世界から蝶が消えた夜
主人公である「私」と、青髪の少女アナ。
二人の女たちは、蝶を求めて彷徨い歩く。
ただまっすぐと、何もない線路の上を歩き続ける。
――世界から蝶が消えた夜、何が起こったのだろうか。
歩き続けることで、彼女たちはそれを解き明かしていく。
「――もうちょっと、近くでくっついてたい。一人じゃないって、思ってたい」
少女たちがただ歩む、その道程を刻むだけの小説、ここに開幕。
――その日、世界から蝶が消えた。
「不思議なもんだな」
彼はそう言って、空を見上げた。
かつては少年らしく色鮮やかだったその青い瞳も、今は淀んだ汚濁のように黒ずんでいる。
「もっと、嬉しいもんだと思ってたよ。ずっと、この瞬間を望んでたってのに」
空を埋め尽くすのは赤・青・緑・紫、無限のように広がる色鮮やかな蝶々たち。今この場所に、世界中の蝶々が寄り集まっていた。
彼の人差し指に、一羽の赤い蝶が留まる。
1
苔むすような廃墟の中に、私は気だるげに寝転んでいた。
廃墟は老朽化が進んでおり、天井に空いた無数の穴から月光が降り注いでいた。
私はそっと、手を空へと伸ばす。するとそこに、蝶々がひとつ、羽根を休めるように降り立った。
「……赤か」
羽根には、淡く赤い文様が刻まれている。
私は思わず、不満げにそう呟いた。
「文句あるなら、食べなくていいけど?」
聞き慣れた声が廃墟の中に響く。
私は依然として寝転んだまま、視線を声の方へ向ける。
「……きみか、アナ」
私は声の主の名前を呼ぶ。
そこにいたのは、見知った十代前半の少女――アナクシビア・リミテッドだった。
淡いブルーの髪に、白いブラウス。黒と赤のチェックのスカートを揺らすその少女は、私の数少ない仕事仲間だった。
「こんな辺鄙なところに来るの、私くらいでしょ」
「だろうね」
アナは、割れた窓から外へ目を向ける。中も酷い有様だが、外はより荒れ果てた様子だろう。
――ここは旧市街4番廃工場。
蝶の消失と共に役目を失った、活力蝶の量産工場だ。
かつての栄華を失ったその工場、今は私の根城としてその役目を果たしている。
私は視線を指先に戻すと、留まっている赤い蝶々を、握り潰した。
はらりと二対の翅が砕ける。砕けた先から微かな赤い、活力の光が漏れ出したかと思うと、瞬く間に胸の中へ吸い込まれていく。
全身に力が満ちる――。それは肉体的なものというよりは、もっと精神的な。心を動かすためのエネルギーが全身に補充されていく感覚だ。
この活力蝶の摂取を怠っていると、この廃工場のように心の内側が錆び付いて、身動き一つ取れなくなってしまう。ちょうど、先程までの私のように。
「三日分、って所かな」
「働かざるものなんとやら。もっと欲しいなら、ほら、起きてしゃんとする」
私はアナによって、無理矢理その身体を起こされる。
長く寝転んでいたのだろう。関節の節々が痛むようで、私は腕を軽く回した。
「くぁ……」
芸術的なまでの大あくび。
先程までの私は、活力蝶が枯渇した影響で怠惰を極めていたが。今の私は、純粋な怠惰から、“ああ、どこにも行きたくないなあ、このままごろごろしてたいなあ”などと考えていた。
そんな私の様子に気がついたのだろう。アナは肩を竦めて、呆れるように言った。
「……仕事の前に煙草、買ってあげる」
――がばっ。
思わず私は、勢いよく起き上がっていた。
「まじ?」
「まじまじ」
「――さぁ、行こうか、アナ。我々【蝶追い人】が遅れれば、それだけ活力の足らない人々は増える。放ってはおけないよ、一秒でも早く!」
私にとって、煙草は嗜好品であり高級品であり、必需品でもあった。
2
「……はい、これ」
アナは、ビニール袋に包まれた一本の煙草と、青い切符を私に手渡した。
「準備ができたら言って。私はいつでも平気だから」
「いいよ、今からでも」
私がそう言うと、アアは少し驚いた顔をしてから、納得したように頷いた。
「そうだった。アンタ、そういうやつだったわ」
「きみもどちらかというと、私と同じタイプだろう?」
「私もまあ、荷物は少ないけど……アンタほどじゃないわよ」
普通、この仕事をする者は、事前にかなりの量の荷物を準備していく。
私は着の身着のまま手ぶらで、アナは小さなポーチが一つきり。とてもこれから、【蝶追い人】の仕事をするとは思われないだろう。
「じゃ、行くわよ」
「あぁ」
私たちは自分の切符を手に取ると、その半券を破った。
3
気が付くと私たちは、星降る真夜中の荒野にいた。
無限に広がる乾いた大地は、先の見えない地平線を作っている。
私たちの足元には、錆び付いた線路がまっすぐにただ伸びていた。
この線路こそが、私たちを蝶に導いてくれる唯一の道筋であり、これから我々は、この無限の線路を進んで行かねばならぬのだった。
「成功か」
「そうね」
私とアナは、そう短く言葉を交わした。
