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植物園から出て軽い食事を取った後、ライアン家の兄妹に連れてこられたのは王都を東西に横切る長い道だった。綺麗に整備された道は、レンガが敷き詰められ、街路樹が等間隔で植えられている。そこには昼らしく、しかししっかりと着飾った紳士淑女が連れ立ってそぞろ歩いていた。
不思議な光景に、リーナはぱちぱち瞬きを繰り返した。
「その、この催しは一体なんでしょうか……」
リーナの困惑を見て、面白そうにマリアが教えてくれた。
「ここはプロムナードです、お姉さま」
「プロムナード?」
リーナは名前を聞いてもピンと来なかった。呆れたようにクロードがマリアの言葉の後を引きつぐ。
「プロムナードは簡単に言えば散歩だ。ここの道を歩いて、他の人間を見たり、見られたりするのが目的だ」
クロードの説明に、ようやく合点がいった。ライアン家の兄妹は、大規模な茶会や、他家の夜会に出す前に、軽くリーナの顔見せをしたいのだろう。
なんの前触れもなく突然現れた年若い公爵夫人と、嫡男や姫の仲が悪いというのはあまり宜しいことではない。少なくとも、リーナが公爵家の中で、ある程度の地位を持って敬われているということを、事前に周囲に知らしめておこうというのが目的なのだろう。ならば家を出る前に、クロードから服装のチェックが入ったのは当然だ。リーナは納得して、クロードから差し出された腕に寄り添った。
強ばりそうな顔をなんとか無表情にして、リーナは無心でクロードの歩調に合わせた。しばらく歩くと、緊張も緩んで周りを見回す余裕も出てきた。
なるほど、どう見ても普段は館に引きこもっているであろう淑女や紳士が、動きやすそうな、しかしかなり金のかかった服を着て歩いている。
リーナが目線を動かすと、周囲の人間が皆こちらをしっかりと見ていることに気づいた。しかも、かなり派手に着飾った婦人の一人と、がっちりと目があってしまい、リーナは内心冷や汗をかいた。
唇を弓形に釣り上げた婦人は、遠慮なくリーナの顔と身なりを品定めしている。リーナは引き攣りそうな頬の筋肉を総動員して、微笑んでいるように動かしてから目礼した。
婦人は訳知り顔で頷いて、連れの男性と踵を返していった。
「あら、サイデン伯爵夫人だわ。嫌味の一つでも言われるかと思ったのに」
マリアの言葉に、リーナは背筋を強張らせた。
「わたし、なにかおかしかったんでしょうか」
「気になさらなくても大丈夫ですわ。見慣れない人間がいると、ひとまず噛み付く方なの。犬と一緒ね」
肩をすくめてマリアが言うのを、笑っていいものかリーナには判断がつきかねた。
「紹介もなしに話しかけるほど、恥知らずではないだろう。曲がりなりにも伯爵夫人だ。義母上は公爵夫人なのだから、なおさらそんな真似はできまい」
クロードの言葉に、リーナには心の底から安堵した。
周囲の人間が、みんなしてリーナたちをじろじろと見て、こそこそとなにか話している。きっと、彼らが貴族の一員でもなんでもなければ、わらわらと近寄ってきて我先にと、こちらに話しかけていただろう。それくらい、注目を集めていた。
これを大規模な茶会や、夜会にいきなり一人で放り出されたらと思うとゾッとする。まずは他人に話しかけられることのない、プロムナードでの散歩から始めてくれたことに、リーナは感謝した。
リーナ自身は、元は貴族階級とはいえ、下っ端も下っ端の身分だった。それが、グロブナー卿と結婚したことで、いきなり頂点近くに据え置かれてしまった。周りの人間が、身分のおかげで話しかけてこないことがこんなにありがたいことだとは知らなかった。
じろじろと珍獣かなにかのように見られながら、リーナはクロードと歩いた。時折、マリアが話を振ってくれるので、退屈することはない。プロムナードから見える建物が、有名な場所であれば、簡単な解説をしてくれる。クロードは黙りこくっていたが、リーナはクロードの方など見ていなかったので、気にもならなかった。マリアと、今度はそこにいきましょう、と約束しながら三十分ほどあるいたころ。
前方から、見知った顔が近づいてきた。
「イブリン」
クロードの声に、イブリンは傲然と顎を上げた。こちらを見下すような目で睥睨されて、思わずクロードの腕を掴む手に力が入ってしまう。イブリンがそれを見て、形のいい眉をきりきりと吊り上げていくのが見えた。クロードと会わないでほしいというイブリンの願いは完全に無視されてしまっている。そのことについて、激しい怒りを抱いているのがわかった。
イブリンは、一人ではなかった。というか、プロムナードを歩く成人女性は皆、誰かしらを連れている。友人か、兄弟か、伴侶かまではわからないが、一人で歩いている女性は皆無だ。
例に漏れずイブリンも男性に腕を絡めていた。リーナには見知らぬ男性だ。ライアン兄妹は顔見知りなのかと思ったが、二人ともが既知ではないらしい。
「イブリン、友人と出かけると聞いていたが」
