花言葉は不老不死
俺、黒峰薊には家族が居ない。
母親は浮気の後に駆け落ちし、父親は麻薬所持の疑いで警察に捕まり、姉は二年前から行方不明になっていた。
祖父母はとっくのとうに他界し、叔父叔母の類もいない。もしかしたら祖父母の兄弟の子息、と遡れば血縁者はいるのかもしれないけど、それを家族と言えるのかは果たして蛇足である。
そんな人肌恋しい一人暮らしを送っていた俺はとうとう高校生になった。
通うことになった高校はお金持ちの子息子女が通うような由緒のある高校。
家族のいない俺が普通に通っていけるのかと不安になっていると俺はとある女子生徒に出会った。
これはそんな俺が唯一おくることが出来た輝かしい青春の一幕。
伏線を回収するように、通学路を辿るように、はたまた罪を懺悔するように、ただ一本の道を歩む物語。
花と聞くと俺は嫌なことを思い出す。
嫌の一文字では表したくないような、複雑怪奇な物語を。
思い出したくも無い思い出であり、今思えばトラウマだった――四から始まって三で終わった十二を巡る物語を。
死んでは死なれ、愛しては愛されと巡り続けた堂々巡りの最中でも、何がなんでも花から始まり花で終わった、夢のように儚い物語を。
そして俺は思い出す。その一年間の始まりにして、あまりにも熾烈で恐ろしくてグロテスクだった地獄の一日間を、二か月間を、一時間を。
目の前で破裂する人だったもの、頬に付着した生暖かい血液、鼻の奥をツンッと刺激するような吐瀉物の匂い、あるいは胃から喉へと逆流していった酸っぱい胃液、耳を劈く群集の阿鼻叫喚。死が、血が、骨が肉が。普段は秘められているはずのそれが俺の五感全てを刺激してくる、あの血の滴る一輪の花を。
地面に落ちていった十二枚の花びらを捨て置くのではなく、一枚ずつ、たとえどれほどの時間をかけてでも地道に拾い上げていこうと決心するきっかけになった、あの赤く染まった夕焼けの景色を。
「やぁ、君がかの有名な黒峰薊くんかな?」
四月八日。それは俺の通う私立帝華高校の入学式の日だった。
無事入学式を終えた俺たち新入生は他学年より一足先にHRを終え、下校に入っている……筈だった。
目の前にはこの学校の女子生徒。上履きのゴムの色から三年生だということは分かるんだけど、その三年生に俺の名を知られているという状況が、そして授業中であるはずの三年生が今ここにいる事態が理解不能だ。
「……有名というほどではないですけど、確かに俺は黒峰薊で間違いないですよ。」
ボサボサの整えられてない茶髪は雑にポニーテールでまとめられていて、豪華な制服の上から白衣を着ているという、女を捨てているような見た目をしているけど、その貧相さは金持ちだらけのこの学校では珍しいものだ。
でも、だからと言って油断してはならない。彼女だってこの学校に通っているということは金持ちの娘である可能性が高い。
「ははっ、やっぱり。でも、私からしたら有名人だよ。君のことはうざったくなるほど聞き飽きてるからね。特にほら、死んだ魚のような目とかまさに噂通りだ。」
「……何か用ですか?」
「用が無かったら話しかけたらいけないって考え方暗くない?もしかして:陰キャ?」
「そう、俺、陰キャ。だから、お家に、帰る。さようなら。」
「はー?先輩には敬語使えー?」
「……先輩がどのような方かは存じませんが、一般的にめんどくさい女性はよく恋愛に失敗する傾向にあるらしいのでどうかお気をつけください。」
「はぁ?キレそうなんだけど。」
この先輩、勝手に話しかけてきて勝手にキレるの怖すぎでしょ。まあ、たとえ本当にキレられてもその小さな体相手じゃ出不精の俺でも負けることは無いだろう。
「私の親は政治家で祖父がヤのつく人なんだよね。ついでに二人とも私のことが大好きだったりする。」
「すみません、許してください。」
あ、ダメだ。この人は俺如きが関わってはいい人なんかではない。この風格、この威圧感、そしてこの巨大な胸。「ねえ、セクハラ。」先輩はきっと俺とは住んでいる世界が違うのだろう。だから仕方ないのだ。俺には俺の、先輩には先輩の立つステージがあるのだから──。
「かっこいい風に締めてるけど、それって人の家族構成聞いてビビってるだけだよね。」
「なんでわかるんだよ!」
「あ、敬語。」
「なんでわかるんですか!」
この人と話していると先輩と話しているような気がしない。誰か年上の知り合いに似ているのか、しかし心当たりはないし、初対面なはずなのに。いや、相手は俺のことを一方的に認知しているようだけど。
「ヤクザも政治家も心を読む能力は必須だからね。」
「そんな一般女性の嗜みみたいな流れで人の心を読む常識ないですから!」
この人は何を想定して毎日を過ごしてるんだろうか、というか本当に誰なのだろうか。もう無視して帰ろうとも思ったけど、俺は名前を知られてる上になにやらご家族が豪華らしいから諦める。
途方に暮れている中、助け船は意外な方向から流れてきた。
「夜桜ァ!」
俺の背後から聞こえてきた声に俺と先輩は思わず振り返る。そこにいたのはこれまた怪しい雰囲気の少なくともこの学校には不似合いな安っぽいジャージを着た男性だった。
