第10話 鉄槌亭の朝
鍛冶場の朝は、いつも鉄の匂いで始まる。
煉瓦の炉に残った昨夜の灰。金床の冷たい表面。工具掛けに並んだ金槌とヤットコ。天窓から差し込む朝の光が、鉄粉の浮かぶ空気をきらきらと照らす。
前世の工場は、蛍光灯の白い光で始まった。始業ベルが鳴って、旋盤のスイッチを入れて、切削油の甘い匂いの中で一日が回り始める。
今は、ふいごの音で始まる。自分の足で踏んで、自分で風を送る。誰かが用意したスイッチはない。全部、自分の手と足で。
それが、たまらなくいい。
◇◇◇
国境防衛の功績から一ヶ月が経った。
王室から感状が届いた。「魔力によらぬ武具の技、国の宝なり」。羊皮紙に金文字。王家の紋章入りの蝋印。
エルマが感状を額に入れて工房の壁に飾った。ガルドは一瞥して「ふん」と言っただけだったが、次の日、額の位置を二センチほど右に動かしていた。光の当たり具合が良くなる位置に。
アルヴィンのその後は、エルマが仕入れてきた噂で知った。
魔導院での地位を失い、侯爵家の武具事業は大幅に縮小。マリエラとの婚約話も流れた。アルヴィン自身は地方の研究機関に異動するらしい。
破滅ではない。アルヴィンの魔法理論の才能は本物だから、いずれまた論文を出すだろう。ただ、他人の手を借りて手柄を横取りすることは、もうできない。
不思議と、胸がすく感覚はなかった。ざまぁ、と思える自分を期待していたけれど、実際に浮かんだのは「ああ、終わったんだな」という静かな感覚だけだった。
あの日、「魔力のない女に用はない」と言われた。あの言葉は、ずっと喉の奥に刺さっていた。小骨のように。でも今、それが溶けていくのを感じる。消えるのではなく、別のものに変わっていく。
魔力がない。それは事実だ。でも、魔力がないからこそ作れたものがある。魔力がないからこそ、辿り着いた場所がある。
「用はない」の反証は、言葉ではなく、この手が作った剣たちだった。
――もう、あの人のことを考えなくていい。
◇◇◇
昼過ぎ、工房の前に見慣れない馬車が止まった。
ロズワール家の紋章。父だ。
ヘルムート・ロズワール伯爵が、工房の戸口をくぐった。上等な外套が煤で汚れるのも構わず、工房の中を見渡す。
「……ここが、お前の」
「はい。鉄槌亭です」
父の目が、壁の感状に止まった。王室からの金文字。それから、作業台に並んだ武具。金床。炉。私の手。
長い沈黙。
「縁談の件――」
「お父様」
「……なんだ」
「ここが、私の場所です」
父の唇が、かすかに震えた。何か言おうとして、飲み込んで、もう一度口を開く。
「……お前の好きにしろ」
不器用だ。父も、不器用だ。ルーカスとは違う種類の不器用さ。「好きにしろ」の中に、何年分かの心配と、認めたくない誇りと、手放す寂しさが全部入っている。
「ありがとうございます」
今日は言えた。前から言いたかった言葉。声は小さかったけれど、確かに音になった。
父が一瞬、目を伏せた。それから、前掛け姿の私を見て、かすかに笑った。見たことのない表情だった。
「……母さんに似てきたな」
それだけ言って、父は馬車に戻った。振り返らなかった。
エルマが横で泣いていた。「お父さん、いい人じゃないですか」と鼻をすすりながら言うので、「泣くほどのことじゃないでしょう」と返した。自分の目の端が少し熱かったことは、言わなかった。
◇◇◇
夕方。
ルーカスが来た。非番だ。いつもの紺色の外套。手に、例の紙包み。
「余ったから」
カーレン菓子店の贈答箱。もう何度目だろう。
エルマが工房の奥から声を上げた。
「あ、ルーカスさん。この前カーレン菓子店の前を通ったら、お店の人が言ってましたよ。『近衛の中隊長殿、毎週来てくれるお得意様で』って」
ルーカスの動きが止まった。完全に。
耳が――耳だけじゃない。首まで赤い。
「……エルマ」
「はい?」
「……余計なことを」
「事実ですよ?」
沈黙。ルーカスが天井を仰いだ。それから、ゆっくり私を見た。
私も、ルーカスを見た。赤い耳。困り果てた目。外套の裾を掴む手。この人は本当に、剣を振る時以外は全部不器用だ。
「……知ってました」
ルーカスの目が見開かれた。
「包み紙が贈答用だったので。最初から」
「…………」
ルーカスが、もう一度天井を仰いだ。長い沈黙。
「……ずっと黙っていたのか」
「言ったら、持ってこなくなるかと思って」
今度はルーカスが固まった。私も、自分が何を言ったか一秒遅れで理解して、耳の後ろが熱くなった。
エルマが「きゃー」と小さく叫んで、ガルドに引きずられて奥に消えた。
◇◇◇
工房の軒先。
二人で並んで、焼き菓子を食べている。アーモンドの香り。バターの風味。夕暮れの風が、リンデン通りを吹き抜けていく。
「……また迷子になったら、迎えに来てくれますか」
声が小さかった。自分でも聞こえたか不安になるくらい。
ルーカスが、焼き菓子を持つ手を止めた。
短く頷く。いつもの無愛想な顔。でも、口元の力が、ほんの少しだけ抜けていた。
並んで座っていると、ルーカスの肩が私の肩にほとんど触れている。触れていないけれど、温度が伝わってくる距離。
ふと、ルーカスのブーツに目が行った。踵の減り方。左足の外側が、右足より多く削れている。
「……左足の外側、削れてます。歩き方に癖がありますね」
言ってから、しまったと思った。なぜ今、そんなことを。
ルーカスが、ゆっくりこちらを見た。
「……それは告白の返事か?」
「え」
「いや」
「え?」
沈黙。二人同時に視線を逸らした。
朝日が――もう夕日か。鉄槌亭の看板を、橙色の光が照らしている。「鉄槌亭」の文字が、夕暮れの中で温かく浮かんでいる。
工房の戸口に、新しい注文書が一通、挟まっていた。
私の毎日は、明日も続く。鉄を叩いて、武具を作って、道に迷って、迎えに来てもらって。
――なんだ。それって、つまり。
ああ、もう。うまく言えない。
でも、焼き菓子は美味しかった。隣にいる人の肩は温かかった。
ただ、それだけ。
明日の朝も、鉄の匂いで目が覚めるだろう。炉に火を入れて、ふいごを踏んで、金槌を握る。ルーカスが非番の日には焼き菓子を持って来て、私はルーカスの武具の手入れをする。市場に行けば道に迷い、ルーカスが迎えに来る。
前世では得られなかったものが、ここにある。
帰る場所と、迎えに来てくれる人。
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