「ええ、正確には親戚ですわ。クロード、こちらわたしの母方の従兄弟のアイザックです。アイザック、夫のクロードです」
イブリンに紹介されたアイザックは、微笑んでクロードに手を差し出した。
「お会いできて光栄です、子爵。アイザック・ギブスンです」
クロードはにこやかにアイザックの手を取り、握手した。
「ああ、兄上がオールディス伯爵だったか。大学では先輩だった」
「兄から時々、話を聞くこともありましたよ。あなたは有名人でしたから」
クロードと話をしながら、しかしアイザックの視線はちらちらとリーナに向いていた。
「こちらは父が新しく迎えた細君、私からすれば義母上だ。私より年下だがね。後ろにいるのが妹のマリアだ」
リーナとマリアはクロードに紹介されて、丁寧に腰を折って挨拶をした。
「へぇ、これが噂の新しい公爵夫人か」
一瞬、アイザックの目がいやらしく歪んだような気がしたが、リーナの瞬きの間にそれは掻き消えて、にこやかな笑みに変わっていた。
アイザックはクロードと少しの間話していたが、この後に予定があるらしく、すぐにイブリンを連れて離れていった。
連れ立って去ろうとする二人の後ろ姿に、マリアが声をかける。
「お義姉さま、今夜はお夕飯はどちらで?」
「アイザックと食べて帰るわ」
イブリンはそれだけ言って、アイザックと共に去っていった。
リーナはアイザックの言っていた、「噂」のことに気を取られていた。
リーナはほとんど田舎に引きこもっていて、ろくに王都には寄り付かない。それなのに、立つ噂とはなんだろうか。
あまりいい噂ではいだろうという予想が簡単にできるので、リーナの気分は少しずつ傾いていた。つまらない噂で、ライアン家に不利益をもたらすつもりはないし、それは非常に不本意だ。
貴族とは、体面を大切にするものだ。まして、公爵夫人などという、貴族として最上位の女性であるならば、とても大事にしなければいけないもののはずだ。望んで得たものではないにしろ、蔑ろにしていいというものでもない。しかし、リーナは社交界になどツテはない。ツテがなければ、噂がどんなものかなど知りようがないし、対処のしようもない。全く別世界の出来事のようだ。宙を掻くほうが、まだ手応えがある。
どうするべきかと考えてから、後でマリアにそれとなく聞いてみようと決めた。あまりひどい噂でないことだけを願う。
クロードは、悩むリーナのことなど少しも関心がないらしく、今日着ているドレスについて、つまらない文句をつけ始めた。
「義母上はいつもマリアのお下がりしか着ていないな。父上は妻の服代を出し渋るような吝嗇ではなかったと思っていたが」
「服は持っているのですが、用途が違うので着て来られなかったのです。まさか、しっかり着飾る必要があるとは思わなかったものですから」
公爵夫人として、年間予算はきちんと割いてもらっている。しかし、田舎に居続けるのであれば、ほとんど使うこともない。夜会用の服も、茶会用の服も、田舎なら二、三着ずつあれば十分事足りる。たとえ、もしそれらの服を王都に持ってきていたとしても、着て出て行くのは難しいはずだ。公爵夫人が野暮ったいイブニングドレスで夜会になどでたら、違う意味で話題をさらってしまう。注目の的になり、次の日には社交界新聞などにも面白おかしく書かれてしまう。いい笑い物、恥さらしとも言える。
恩人とも言えるおじさまの家に、そんな醜聞を作るわけにはいかない。リーナの恥は、おじさまの恥でもあるのだ。おじさまに恥をかかせるくらいなら、リーナは潔く屋敷に引きこもることを選ぶ。
それなのに、この義息子はリーナを家から引き摺り出して、衆目に晒そうとしてくる。血も涙もない悪魔のようだ。
「予定がなければ、プロムナードを明日も歩こう。ここからは王都の観光名所が眺められるし、朝靄の出ている時に歩くのも素晴らしい。健康にもいいしな」
そんな朝早くにわざわざ支度をして、息の詰まる相手と長々散歩をしなければいけないのかと思うと、足が止まりそうになる。「遠慮しておきます」とおもわず飛び出そうになった口を一度しっかり閉じてから、声が震えないように「楽しみです」と答えた。人生でもトップを争うレベルの棒読みの声だった。クロードはそれに気づいているのか。気づいていたとしたら、最高の嫌がらせだ。
マリアがそっと眉を寄せてクロードを見ていたが、何を言うこともなく口をつぐんでしまった。できれば、この訳の分からない嫌がらせに、一言静止をかけて欲しかったが、それは無理というものだろう。
リーナは急に現れた異分子だ。物見高く保守的な貴族階級からしてみれば、何事かと関心を寄せるに足る好物件だ。できる限り顔見せをして、ライアン家の人間と良好な関係を築いているという印象操作のために、散歩をしたいという意図はよく理解できる。しかし、どうせ散歩をするなら楽しく歩きたい。気詰まりな相手ではなく、話していて楽しい相手か、それが無理なら一人で歩きたいくらいだ。
憂鬱な気分に、リーナは足元がひどく重たくなってしまったように感じた。