地雷と作戦
ラティーシャは歓喜に震えていた。
自分のくじ運の良さに感嘆してしまう。まさか意中の相手、セオフィラスと同じチームになれるなんて。
しかしここであまり浮かれすぎては令嬢としてはしたない。小さく深呼吸を繰り返して一度落ち着きを取り戻す。
ラティーシャはやや幼く無邪気すぎるところがあるが、これでも伯爵家の令嬢なのだ。
「あの、殿下。覚えていらっしゃいますか? 私、ラティーシャ・フロックハートです。新緑の宴ではお世話になりました。ずっとお礼とお詫びをしたいと思っていたのです」
セオフィラスの前でカーテシーを披露するラティーシャは、そのまま顔を上げるとにっこりと笑う。首の傾げ方から手の動きなど、一つ一つがあざとく可愛らしい。
彼女の愛らしさに周囲の男子生徒の目は釘付けである。
しかしセオフィラスは自分の婚約者しか目に入っていない。ジェイルに軽く肘で小突かれてようやくラティーシャの方に顔を向けた。
「フロックハート伯爵令嬢、私と同じチームなのですね。よろしくお願いします。ところで、お礼とお詫びとはなんのことでしょう?」
話しかけられた内容は把握していたらしい。呆れたような目を向けるジェイルの横で、セオフィラスは誰にでも見せる柔らかな微笑みを浮かべながら答えている。
そのため、彼の内心を正しく理解していた者はジェイルとフィンレイくらいのものだろう。セオフィラスは目の前のラティーシャに興味がない、ということを。
だが、その微笑みはラティーシャによく効いた。ほんのり頬を染め、殿下と話せるだけで嬉しいといわんばかりに彼女は両手の指先を合わせて口を開いた。
「あの時、倒れてしまった私を支えてくださったではありませんか。本当に助かりましたの」
「ああ……そうでしたね。怪我もなくお元気そうで何よりです」
「まぁ、お優しいのですね!」
笑みを浮かべ、当たり障りのない受け答えをするセオフィラス。護衛二人の目からすると、彼女に興味がないことは一目瞭然であった。
おそらく殿下は必要最低限の会話でこのオリエンテーションを乗り切るつもりだろう、と。
そもそも本来、彼は簡単に他人を信用しないのだ。それを穏やかな外面で表に出さないだけである。
セオフィラスはオリエンテーションにおいて他者との関わりをジェイルに任せる気であったし、ジェイルも当然心得ているのだ。
しかし、自分にだけ向けられた言葉と笑みに舞い上がっているラティーシャのテンションは高いままである。彼女はチャンスとばかりに距離を詰めようと積極的に話しかけた。
「あ、あの。せっかく同じチームになったわけですし、セオフィラス様とお呼びしてはいけませんか?」
ただ、いささか距離の詰め方が性急である。異性の名前を呼ぶというのは、目上の者が信頼を込めて呼ぶ以外はそれなりに親しい間柄である証拠となるのだから。
ただラティーシャは、これまで仲良くなった令嬢に対する接し方と同じように距離を詰めただけ、という認識である。
当然、挨拶を交わしたことがあるだけの令嬢から突然そんなことを言われたセオフィラスは、彼女に対する好感度をみるみるうちに下げていったのだがラティーシャにはわからない。
無言の気まずい空気が流れたが、そこで間に割って入ってきたのはジェイルであった。
彼の空気を読むスキルとフォロー能力は高い。伊達にこの王太子の幼馴染をやってきていないのだ。
女性の対応にも慣れた様子のジェイルはヒョイッとラティーシャの顔を覗き込み、ニコニコと人当たりの良い笑顔で口を開く。
「失礼、フロックハート伯爵令嬢。同じチームというのなら俺も仲間に入れてくれません? 俺はジェイル・ヴィシャスと申します。相手にしてもらえないと、そろそろ寂しくて泣きますよ?」
嫌味なくセオフィラスとの間に入ったジェイルは冗談めかして肩をすくめている。
