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リーナの恐れていた出来事は、ある日突然やってきた。
グロブナー卿が、朝食を取った後に、頭が痛いと言って、寝室に戻ってしまったのだ。頭痛がするなら、そっとしておいたほうがいいだろうと思って、夜まで様子を見にいかなかった。
夕飯の時間になっても、卿は部屋から出てこない。執事に言って、様子を見てきてもらうと、すぐに真っ青な顔の、慌てた執事が戻ってきた。
「大奥さま!大旦那さまが……!!」
まさかと思って寝室へと走る。寝室の中にはすでに何人かメイドがいて、大声で「旦那さま!旦那さま!!」と悲痛な声で泣き叫んでいた。
「お医者さまは……!?」
「呼んで参ります!」
執事がリーナの言葉に反応して、寝室を出ていく。啜り泣くメイドが部屋の脇に避け、リーナはグロブナー卿の元へと震える足で歩いていった。入り口からベッドまで、ほんの数歩の距離だったが、今までの人生で一番長い数歩だった。
ベッドの上には、グロブナー卿が横たわっていた。顔色は、紙のように白い。震える手を伸ばして、卿の胸元に手を当てる。
「おじさま……起きてください、おじさま……。リーナです、お願いします、おじさま……」
呼びかける声が震えて、だんだんと濡れてくる。目頭が熱くなって、目の前が水の膜ができては消え、できては消えを繰り返す。すっかり濡れた頬は、濡れて温度が失われていく。グロブナー卿を呼ぶリーナの声が掠れる頃に、やっと部屋に執事に連れられた医師が到着した。
それからは怒涛だった。タウンハウスに早馬を走らせ、カントリーハウスに一族が皆顔を揃える前に、教会や納棺師と話をつけておかなければならない。
幸いなことに、グロブナー卿は、このような事態になった場合のことを、執事に託けておいてくれていた。
実家にいた頃、両親が亡くなった時とは話が違う。リーナの家は小さな家だが、ライアン家は巨大な一族だ。
死去の翌日には、クロードが弁護士を伴ってカントリーハウスにやってきた。弁護士は、リーナが実家から出てくるときにも会った人物だった。
クロードは寝室でグロブナー卿に面会し、亡父の手を握って、しばらくの間悄然としていた。これより、一族の長はクロードになる。寝室から出る頃には、クロードの顔は厳しく、固いものになっていた。義理の母であるリーナにも一礼し、「後は僕がやろう」と言って、肩を撫でた。それにほっとして、リーナは一粒、ぽろりと涙をこぼした。執事に指示を出してリーナを自室に戻し、采配はクロードが振るうことになる。リーナは気を落ち着かせるために侍女にお茶を用意してもらい、喪服の用意だけしていた。半日過ぎる頃には、涙の衝動も収まっていた。
クロードから遅れること一日で、タウンハウスに住む主要な面々がカントリーハウスに揃いつつあった。まずはリーナとクロードに挨拶して、それからグロブナー卿に面会し、涙を堪えながら部屋から出てくる。葬儀のために皆が黒い服を着ていて、屋敷の中は暗い空気がどんよりと広がっていた。
卿の訃報は新聞にも載り、三日とせずに一族が顔を揃え、友人や知人も、カントリーハウスに喪服姿で現れた。
死者とされたのに、二日後に息を吹き返した例もあり、卿の亡骸は、医師により死亡が確認されてから、屋敷内に三日留め置かれた。亡骸は納棺師に清められ、絹で内張りされた棺に納められた。埋葬されるまでの間、一族郎党の人間や友人知人が、白い花を手に、次々にお別れの挨拶を済ませていく。棺桶の中は、真っ白な花でいっぱいになっていた。
全員がお別れをすませたのを確認した後に、墓掘り人が掘り終わった墓穴にまで、一族の男たちが棺を担いで運んでいく。
よく晴れた空の下、棺は墓穴に丁寧に入れられる。そのそばで神父が、神に故人の罪を謝罪し許しを乞い、神の園で永遠の命を得られるように祈りを捧げていた。
棺に土が被せられ埋葬が終わると、リーナはなにも考えられなくなってしまった。
自室に引き上げ、侍女に喪服を脱がせてもらって、それからリーナは何をしたらいいのかわからなくなってしまった。弟のマークは心配そうにしていたが、それ以上に信頼していたグロブナー卿が亡くなってしまったことにショックを受けていた。
リーナが部屋でぼんやりしていると、クロードが部屋にやってきた。リーナは立ち上がり深く礼をして、恭順の姿勢を示した。まさか、こんなに早くクロードが動くとは思わなかった。
「閣下」
グロブナー卿が亡くなり、これからクロードは忙しくなるはずだ。正式に公爵としての生活を始めるために、家内の整理をいずれすることは理解している。まさかグロブナー卿が亡くなってすぐに、整理をし始めるとは思わなかった。ぼんやりしていた頭を叩き起こして、無理矢理に焦点をクロードの顔に合わせる。
今この瞬間、リーナは生活の危機に瀕している。クロードの胸先三寸で、リーナとマークの今後の生活が決まってしまう。
