3
マークの準備が終わり、グロブナー卿と共に向かったカントリーハウスは、目を見張るような屋敷だった。
「ここには、夏の間、陛下が避暑にくることもあるんだよ」
ということを、グロブナー卿から聞いていたが、それにしても立派な屋敷だった。
遠目から見ると、背後の巨大な森と調和する白い屋敷は、まるで森の神を祀る巨大な神殿のような風情だった。
「ここに今日から住むのですね」
「そうだ、自分の家になるのだから、ゆっくり寛いでくれ」
茶目っけたっぷりにグロブナー卿は言ったが、こんな大きな屋敷が自分の家だなんて、とても信じられそうになかった。リーナとは対照的に、マークは大きな家に大喜びで「早く探検したい!」と大興奮だった。
到着した当日はゆっくりと過ごして、次の日から、少しづつ、家の周りのことを把握できたら、とリーナは算段をつけていた。
カントリーハウスでの生活は穏やかだった。
初夏にやってきてから、じりじりと夏の盛りになっていった。屋敷は山の裾野にあり、山から吹き下ろす涼しい風が通り抜けて行くために、気温がそこまで高くは上がらず、過ごしやすい。夏がこんなに快適なのは初めてだ。リーナはここに来てよかったと、何度も思った。
グロブナー卿は、子供が好きらしく、マークの相手をよくしてくれた。自分のまたがる馬の鞍に乗せて、遠駆けに連れて行ってくれたり、釣竿を持って川に遊びに行ったりしてくれた。マークが大きくなったら、狩りに行こう、と約束までしてくれた。
グロブナー卿は、基本的に隠居の身ではあったが、領地の経営自体はまだ手を引いていなかった。
卿は、今後、弟が成人するまでのために、とリーナに一から経営のことを仕込んでくれた。はじめは秘書の真似事から。書類の扱い方から、数字の見方。人をどう動かせばいいのか、指示出しの仕方など。グロブナー卿の教え方はわかりやすかった。
領地経営の勉強に忙しくしているリーナのもとに、時折義娘のマリアから手紙が届いた。
時候の挨拶から始まり、最近あったことや、王都でのちょっとした噂話などが綴られている。そうして最後に、こちらに遊びに来ないか、という文言で締められていた。
たまには、気晴らしになるかもしれない、とリーナはグロブナー卿に相談してみることにした。
「いいとも!若い娘が、ずっと田舎暮らしでは気が塞ぐだろうと思っていたんだ。前は慌ただしく出てきてしまったから、ゆっくりマリアと王都の観光でもしておいで」
気前よく、卿は許可を出してくれた。リーナは卿と結婚してから、感謝しきりだ。
お小遣いもいくらか持たせてくれたので、これでマークとおじさまに、なにかお土産を買って帰ろうと考えていた。
すっかり涼しくなった秋口に、リーナは王都のタウンハウスへとやってきた。気心の知れた侍女だけを連れた、気軽な旅だ。荷物も最小限で、小回りが効く。
久方ぶりにやってきたタウンハウスは、以前とすこし様変わりしていた。季節が変わって、部屋の内装にすこし手を入れたらしい。イブリンがそういったことに敏感で、センスがいいのだとマリアが褒めそやした。
裏の庭も秋薔薇が咲き始めていて、深い赤色の花弁を窮屈そうに花冠の中にみっしりと詰めた花が、あちこちに咲き誇って圧巻だった。
「よそのお家のお茶会は、まだお姉さまは緊張してしまうと思うので、今日はわたくしのお友達を呼んで、お姉さまと楽しくお話しできたらと思いましたの」
秋薔薇を楽しむささやかなお茶会が、今回の趣向らしい。マリアが主催の、こぢんまりとした会だ。
招待された友人も三人という人数で、マリアの気遣いが感じられた。
「初めまして、リーナ・ライアンです。リーナとお呼びください」
