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後見人からは、あと三月で結婚相手が迎えにくると言われていた矢先のこと。

不意に、久方ぶりになる人の訪れがあった。それは四年ぶりになる、父の友人だった。


「やあ、久しぶりだ」


穏やかな顔つきの紳士が、ゆっくりとリーナに挨拶した。


「お久しぶりです、おじさま」


昼下がりの応接室で、リーナは、父の友人であるグロブナー卿に会った。


グロブナー卿は、立派な紳士だ。豊かな白髪をオールバックに撫で付け、仕立てのいい服を隙なく着こなしている。父よりも少し年上と聞いているが、どこかぼんやりした風情の父と違って、鷹揚で貫禄があり、少しどころかかなりの年嵩に見えた。老けているという意味ではなく、堂々としていて、力強い円熟味がある佇まいなのだ。

しかし、今の卿には、どこか疲れがあるようだった。


「ここ最近は、あまり会いに来れなかったが、まさかハワードと奥方が亡くなっていたとは」


「はい。昨年のことで、私たちでは父と母の知人に知らせる余裕もありませんでした……」


知らせる余裕もなく、代理人を引き連れて、後見人がやってきてしまったのだ。それからは、生活の全てを彼らに握られていて、自由に手紙一つ出せない。


リーナはこの時に、この優しいおじさまに助けを求めたいと強く思った。血縁もなにもない、ただの父の友人の一人が、リーナが結婚してしまう三月前に、急に姿を現したのは、神の思し召しのように思えたのだ。


そう決意したはいいものの、リーナはなんと切り出したものか、困ってしまった。

助けを求めたい。縋りたい。不安な気持ちを聞いて欲しい。


思いが胸から溢れて、口から飛び出る前に、目頭が熱くなって涙が次々に転がり落ちた。


「リーナ、泣いているのかい」


「違うんです。泣くつもりは……」


喉が震えて鼻が詰まって、リーナは慌てて顔を両手で覆った。

ひくひくと震える喉から不明瞭で引き攣った声が漏れて、みっともない。おじさまの前で、ひどい不調法をしてしまっている。

リーナは涙を堪えようと必死に息をつめたが、慌てれば慌てるほど、顔が熱くなって、涙が頬を濡らしていった。

手で覆った視界では見えないが、俯いたリーナの側に、卿が寄り添って、頭を撫でてくれたのがわかった。


それで、リーナは堪えられなくなった。

両親が死んでから、リーナはずっと耐えていた。幼い弟を不安にさせまいと、ずっと声を殺して、枕に顔を突っ込んで泣いていた。


グロブナー卿に撫でられながら、リーナはわあわあみっともなく泣いた。それなりに躾けられた、良家の子女としてあるまじき振る舞いだったが、耐えられなかった。久方ぶりの温かい手に、リーナは張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまったのを感じた。


リーナは追い詰められていて、この優しいおじさまに助けて欲しかった。口先だけでもいいから、優しくして欲しかった。大きくて無骨な温かい手は、リーナの硬くなった心の一部を溶かした。それが、涙となって目から溢れて、リーナはひくひくと背筋を震わせた。

卿は、ゆっくりとリーナの背中を撫でてくれた。それは父を思わせる優しさだった。


「おじさまに、お願いがあるんです」


やっと落ち着いた頃、リーナは泣き腫らした目をしょぼしょぼさせながら卿にこれまでのことを話した。



グロブナー卿は、リーナの話を一通り聞いた後、少し考えてもいいかな、と言って、用意されたお茶を一口飲んだ。

幾らかの間考え込んでから、グロブナー卿は、ゆっくりと口を開いた。


「ひとつ、提案がある」


リーナが嫌でなければなんだが、と卿は前置きをしてから話し始めた。


「よければ、うちの子になるかい」


その言葉に、リーナはこくこく頷いた。願ってもない言葉だ。


「ただ、それには条件がある」


グロブナー卿は、ちょっと困ったようにため息をついた、


「私と結婚できるかい、リーナ」


「おじさまと?」


妻に暴力を振るう男と、おじさま。天秤にかけるまでもない。両者で似通っているのは年齢だけだ。リーナは、すぐさま頷いた。


「はい。おじさまと結婚します」


頷くリーナに、しかし卿は浮かない顔だった。


「本当は、もっと別の道を用意してあげたいのだが、結婚相手があと三月で迎えにくるのではね」


卿の浮かない顔は、そういう理由かららしい。それでも、リーナは嬉しかった。ろくに顔も知らない、碌でもない男のところに行くより、顔見知りの、父の友人のところに身を寄せる方が安心だ。


きっとおじさまは年齢が離れすぎていることを気にしているのだろうと、リーナは楽観的に考えていた。


「じゃあ、すこし用意をしてからまた出直そう。君たち姉弟の後見人と、話をつかなければ」


グロブナー卿は、微笑みを浮かべて、リーナの頬に親愛のキスをした。


「父親よりも年上の婚約者ですまないが、いまは辛抱しておくれ。君たちの状況を見過ごしたら、天国にいるハワードに再会したときに、どんな文句をつけられるかわからないから」


