残念ながら原稿は命より重いです。
人気漫画家、木下栄市郎の身柄が拘束された。それも、彼の連載漫画の入稿締め切り当日に。どんな手段を使ってでも、絶対に原稿を回収したい敏腕編集者、編河集太郎による追跡劇。そして、彼からどんな手を使ってでも逃れたい木下の逃亡劇が、同時に始まった。人違いで木下を誘拐してしまった犯人を巻き込んで。
東京都内某所、拾英社。今日は、月刊少年ヴァンプの入稿期限当日ということもあって、事務所の空気は、いつにも増してピリピリしていた。
というのは、新しく移ってきた敏腕編集者の編河集太郎に、他の社員がビビり倒しているからだ。細身で身長が高く、スタイルだけでいえば、女性社員からの人気が高そうではある。しかし、額には十字の傷が刻まれ、獲物を前にした鷹のような鋭い目という人相のせいで、誰も彼の半径二メートル以内には近づこうとしない。そんな彼が、デスクを指で鳴らして露骨にイライラしている。他の社員は、それがおっかなくて仕方がない。
「編河さん、やけに機嫌が悪いけど、どうしたんですか」
彼の不機嫌さを見かねた社員が、隣の島でひそひそ話を始める。
「予想つくだろ。彼の担当は、あの木下栄市郎だぞ」
その漫画家の名前を聞いて、女性社員は納得した。木下が締め切りにルーズなのは、それくらい周知の事実なのだ。何しろ、週刊誌との契約が、締め切りを破りすぎて打ち切られたのが去年のこと。読者からのラブコールもあって、月刊誌に移ることになったが、それでも度々締め切りを遅らせている。つまるところ編河は、木下に締め切りを守らせるために派遣された最終兵器というわけだ。
――ジリリリリリリ!
突如として、社内電話の着信が張りつめた空気を切り裂く。さっきまでひそひそ話をしていた女性社員は、びくりと肩を強張らせた。
「はい、もしもし――」
ため息をひとつついてから、受話器を手に取った。初めは明朗快活に応答していた彼女だったが、数秒も経たないうちに、顔から血の気が引いていく。
「あ、あああ、編河さん。お電話です」
喉から辛うじて声を絞り出す彼女。尋常ではない怯え様だ。
しかし、編河は彼女に声をかけてやることすらせずに、電話を受け取った。
「はい、拾英社の編河集太郎と申します」
「おう、お前が木下の担当編集者か」
電話の向こう側から地を這うように低い男の声が聞こえる。
「ええ、そうです。失礼ですが、お名前を教えていただけますか」
「随分と冷静やな。こっちは、お前が担当している漫画家の命を預かっとんねんぞ」
男はあくどい笑みを交えて脅迫してくるが、編河はあくまでビジネスライクに話を進めようとする。
「すみません。名前がないとなんかやりにくいのですが」
「ええ加減にせい! こちとら誘拐犯やぞ! 名乗るわけがないやろ!」
そもそも、電話の向こうで木下が男に拘束されていることなど、気にも留めていないかのような物言いだ。
「では、誘拐犯さんとお呼びしますね」
「もうええ。勝手にせい」
もはや誘拐犯は、すっかり編河のペースに乗せられてしまっている。
「誘拐犯さん、本日はどんなご用件でしょうか」
「やから、お前の担当の漫画家を拘束しとるんや! こいつの命が惜しかったら、身代金二百万円をすぐに用意せんかい!」
「身代金ですか? でしたら編集者よりも、ご家族や親戚の方をあたられた方がよろしいかと」
「その身寄りがいないから、お前に電話しとんねん! こいつがどうなってもええんか!」
「流石に死なれると困ります。まだ、今日までの原稿をもらっていないので」
「問題そこなん!?」
ここまで来ると冷静沈着というより、人の心がないと形容するべきか。
「あ、そうです。つかぬことをお伺いしますが、誘拐犯さん、拳銃は持ってらっしゃいますか」
「持っとるけど、それがどうしたんや?」
「ちょうどいいので、それを彼のこめかみに突きつけて、原稿が終わるまで見張っててもらえますか」
「い、いや、あの……、何言ってますの?」
誘拐犯は、ついに口調がおぼつかなくなってしまった。
「身代金は、必ずご用意いたします。そのかわり、身代金が欲しければ、彼に何としてでも原稿を完成させてください」
「なんでお前が脅迫しとんのじゃあ!」
「原稿の内容もしっかり目を通してください。彼は、締切が迫ると現実逃避のために百合同人漫画を描く癖があります」
「いや、なんで内容まで確認せなあかんねん!」
「ついでに、簡単に誤字脱字ないか等確認していただけると助かります」
「それはお前の仕事やろがい! ええ加減にせえよ。なんで、お前に従わなあかんねん!」
ついに誘拐犯が、声を荒げて怒鳴りつけてきた。しかし、そんなもので編河が怯むはずもない。「人質を殺したいのか、身代金が欲しいのか、どっちなんですか」の一言で、相手のとどめを刺してしまった。