結婚して、リーナの家名はライアンになった。グロブナー卿の名前は長く、沢山の爵位を持っていた。リーナは結婚して初めてそのことを知った。グロブナー卿、という名前は、正式な場ではまず呼ばれることはない。卿が、若い頃に名乗っていた、儀礼称号なのだそうだ。リーナの一家が、ずっとグロブナー卿、と呼んでいたのは、単に愛称の一種としてだったらしい。外で呼ぶのは、絶対に避けなければいけない。リーナは、それを知らないまま結婚してしまったので、グロブナー卿から教えられた時は口から心臓が飛び出るくらい驚いたし、改めて謝った。
正式な場では、一番重要な爵位で呼ばれることになるので、リーナは、ウェルズ公爵夫人リーナ・ライアンということになる。結婚に際して新たに冠された、正式な名前はもっと長い。だが今は改まった場ではないので、一番短くすむ名前を名乗った。
現在、正確にはグロブナー卿を名乗れるのは、卿の長男のクロードである。
リーナの挨拶を受けて、三人の令嬢が自己紹介をしてくれた。
栗色の髪の女性が、エマ・ブロワー。赤毛の女性が、メアリ・クラーク。オレンジの髪の女性が、ジーン・ノアと名乗った。
「リーナさまは、わたくしのお義母さまになるの。ほんとうはお姉さまになるはずだったのに、お父さまがそそっかしくて、間違えてお嫁さんにしてしまったのですって」
「あら、まぁ」
マリアの友人三人が、上品にころころと笑う。
「閣下には、父がとてもお世話になっていて、その関係でご縁を繋ぐことになりました。ほんとうは養女にしていただくはずだったんですが、今回は、前の奥様の後添えということで迎え入れていただいて……。未だに不思議な気分です。閣下は、縁が繋がるなら、後妻でも養女でも同じだと」
「お父さまは大雑把なの。おおらかといえばいいけど、こういうときは困ってしまうわ」
マリアが、困ったように微笑んだ。
「かなり歳の離れた奥様をお迎えになったと聞いていましたけれど、そういうことだったのですね」
マリアの友人の一人、栗色の髪のエマが、おっとりと物腰柔らかく頷いた。
「公爵さまが、若い後添えをもらったって聞いて、ずいぶんと色好みなのねって思ってたのよ。亡くなられた奥様を愛していらしたし、まさか、そんな話だったなんてね!とっても面白いわ!」
赤毛のメアリが、面白そうに笑う。快活な様子に衒いはなく、本心からそう言っているのがよくわかった。
「だとしても、クロードさまたちは、きっと困っているでしょうね。自分たちの奥さまよりも若いお義母さまなんて、どんな顔したらいいかわからないわ」
オレンジ色の髪のジーンは、難しそうな顔をしてそう言った。
「ええ、だから、わたしは普段はカントリーハウスのほうに住んでいるんです。クロードさまにも、イブリンさまにもあまりよく思われていないようなので」
「あら、そうなの?」
メアリがマリアに話を振った。
「クロードお兄さまは、そんなにはお気にされていないと思うわ。問題はイブリンお義姉さまの方なの」
「何をそんなに気にされてるのかしら」
ジーンが、話の接ぎ穂を繋ぐ。
「どうしてか、リーナお姉さまが、ご自分の代わりに連れてこられたのだと、思い込んでいらっしゃるの。だから、クロードお兄さまに、リーナお姉さまに会うなとおっしゃって」
マリアの言葉に、全員が息を呑む。
「たしかに、クロードさまの妻と言われた方がしっくりくるお年だけれど、公爵と結婚されてるのよね?」
困惑顔で、エマがリーナに聞いた。
「ええ、間違いなく結婚しています。イブリンさまが、どうしてそう思われているのか、不思議でなりません」
「やっぱりお子様に恵まれなくて、追い詰められてらっしゃるのね」
あっさりとメアリはそう言い切る。
メアリの言葉に、その場の全員がイブリンに同情的な顔になった。
