焼き菓子と風
少年は口をへの字にし、怪訝な顔を浮かべながら頭を掻いた。
「でもオレ、腹減ってんだよ。ご丁寧に教えてくれたのはありがたいけどさー、ちょっと兵士がいるくらいなんてことないし」
「なんてことない、って……」
とにかく今は何かを腹に入れたいから、と再び出て行こうとする少年を、レセリカはどうにかして止めなければと思った。
今引き止めたところで、少年が奴隷になってしまう未来は変わらないかもしれない。それでも、まだ頬に紋章のないうちに彼の情報も得ておきたかったのだ。
「そこに焼き菓子があるわ」
「……貴族サマの施しは受けたくねーんだよ」
自分のために用意されたものだから、彼に食べてもらっても問題ないはず。そう思っての提案だったが、それはハッキリと拒絶されてしまう。
差し出された物には手をつけず、置いてあったら盗み食いをするなんて普通は逆では? とも思ったが、こういうタイプは説得しても効果はなさそうだ。
そう考えたレセリカは彼が出て行かないように出入口の近くまで向かうと、扉の方を向いたまま立ち止まる。
「私は何も見ていないわ。誰かがこっそり窓から侵入して、焼き菓子を食べたとしても気付かないの。だって、とても疲れているんだもの」
これなら、勝手に廊下へと出ていくことはないだろう。窓からは出て行ってしまうかもしれないが、少なくとも廊下に出るより捕まる確率は少ないと考えた。
「……ふぅん」
「あ、焼き菓子に毒なんかは入っていないわ。毒見をされているはずだから」
背後から小さく聞こえた返事に、レセリカは付け足すように告げた。もしかしたらそれを恐れているかもしれないと思ったからだ。
数秒ほどの沈黙が流れた後、レセリカの背後で少年が歩き出した気配がした。
「ははっ」
少年はどこか楽しそうに笑い声を漏らすと、テーブルに置いてあった焼き菓子に手を伸ばす。それからパクッと一口で焼き菓子を口に運んだ。
「んむ、うめぇ。さすがお貴族サマに出される菓子だよな。……別に、心配なんかしなくても毒なんか効きやしねーよ」
毒なんか効かない、それはどういうことかとレセリカは考えた。いや、少々心当たりはある。だが確信がない。
レセリカはすでに家に帰ってこの気になる事柄を書庫で調べることで頭がいっぱいになっていた。
「ってか、なんでそんなに親切にするわけ? ……もしかして、オレのこと知ってんの?」
「……」
「いや、なんか言えよ。って、そっか。お前は侵入者に気付いていない体なんだっけ」
そんなわけなので途中で少年に話しかけられた気はしたが、レセリカはあまり聞いていなかった。ただ都合も良かったのでそういうことにしようと頭を切り替えた。
だがその時、急に廊下の方から騒ぎ声が聞こえてきた。レセリカはハッを顔を上げ、少し様子を見てみましょうとわかりやすい独り言を呟く。
少年は怪訝そうに片眉を上げながらも、サッと物陰に姿を隠す。レセリカが自分を匿おうとしているらしいことを察したのだろう。
「何かあったのですか?」
そっと扉を開けて外に待機していた兵士に声をかけると、すぐにレセリカに気付いた兵士が姿勢を正して状況の説明をし始めた。
「ああ、ミス・ベッドフォード。いえ、どうやらフロックハート伯爵令嬢が倒れられたようで」
フロックハート伯爵令嬢とは、ラティーシャのことだ。レセリカにとってはあまり良い印象のない人物ではあるが、やり直した今の段階ではまだ接点のない相手。倒れたと聞けばそれなりに心配にもなる。
レセリカは兵士に彼女の容態を訊ねた。
「倒れた? 大丈夫なのかしら」
「はい。意識はしっかりあるそうですよ。なんでも、殿下との挨拶中にふらついたようで……。すぐに殿下に支えられたそうで、怪我はしていないようです」
フロックハート伯爵が別室で待機しているらしく、今は侍女や兵士に支えられながらその部屋に向かっているのだという。
そう聞いてホッと安堵の息を吐いたレセリカは教えてくれた兵士にお礼を言うと、再び室内に戻って扉を閉めた。
