第2話 折れた剣
異世界の鉄は、前世の鉄と匂いが違った。
前世の工場は切削油の匂いが染みついていた。甘ったるくて、少し焦げた、あの独特の匂い。この世界の鍛冶場は、煤と炭と、それから――なんだろう。言葉にできない何かが混じっている。ガルドは「鉄の息だ」と言った。
工房に通い始めて二週間。私はまだ、この世界の鉄に手こずっていた。
「また割れたぞ」
ガルドが金床の上の鉄片を指さす。焼き入れの温度を間違えた。前世の鋼と同じ温度で処理したら、あっさり割れた。この世界の魔鉄鋼は、組成が違う。
「温度が高すぎました」
「高いんじゃねえ。冷やし方が急すぎるんだ。魔鉄鋼は水じゃなくて油で冷ます。ゆっくり、な」
ガルドの手が、割れた鉄片を炉に戻す。節くれだった指。爪の間に鉄粉が入り込んで、もう取れなくなっている。前世の工場長の手に似ていた。
私は油の入った桶を用意し直した。温度を変え、焼き戻しの時間を延ばす。
二度目。また割れた。断面が前回と違う。結晶が粗い。冷却速度の問題ではなく、加熱時間か。
三度目。炉に入れる時間を長くし、鉄の芯まで熱が通るのを待った。油に沈めた瞬間、じゅう、と短い音がする。前世の焼き入れの音とは全然違う。もっと低くて、長い。
引き上げる。叩いてみる。響きが変わった。芯が詰まっている音。割れない。
三度目で、ようやく鉄が割れずに残った。
「……悪くない」
ガルドの一言。短い。けれど、その声の温度が少しだけ変わったことに、私は気づいた。
◇◇◇
その日の午後だった。
工房の戸口に影が差した。逆光で顔が見えない。ただ、肩幅が広い。背が高い。紺色の外套の裾に泥はついていないが、ブーツの踵が均等に減っている。規則正しい歩き方をする人間の靴だ。
「鉄槌亭か」
低い声。主語がない。
「はい。何かご用でしょうか」
影が一歩進んで、炉の明かりに照らされる。若い男。二十代後半。彫りの深い顔立ちに、無愛想という言葉をそのまま貼り付けたような表情。近衛騎士団の紋章が外套の胸にある。
男は何も言わず、布に包まれた細長いものを作業台に置いた。布を解く。
剣だった。正確には、剣だったもの。
真ん中で折れている。
断面を見た瞬間、指が勝手に動いた。折れた面に触れる。粒子の粗さを指先で確認する。前世の癖だ。金属の断面は、触ればわかることが多い。
「……これを打ったのは、どこの鍛冶師ですか」
男の眉がわずかに動いた。
「レクセンド侯爵家の御用鍛冶だ」
侯爵家。アルヴィンの家か。こめかみの奥が、きゅっと締まる。――そうじゃない。苛立っているのは元婚約者の名前が出たからじゃなくて、この剣の出来に対してだ。
「鋼の選び方は悪くありません。でも、焼き入れが甘い。そしてここ――」
断面の中心部を指す。
「芯部の炭素が偏っています。鍛接の段階で、内と外の温度差を均一にできていない。設計思想は正しいのに、実装が追いついていない」
前世の品質管理部にいた頃と同じことを言っている自分に気づく。理論は立派なのに、実物が伴わない。それはアルヴィンの研究そのものだった。
――というより、私が婚約中にやっていたのが、まさにこの「実装」の部分だった。アルヴィンの理論を、私の手で形にする。それが暗黙の分業だった。
男が言った。
「王家の儀礼剣だ」
手が止まった。
「他の鍛冶師に断られた。三軒」
儀礼剣。王家の紋章が刻まれた、国の象徴のひとつ。それが折れた。近衛騎士がわざわざ廃業寸前の工房に来たのは、他に行き場がなかったからだ。
「折れた原因を特定できます。修復も、たぶん」
「たぶん、では困る」
「……修復します」
男の目を見た。暗い灰色。感情の読めない目。だが、その奥に何かが沈んでいることは、わかった。この剣が折れたことに対する――責任感、とでも言うべきものが。
「……頼む」
男が頭を下げた。近衛騎士が、職人街の端の工房の、小娘に。
名を聞いた。ルーカス・ヴァイス。近衛騎士団中隊長。
ルーカスが戸口に向かう背中を見送りながら、奇妙なことに気づいた。去り際に一瞬だけ、あの灰色の目が私の手元に落ちた。正確には、金槌を握っていた私の指に。それが何を意味するのか、そのときはわからなかった。
エルマ――ガルドの孫娘で、工房の事務を手伝っている十六歳の少女――が、裏口からひょっこり顔を出した。
「リーネさん、今の人、すっごい怖い顔でしたね」
「そうだった?」
「鬼みたいでしたよ。でも、剣を置くとき、すごく丁寧でした」
確かにそうだった。剣を作業台に置く手つきだけは、妙に慎重だった。壊れ物を扱うように。いや、壊れてしまったものを。
ルーカスが去った後、ガルドが奥から出てきた。
「ありゃあ大仕事だぞ、嬢ちゃん」
「わかっています」
折れた儀礼剣を手に取る。重い。前世の記憶にある、どの鋼材とも違う手触り。冷たくて、でも芯に微かな熱が残っている。
「ガルドさん。この鋼、魔鉄鋼ですよね。でも普通の魔鉄鋼と違う。もっと……密度が高い」
「侯爵家の鉱山の鋼だろうな。レクセンド鉱は質がいい」
侯爵家の鉱山。つまり、修復に必要な素材は元婚約者の家が握っている。
指先が冷たくなる。けれど、それは不安とは違った。不安というより――うまく言えない。挑まれている、という感覚が近い。この鉄が、私に問いかけている。お前に直せるのか、と。
この剣を直す。私の手で。
鉄は正直だ。誰が打ったかなんて関係ない。正しい温度で、正しい角度で、正しい力で叩けば、鉄は応える。
炉の火を起こした。ふいごを踏む。ルーカスが座っていた椅子の背に、あの紺色の外套の留め金が引っかかって小さな傷をつけていたことに、今更気づく。
あの留め金、型が歪んでいた。量産品の安い鋳造。近衛騎士の装備にしては粗末だ。
――また余計なことを見ている。
けれど、手は止めない。鉄を火に入れる。この世界の鉄の声を、もう少しだけ聞きたかった。
エルマが麦茶を持ってきてくれた。蜂蜜入り。温かい。
「リーネさん、本当に直せるんですか。あれ」
「直す」
「すごい自信ですね」
自信とは少し違う。ただ、手が覚えている。前世で十年分、この世界でまだ二週間分。足りないのは知っている。でも、この手が鉄を叩くことを覚えている限り、諦める理由がない。
窓の外では、日が傾き始めていた。リンデン通りの石畳に、鍛冶場の煙の影が長く伸びている。
明日は、折れた断面の組成分析から始めよう。前世の知識と、この世界の素材と、それからガルドが教えてくれた「油で冷ます」技術。全部を組み合わせれば、道はあるはずだ。
たぶん。
――いや、たぶん、じゃない。やる。