ラティーシャは内心で会話を遮られたことを惜しく思いはしたが、彼の気さくさと邪気のなさに毒気を抜かれ、きちんと己の失礼な態度を詫びることにした。
「私としたことが失礼なことを……。殿下にお会い出来たのが嬉しくて。悪いことをしてしまいましたわ」
「構いませんよ。どうぞ、よろしくお願いしますね。頑張って学園を案内しますので」
そのまますぐにでも向かいましょう、とジェイルが促す。セオフィラスとの間にさり気なく立ち、ラティーシャをエスコートするように。
しかし、ラティーシャはしぶとかった。自分の魅力のせいでジェイルに気に入られてしまったようだ、と困ったように微笑んでいる。
「私、学園ではお友達を増やしたいと思っていますの。ですから、どうぞ私のことも名前で呼んでくださいませ。そうですわ! 仲を深めるために愛称で呼ぶのもいいかもしれません。殿下でしたら……セオ様になりますわね!」
そして、特大の地雷を踏んだのだ。それは、絶対にやってはいけない悪手であった。
セオフィラスにとって、愛称は特別なものなのだから。彼をそう呼んでいいのはたった一人だけ。幼馴染たちや両親、妹にも愛称は許さないほどに大切な呼び名だった。
「……愛称で呼ぶのは止めてくださいね、フロックハート伯爵令嬢」
急に立ち止まり、ゆっくりと振り返ったセオフィラス。相変わらずの笑みを貼り付けてはいたが、黒いオーラを感じる。
誰もがまずい、と思うほどピリッとした空気が流れ、教室内にいた皆が息を呑んだ。
「あ、あー……ご令嬢? 殿下にとってその呼び方は特別なもので、誰にもそう呼ぶことを許してはいないんですよ。貴女だけではないので、あまりお気になさらず」
ジェイルのフォローは室内にいる全員の耳に届いた。おそらく、殿下は愛称呼びを許さない、という噂は瞬く間に広がるだろう。
それを思うと頭痛を覚えるのか、ジェイルは額に手を当てている。
「も、申し訳ありません。とても大切な呼び方だと、知らなかったものですから。本当に、失礼なことを……!」
やや青ざめたラティーシャがすぐに頭を下げて謝罪した。
身体を縮こませて微かに震える彼女は庇護欲をくすぐる。男子生徒が何人も悲痛な面持ちでギュッと拳を握りしめ、彼女を見つめていた。
この学園の男子生徒たちの中で、守ってやりたくなる令嬢ナンバーワンがラティーシャになった瞬間である。
「……いいえ。それ以外でしたらお好きに呼んでくださって結構ですので。さぁ、早く学園を見て回りましょうか、フロックハート伯爵令嬢」
ほんの少しの間を置いて、セオフィラスは謝罪を受け入れながらいつもの微笑みを彼女に向けた。先ほどまでの張り詰めていた空気が緩和され、安堵のため息があちらこちらから漏れ聞こえる。
ただ、セオフィラスは決して彼女の名を呼ぶつもりがないらしい。そんな気まずい空気が教室内に漂った。
当の本人ラティーシャは、ホッと肩の力を抜いてセオフィラスの後ろを歩き始める。
(怖かった……でも)
胸の前で両手を組んで俯きながら歩くラティーシャは、周囲から見ると怒られて反省している素直な令嬢だ。
……その口元に浮かべられた、小さな笑みに気付いた者はいないだろう。
(初めて殿下の素のお顔を見られましたわ。それに、名前で呼ぶのを許してもらえましたもの)
気遣わし気な視線を送るジェイルに、眉を下げたまま微笑んで見せたラティーシャはようやく顔を上げて歩く。その姿はどこからどう見ても健気な令嬢に見えることだろう。
実際、ジェイルも軽く絆されている様子で彼女を元気づけるために話しかけてくれる。
(いつか、ラティ、セオ様と呼び合う仲になってみせますわ!)
だが内心ではそんな決意を固めており、反省どころか作戦がうまくいったことに気分は高揚していた。
伯爵令嬢ラティーシャは、めげない少女であった。