そう言ってから、卿は右手の小指に付けていた指輪をリーナの手に握らせた。


「しばらくは、これを私と思って身につけておいで。これが君を守ってくれるはずだ。もし、私が迎えに来なくても、これを売って用立ててくれればいいから」


卿から渡された指輪には、大振りのエメラルドが嵌められていた。金の指輪の内側には、小さな文字で、なにか彫られている。


「すぐに迎えにくるから。いい子にして待っているんだよ」


「はい、おじさま」


リーナの返事に、卿は軽く頷いてから帰っていった。



グロブナー卿が迎えにきたのは、その日からちょうど二週間後の、よく晴れた日のことだった。


弁護士を引き連れたグロブナー卿が、リーナに後見人を呼んでくるように伝えた。


「わかりました」


リーナは後見人が嫌いだ。横柄だし、リーナを見ると露骨に嫌そうな顔をする。

若い女だと、侮っているのがよくわかる。


「お前の父親の知り合い?なんでそんなのと俺が会わなくちゃいけないんだ」


「私がその人と結婚するからです」


「はぁ!?」


父の使っていた書斎にいた、後見人のクスナー氏は、リーナの発言に泡を喰った。


「突然なにを言い出すんだ。ジジイを誘惑してそれで逃げられるつもりか」


「逃げるもなにも、結婚しろと言ってきたのはそちらでしょう」


「俺の従兄弟と結婚しろといったんだ!知らねぇジジイと結婚しろなんて言ってねぇ!」


真っ赤な顔で怒り出した後見人が、リーナの襟首を掴む。このまま殴られるかもしれないと身を固くしたが、リーナが後見人に暴力を振るわれることはなかった。


「失礼」


振り上げられたクスナー氏の手を掴んでいたのは、グロブナー卿だった。


「大声が聞こえたもので、無礼とは分かっていましたが部屋に入らせていただきました」


穏やかな口調のグロブナー卿に、クスナー氏が舌打ちした。

書斎の入り口に、真っ青な顔の執事が立っていた。大声に驚いているというよりは、この後にクスナー氏に怒鳴られることに怯えているのだろう。


その後ろから、神経質そうな男性が入ってきた。彼は、卿が連れてきた弁護士だ。


「お嬢様、これからクスナー氏と話し合いになりますので、持っていく荷物を用意して、別室でお待ちください」


弁護士にそう促されて、リーナはそそくさと父の書斎を後にした。



両者の話し合いは、リーナの予想よりも遥かに穏便に終わった。

クスナー氏の代理人も召喚されて、小一時間ほどで、話し合いは終わった。

書斎から出た足で、そのままグロブナー卿が会いに来て、リーナは今日はこれで一度終了になったのだと思った。


「おじさま、どうでしたか。クスナー氏は納得してくれましたか」


「ああ、思っていたよりも、彼は扱いやすかったよ」


そうして、リーナに弟を呼んでくるように言った。


「もう、私の屋敷に移って大丈夫だ。クスナー氏に話はつけてきたから、今日からおいで」


「本当ですか!」


クスナー氏との話し合いが、まさかたったの一時間で終わるとは思っても見なかったので、リーナは心の底から驚いた。


「弟さんも、大事なものだけ持っておいで。細々したものは、こちらで用意できるから」


卿の言葉に、リーナは脱力して跪いた。安心から涙が溢れて、そのままリーナはこうべを垂れる。


「本当に、どうお礼を申し上げていいか……。感謝します、グロブナー卿」


「ああ、顔をお上げなさい。若い女の子が、跪くなど」


卿に手を取られて、リーナはよろよろと立ち上がった。そうして、慌てて弟を呼びに行く。


弟は神妙な顔をして、リーナの手に引っ張られてきた。幼いなりに、なにか起きていると気づいているのだろう。

肩掛けの鞄に、両親からもらったものと、大事にしていた石を、ケースに入れて持ってきていた。


「忘れ物はない?」


リーナの言葉に、弟はこくりと頷いた。


弟を卿に預けて、リーナは屋敷の中を走った。長いこと勤めてくれている使用人達に挨拶をするためだ。

母の侍女、執事、料理番の三人に挨拶をして、リーナは慌てて玄関から飛び出した。


玄関の車止めには、立派な馬車が一台停まっていた。金の装飾が施された、豪華な馬車は、まるでお姫様の乗り物だった。しかしそれをとっくり眺める暇もなく、リーナが慌ただしく乗り込むと、御者がたちまちに馬に鞭を入れた。


「こんな慌ただしい出発になってしまって申し訳ない」


「いえ、あの家でゆっくりしているのは、よくないと思いますから」


「私もそう思う。では、このまま私の屋敷に向かおう」


リーナたちの住んでいる屋敷から、グロブナー卿の屋敷まで、丸三日かかった。途中で宿を取りながら馬車が進み、リーナたち姉弟は、王都の中心街にある大きな屋敷に足を踏み入れた。




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