一陣の疾風となりて
桜の樹が、いつの間にかすっかり新緑に染まっている。啓がそんなことに気づいたのは、GW明けの初登校を終えた帰り際のことだった。
「啓、どうした?」
鮮やかな青空とのコントラストに思わず足を止めてしまい、悠貴に怪訝そうな表情を向けられる。
「あー、いや、葉桜が綺麗になったなって」
啓の返事を聞いた同級生は、一瞬きょとんとした表情を浮かべた後に吹き出した。
「『葉桜が綺麗』なんて、絶対キャラじゃねえだろお前」
「うっせ。情趣を解さない人間で悪かったな」
そんなとりとめのない会話を交わしながら歩く。高校に入学して1月、迷路のように入り組んだ下校路にも少しずつ慣れ、自信をもって歩けるようになってきた。だらだらと歩きながら、1週間ぶりに見た数学教師の生え際が後退していたか否か、真剣に討論をしていたときだった。
――ゴツン
突然視界が揺れる。後頭部を襲ったのは、衝撃と鋭い痛み。何か硬い石でもぶつけられたような、そんな感触。
「痛ってぇ」
痛みに耐えかねて、後頭部を押さえてその場でうずくまる。血は出ていないようだ。
「大丈夫か?」
「んん……」
うめき声をあげつつ、辛うじて片手を挙げて親友に無事を伝える。涙が溢れそうになるのを抑えつつ目を開ける。
「これは……宝石?」
足下で輝いていたのは拳大の、つるつるとした宝石だった。透き通った緑色で、光の当たり方によっては青いようにも見える。
「エメラルドってやつか?」
「こんな大きなエメラルドある?」
「それもそうか……ておい、それひび入ってないか?」
「えっ……あっ、まじか」
頭にぶつかったときに割れてしまったのだろうか。ここで持ち主が現れると面倒だ。この石を置いて立ち去ってしまうのが正解だろう。
「交番に持っていく」
しかし、啓はどうもかわいそうに思えて、その石を置いていくことができなかった。緑色に輝くそれを、ポケットにねじ込んで歩き出す。悠貴はやれやれ、という顔を見せるが、特に反対するそぶりはない。
「それにしても、なんでそんなものが空を飛んできたんだろうな」
隣で親友がぼそりと呟く。確かに、これがただの礫なら小学生のいたずらということもあるだろうが、いかにも人工的に磨かれた宝石である。そんなものを投げられる心当たりはとんとなかった。
「とりあえず、これ投げたは一発ぶんなぐる」
「おう。それなら俺も一緒に殴りに行くわ」
「いや、お前別に被害あってないじゃん」
唐突に90年代のヒットチャートを歌い出す悠貴に、苦笑いを浮かべながらツッコミを入れる。
「あの、すみません――」
声をかけられて前を見ると、2人の目の前に一人の少女が立っていた。
「――この辺りでこれくらいの、緑色の石を見ませんでしたか?」
少女の姿を見て、思わず息を飲む。プラチナブロンドの長髪に浅葱色の瞳。鼻筋ははっきりとしているが、口元に浮かべられた微笑がその印象を和らげていた。絶世の美少女という言葉は彼女を形容するためにあるのではないか――そんな錯覚に囚われてしまいそうだった。
「あれ、聞こえてます? おーーい」
あまりの美貌を見て硬直する2人を訝しげに見つつ、目の前で手を振る。それを見て、啓たちは我に返った。どうやら彼女が石の本来の持ち主らしい。石が飛んできた事情は訊かなければいけないが、他人の持ち物を返すことにやぶさかではない。
「えっと、あなたがあの石の――」
――その瞬間、少女の動きがピタリと止まる。周囲の気温が氷点下まで下がったように感じがして、肌が無性にヒリヒリする。
「あら」
ニヤリと唇を歪める少女の視線を追うと、啓のポケットがエメラルドグリーンの光を明滅させている。原理は分からないが、原因はあの緑色の石で間違いないだろう。
「あらあらまあまあ、貴方たちが『卵泥棒』だったのね――素人への擬態が完璧じゃない、あやうく騙されるところだったわ」
「あの、ちょっと一体何を言ってるのか……」
啓の言葉を黙殺し、少女はおもむろに左腕をあげて彼に掌を向ける。背筋が猛烈に気持ち悪い。その感覚に従ってとっさに横っ飛びをした啓は、後ろを振り返って絶句した。
少女の掌から氷の欠片が飛び出している。そしてその氷は、アスファルトの道路に深々と突き刺さっていた。もし運良く躱すことができていなければ、氷塊は啓の身体を貫通していただろう。
――殺される
何が起きているのか分からない。だが、このままだと自分は間違いなく殺される。初めて感じた殺意に動転しながら、啓は恐怖に突き動かされるように路地を走り出した。
「待ちなさい!」
案の定彼女は啓を追ってくる。死を告げるカウントダウンのように、静かな路地に足音が響く。入り組んだ小道を右へ曲がり、左へ曲がってひたすら駆ける。華奢に見えた少女は思いの外足が速く、2人の差は縮まりこそしないが広がる様子もない。ただその間、あの魔法のようなものを使う素振りがないのは幸いだった。
「ああもう、こいつ! さっさと、死に、なさいよ!」
閑静な住宅街に、2人分の足音と少女の罵声が響く。悠貴なら喜んだだろうが、あいにく啓は美少女に罵られて喜べる性癖は持っていない。必死の思いで角を曲がった啓は、足を止めた。
「あら、行き止まり、みたいね」
ぜえぜえと荒い呼吸をしながら、少女が不敵な笑みを浮かべる。周りは家に囲まれて、逃げる場所はない。少女が次に左手をあげた瞬間、啓の命は儚く消えるだろう。
――何か手段はないか? どうすればいい?