「今から身代金を用意して、そちらに伺いますので。彼が原稿を完成させるよう、監視をよろしくお願いします」
編河は、相手の居場所すら聞かずに電話を切ってしまった。
「身代金」、「誘拐犯」等、物騒な言葉が混じった通話を盗み聞きしていた事務所の皆は、揃いも揃って顔を真っ青にしている。編河は荷物を纏め始めた。そして、数分と経たない内に、セカンドバッグを小脇に抱えて事務所を出ようとする。
「待て。どこに行くつもりなんだ?」
危険な行動をされても困る、と編河の上司が止めに入る。先ほど、女性社員とひそひそ話をしていた男性社員だ。
「どこって、原稿を取りに行くつもりですが」
妙な汗をかきまくっている上司とは対照的に編河の態度は、何ともあっけらかんとしていた。
「君が担当している木下さんは、誘拐犯にさらわれているんだぞ」
「ええ、ですから、そこに原稿を取りに行きます」
「だから、どうやって?」
「彼の携帯電話の位置情報を追跡しているので」
「その位置情報だって、使えるのかどうか分からないぞ」
「彼の財布に入っている私の名刺にマイクロチップが仕込まれているので、それの位置情報も追跡できます。あと彼の靴や鞄にも同様のものが仕込まれていて――」
「どんだけ追跡してんだよ!」
「どんな手段を冒してでも原稿を回収することが、編集者の仕事だと思っているので」
「君のは、特殊工作員かなんかのやり口だよ」
「それほどでもありませんよ」
網河は、上司が呆れがちに放った一言を、褒め言葉と勘違いしているのか、謙遜の言葉を背中越しに放ちながら事務所を出て行ってしまった。
「いったい、なんなんだ、あの編集者は……」
***
「いったい、どうなっとるんや、お前ん所の編集者は?」
時を同じくして、誘拐犯も編河の上司と同様の感想を、人質である木下に吐露していた。
「だから、言ったんですよ。うちの編集者は、原稿のことしか頭にないって」
「でもこれで、とりあえず二百万円が手に入るアテができたわ」
誘拐犯は、右の頬にある大きな縫い傷を撫でた後、胸ポケットからタバコを取り出し、火をつける。身代金を渡してくれるという言質は取れた。安堵を煙とともに、不精髭で覆われた木下の頬に吹きかける。
嫌煙家の木下は、顔をぐしゃぐしゃに歪めて苦悶の表情を浮かべた。
「あとはどうにかしてこの場所を、あのサイコパス編集長に教えなあかんのやけど……」
「誰がサイコパス編集長だ、失礼な!」
「いやいや、お前のことや……て、え……?」
誘拐犯は、自分の耳を疑った。この場にいてはいけない人物の声が聞こえる。拡声器を通した声だ。
居場所を伝えていないというのに、この廃ビルの場所をどうやって見つけたというのか。あり得ない。状況を理解できないまま、割れた窓の外を覗き見る。
崩れ落ちたコンクリートの転がる廃ビル前の開けた空間。そこに奴はいた。額に入った十文字の傷。ポマードでかっちりと固めた髪に、上下ストライプのスーツ。拾英社に謎のつてで入ってきた敏腕編集長、編河集太郎だ。
「そこにいるのは分かってる。木下栄市郎。日付が変わるまでに週刊少年ヴァンプの掲載漫画『君にしゅきしゅきレボリューション』の原稿を上げろ。さもなくば、誘拐犯ともども命はないと思え!」
メガホンを通して、廃ビルに立てこもる誘拐犯に呼びかけているわけだが、もはやどちらが悪人だか分からない。
拘束されている木下も、編河がこの場所を嗅ぎつけたと知ってからの方が、遥かに怯えている。
「ああ、奴が来た……。もう、おしまいだぁあっ!」
「誘拐犯より怖がられる編集者てなんなん?」
誘拐犯としては、他にもいろいろツッコミたいところはある。特に木下が描いている連載漫画のタイトルだとか。が、情報が多すぎて処理が追い付かない。
「今日仕上げるなんて絶対に無理だ……。今度こそ何をされるか、分かったものじゃない!」
「いや、その前に……、お前……誘拐されとるから」
「そうです、誘拐犯さん、場所を他に移しませんか? 誰にも見つからないところに」
「言うとくけど、お前、人質やからな」
編河だけでなく、木下のツッコみまで担当しなければいけなくなった誘拐犯は、心労で頭を掻きむしりまくっている。お気に入りのリーゼントが、もうぐちゃぐちゃだ。
ため息をひとつついたところで、また外が騒がしくなり始めた。車のエンジン音が聞こえる。それも一台や二台ではない。
「何やねんな、もう堪忍してえな」
不平を漏らしながら外を見やると、編河と全く同じストライプスーツに身を包んだ男たちが、廃ビルを取り囲んでいた。
「木下英市郎、お前は完全に包囲されている!」
ストライプスーツの軍団が、一斉に声を合わせる。
なぜ誘拐犯ではなく、人質に対して「包囲されている」と言うのか、とツッコミたい気持ちもあった。だが、それよりも誘拐犯は強く思った。
ここから逃げなければ――、と。