そして、チラッと少年が隠れた場所に目を向ける。ゆっくりと姿を現した少年は、頬を掻きながらバツの悪そうな様子で口を開いた。
「……マジで、さっき出て行ってたら捕まってたかもな、オレ」
空腹時のあまり動かない体と頭で、たくさんの兵士と鉢合わせしていたかもしれない。少なくとも、姿は見られていただろう。
ここは城の内部。誰かに叫ばれでもしたら、駆け付けたたくさんの兵士によって捕まっていた可能性は高かった。
少年は腕を組んでしばらく唸った後、レセリカに向かってビシッと人差し指を向けた。あまりお行儀のよくない行動ではあったが、レセリカは黙って少年の出方を待つ。
「オレの一族は、恩は返すって決まりがあんだよ。菓子ももらったし、お嬢サンにどんな企みがあるのかないのかはわかんねーけど、決まりは決まりだからな」
恩を返すという割にやたらと上から目線だとは思ったが、特に気分を害することでもないのでレセリカは黙っていた。悪気がないのも見てわかる。
「一回だけ、お嬢サンのために働いてやる」
働く、とはどういうことだろうか。レセリカはわずかに首を傾げながら問い返す。
「何をしてくれるの?」
「別に、なんでも。雑用でもいいし。まーでも、情報収集が得意だぜ? 手を借りたい時に呼んでくれよ。そしたらすぐに駆け付ける。気付くのか? って不思議に思うかもしんねーけど、ま、そういう一族だからってことで納得しとけ」
そういう一族、ということはやはり少年は風の一族で間違いなさそうだとレセリカは確信した。ならば不思議な現象が起きてもおかしくはない。
謎が多いのだが、元素の一族は不思議な力が使えるという噂なのだから。
「……なんて呼べばいいの?」
名前を教えてくれればいいのだが、無害そうに見えて城に侵入してくるような人物だ。きっと名乗らないだろうからとレセリカは呼び方を訊ねた。少年はあー、と少し考えてから答える。
「……『風』でいい。まー、なんかお前、オレの一族知ってそうだけどな。でも名乗るつもりはねぇぞ」
驚いたことに、少年はレセリカが正体を見抜いていることに気付いたようだ。勘が鋭く、観察力もある。少年はやはり只者ではない。
「オレらが名乗るのは、主人にするって決めたヤツにだけだからな」
どこか誇らしげに語った少年の笑顔はあどけなさが残っており、レセリカは肩の力を抜いた。不審人物には違いないはずなのに、なぜか気を抜いてしまう。そうさせる雰囲気が少年にはある。
思えばそんな不審な相手に、先ほど無防備にも背中を向けてしまったので今更ではある。さすがに油断しすぎたかもしれないとレセリカは内心で反省した。
「……私は、レセリカ・ベッドフォード」
「いや、なんで名乗るんだよ。オレは名乗らねーって……」
「貴方が名乗らないことは、私が名乗らない理由にはならないわ」
「……そうかよ」
けれど、せっかくなので自分の名は告げた。告げなくてもちょっと調べればすぐにわかることだ。それに、レセリカは少年には知っていてもらいたかった。
もし今後、奴隷になる未来が訪れた時に、自分の名前を出して助けを求めてもらえたらと思ったのである。何が出来るかはわからないが、出来る限りの手助けはしたい、と。
なぜなら、前の人生で見た彼の表情は目に光がなく、希望を失って絶望しているような、そんな様子だったからだ。
目の前で明るく振る舞う姿を見たら、余計にあんな風になる姿を見たくはない。
「じゃあな、変なお嬢サン。なんか企んでんのかと思ったけどあれだな、お前本当にただのお人好しだな。けど、一言だけアドバイスしとくよ」
少年は窓枠に手をかけて、レセリカに歯を見せて笑う。やや褐色の肌に白い歯が良く似合っていた。
「絶対、笑った方がいい! 美人なのに、もったいねーよ」
そんな捨て台詞を残し、少年は窓からヒラリと姿を消した。
少年は態度も言葉遣いも雑だったが、レセリカは彼を好ましいと感じたのだった。




