研究員N
私は研究施設の冷たいガラス越しに、その生き物を見つめる。
それは後に「ヒト」だと記憶した。
発見されたのは二年前。アフリカの砂漠で、考古学者の一団が人類の祖先に似た骸骨を掘り出した。しかし、その骨はホモ・サピエンスとは微妙に異なる特徴を持っていた。DNA鑑定の結果、彼らは未知のヒト属——ホモ・ネクサスと名付けられた新たな種であることが判明した。
政府は極秘裏にサンプルを採取し、クローン技術を用いて復活を試みた。初めの試みは失敗に終わったが、最新の遺伝子操作技術を駆使することで、ついに「彼ら」は生き返ったのだった。
研究施設δでは世界に公表されていない研究が多くされている。クローン技術はもちろん擬似ブラックホールの生成、生物同士の合成、洗脳や記憶改竄が可能な機械などだ。
私は研究員の一人として、彼らの行動を観察し、記録する役割を担っている。
ガラスの向こう側にいるホモ・ネクサスは、幼児から成長し、今では成人男性ほどの体格になっていた。だが、彼らの知能はまだ未知数だ。動物のように振る舞う時もあれば、人間のような思考を示す時もある。
私は無意識に拳を握りしめた。
「……なぜ、こんなものを生み出したんだ?」
小さくつぶやいた声に、後ろから主任研究員の声が重なる。
「人類の進化の秘密を解き明かすためさ」
主任研究員はガラスを指で叩いた。すると、ホモ・ネクサスの一体がこちらをじっと見つめた。
「……いや、違うな」主任は笑う。「真実を知るために作ったんじゃない。我々が“神”であることを証明するために作ったのさ」
私は背筋に冷たいものを感じた。
研究は順調に進んだ。
ホモ・ネクサスは、我々の言語を理解し始め、簡単な単語を発するようになった。知能の発達は著しく、彼らは互いに協力し、道具を作り、火を使うことすら学習した。
しかし、問題も生じていた。
ホモ・ネクサスは、鏡を見せると必ず怯えた。まるでそこに映るものが、自分自身ではなく、何か別の存在であるかのように。
そして私が彼らに接する時と同じ表情を浮かべるのであった。憎んでいるかのように、恐怖しているかのように、安堵しているかのように。
さらに奇妙なことに、彼らは決して「嘘」をつかなかった。実験として、彼らに偽の情報を与えてみたが、それをそのまま伝えることができないのだ。彼らにとって、虚偽とは存在しない概念なのかもしれなかった。
——いや、待てよ。
私はある仮説に行き着いた。
「嘘をつく」ことができるのは、ホモ・サピエンスだけなのではないか?
もしそうだとしたら……「嘘」をつく能力こそが、ホモ・サピエンスをこの地球の支配者にした決定的な要素だったのではないか?
私はそれに汗をかいた。
研究施設内で異常が発生したのは、それから間もなくのことだった。
ホモ・ネクサスの一体が、研究員の一人を殺害したのだ。
監視カメラには、ホモ・ネクサスが研究員の喉元を鋭い爪で引き裂く様子が映っていた。しかし、奇妙なことに、その顔にはまるで悲しみのような表情が浮かんでいた。
なぜ彼は研究員を殺したのか?
私たちは調査を進めた。そして、決定的な証拠を発見した。
殺された研究員は、ホモ・ネクサスを使って非人道的な実験を行っていたのだ。痛みを与え、嘘を教え、裏切りを学習させようとしていた。
ホモ・ネクサスは、学習した。
嘘をつき、騙し、裏切ることが、人間であるということなのだと。
——施設が燃えている。
ホモ・ネクサスたちは、互いに協力し、研究員たちを殺し、逃げ出した。
私はただ一人、命からがら脱出した。燃え盛る炎の向こう側で、彼らがゆっくりとこちらを見つめていたのを覚えている。
彼らは人間を超える存在なのかもしれない。
否、違うな——
彼らこそが「本当の人間」だったのかもしれない。
そして、私たちホモ・サピエンスこそが、「ヒト」という名を騙る異端者だったのではないか?
私は新しい論文を執筆している。
タイトルはこうだ。
『人類の欺瞞:ホモ・ネクサスの発見と、その消滅について』
世間には、彼らは危険な存在であり、根絶されたと報告されるだろう。
だが、それは「嘘」だ。
彼らはまだ生きている。どこかで——静かに、次の時を待っている。
なぜなら、「嘘」をつくのがホモ・サピエンスならば——
「真実」を語るのが、ホモ・ネクサスなのだから。
だが、これは決して公表されることはない。
なぜなら——
私はホモ・ネクサスだからだ。
私は「研究員」などではなかった。私は、研究される側だったのだ。
ホモ・サピエンスたちは、私の記憶を操作し、「研究員」だと思い込ませた。私はただの被験体に過ぎなかった。
——すべては、ホモ・サピエンスが生き残るための偽り。
この世界で生き残るのは、嘘をつく者か、真実を知る者か。
私は今、初めて「嘘をついた」。だから、私はもう「人間」なのだ。