リーナの呼びかけに、クロードは不快そうに眉を顰めた。
「随分と他人行儀だな、義母上。父にもそう呼んでいたのか」
「いえ、先代さまには」
「クロードと」
「……は?」
「変わらずクロードと呼んでくれ」
クロードの意図は不明だが、拒否できる身分でもない。クロードの機嫌を損ねるわけにはいかないからだ。
「わかりました、クロードさま」
「僕は父の遺したものを、全て引き継ぐことになる。あなたのことも、それに含まれる」
「はい」
あなたのことと書いて、不良債権と言う意味になるのだろう。そんなものまで引き継がなくてはいけないのだから、クロードも大変なのだとは思うが、こちらも生活がかかっている。
「その、クロードさま。私たち姉弟を長くとは言いません、少しの間で構いませんから、ここに置いてはいただけませんか。その間に、お仕事を探してくるので、それが決まったら、出ていきたいと思います」
クロードの片眉が吊り上がる。
「ここを出ていくつもりなのか。外で働く?ツテも経験もないのに?」
「一応マリアさまにはそれとなくお話ししていて……公爵夫人でしたから、王弟妃の侍女を募集していないかと」
「アメリア妃の侍女か。たしかに、前公爵夫人が働くと言うのなら、王族の侍女はふさわしいだろうな」
「はい。それで、できればクロードさまからもお口添えしていただければと思うのですが」
リーナの言葉に、クロードは底のしれない微笑みを浮かべた。
「ここで僕がアメリア妃の元にあなたを放り込んだら、義母を捨てた冷血漢と噂を立てられるんじゃないか」
クロードの揶揄するような言葉に、リーナは咄嗟になんと返したらいいかわからなかった。
「……まさか、そんな、閣下にそんな無礼な……」
「クロード、だ。リーナ」
叱るように名前を呼ばれて、リーナは身を固くした。今までずっと、「義母上」としか呼ばれたことがない。クロードが、リーナの名前を覚えていたとは思わなかった。これはあまりいい状況ではないとリーナは判断して、慌てて謝った。
「申し訳ありません、クロードさま」
視線を下げこうべを垂れるリーナに、クロードは一歩近づき、ことさら優しい声でこう言った。
「父が亡くなって、リーナも悲しむ時間が欲しいだろう。僕の別荘に、一時的に移ってはどうだ。こことは違って静かだし、こちらはしばらくバタバタして落ち着かなくなる。ゆっくりとこの先のことを考えられる場所だ」
クロードの言葉に、リーナは少しほっとした。今すぐに出ていくように言われるかもしれないと思っていた。しかし、クロードはこの先のことを考える余裕をくれた。わざわざ別荘に移すのは、自分の部下に監視をさせやすくなるからだろう。後ろ暗いところはないので、むしろありがたい。もしこれで飼い殺しになったとしても、最低限の生活は保証してもらえる。
「ありがとうございます。そうします」
リーナはクロードの顔を見た。クロードは、今まで見たことのないような、穏やかな顔をしていた。
「マークと二人でゆっくりすれば、父上が亡くなったことも、すぐに思い出にできる」
クロードは、弟のマークの名前も知っていたのか、と驚いた。予想よりも、クロードはこちらのことを悪く思っていないのかもしれない。
「荷物をまとめておいてくれ。すこし早いかもしれないが、今週末には出られるように」
クロードはこれから忙しくなる。血の繋がった家族のことならとにかく、血の繋がらない義理の家族のことは、できる限り後回しにしたいはずだ。
「リーナのことを、悪くはしないと約束しよう」
クロードのその言葉に、リーナは初めて、クロードのことを優しい人だと感じた。
「本当にありがとうございます。クロードさまの言葉に従います」
リーナが、今度は感謝の意を込めて、もう一度こうべを垂れる。クロードの手が伸ばされて、顎を軽く持ち上げられる。
「リーナ」
姿勢を戻すと、クロードの手が顎から肩へ移り、それからリーナの手を取った。その手の中指には、以前グロブナー卿から贈られた、エメラルドの指輪が嵌められていた。
クロードの手が、その指輪をするりと外してしまう。大粒の美しいエメラルドは、グロブナー卿の目の色と同じ輝きを放っていた。リーナはおじさまの面影を思い出すために、毎日起きるたびに小さな声で、指輪におはようと挨拶をしていた。
「これは預かっておこう。代わりにこれを」
クロードは指輪を無造作に上着のポケットに入れ、同じポケットからビロードの小箱を取り出した。中から指輪を摘んで、リーナの薬指に丁寧にはめた。
銀色のリングには、美しいバイオレットサファイアが飾られていた。色味の明るい、夜明けの空に似た紫色の石は、エメラルドカットを施されて、石本来の美しさを誇示している。
「父の目の色をずっと身につけていると、思い出にするのが辛くなる。代わりにこれを身につけていてほしい」
クロードの言葉に、リーナは頷いた。つんと鼻の奥が痛み涙がこぼれそうになるが、ぎゅっと目頭に力を入れて堪えた。




