一話 夕立と友達7
結局朝の準備に時間をかけたところで、俺の服装なんてTシャツとジーンズ以外にない。
髪のセットは、親父に比べたら三分の一の時間で済む。
ちなみに親父は癖毛で量も多いから、ドライヤーやワックスで入念な手入れが必要なのだ。
服装に気合を入れることはなく、ただ早めには家を出た。
雨は小降りになってはいたが、今日は止みそうにない。
ビニール傘に当たる雨音を聞きながらふと反対側の歩道を見ると、五、六歳くらいの男の子が母親と手を繋ぎ、楽しそうにはしゃいでいた。
「きょうは、なにをしてあそぼうかな!」
「こらぁ、あんまり飛び跳ねないの」
「だってぇ、たのしいんだもん!」
『竜助!』
俺はハッとして、辺りを見た。
が、誰もいない。
懐かしい声が聞こえたような気がしたのに。
(ったく……先輩が変なこと言うから……)
遠くでまた稲光が走った。
俺は足元が濡れるのも構わず、『喫茶ひまわり』に向かって駆け出したのだった。
約束の時間よりも二十分早く駅前にある『喫茶ひまわり』に着いた。
が、ジャズが流れる店内にはすでに数組の常連客がいた。
休日の朝にだけいる女性ホールスタッフの河西さんが、「いらっしゃませ。お連れ様はいつもの席ですよ」と奥を見やる。
そこの席は、壁に掛けてある向日葵の絵画の真下にある。
一脚ずつ向かい合わせに置かれている椅子の片方に、雨宮世津子は昨日と同じように分厚い本を広げて座っていた。
雨宮先輩は、無地の白いブラウスにグリーンのワイドパンツといった出で立ちだった。
項当たりで長く黒い髪をゆったり束ねているのもあり、いつもより大人っぽく見えた。
「おはよう」
「おはようございます」
黒縁眼鏡の奥の黒々とした瞳が、ちらっと俺の方を見たかと思うと、すぐに本へと戻っていった。
そんな反応はいつものことなので、俺も向かいの席に着く。
「八時は早いと文句を言いながら、毎回早く来るじゃないか」
「ここのトースト、好きなんですよ」
と、さっきの親父との会話を思い出した。
(パンがいいとか我儘言ったら、ここに連れてくるか)
河西さんがお冷を持ってきてくれた。
俺がトーストセット、先輩がクラブハウスサンドを頼むと、彼女は明るく「かしこまりました。少々お待ちください」と言った。
「先に食べてよかったのに」
「君が頼むなら、一緒に食べようと思っていたんだ。こういう機会は逃したくないからね」
「え?」
相変わらず本の文面から目を離しはしないが、言葉だけはしっかりと俺に届いた。
雨宮先輩は、時々こういうところがある。
(この人、無意識なのかな?)
頼んだメニューが運ばれてきて、先輩は漸く本を置いた。
食べ始めてしまえば会話はなく、先ほどの言葉はなんだったのかと思う。
「ところで、竜助君」
「竜助です……って、あ、はい」
急に名前を呼ばれ前を見れば、半分食べたクラブハウスサンドを置いて、先輩は俺を見ていた。
黒縁眼鏡の奥の黒い瞳は、店の照明も相俟ってか、怪しく光っている。
「イマジナリーフレンドは知っているだろう?」
「子どもの頃の空想の友人ですよね?」
「ああ」
先輩は、テーブルに置いてあるシュガーをティースプーン三杯もコーヒーに入れて、ゆっくりと掻き混ぜた。
毎回、この甘党のシュガー量には驚く。
(あれはもうただの黒い砂糖湯では……?)
くるくると回る黒い水面を見ていると、雨宮先輩の低めの声が鼓膜を震わせる。
「君が入部したての頃に話してくれた『その子』は、イマジナリーフレンドだと思うかい?」
俺は、窓側に視線を向けた。
常連の初老男性が、新聞を読んでいる。
その向こう側は、まだ雨が降っていた。
「そうだと思いますよ」
「いや、違う」
体験した本人よりはっきりと先輩は否定した。
「名前をなぜ決めなかったんだ?」
「え?」
「それに、君と遊んでいたのは毎日ではない。『その子』にも出現できる時間帯が決まっていた」
「……そういえば、そうですね」
あの頃は不思議に思わなかったが、『その子』はいつも夏の夕立の時にだけ現れた。
俺が視線を戻せば、先輩は残りのクラブハウスサンドをゆっくりと食べていた。
ジャズに微かな雨音が重なっていく。
俺も、残りのトーストを頬張ったのだった。
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