第二十三話
月明かりの下、ポツンと佇む、華奢な影がひとつ。
その影の目線の先には、まるでおとぎ話に出てくるような、小さくて目立たないけれど、主人を温かく迎えてくれそうな、そんな家があった。
「…ごめんなさい…。
でも、あなたが、…私を、選ばないから…。」
誰からの愛情も失ってしまった。
生きる価値すらも無くしてしまった。
その手にあるのは鋭いナイフ、たったそれだけ。
ああ、神様。
生まれてきたことが、間違いだったのでしょうか。
女に生まれたことがいけなかったのでしょうか。
リオに恋してしまったことが、罪だったのですか。
この時代でなければ。
この国でなければ。
いくつもの後悔と自責の念が、ロゼリアを押し潰していく。
「ごめんなさい…、さようなら。」
ドアノブに手をかけたその時、大きな手がロゼリアの手に重なった。
そんなはずはない。彼は家の中にいる。
振り返るとそこにいたのは、冷たい視線を放つディナだった。
「…っ、どうして、ここに…。
離してください…っ!」
ディナはロゼリアの両手首を掴み、リオの家から遠ざかろうとした。
ロゼリアは抵抗した。
その手に握ったナイフだけは、離すまいと必死だった。
「離して…!だめなの、私じゃなきゃ…!
邪魔しないで!こうでもしないと、わたくし、私が、お父様に捨てられちゃう…!!」
暴れた拍子に、ナイフがディナの頬に小さな傷をつけた。見えなくとも、何かを切っただろうことは手の感触からロゼリアにも伝わった。
彼女は動きを止め、収まらぬ震えに耐えながらディナを振り返る。
「あ…あ…、ご、ごめんなさい…!
そんなつもりじゃ…!」
「…私は、あなたの苦しみなど存じ上げませんし、関心もございません。」
ディナは掴んでいた手を離し、頬に伝う血を拭いながらロゼリアに向き直った。その声は変わらず無機質で、何の情も込められてはいない。
「ですが、私の知るあなたは、リオ様を本当に大切に想われていました。それをあなた自身で否定する意味が、私には理解できません。」
ディナの声に温かみなどないのに。
それでもようやく、ロゼリアの目からは涙が溢れ、まるで子供のように声を上げて泣き出した。
しばらくディナは彼女のそばで泣き止むのを待ったが、その前にリオの家の扉が開いた。
あれだけ騒いで、女性の泣き声まで聞こえれば無理もない。
「…一体、何を…?…ロゼリア?」
名前を呼ばれ、ロゼリアはリオを見上げた。
バカみたいだ。
ただの名前なのに、呪いにも救いの声にも聞こえるだなんて。
ロゼリアはまっすぐにリオの目を見つめた。
「…私、リオ様の目、とてもきれいだと思っています。」
目の前の光景も、ロゼリアの発言も、理解するには時間が足りない。
それでもリオは、その金色の目にロゼリアの姿を映した。
「…僕は、自分の目には良い思い出がありません。
だけど、あの日…君がきれいだと言ってくれたから、きっとそうなんだと思って生きてきました。」
ロゼリアは一瞬目を見開き、それからすぐにはにかむように笑顔を咲かせた。
「…ずっと、お慕いしております。リオ=エスペール様。」
翌日、ロゼリアは護送のための馬車に揺られていた。
未遂といえど、神の目を殺害しようとした罪が消えることはない。
その腕には、バラの髪飾りをつけたクマのぬいぐるみが抱かれている。
足元に落ちた真っ白な羽根は誰にも気付かれることなく、小さな窓から空へと消えていった。
「リオ、何だか大変だったみたいだね?大丈夫?」
心配とは程遠い、相変わらず呑気な声がリオの部屋に響く。
リオはこくりと頷くも、窓の外をぼんやりと眺めていた。
「…リオ様。」
ディナの声はいつも以上に澄み切っていて、リオは思わず振り向いた。
「差し出がましいこととは存じております。
ですが、…突き放すだけが、優しさではありませんよ。」
結局、わからなかった。
昨夜何があったのかも、ディナの言っていることも、そしてロゼリアの告白も。
きっといずれ、その日の出来事など忘れてしまう。
だけれど、言葉の重みが、胸の燻りが、消え去ってくれる日は来ないだろうと、リオはそう予感していた。
お読みいただきありがとうございます。
退場したルドルフもロゼリアも、どこかで幸せになっててほしいですね。そんな小話も書くかもしれません。
次回より第三章となります。