5
マリア・ライアンは、実の兄の正気を疑っている。
父が、マリアより一つ年上の若い義母を連れて帰ってきてから、兄の様子が本当におかしい。
リーナが家にやってきた日。一族で晩餐を囲んだ席で、クロードはあからさまにリーナに対して不快感を表していた。
年若い義母に、あまりにも警戒心をむき出しにし過ぎではないかと、マリアはわずかに眉を顰めたが、兄に対して抱いた感情はこのときはそれだけだった。そろそろ嫁いで家を出ていく身としては、この義母とも波風の立たない程度に付き合いができればそれでいい。なんなら、存在を無視して過ごしていても、なんの問題もないだろう。家の実権はイブリンが握っているので、この義母が余計な茶々を入れなければいいだけの話だ。様子を見る限り、そういった気の強さはなさそうな御仁に見受けられた。
クロードの妻のイブリンが、義母に対して必要以上にキツい当たり方をしていると思ったが、マリアは当たり障りなく、その場を過ごした。
晩餐のあと、今日は変な日だったと、マリアはさっさと眠ってしまった。
クロードの様子がおかしいことが分かったのは、それから二日後のことだった。
マリアが部屋で読書をしていると、クロード付きの従僕が先ぶれを持って現れた。
珍しいこともあるものだと、マリアは侍女にお茶の用意をさせてから、五分もたたないうちに、クロードがやってきた。
「やあ、マリア」
「ごきげんよう、お兄さま。どうかされましたか」
兄の様子はいつも通りだ。ただ、なんとなく普段よりも服装が派手な気がする。家の中にいるのに、外に出かけるようなしっかりした服装なのは、なぜなのだろう。
マリアは訝しんだが、表面上はちらとも見せずに兄に柔らかく挨拶した。
「リーナのことで、話しておきたいことがあって」
「りー……?ああ、お義母さまのことですね。彼女がどうかされましたか」
違和感なく近づいて、彼女の資産状況をそれとなく聞き出せとか、そういった話だろうか。
「リーナが我が家で困らないように、マリアの方でフォローしてやってくれないか」
クロードの言葉に、マリアはなんとなく肩透かしを喰らったような気持ちになった。ずいぶんと親切な申し出だ。兄がそれほどあの義母に心を砕くのは、何か理由があるのだろうか。
「それくらいなら、構いませんが。お兄さま、あの方になにかありますの?」
「なにって」
そこからのクロードの発言は耳を疑うようなものだった。
「リーナは僕の婚約者なんだから、気を配るのは当然だろう。イブリンも、何故かリーナのことを嫌って、僕に近寄るなと言うし。イブリンが役に立たないなら、マリアに頼るしかない」
クロードの言葉を咀嚼できず、マリアは「え、」と言ったまま固まった。
クロードが不思議そうに首を傾げるのを見て、マリアはやっと、クロードの発言が脳に回ってきた。たとえ受け止められても、理解して飲み込めるかは完全に別問題だ。
「お兄さまは結婚してらっしゃいますよね?」
「ああ」
「イブリンお義姉さまと」
「そうだな」
「それならば、お兄さまに婚約者はいません。もう結婚してらっしゃるのですから。それに、イブリンお義姉さまと、仲良くされていらっしゃいますよね」
マリアの言葉に、なにを言いたいのか察して、クロードは嗜めるようにこう言った。
「マリア、いいかい。リーナは僕の婚約者なんだ。それは間違いない。七年前から決まっている」
「たとえ本当に七年前から婚約していたのだとしても、三年前に結婚したお兄さまには、婚約者など必要ありませんし、できません」
マリアは言い切ったが、クロードは物分かりの悪い子供を見るような目でマリアを見た。なぜだ。むしろそういう目で見たいのはこっちだ、とマリアは内心憤慨していた。
