第1話 魔力のない女に用はない
「魔力のない女に用はない」
その言葉を聞いた瞬間、私が最初に思ったのは「やっと帰れる」だった。
――いや、違う。正確に言えば、ほっとした。肩に乗っていた何か重たいものが、するりと落ちていく感覚。それは悲しみとか怒りとか、そういう名前のつくものではなかった。
レクセンド侯爵家の応接室。磨かれた大理石の床に、私の影が長く伸びている。向かいに座るアルヴィンの表情は、もう見ていなかった。
代わりに目が行ったのは、アルヴィンの背後にある鋳物の花瓶だった。
口縁部に微かな凹み。鋳型の合わせ目にバリが残っている。そして――ああ、やっぱり。内側に巣が入っている。空洞だ。この花瓶、見た目は立派だけれど中身がない。
なんというか、よく出来た冗談みたいだった。
「聞いているのか、リーネ」
アルヴィンの声で意識が戻る。端正な顔立ちに、かすかな苛立ちが浮かんでいた。王立魔導院の若手研究員。魔法理論の天才。私の――もう元、か――婚約者。
「ええ、聞いています」
声は思ったより平坦に出た。
「魔力のない女に用はない。明快ですね」
アルヴィンが眉をひそめる。泣くとか、取り乱すとか、そういう反応を期待していたのだろうか。残念ながら、私の頭の中はまだあの花瓶の巣のことでいっぱいだった。
隣に座っていた男爵令嬢――マリエラ・フォーゲルが、控えめに微笑んでいる。その微笑みの精度が妙に高いことに、私は今更ながら気づいた。社交界で「リーネ・ロズワールは魔力ゼロ」という噂を丁寧に撒いたのは、たぶんこの人だ。
まあ、いい。事実だし。
「では、婚約破棄の書類に署名を」
アルヴィンが羊皮紙を差し出す。インクの質が良い。鉄胆インク。酸化鉄の濃度が高くて、百年経っても褪せないやつだ。――また余計なことを考えている。
署名した。ペンを置く。立ち上がる。
振り返らなかった。
ただ、廊下に出た瞬間、指先がかすかに冷たくなったことだけは覚えている。ほっとしたはずなのに、喉の奥に何かが引っかかっていた。「用はない」。その言葉だけが、飲み込んだ小骨みたいに、いつまでも。
◇◇◇
伯爵邸に戻ると、父が書斎で待っていた。
「あの小僧、許さんぞ」
ヘルムート・ロズワール伯爵は、拳でデスクを叩いた。インク壺が跳ねて、羊皮紙に黒い染みが飛ぶ。
「違約金は受け取ります。金貨二百枚」
「金の問題ではない。ロズワール家の名誉が――」
「お父様」
私は父の目を見た。前世の記憶がある。町工場で十年、旋盤を回していた三十二年間の記憶。そのうち十年分の手の感覚が、今もこの指先に残っている。
「私、鍛冶師になりたいんです」
父の顔が固まった。インク壺を拾い上げようとしていた手が、中途半端な位置で止まる。
「……何を言っている」
「鍛冶です。鉄を打って、武具を作る」
沈黙。父の書斎の振り子時計だけが、かちこちと音を刻む。前世なら、壁掛け時計の秒針の音だった。あの音も、こんなふうに静寂を切り刻んでいた。
「伯爵家の令嬢が、鍛冶師だと?」
「違約金の一部を、開業資金にいただけませんか。金貨五十枚で足ります」
父が何か言おうとして、口を閉じた。もう一度開いて、また閉じる。
私は知っている。この人は最後には折れる。母が亡くなってから、私が何かを「したい」と言ったことは一度もなかったから。
三日後、金貨五十枚を懐に、私は伯爵邸を出た。父は見送りに来なかった。書斎の窓から、こちらを見ていた気配だけがした。
◇◇◇
王都クレスタークの東外れ。職人街リンデン通り。
石畳の道を歩きながら、私は工房を探していた。正確に言うと、探しているつもりだったが、たぶん三回は同じ角を曲がっている。前世でも、工場と自宅の最短経路を覚えるのに三年かかった。
――というより、方向の問題ではなく、目に入るものが多すぎるのだ。露店の鉄鍋の底の厚みとか、街灯の支柱の溶接跡とか、窓格子の鋳造の精度とか。気になるものが多すぎて、足が勝手に寄り道する。
そうやって迷い込んだ路地の奥に、それはあった。
煤けた看板。「鉄槌亭」。
炉の煙突から細い煙が上がっている。けれど工房の扉は半開きで、中から槌音は聞こえない。覗き込むと、老人がひとり、使い込まれた金床の前に座っていた。
腰が曲がっている。手には何も持っていない。ただ、炉の残り火を見つめている。
「すみません」
声をかけると、老人がゆっくり振り向いた。深い皺。だが、目だけが鋭い。
「ここで鍛冶をさせてほしいのですが」
老人――後に知るガルドという名の鍛冶師――は、私を頭のてっぺんから爪先まで眺めた。伯爵家の令嬢の格好をした若い女が、鍛冶をしたいと言っている。渋い顔をするのは当然だろう。
「帰んな、嬢ちゃん。ここは遊び場じゃねえ」
「では、見せます」
工房の隅に転がっていた鉄くずを拾い上げる。手のひらに収まるほどの、歪な塊。
炉の残り火を掻き起こす。ふいごを踏む。鉄を火に入れる。
温度を見る。色で判断する。前世の焼き入れの感覚。桜色――いや、この世界の鉄はもう少し赤が深い。まだ足りない。もう少し。
ふいごの音が工房に響く。革が軋む古い音。前世の工場にはコンプレッサーがあった。スイッチひとつで空気が出た。ここでは足で踏む。一踏みごとに炉の温度が変わるのがわかる。
金槌を取る。柄の木が汗を吸って黒ずんでいる。誰かが何千回も握った跡。金床に鉄を置く。叩く。
手が覚えている。
一打、二打、三打。形が変わっていく。鉄が応えている。この世界の鉄は、前世の鉄より素直だった。叩けば叩くほど、言うことを聞く。
――違う。素直なんじゃなくて、私がまだこの鉄のことを知らないだけだ。知らないから、余計な力が入っていないだけ。
五分後。手のひらの上に、小さな小刀が載っていた。
荒削り。仕上げはまだ。でも、刃筋は通っている。
ガルドが小刀を受け取り、親指の腹で刃を確認した。長い沈黙。
「……明日から来い」
短い一言。でも、その声には鉄の匂いがした。
工房の炉に、まだ火が残っている。赤い光が、煤けた天井に揺れている。
私は初めて笑った。笑ったのかどうか、自分ではよくわからない。ただ、指先がまだ温かかった。鉄を叩いた余熱が、手のひらに残っている。
明日から、ここに来る。




