14
リーナの産んだ赤ん坊は、すくすくと育った。赤ん坊はフィリップと名付けられ、ほとんどの間は、カントリーハウスでリーナの手元にいた。たまにクロードの連れられて、タウンハウスにやってくる。
タウンハウスでは広い裏庭をとても気に入ったらしく、よく侍女と一緒に散歩しているらしい。
マリアは輿入れが近くなり、ドレスや、嫁入り道具の選定に入っていた。侍女と話しながらドレスの意匠をどれにするかで悩んでいたとき。
裏庭から甲高い悲鳴が聞こえた。声からして、フィリップに付いていた侍女の声だ。
「なにかあったのかしら」
マリアの疑問に、控えていた侍女の一人が、「見てまいります」と言って部屋を出て行った。
しばらくしてから、様子を見に行ったら侍女から聞かされた話に、マリアは頭を抱えた。
「イブリンさまが、フィリップさまを池に突き落としたそうです。フィリップさまは水を大量に飲み、意識が戻らないらしく……」
顔を歪めた侍女の報告に、マリアはすぐさま立ち上がった。
「フィリップのところへいきます」
マリアがフィリップの元に向かうと、寝室にはクロードがいた。
フィリップの眠る寝台に腰掛け、沈痛な面持ちでその顔を眺めていた。
「お兄さま」
「マリアか。先程、フィリップは一度気が付いた。泣いて、イブリンには会いたくないと」
クロードの言葉に、マリアはほっと胸を撫で下ろした。
クロードのそばに寄り、眠るフィリップの顔を覗き込む。
太陽の光を紡いだような金の髪に、真っ白な肌。今は瞼の下にあるが、瞳の色は美しい菫色だった。フィリップは、成長していくほどに、兄に似ていく。ほとんど父には似ていない。フィリップに「本来の父親」であるはずの父の面影は見られなかった。
イブリンも、そのことに気づいているのだろう。リーナが産んだのは、間違いなく兄のクロードの子供だ。しかし、対外的には父の遺児ということになっている。
しかし、イブリンはそのことに納得できなかったのだろう。リーナがフィリップを産んでから、イブリンはずっと精神的に不安定だった。神経質に使用人に当たり散らし、部屋に閉じこもることが増えていた。
「イブリンは、フィリップに裏庭の池のそばで行き合い、「娼婦の息子が、私に声をかけるな」と言って突き落としたそうだ」
クロードの言葉に、マリアは息を呑んだ。
「イブリンは、部屋に閉じこもっている。あまり精神的に落ち着いていなかったようだが、それが爆発したのだろうな」
実の息子が池に突き落とされたというのに、兄は冷たさを感じるほど平板な調子でそう言った。怒りの一つも見せない兄に、マリアはぞっとした。
「イブリンは一度実家に返そう。そうすれば、少しは落ち着くかもしれない」
兄の判断に、マリアは何と言えばいいのかわからなかった。
それからすぐに、イブリンは実家に戻された。
それと入れ替わりになるように、リーナがタウンハウスへとやってきた。
クロードがよく手入れをしてやっているのか、リーナは上品に日傘を持ち、公爵夫人らしい装いに身を包んでいた。
フィリップが池に突き落とされたと聞いて、慌ててやってきたらしく、最低限の荷物とたった一人の侍女だけ連れてきていた。
「お母さま!」
フィリップは大喜びでやってきたリーナに抱きつき、タウンハウスであったことを、報告し始めた。
「イブリンさまとなにかあったと聞いたけれど、ほんとうなの?」
リーナがそう聞くと、フィリップはリーナに抱きついて、「こわかったから、おはなししたくない」と訴えた。
目元を赤くしてリーナに抱きつくフィリップを、クロードが優しく促す。渋々といった顔をしながら、フィリップがリーナから離れた。
フィリップはリーナの手を引いて、家族の居間に連れて行った。マリアもそれについて行き、一緒に話を聞くことにした。
全員が思い思いの場所に座るのを見てから、フィリップの侍女のデイジーが、ゆっくりと話し始めた。
「あたしが、フィリップ坊ちゃんと裏庭の散歩をしてたら、イブリン奥さまと会ったんです。あたしは、フィリップ坊ちゃんに、「お母さまにご挨拶して」と言いました。フィリップ坊ちゃんは、「イブリンおかあさま、ごきげんよう」ってちゃんとご挨拶できたんです。そしたら、急にイブリン奥さまは大声で「娼婦の息子が、私に挨拶するな!」と言われて、フィリップ坊ちゃんを突き飛ばしたんです。すぐ後ろに池があったので、坊ちゃんはそこに落ちてしまって……。泳いだことがないのと、突き飛ばされたショックで、坊ちゃんはちょっとだけ顔を出したんですが、すぐ沈んでしまったんです。子供には深い池でしたから。慌ててあたしが池に入って坊ちゃんを助けたんですが、そのときは息をしていませんでした」
悲しそうにいうデイジーの話を、リーナは痛ましそうに聞いていた。フィリップはリーナに抱きつき、じっとデイジーの話を聞いていた。兄は微動だにしない。
デイジーはぺこりと頭を下げて、部屋の隅に控えたが、一家の面持ちは暗かった。
「イブリンは精神的に落ち着かないので、一度実家に返した。その間、リーナはこちらにいて、フィリップを落ち着かせてやってくれ。怖い思いをしたなら、母親がそばにいたほうがいい」
兄の言葉に、リーナは頷いた。フィリップは喜んで、リーナにご本を読んで、とせがんでいた。