「父さんがリーナをうちに連れてきたのは、適齢期の近い彼女に、余計な虫がつかないようにするためだ。僕がイブリンと離婚するまでの間に」
重ね重ね、今日の「お兄さま」はとんでもない発言続きだ。今なんと言ったこの男。
固いものを飲み込んだ後のように、喉が痛む。
「離婚なさるのですか?」
「ああ、今日これから弁護士に会いに行ってくる」
「本気ですか!?」
もう叫ぶような声で、マリアは兄を問いただした。マリアの恐慌など歯牙にもかけず、クロードはあっさりと言い放った。
「もちろん本気だ。最短で離婚できるようにこれから話し合いだ。父上が死んだらすぐさまリーナと再婚する」
「縁起でもないことを言わないでください!それに、イブリンお義姉さまがなんと仰るか!」
マリアはもう泣きたかった。
四年前に病で、一番上の長男だったベネディクトが死んだとき。二年前に、自分の一つ上の兄のフレッドが死んだとき。そのとき以来乾いていた涙が、また溢れてきそうだった。
「あの義母が、お兄さまのなにをそんなに狂わせるのです」
震えてマリアは聞いたが、クロードは正気とは思えない顔つきで、こう言った。
「すべてが」
兄の言葉に、マリアは絶句した。
マリアの目には、あの義母はせいぜい垢抜けない素朴な少女としか映らない。王都で生まれ育ち、最先端の流行に揉まれたマリアから見て、可愛らしいとは言えるかもしれないが、あくまでも少女としての愛らしさが、彼女の持ちえる魅力の全てだ。外見的には、それ以上でも以下でもない。
しかし、兄の口から語られる義母は、まるで手練れの娼婦だ。微笑みと眼差しひとつで、男を手玉に取る妖婦。兄の目が曇っているとしか思えない。
兄がおかしくなってしまったのは、義母のせいなのだろうか。それとも、元から兄は狂っていて、それが義母が来たことによって表面化しただけなのだろうか。
なにも言わないマリアに、クロードは機嫌良く続けた。
「イブリンのことは、今は気にせずとも構わない。マリアは、リーナが我が家で過ごしやすくなるようにだけ、気を配ってくれればいい」
クロードは足早に、マリアの部屋から出て行ってしまった。
マリアは呆然とクロードの後ろ姿を見送った。せっかく侍女が用意したお茶に手をつけることもせず、無駄になった。
誰に手をつけられることもなくなったお茶を、このまま捨てるのも忍びなく、マリアは傍に控えていた侍女をお茶に誘った。頭の中を整理するために、話し相手が欲しかったからだ。
主人と同席することにひどく恐縮しながら、侍女は席についた。そして、主人がなにを話し始めるのか、おとなしく口をつぐんで待っていた。
「……あの義母は、お兄さまをどう思っているのかしら」
マリアの独り言じみた呟きに、侍女のナディアは控えめに答えた。
「少なくとも、自分からクロード様に対して、なにか働きかけたりはしていないようです」
「そうよね、今のところは、自分たちの身の回りのものを揃えているくらいで、わたくしたちのところに足繁く会いに来ることもないもの」
少なくとも、あの若い義母は亡き母の使っていた公爵夫人の居室に図々しく入り込み、手を入れたりなどはしていない。もしそんなことになれば、マリアは義母に嫌味の一つでもぶつけていたかもしれない。賢明にも、義母は大人しく客室にいて、ここで住むための準備に励んでいるらしい。自分の立ち位置をよく弁えている。
マリアはお茶で喉を潤してから、ふむ、と考え込んだ。
「まずはイブリンお義姉さまにお話を聞くべきだと思うの」
ナディアは生真面目な顔で頷いた。
「イブリン奥さまが、大奥さまをどう思っているのか、知る必要がありますね」
「それと、ナディアのほうで、義母の方はどんな様子か、調べてきてもらえるかしら」
「かしこまりました」
そうして、ライアン家の女二人は静かに動き出した。