「イブリンお義姉さまが、嫁いでこられて三年たっていますから……」
リーナ以外の全員が、これから嫁いでいく身の上だ。自分もそうなったらどうしようかと、思いを巡らせているのが、リーナにはよくわかった。同時に、その役割を求められていない現状を、幸運であると捉えられているのかも知れないとそんなことを思った。
しばし会話の途切れたとき、輪の外から声をかけられた。
「楽しくやってるかな」
マリア以外の全員が立ち上がり、頭を垂れる。丁度話題にしていたクロードだった。金の髪が日差しを受けて輝き、貴公子然とした風情をより強めていた。自宅であるにも関わらず、隙のないいでたちだった。
「ああ、気にせず続けてくれ。義母上の様子を見に来ただけだから」
着席してから、リーナは訝しげにクロードを見た。
「なんでしょうか」
勧められもしないのに、クロードは侍従に椅子を持ってこさせて、リーナのすぐ隣に収まった。
「義母上は、冷たいひとでね。せっかく義理の親子になったっていうのに、親交を温めることもなく父上とカントリーハウスに引っ込んでしまわれたんだよ。おかげでこちらの人間は、義母上のひととなりもわからないままだ。義息子としては、これを機に義母上のご機嫌伺いでもしたいと思ってね」
ね、と微笑まれたが、クロードの目は笑っていない。品定めするような目で見られて、リーナは胃が痛み出すのを感じていた。
「クロードお兄さまは、お父さまと領地に行かれたお姉さまをとても気にされていらしたの」
マリアは取りなすように言ったが、ようはグロブナー卿の財産をあたら目減りさせていないかの監視がしたいのだろう。
完全に爵位の引き継ぎがされるときに、不動産やら国債やらを、ぽっと出の若い女に掠め取られたら堪らないからだ。グロブナー卿の一族はお金持ちだ。それを狙うハイエナどもは引きも切らないはずだし、その一味だと思われているのは当然の話だった。
そういうつもりがないことは、行動で示すしかないが、なにせ、王都の家の居心地が悪すぎてカントリーハウスからほとんどでない生活だ。
「私は、領地の方で楽しく過ごさせていただいております。王都のように華やかではありませんが、穏やかな飾らない方ばかりで、田舎者の私でも、温かく迎え入れてくださる方が多くて助かります」
質素にやっている、と遠回しに伝えたが、クロードの目つきは緩まなかった。
「だからマリアのお下がりなんて着てるのか」
低い、ぎりぎり隣のリーナの耳にだけ届くような小さな声で、クロードが呟いた。嘲笑うかのような声に神経を突かれて、リーナは喉の奥が怒りで塞がるのを感じた。
「マリア」
クロードは何事もなかったようにマリアの名を呼び「義母上と、王都観光には行くのかい」と聞く。
「ええ、お義母さまは、あまり王都にいらしたことがないとおっしゃっていたので、有名どころを何箇所か回る予定でいます」
穏やかに答えるマリアに、クロードはふうん、と頷いた。
「僕も一緒に行こうかな。近所すぎて、逆に行ったことがなかったんだ」
クロードの言葉に、令嬢方がきゃあ、と黄色い声をあげる。
リーナはクロードの発言に、胃がさらに激しくしくしく痛み始めるのを感じていた。大体、イブリンに近づくなと言われていたのではないのか。
「イブリンさまには、どうご説明されるのですか」
「なに、言わなければわからないさ。イブリンも、友人と出かけている」
クロードはそう言って、用意されているお茶を飲んだ。
マリアとの観光を、とても楽しみにしていたのに、クロードが来ると聞いて、気持ちが落ち込んでいくのがわかる。目に見えて気落ちしているらしく、マリアたちがわざわざ話題を変えてくれたので、わざとらしくそれに乗って、この場はなんとかやり過ごした。