――切符の使用による転移はリスクがある。今回のように、ただの荒野であればこうして会話もできるし、徒歩での移動に支障はないが。これが沼地であれば、ぬかるむ泥に足を取られて進めないし、川辺の激流に転移してしまえば、たちまち我々は躓いて、その体を濡らしてしまうだろう。
「行こうか」
「ええ」
再び私たちは、短く言葉を交わした。
言葉は、少ない方がいい。これから長い時間をかけて、歩き続けるのだから。言葉を使い過ぎて、言えることがなくなってしまうと困る。
私たちは無言で手を繋いで、歩き出した。私の方がアナよりも背が高く脚も長いから、歩調を合わせる必要がある。
3年の時が過ぎた。
3年といっても、実際の時間が経過したわけではない。狂わぬように訓練された体内時計が、今日で3年目だと教えてくれていただけだ。
荒野は常に真夜中で、流星群が空に降り続けている。
疲労することもなく、睡眠や食事を必要とすることもなく。私たちはこの3年間、時間にして26280時間もの間、ただ歩き続けていた。
「疲れたわ」
アナが、86時間ぶりに言葉を発した。肉体が疲労することはなくとも、精神が疲労することはある。
「休憩にしよう」
私は足を止め、線路に座り込んだ。
懐に仕舞った煙草を取り出す。
「アナ、頼んだ」
「はいはい」
アナは指先に火の魔法を灯すと、私の煙草に火をつけた。
「今回は、あとどれくらいかしら」
「さぁな。あと8年も歩き続ければ、蝶に辿り着くんじゃないか」
「根拠は?」
「蝶追い人としての勘」
「……そっか」
アナは座り込んだまま、私にそっと肩を寄せる。私はただ何もせず、彼女を受け止めたまま、座っていた。
――私たちは、蝶追い人。
この何処へ続くかもわからない線路の上を、ただ歩き続ける。
敵もなく困難もなく刺激もなく、ただ、狂わずに歩き続けることだけが必要とされる才能だ。
「ふー……」
アナは私の肩に寄り添い、深呼吸を続ける。
それから少しして、小さく「いこ」と私の手を引いた。
そこから更に、1年と4ヶ月と13日、時間にすると11832時間が経ったころ。
ハンドスピナーを器用に回転させながら歩いていたアナが、ふと足と手を止めた。
「私たち、何のために歩いているんだっけ」
歩き始めて、4年以上。
ほとんどの蝶追い人はどこかのタイミングで自己を失い、こうなってしまう。
「どうだろうな。アナはどう思う?」
「どう、って……」
こういう時の対処は、宥めるのではなく。叱咤や激励を飛ばすのではなく。
ただ、問いかけて、本人に考えて貰うのが一番だと私は思っている。
「私は……。……私たちは、そう、そうだわ。蝶を集めるために歩いている……」
「そうだね。活力蝶を解放しなければ、ひとびとの心は壊れてしまう。……でも、だからどうしたっていうんだい? べつに、心なんて。壊れてしまってもいいんじゃないかな」
「だめ、だめなの……」
「なぜだい」
「そう。助けないと……。――妹に、蝶を山程、与えてあげないといけないんだった」
「うん、そうだね」
この話は、以前よりアナに聞かされていた。
彼女には活力の枯渇で【欠心病】になってしまった妹がおり、その妹の為に蝶を集めているのだ。
「……ごめん、ちょっと、自分を見失ってた」
「少し休む? まだ先は長い。何も、ずっと歩き続けていなければいけないわけじゃないだろうに」
「大丈夫。行けるわ。……でも、その。さ」
アナは、重ねた手を強く握り直した。
「もうちょっと、近くでくっついてたい。一人じゃないって、思ってたい」
「どうぞ」
「ん……!」
アナは嬉しげに微笑むと、そっと私の腕に抱き着いた。
自分ではない誰かの存在は、蝶々を捕まえる上で、もっとも大事なものだと言えるだろう。
4
「見て」
アナが声を上げた。
線路の終わりでも見えて来たのか、と思ったが、そうではない。
自分たちが歩く線路へ向けて、斜めに伸びる、もう一本の線路が見えてきたのだ。
「これは……【交差点】か」
原則として、蝶へと続く線路は一本だ。
しかし稀に、他の蝶追い人が歩いている線路と、自分たちの線路が混線することがある。それがこの【交差点】だ。
「……ね。ここで少し休憩にしない? 折角の交差点だもの。どんな蝶追い人が来るのか、見てみたいわ」
それは好奇心というより、未知に飢えた心を癒やす為の提案だったのだろう。
もう、長らくアナは私以外の人間と言葉を交わしていない。
「わかった。飽きるまで待ったら、また歩き出そう」
交差点は、私たち以外の蝶追い人が近くにいないと発生しない。
しかし、その者たちが、もうこの交差点を通り過ぎて、先に進んでしまっている可能性もあるのだ。或いは――心が壊れてしまって、永劫にこの凍った時間の中で、停滞している可能性もある。
私たちは線路の上にごろりと並んで寝転び、手を繋いだままで、ぼんやりと、見知らぬ誰かを待っていた。





