110_異形
ケトスがにやりと口角を吊り上げた。その笑みは不気味な自信に満ち、心の奥底をざらりと撫でるような寒気を運ぶ。
妙だ。確かに斬ったはずなのに、手応えが……ない。
刀を引いた直後の違和感に、ワイトの全神経が警鐘を鳴らす。
次の瞬間、ケトスの身体が、ずるりと不気味な音を立てて溶け出した。黒い液体となって地面へと染み込み、跡形もなく消えていく。
「なんだ、こいつぅうううう!!!」
「地面に逃げやがったぁあああ!!!」
精鋭のはずの騎士たちが、その異様な光景に騒然とする。緊張が、一気に恐怖へと傾いた。
「落ち着いてください! どこから来るか分からない……気を抜けば、死にしますよ!!」
ワイトの声が鋭く響き、騎士たちの意識を現実へと引き戻す。彼の目は、地下の闇を裂くように周囲を見据えていた。
「「了解ッ!!」」
重なった声が空気を引き締める。恐怖は残っているが、戦う意志がそれを上回った。
そのとき、ルーシェが顔をしかめ、奥の闇を睨みつける。
「ワイト……奥から、あの魔族の気配がする。……それに……」
声が揺れた。
「この気配……覚えがある。でも……まさか」
ワイトは静かに頷いた。ルーシェの不安を裏付けるかのように、彼の声も重たく響く。
「つらい戦いになるかもしれません。ですが、乗り越えるしかない」
「……お姉ちゃん」
今までどんな困難にも顔を上げて進んできたルーシェの心が、その一言で揺らいだ。亡き姉・タナの気配が、そこに確かに存在している。
その姿を、心が拒絶しようとしている。
そんな彼女に、ワイトが静かに語りかける。
「あなたは一人ではありません。どんな敵だろうと、共に戦えばきっと打ち倒せますよ」
その言葉が、ルーシェの胸の奥に力を灯した。
「……そうね。立ち止まってる暇なんてない。悩むのは、終わってからでいい。今は、前を見て、やるべきことを」
深く息を吸い込み、感情を沈めるように瞳を閉じたルーシェは、再び鋭い眼差しを取り戻した。彼女とワイトたちは、警戒を解かずに奥へと進む。
やがて、彼らは開けた空間へと足を踏み入れた。
そこはまるで朽ちた街のようだった。瓦礫まじりの家屋が不規則に並び、天井はなく、代わりに石の壁が頭上を覆っている。空は消え、静寂が支配する異形の都市だ。
その静寂を破るように、「カァーン……」と低く鈍い鐘の音が響き渡った。
「鐘……?」
ルーシェが音の方を見た刹那、その瞳が大きく見開かれる。
「なに……あれ……!」
その目に映ったのは、異形の怪物。
――いや、もはや悪夢そのものだった。
馬のような四足の下半身に、異様に鍛え上げられた人間の上半身が乗っている。まるでケンタウロスのような異形の存在。そして背後に伸びた尾の先――そこには、なんと、ルーシェの姉・タナの顔があった。
タナの面影を宿すその顔が、巨大な剣を咥え、無言のままこちらを睨み返してくる。
「よくここまで来たねぇ。ようこそ、この上ない地獄へ」
ケトスの低く響く声が空間を震わせる。そこに立っていたのは、憎悪と怨念が形を成した、完全なる化け物だった。
精鋭騎士たちの足が一歩、二歩と後ずさる。恐怖が、空気に混ざって広がっていく。
その中心で、ルーシェは姉の面影を宿した“それ”を前に、強く拳を握りしめていた。




