足を止めた。
「ここからはわかるか」
「たぶん」
「……たぶん」
初めて、ルーカスが困った顔をした。口を引き結んで、何か言いかけて、やめる。
結局、市場の中まで一緒に来た。私が鉄材を選んでいる間、三歩後ろに立っていた。
帰り道はさすがに覚えていた。一度通った道は――嘘だ。途中で一回だけ左右を間違えかけて、ルーカスが無言で私の肩に手を置いて、正しい方向に向けた。
「ありがとうございます」
「……ああ」
工房の前で別れる。ルーカスの背中が遠ざかっていく。
エルマが戸口から顔を出した。
「リーネさん、あの中隊長殿、なんで一緒だったんですか?」
「道に迷って……」
「えっ。市場って、まっすぐ行くだけじゃ……」
「まっすぐが、うまくいかないんです」
エルマが何か言いたそうな顔をした。
途中、市場の露店で見かけた鋳鉄の鍋のことを思い出す。底の厚みが均一でなかった。左側が薄くて、右側が厚い。偏肉。量産品の鋳型が歪んでいるのだろう。あまりに気になって、露店の主に「この鍋、偏肉してますよ」と言ってしまった。主はきょとんとした顔をしていた。
そういう余計なことをするから、道に迷うのだ。わかっている。わかっているけれど、目に入った金属の欠陥を見過ごすことができない。それは前世からずっとそうで、たぶん来世でも直らない。
その夜、ルーカスが立ち寄った騎士団の兵舎で、若い騎士たちがこんな噂をしていた。
「おい、知ってるか。リンデン通りの鉄槌亭って工房。あそこの剣がいいらしいぞ」
「魔力なしの剣が、侯爵家の武具より切れるって? まさか」
「中隊長殿が使ってみたらしい。無言で三回振り直したって」
噂は、少しずつ広がり始めていた。
その噂が誰の耳に届いたのか。翌朝、工房の前に上等な馬車が止まっていた。降りてきたのは、見覚えのある顔。マリエラ・フォーゲル。あの婚約破棄の場で微笑んでいた男爵令嬢。
「まあ、本当にここで鍛冶をしていらっしゃるのね」
声の甘さが、計算通りの角度。この人の言葉はいつも、表面は柔らかくて、芯に針が仕込んである。
「何かご用ですか」
「いいえ、ただお元気かしらと思って。――社交界では、皆さん心配していますのよ。伯爵家のお嬢様が、こんな場所で」
こんな場所。工房を見回すマリエラの目に、蔑みはない。もっと厄介な何か――憐れみを装った優越感。
「ご心配なく。仕事が忙しいので」
「ええ、そうみたいね。騎士団の方々にも評判だとか」
微笑み。その微笑みの裏で、何を計算しているのか。アルヴィンに報告するのだろう。元婚約者が職人街で成功し始めていることを。
マリエラが去った後、エルマが言った。「あの人、怖いですね。笑顔なのに」。
的確な観察だった。