「また後輩揶揄ってんのか?そんなだから彼氏できないんだぞ。」
「は?先生までもそんなこと言う?いいの、戸籍消すよ?」
夜桜……?どこか聞き覚えがある苗字に俺は首を傾げる。
親が政治家だから──ではない。きっと、そうでは無い。どこかで、うざったくなるほど聞き飽きたような気がした。
脅しに関しては……触れたらやばそうだから触れないでおく。
先輩は教師とは思い難いその男性に俺を指さして、「この子、黒峰 薊くん。」「あー……黒峰のか。」
俺の知らないところで話が進んでいることに違和感を覚えるも、俺は決心して「結局、先輩はどうして俺のことを知ってるんですか?」
俺がそう聞いても先輩は知らんぷり。俺の問いに答えたのは先生と呼ばれた男性だった。
「え?こいつに聞いてないのか?」
「いえ、なにも。先生は知っているんですか?」
俺のセリフに、少し考えるような素振りを見せた先生は気まずそうにして言う。
「あー、黒峰にとっては思い出すのも辛いかもしれないが、こいつは君の姉の黒峰 天音の友達だった……」
「天音の親友の夜桜 百合だよ。よろしく!」
かつて、それは思い返すことすら億劫になる二年前、なんの前触れもなく姿を消した俺の姉貴の親友だと言い張る先輩は得意げにダサいポーズをとってそう名乗ったのだった。
時は変わってあれから三十分後。俺は夜桜 百合と名乗る、自称俺の姉の親友に半強制的に連れていかれるようにして気づけば学校の近くにあるカフェでコーヒーを飲んでいた。
「え、授業は?」
「サボったよ〜。」
「そう言えば帝華高校って、下校時の飲食は……。」
「校則違反だよ。」
「すみません、ちょっと用事が出来てしまったので今日は帰っていいですか?」
「はは、面白いジョークだね。」
夜桜先輩は席を立つ俺の腕を掴む。意外に力あるな。
「まあ、待ちなって。もしバレても私がもみ消してあげるからさ、ほら政治家らしく。」
「わあ、とんだブラックジョークだあ。」
そして俺は考えるのをやめた。
「さっき言った通り私は天音、君の姉の親友でね。」
「はい。」
「私は独自の情報網で天音を探したんだけど全く見つからなくてさ、」
「はい。」
「君がもしよかったら天音を探すのを一緒に手伝ってくれないかなって思ってるんだけど。」
「はい。」
「じゃ、連絡先置いておくから考えといてね。」
「はい。」
そして先輩は席を立ち、店の外に向かう。
俺が思考を取り戻したのは皮肉にも夜桜先輩が店を出ようとしている時だった。
ええっと、夜桜先輩は姉貴の親友で、今でも姉貴を探しているから手伝ってほしいって話だっけ。姉貴の親友ってことは高三だけど受験は大丈夫なのだろうか。
というか……。
「ちょっと、コーヒー代は!?」
俺の言葉を無視して夜桜先輩がカフェを出ていったゼロコンマ数秒後、文字通り俺の目の前をトラックが通過する。
──は?
「先輩ッ!」
「ばいば───」
その言葉の続きは甲高い急ブレーキの音で掻き消された。目の前を通過していった鉄の塊が夜桜先輩の柔らかそうな肌に触れると、ぐしゃりっ。何か水分を多く孕んだ肉塊が勢いよく潰れたような音が耳朶に触れる。頬に触れた暖かい液体、人差し指で拭うとそれは薔薇のように真っ赤なまま指につく。
「え?」
「キャーーー!」
誰かの悲鳴のようなものに続いて、爆発音と衝撃が脳を揺らす。な、なにがおこった?
あれ?夜桜先輩は?
辺りを見渡すとトラックの周りで大勢の人が騒いでいた。トラックの下からは真っ赤な水溜まりが徐々に広がっていく。
「おい、お前警察呼べよ!」
「そんなこと言うなら手前が呼べばいいじゃねえか!」
「そんな言い合いしてる場合じゃないでしょ!」
「てか、警察よりも救急車の方がいいんじゃないの!?」
「警察って119だっけ?」
「どっちでもいいから早く呼べよ!」
なにか喚いている人々を傍目に俺は体の内部から逆流してくる何かを必死に我慢していた。
「おぅえっ」
……喉の奥が酸っぱい。けれど、それ以上に苦しい。呼吸が狭くなっていくのを感じる。酸素が脳に回らないからか、視界が次第に霞んでいく。
人が……死んだ?しかも姉貴の親友で、もしかしたら姉貴の行方不明について……ってそんなのどうでもいいんだ!人が轢かれた、俺の知り合いだ、俺が救急車を呼ばないと。
スマホ、119、高校近く、カフェ、トラック、死、コーヒー、サボり、政治家、ヤクザ、夜桜、姉貴、行方不明。色々な言葉が頭の中をぐるぐると回る。次第に黒い文字が脳を埋め尽くして視界が真っ黒に埋まる。
手足の感覚もなくなり、自分が今立っているのか座っているのか寝ているのか蹲っているのかすら分からなくなる。
そして、気づけば俺は……。
「……はっ?」
──自室のベッドに横になっていた。
時計を見ると二本の針が六時一分と、おおよそ俺の起きる時間を示していて、急いでスマホの電源をつけるとそこには……。
「四月……八日?」
まるで今までの十数時間が夢であったかのような現象が起こっていた。
けれどこれから数時間後、俺は再び地獄を見ることになった。車に轢かれた先輩の姿を。