――石だ。石をどこかに投げ捨てたら、注意を逸らせるかもしれない
注意を逸らした隙にタックルでもすればなんとかなるだろうか。そんな一縷の望みに賭けて、啓はポケットから石を取り出した。
――ピキッ
握りしめた石から、何かが割れるような音がする。
「あっ……」
少女が動きを止める。コツンコツンと何かを突くような音が響き、表面が1ヵ所だけ剥がれた。中から顔を覗かせたのは――
「――イグアナ?」
爬虫類のような見た目の生き物が、ピィ、と一声鳴いた。
「この……」
少女の顔に憤怒の表情が浮かぶ。瞳は輝きを増し、プラチナブロンドの髪も水色を帯びる。一段と増した迫力に気圧されて、身体が動かない。
「死にさらせやこのクソ野――」
怒りに歪んだ表情のまま、少女はどさりと倒れ込む。
「綺麗なお嬢さんが、汚い言葉を使うもんじゃないぜ」
消火器を手に勝ち誇った顔をしているのは、親友の悠貴。見慣れたにやけ顔を見て、どっと安心感が襲ってくる。
「お前口悪い女子のが好きだろ」
「それな」
「あとセリフがイタ過ぎて友人として辛いものがある」
「ひどっ……確認なんだが一応命の恩人だよな、俺?」
「そういう見方もできるな」
いつものように軽口をたたく。そうしていないと、涙が溢れてしまいそうだったから。今になって心臓が激しく動悸を始め、めまいがしてきて、もうしばらくは立てそうにない。
「――氷川もまだまだ、か」
不意に背後から声がして、跳び跳ねるように振り返る。袋小路でどこからも入る余地のないその空間には、茶色いスーツを着た白髪の男が立っていた。未だに腰が抜けたままの啓を隠すように、悠貴が素早く前に出て消火器を構える。
「そんなに警戒してくれるな、私は別に君たちのことを殺そうなんざ考えとらんさ」
男は敵意がないことを示すように微笑みながら近づいてくる。
「君が孵したその卵はね、非常に危険なものなんだ。きちんと管理する必要がある」
そう言って男は啓と視線を合わせる。
「返してくれるかな?」
優しげな口調とは裏腹に、その言葉には有無を言わせぬ迫力が籠もっていた。
爬虫類を飼育した経験もない自分が育てるよりは、専門家に育てられた方が良いのだろうか。だが、目の前の男が信用できるとは言いがたい。危険というのであれば、なおさら渡さない方が良いのではないか。
逡巡するうち、手の中のでイグアナ(仮)がぴぃ、と一声鳴いた。
「すみません、それはできません」
「――ほう」
啓の返事に、少し驚くような反応を見せる男。
「それはどうしてか、聞いてもいいかい?」
「本人が嫌だと言っているので」
先ほどの鳴き声は、そういう意味だった。根拠を問われても説明し難いが、それだけは自信を持って言えた。
「そうかそうか。しかし、半人前の氷川相手に苦戦していたようじゃないか。私からそれを護りきれるつもりかい?」
そう問いかける男の顔には、いつの間にか酷薄な笑みが浮かぶ。
「護ります」
睨みつけるように視線をぶつける。数秒の間、啓と男の視線は交錯し、それから男はふっと顔を綻ばせた。
「そういうことならやむを得まい。それは君の手で育てたまえ」
男の返答は予想外すぎて、理解するのに数秒の時間を要した。
「いいんですか?」
「まあ、次善の策というやつだね。その代わり、きちんと育ててもらうからね」
「はい」
掌に載っている命を、自分の手で育てる。その決断は、なかなか重いものに感じられる。
「なに、心配するな。とっておきのメンターを用意しよう」
そういうと男は何か企むように、ニヤリと笑った。
そして、その企みは翌朝早速明らかになった。
「今日からこのクラスでお世話になります、氷川晴菜です。よろしくお願いします」
頭を下げる彼女に、不穏の予兆を感じずにはいられなかった。





